灰庭の先生
灰庭救護院の入口には、扉がなかった。
焼け焦げた壁に蝶番だけが残り、代わりに厚い布が二枚、冷たい外気を遮るように吊られている。
ミナは布の端を持ち上げた。
「先生を呼んでくる」
それだけ言って中へ入り、すぐに姿を消す。
入口の脇では、トマが低い木箱へ座っていた。
先ほど一緒に残った二人の子供が、その左右にいる。
包帯へ滲んだ血は、前より広がっていない。
トマは立とうとはせず、傷のある右足を前へ伸ばしていた。
アトカたちは布の外で待った。
ギルベルトは隙間から中を確かめる。
入口の先には短い廊下があり、その奥が広間になっていた。
広間の左手には小さな調理場、さらに奥には階段と幾つかの部屋へ続く扉が見える。
入口から見える範囲に、武器を構えた者はいない。
エルマが布の陰から銀針を差し入れると、針先にも、こちらへ向けて起動している術式は映らなかった。
ほどなく、男の声が近づいてきた。
「トマ。足をどうしたのです」
布を押し上げて現れたのは、四十代半ばほどの男だった。
痩せた身体に灰色の上着を着ており、袖は何度も繕われている。
髪には白いものが混じり、目の下には深い影が残っていた。
手には、刻みかけの根菜と小さな包丁がある。
男の視線は学園の四人ではなく、最初からトマの包帯へ向いていた。
「転んだ」
トマが答える。
「洗ってもらったよ」
男は包丁を入口脇の台へ置き、手を布で拭いた。
トマの前へ膝をつくと、包帯には触れず、血の滲み方と足の向きを確かめる。
「誰に処置をしてもらったのです」
トマがリリシアを指した。
そこで初めて、男は四人を見た。
黒いローブと学園章を確かめ、立ち位置を追うように一人ずつ視線を動かす。
目元が僅かに強張ったが、子供を背へ隠したり、魔力を構えたりはしなかった。
ギルベルトが一歩前へ出る。
「王立エルシオン学園、特等枠のギルベルト・クロノスだ。こちらはアトカ・アッシュフォード、リリシア・クラウツ、エルマ・ガトランド」
男の視線が、リリシアの胸元で一度止まった。
「マルセル・グレイです。この子たちからは、マルセル先生と呼ばれています」
ミナがその隣へ立つ。
「先生。この人たち、灰色のことを聞きたいんだって」
「灰色と呼んでいるのですね」
「違う名前がありますの?」
エルマが尋ねる。
「私が使っているものは、鎮静式です」
ギルベルトはすぐに話を進めなかった。
「先にトマの傷を見てくれ。俺たちは待つ」
マルセルは僅かに目を見開いた後、リリシアへ視線を移した。
「処置の内容を教えてください」
「泥と小石を取り除き、薬を塗った布で保護しました。深く切れてはいません。ただ、傷へ触れると足を引くのに、その反応を今の自分の痛みとして捉えられていません」
トマは二人の話を聞きながら、自分の包帯を見ている。
「治癒魔術は使っていません。汚れを残したまま閉じられないことと、灰色がどこへ作用しているか分からないまま治癒を重ねれば、身体の変化を見分けにくくなるためです」
マルセルは頷いた。
「適切な判断です。この子に強い治癒を重ねる必要はありません」
リリシアは僅かに目を見開いた。
マルセルは、傷を見れば何でも魔術で塞ごうとする人物ではなかった。
「トマ。今日は走ってはいけません」
「痛くないよ」
「痛みがなくても、傷口は開きます」
「先生も同じこと言う」
「同じ傷を見れば、同じことを言います」
「遊んじゃ駄目?」
「座ってできる遊びにしてください。包帯へ血が広がったら、すぐ呼ぶこと」
トマは不満そうに口を曲げた。だが立ち上がらず、隣の子供が持ってきた木片へ手を伸ばす。
マルセルはリリシアへ頭を下げた。
「処置をしていただき、ありがとうございました」
「いえ。後でもう一度、傷を確認したいです」
「構いません」
マルセルは立ち上がると、入口の布を持ち上げた。
「中で話しましょう」
四人はギルベルトを先頭に、布をくぐった。
中へ入った瞬間、アトカは肌へ触れる魔力の違いに気づいた。
外の路地にも灰色は漂っていた。だが建物の中では、壁や床のどこへ近づいても薄い灰色が途切れない。
入った直後に、呼吸や肩へ急な変化は感じなかった。
それでも、一度触れた灰色が流れ去る前に、次の灰色が同じ場所へ重なってくる。
