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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
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痛みを忘れた膝

少年は、血の流れる膝を見下ろしていた。


転んだ勢いで、右膝の皮膚が広く擦れている。

小石が幾つも傷口へ入り込み、赤い血と泥が混ざっていた。


それでも、少年の顔には苦痛がない。

驚いた様子すら見せず、地面へ手をついて立ち上がろうとしている。


「待ってください」


リリシアが声をかけると、少年の動きが止まった。


四人を見上げ、黒いローブと学園章を順に見る。

逃げようとはしない。警戒している様子も薄かった。


「膝を怪我しています」


「うん」


少年は自分の膝を見た。服へ汚れが付いたことを指摘されたような返事だった。


「立てるよ」


「立てても、今は立たないでください。傷へ泥が入っています」


少年は少しだけ首を傾げた。


リリシアは少年の前へ膝をついた。すぐには触れない。


「お名前を聞いてもいいですか」


「トマ」


「トマさん。わたしはリリシアです。こちらはアトカ君、エルマさん、ギルベルトさんです」


トマは四人を一人ずつ見た。最後にアトカの空いた左袖と義手へ視線を止めたが、何も尋ねなかった。


周囲にいた五人ほどの子供たちも近づいてくる。誰もトマの血を見て騒がない。ただ、これから何が始まるのかを眺めていた。


「傷を見てもいいですか」


「いいよ」


リリシアはまず目で状態を確認した。


擦り傷は広い。出血は続いているが、深く切れてはいない。

膝の形にも大きな異常は見られなかった。ただし、泥と小石を残したままでは傷が悪化する。


指先へ白い光が集まりかけ、すぐに消えた。


傷には汚れが残っている。

このまま皮膚だけを閉じれば、泥まで中へ残してしまう。

それに、トマは痛みを訴えていない。

本人の表情だけを見ていては、どこまで触れてよいのか判断できなかった。


まず洗い、傷の深さを確かめる必要がある。


「先に治さないのですの?」


エルマが小声で尋ねる。


「汚れを残したまま閉じられません。今は傷を洗って、身体がどう反応するかも見ます」


リリシアはトマへ向き直った。


「傷を水で洗います。冷たく感じるかもしれません」


「分かった」


「途中で止めたいと思ったら、止めてと言ってください。ただ、言葉にできなくても、足が引いたり身体が固くなったりしたら、わたしが一度止めます」


トマは不思議そうにリリシアを見た。


「僕がいいって言っても?」


「はい。身体が避けた時は、何が起きたのか一緒に確かめます」


「変なの」


「そうかもしれません。でも、今はそれで進めさせてください」


少し考えた後、トマは頷いた。


アトカが掌を上へ向けると、澄んだ水が生まれた。

排水路から取ったものではなく、自分の魔力で作った清潔な水だった。


「この水を使っても大丈夫ですか」


リリシアが尋ねる。


トマは水球を見つめた。


「飲める?」


「飲めます。でも、今は膝を洗うために使います」


「じゃあ、いいよ」


アトカは水球を細い流れへ変えた。

傷口を強く押さず、表面の泥を浮かせる程度の勢いで膝へ落とす。


「冷たいですか」


「冷たい」


返事はすぐにあった。


「水が流れているのは分かりますか」


「分かるよ。ここから、下」


トマは膝から脛へ指を動かした。


触れられたことも、冷たさも分かっている。


リリシアは清潔な布を水で濡らした。


「今から、小石を一つ取ります」


「うん」


「触れた時に足が動いたら、一度止めますね」


傷の端から泥を拭き取り、小さな石を一つつまみ出す。


トマの顔は変わらない。


もう一つへ指を伸ばした時、足の筋肉が僅かに硬くなり、つま先が後ろへ引かれた。


リリシアはすぐに手を離した。


「止めます」


「どうして?」


「今、足が引きました。少し休みます」


トマは自分のつま先を見る。


「動いた?」


「はい。何か感じましたか」


「触ってる」


「嫌な感じや、離してほしい感じはありませんでしたか」


トマは傷口を見下ろした。


「別に」


「痛くはありませんか」


返事はなかった。


トマは包帯のない膝と、リリシアの指を何度か見比べる。

答えを隠しているのではない。何を尋ねられているのか、自分の中で探しているようだった。


やがて、困ったように眉を寄せる。


「痛いって……どんなのだっけ?」


リリシアの手が止まった。