アトカは水を広げず、自分の周囲へ触れる流れだけを確かめた。
肩、義手、呼吸、足の裏。今のところ、いつもと違う重さや遅れはない。
「灰色はあります。壁からも床からも触れてきます。入口の近くでは、どこか一か所だけが強い感じはしません」
エルマも銀針を持ち上げた。針先は入口を越えた時から、薄い灰色に包まれている。
「見える範囲では、濃さがほとんど同じですわ。局所的な漏れではなさそうです」
「供給元は分かるか」
「壁の中まで調べなければ決められませんわ」
エルマの視線は、すでに廊下の壁や床の継ぎ目を追っていた。
「勝手に触るな」
「承知していますわ。今は見える範囲だけにいたします」
前を歩いていたミナが振り返る。
「何の話?」
「ここに流れている魔力のことです」
リリシアが答えた。
「ミナさんたちを静かにしているものかもしれません」
「先生がしてるよ」
ミナは否定も隠しもしなかった。
「いつからですか」
「分かんない。来た時から」
短い廊下を抜け、四人は広間へ入った。
焼け跡は今も残っている。
天井を支える梁は黒く焦げ、壁には塗り直しても隠れない煤の染みがあった。
それでも床は掃かれ、棚には包帯と薬草が分けて置かれ、子供たちの古い服も破れた箇所を縫い直してある。
誰かが毎日、ここで暮らしを支えている。
広間には十人近い子供がいた。
木片を積み上げて遊ぶ子。机へ額をつけて眠る子。
裂けた布を縫う年長の少女。調理場の鍋をゆっくり混ぜている少年。
アトカたちが入っても、騒ぎは起きなかった。
何人かが黒いローブと学園章へ顔を向ける。
けれど驚いて立ち上がる者も、逃げる者も、近づいてくる者もいない。
少し見た後、静かに自分の手元へ戻っていった。
「みんな。学園の人」
ミナの紹介も、それだけだった。
机の端で木片を積んでいた幼い少年が手を滑らせた。
崩れた木片の一つが指へ当たり、皮膚が赤くなる。
少年は自分の指を見た。隣の子も一度だけそちらを見た。
それ以上の反応はなく、二人はまた木片を積み始める。
心配していないのか、心配が灰色の中へ沈んだのか、表情だけでは分からなかった。
マルセルは入口脇へ置いた包丁を取り、調理場へ戻った。
「先に食事を仕上げます。目を離すと鍋が焦げます」
灰色を建物全体へ流している人物が、同時に十人近い子供の昼食を作っている。
根菜を切り、鍋の蓋を開け、木杓子で底を混ぜる。その手つきは急いでいたが、雑ではなかった。
「鎮静式は、痛みを弱めるためのものですの?」
エルマが尋ねる。
「痛みだけではありません。恐怖で呼吸が乱れる時、悪い夢から戻れない時、傷を見ただけで身体が動かなくなる時。そうした反応を静めるためにも使います」
ギルベルトは広間へ流れる灰色を見回す。
「建物全体へ作用させているな」
「はい」
「今もか」
「今は、ほぼ途切れさせていません」
「どこまで弱めるかを決めているのは」
マルセルの包丁が止まった。
広間にいる子供たちへ目を向け、それから手元へ視線を戻す。
「私です」
エルマの銀針を持つ指が僅かに動く。
「子供本人ではなく?」
「本人が決められる状態なら、尋ねます」
「決められる状態かどうかも、あなたが判断するのですわね」
マルセルはすぐには答えなかった。
鍋から上がる湯気の向こうで、ミナやほかの子供たちを見る。
「そうなります」
「ほかに判断する大人はいないのか」
「いません」
短いやり取りの後も、鍋は静かに煮え続けていた。
ギルベルトが懐中時計へ目を落とす。
四人は広間の端へ寄り、名前、身体状態、帰路だけを短く確かめた。
警戒心も、ここを出る必要も、四人とも失ってはいない。
「続ける」
マルセルは口を挟まず、確認が終わるまで待った。
リリシアが尋ねる。
「今朝、ここへ運び込まれた子供がいると聞きました。状態を見せてもらえますか」
マルセルの目が僅かに動く。
「門で聞きましたか」
「はい」
「今は眠っています。怪我ではありません。二日近く、ほとんど食べておらず、寒さと疲労で倒れました」
「すぐに呼吸と意識を確認させてください」
マルセルはリリシアを見た後、短く頷いた。
「こちらです」
広間の奥の小部屋には、毛布を重ねた寝台が二つあった。その一つで、幼い子供が横向きに眠っている。