喉が閉じ、すぐには声が出なかった。


トマは「痛い」という言葉を知らないのではない。今も、その言葉を自分で口にしている。


けれど、傷へ触れられて足が逃げたことと、その言葉が結びついていない。


「言葉は知っていますか」


「うん。転んだ時とか、熱い時に言うやつ」


「トマさんも、前に言ったことがありますか」


トマはしばらく考えた。


「たぶん。でも、今のこれがそうなのかは分からない」


傷へ触れられれば足は逃げる。

冷たさも、布の感触も分かる。

それでも、その反応を自分を守るための警告として受け取れていない。


リリシアは胸の奥が冷えるのを感じた。


痛みを感じないことだけなら、楽になったと言える場面もある。

けれど、トマは傷を休ませる理由まで失いかけている。

泣かないことも、嫌がらないことも、この子が本当に平気だという証拠にはならなかった。


もともと痛みをうまく捉えられなかったのか。

灰色に沈められる時間が長すぎて、自分の身体に起きる何を痛いと呼んでいたのか分からなくなったのか。今のリリシアには決められない。


少なくとも、言葉そのものを忘れたわけではない。


ただ、泥と血にまみれた膝を前にしても、トマは身体から届く警告を受け取れていなかった。


旧聖療室で聞いた「止めて」という声が蘇る。


あの四人には、まだ自分の状態を伝える言葉が残っていた。


目の前の少年は、言葉を知っているのに、そこへ自分の感覚を置けない。


「リリシア」


ギルベルトの短い声が届く。


リリシアは息を吸った。


今ここで自分が黙り続ければ、処置を受けているトマを不安にさせる。

分からないことを、分かった顔で説明してもいけない。


「すみません。少し驚きました」


「何に?」


「トマさんが、その傷を痛いと感じているのか、自分でも分からなくなっていることにです」


トマはまた膝を見る。


「前は分かったのかな」


「それは、まだ分かりません」


リリシアは断定せずに答えた。


「今は、冷たいことと触られていることは分かっています。足も、傷へ触れた時に離れようとしました」


「でも、嫌じゃないよ」


「そう感じていることも、聞いています。ただ、足が避けたことも無かったことにはしません」


リリシアは自分の指を膝から離したまま尋ねた。


「もう少し続けてもいいですか。次も足が動いたら、そのたびに止めます」


トマは少し考えた。


「いいよ」


「分かりました」


許可を確かめ、リリシアは一つずつ泥と小石を取り除いていった。


足が引くたびに手を止める。


「今、動きました」


「触ってた」


「はい。では、少し待ちます」


その繰り返しを、リリシアは急がなかった。


処置の間、アトカは水の流れを細く保ち、汚れた水だけを傷から離して地面へ落としていた。

もっと広く水を使えば、膝全体を一度に洗える。

それでも、トマの足が動くたびにリリシアが止まれるよう、流れを弱い一本へ絞っている。


「アトカ君、もう一度だけお願いします」


「はい」


頼まれた時だけ水を流し、リリシアが手を離せばすぐ止める。

その繰り返しで、傷口は少しずつ本来の色を取り戻していった。


エルマは腰の鞄から細い銀針を取り出した。


「トマさん。膝から離れた場所へ針を置いてもよろしいですの? 刺さずに、周りの魔力を見るだけですわ」


「刺さないならいいよ」


「途中で嫌になったら言ってください。身体が針から離れようとした場合も、わたくしが外しますわ」


エルマは傷から離れた地面へ銀針を立てた。


針先から、白と青の細い線が伸びる。


白は触れられた時に生じた魔力の揺れ。


青は冷たさへ反応した揺れ。


どちらも弱くはあるが、途切れずトマの膝へ重なっていた。


その二本の上へ、建物側から流れてきた薄い灰色がまとわりついている。


「触れられた反応と、冷たさへの反応は残っていますわ」


エルマは記録紙へ線を写した。


「灰色は膝だけではなく、身体の外側へ薄く重なっています。さらに地面へ下り、建物側へ続いていますわね」


「個人の中だけで終わっていないのか」


ギルベルトが入口と周囲を見ながら尋ねる。


「ええ。建物から流れている可能性が高いですわ。ただし、誰が、どのように送っているかまでは分かりません」


アトカも、傷を洗って流れ落ちた水へ意識を向けた。


水の表面には、周囲と同じ灰色が薄く付着している。

だが、処置している膝へ急に集まる動きはなかった。


「今、灰色が強くなった様子はありません。建物と地面から、同じくらいの量が流れ続けています」


「そのまま見ていてください」


リリシアは最後の小石を取り除き、薬を塗った布を傷へ当てた。

治癒魔術ではなく、傷口を汚れから守り、自然に塞がるまで保護するための処置だった。