リリシアは寝台の横へ膝をついた。
胸の動きを見て、口元へ手を近づけ、手首へ指を添える。
それから小さな声で呼びかけた。
「聞こえますか」
子供の瞼が僅かに動き、掠れた声が返る。
「……うん」
「すぐに眠って大丈夫です」
今すぐ呼吸を失いそうな乱れは見られない。
だが、呼吸は浅く、脈も弱い。身体は冷えており、短い確認だけで安全とは決められなかった。
「今は動かさないでください。身体を温めながら、飲み込めることを確かめて、少量ずつ水分を与えてください。一度にたくさん食べさせないでください」
「分かりました」
「わたしは食事の後ではなく、準備が整い次第もう一度診ます。それまでに呼吸が乱れたり、呼びかけへ答えなくなったりしたら、すぐ呼んでください」
マルセルは毛布の端を直した。
「そうします」
小部屋を出る前に、彼が尋ねた。
「学園は、この子たちを連れていくつもりですか」
「まだ何も決まっていない」
ギルベルトが答えた。
「俺たちは子供たちの状態と、この鎮静式を調べ、学園長へ報告する。その場で処遇を決める権限はない」
「調べた結果、ここを閉じることになれば」
「可能性のない約束はしない。ただ、最初からあなたを加害者と決めて来たわけでもない」
マルセルは四人の顔を見た。
「詳しい診察には、私も立ち会います」
「構いません」
リリシアが答える。
広間へ戻ると、マルセルは再び調理場へ入った。
「先生、今日のは苦い?」
木片を積んでいた少年が尋ねる。
「昨日よりは苦くありません」
「昨日もそう言った」
「昨日よりは、です」
「甘いのは?」
「ありません」
少年は不満そうに机へ額をつけた。
それでも声を上げて嫌がることはなく、不満はすぐに平らな表情へ沈んだ。
広間の子供たちは静かに食事を待っている。
服は古くても洗われ、机の端には人数分に切り分けた固いパンが並べられていた。
一つ一つは小さい。それでも、誰かの分だけ欠けてはいない。
アトカは、鍋を混ぜるマルセルへ声をかけた。
「マルセルさん」
「何でしょう」
「どうして、建物全部を静かにしているんですか」
責める口調ではなかった。
アトカには、ここを守ってきた手と、子供たちの声を弱めている灰色が、同じ人物から出ていることがまだうまく重ならなかった。
マルセルの手が止まった。
この話をすれば、学園が灰庭を閉じる理由になるかもしれない。
子供たちを連れていかれるかもしれない。そう考えたことが、鍋を握る指の強さに表れていた。
ミナがマルセルを見る。
広間の子供たちは、静かに食事を待っている。
マルセルはしばらく答えなかった。
やがて木杓子を鍋の縁へ置き、アトカたちへ向き直る。
「夜になると、泣く子がいました」
静かな声だった。
「傷が痛くて眠れない子。殴られたことを思い出し、誰かが近づくだけで叫ぶ子。火の匂いがすると、窓から逃げようとする子」
マルセルは再び根菜へ包丁を入れた。
「一人を落ち着かせている間に、別の子が泣きます。その声で眠りかけた子が起き、その子の恐怖で、また別の子が目を覚ます」
誰も口を挟まなかった。
「食べ物は足りない。薬も足りない。手伝う者はいない。朝になれば働きに出なければならない子もいました。それでも眠れなければ、身体は戻りません」
「だから、怖さを弱めたのですか」
リリシアが尋ねる。
「最初は、眠るまでの短い時間だけでした」
ギルベルトが顔を上げる。
「痛みが強い子には、痛みを。恐怖で呼吸を乱す子には、恐怖を。包帯を替えられない子には、触れられることへの拒絶を、少しだけ静めました」
「術式を切れば、また泣いた」
「ええ」
「傷も、怖かったことも消えていないからだ」
「分かっています。この術式は治療ではありません。傷も、過去も消してはいない」
マルセルは広間にいる子供たちへ視線を向けた。
「それでも、ここへ来る前、この子たちは眠ることさえできなかったのです」
マルセルは火を弱めた。
鍋の音が小さくなる。
広間では、十人近い子供たちが静かに食事を待っていた。泣く者も、怒る者もいない。
入口の布の向こうからは、トマたちが木片を重ねる小さな音だけが聞こえていた。
マルセルはその静けさを見渡した。鍋の湯気の向こうで、しばらく何も言わなかった。
「最初は、です」