「トマさん。座ったまま、膝を少しだけ曲げられますか」


「こう?」


「はい。次は、ゆっくり戻してください」


動きに大きな異常はない。


「今は立ちません。傷のある足を休ませてください」


「立てるよ」


「立てるかどうかは、今は確かめません」


リリシアは包帯へ薄く滲む血を示した。


「動かしただけでも、また血が出ています。痛くなくても、皮膚は裂けたままです」


トマは白い布を見つめた。


「痛くないのに?」


「はい。だから、今は血と傷を目印にします」


「休んだら、治る?」


「汚さず、無理に動かさなければ塞がると思います。ただ、後でもう一度見せてください」


アトカが使い終えた布を畳んでいると、トマが義手へ目を向けた。


「それは痛くないの?」


アトカは黒い指を一度開いた。


「義手そのものは痛みません。でも、肩や身体が傷つけば、僕には痛いと分かります」


「じゃあ、僕とは違う?」


「はい。似ているところがあるかは、まだ分かりません。だから同じだとは言えません」


トマは少しだけ考え、義手ではなく自分の包帯へ視線を戻した。


「マルセル先生が見るよ」


周囲にいた子供の一人が言った。


「先生なら、すぐ静かにしてくれる」


「傷を治してくれるのですか」


リリシアが尋ねる。


「包帯を巻いてくれる」


「薬もくれるよ」


「怖い時は、怖くなくしてくれる」


「夜に起きても、眠れるようにしてくれるよ」


子供たちは、誰からともなくマルセルがしてくれたことを話し始めた。


マルセルは、ここで暮らす子供たちに頼られている。


灰色が危険だからといって、その事実まで嘘になるわけではなかった。


その時、建物の陰から黒髪の少女が歩いてきた。


アトカより少し年上に見える。古い服はきれいに洗われていた。


少女はトマの包帯を見る。


「また転んだの」


「うん」


「遊べる?」


「遊べるよ」


トマはすぐに答え、地面へ手をつこうとした。


「立たないでください」


リリシアが止める。


トマは不思議そうに包帯を見たが、今度はその場へ座ったまま手を戻した。


少女の眉がほんの一瞬だけ動く。


同時に、エルマの銀針が拾っていた少女の胸元の魔力も、小さく揺れた。


直後、周囲の灰色が重なり、その揺れは見えなくなる。


「何かの反応が弱まりましたわ」


エルマが小声で告げる。


「何を感じたのかまでは分かりません」


リリシアは少女へ向き直った。


「お名前を聞いてもいいですか」


「ミナ」


「ミナさん。トマさんは今、歩かせない方がよいと思います。ここで一緒に待てますか」


ミナは包帯を見る。


「痛くないよ」


「痛くなくても、傷から血が出ています」


「痛くないなら、その方がいいんじゃない?」


リリシアはすぐには否定しなかった。


痛みは苦しい。


眠れないほど続くことも、処置を受けられないほど強くなることもある。

マルセルの灰色によって助かった子供がいる可能性も、まだ調べていない。


「痛くないことが、トマさんにとって助かっているのかもしれません」


リリシアは答えた。


「でも、今のトマさんは血が出ても立とうとしています。どうしてここまで痛みが分からなくなっているのか、先生の話も聞いて確かめたいです」


アトカもトマの包帯を見た。


「血が出ているのに歩こうとするのは、僕も心配です」


ミナは二人を見比べる。


「マルセル先生は、なくしてくれるよ」


救護院の入口へ顔を向けた。


「痛いのも、怖いのも、静かにしてくれる」


「その先生と話をしたい」


ギルベルトが答える。


「案内してもらえるか」


「いいよ」


ミナは頷いた後、周囲の子供たちを見た。


「トマと一緒にいる人」


二人の子供が手を上げる。


リリシアはその二人へ、包帯へ血が広がった時と、トマが立とうとした時には呼んでほしいと頼んだ。


「僕、歩けるのに」


「今は、歩かなくていいです」


トマは不満そうに包帯を見る。


それでも立とうとはしなかった。


「戻ってきたら、もう一度見せてください」


「分かった」


痛みが分かるようになったわけではない。


それでも、血が出ていることと、傷を休ませる必要があるという言葉は受け取った。


四人はミナの後を追う。


灰庭救護院の入口は開いていた。


内側から、食事の匂いと薄い灰色の魔力が流れてくる。


泣き声は聞こえなかった。


怒る声も。


痛いと訴える声も。


十人以上の子供がいるはずの建物は、不自然なほど静かだった。

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