下層へと続く道
王立エルシオン学園の正門を出た時、空は薄い雲に覆われていた。
雨が降るほど暗くはない。けれど陽光は白く霞み、帝都の建物から伸びる影も輪郭を失っている。
アトカたちは、学園の馬車を使わなかった。
灰庭救護院へ続く古い道には、荷車一台が通れるかも分からない細い路地が多い。
学園章を掲げた馬車で近づけば、調査に来たことを遠くから知らせることにもなる。
現地へ向かうアトカ、リリシア、エルマ、ギルベルトと、下層門で待機するバルトロは、徒歩で帝都の中心部を離れていった。
バルトロの肩には、大きな布袋が掛けられている。歩くたび、中の焼き菓子や干し肉がぶつかり合い、鈍い音を立てた。
「それ、全部食べるんですか」
アトカが尋ねる。
「待ってる間にな」
「半日分にしては多すぎませんこと?」
エルマが布袋を見上げる。
「呼ばれなかったら暇だろ」
「暇と空腹は別のものですわ」
「俺には同じだ」
エルマが反論しようとした時、先頭を歩くギルベルトが口を開いた。
「下層門までは袋を閉じておけ。周囲の魔力を確かめる時に、食べ物の匂いが混ざる」
バルトロは袋から出しかけていた焼き菓子を見た。
「一個だけでもか」
「門に着くまでだ」
「分かったよ」
不満そうに焼き菓子を戻し、布袋の口を縛る。
帝都の中心部には、白い石造りの建物が整然と並んでいた。
街路は広く、排水路には蓋があり、乗合馬車と歩行者が互いを避けられるだけの余裕もある。
やがて一行は、下層を囲む石門の手前に広がる旧市街へ入った。
建物同士の間隔が狭くなり、増築された二階部分が道の上へ張り出している。
同じ石壁にも、色の違う煉瓦や板で塞いだ補修跡が増えていった。
低い橋を渡る。
橋の下を流れる水は濁っていた。壊れた木箱や布切れが端へ溜まり、その隙間だけを細い水が抜けている。
アトカは歩調を緩めた。
その周囲に、指先ほどの水滴が幾つか生まれる。
水滴は橋の先へ滑り、曲がり角や道の端へ散っていった。
橋の下の濁った水は、そのまま流れている。
アトカが動かしているのは、自分で作った小さな水滴だけだった。
敵を探すためのものではない。
来た道。
前方の曲がり角。
崩れかけた外壁。
人が通れる細い路地。
灰庭から引き返すことになった時、使えそうな別の道。
水滴が触れた形を、アトカは頭の中で重ねていく。
もっと多くの水を出せば、橋の先にある路地をまとめて確かめられる。
排水路の上へ沿わせれば、見えていない道の先へも届かせられるかもしれない。
水滴の一つが、前方の建物の隙間へ向きを変えた。
「どこまで見ている」
ギルベルトに問われ、アトカは水滴を止める。
「前は二つ先の曲がり角までです。後ろは、この橋まで」
「建物の中は」
「入れていません」
「そのままでいい。灰庭までの道と、戻る時に使える道だけを見ろ」
建物の中にも、困っている人がいるかもしれない。
アトカは狭い隙間へ向いた水滴を一度見た。それから水を道の上へ戻す。
「はい。道から離さないようにします」
右の路地から別の橋へ出る迂回路があり、左の空き地の奥では壁が大きく傾いていた。
「帰りは、来た道か右の路地を使えます。左は壁が崩れそうです」
「左は使わない」
「はい」
ギルベルトは橋の欄干へ、学園から渡された小さな連絡札を固定した。
帰路確認のための札だった。戻る時に回収されなければ、決められた時刻に学園側が異常を確認する。
「一つ目を置いた。次は道が大きく分かれる場所だ」
バルトロが欄干を覗き込む。
「取ったら鳴るのか?」
「取るな」
「聞いただけだ」
ギルベルトが振り返ると、バルトロは欄干から素直に離れた。
橋を渡ってしばらく進むと、旧市街の先に石門が見えてきた。
帝都の外壁ほど高くはない。
古い区画を分けるために作られた、低く厚い門である。上には小さな見張り台があり、脇には簡素な詰め所が置かれていた。
門を越えた先が、帝都下層だった。
門番は学園からの文書を確認すると、声を落としてギルベルトへ伝えた。
「今朝、灰庭へ子供が一人運び込まれています」
リリシアの表情が強張る。
「怪我の状態は分かりますか」
「布を被せられ、年上の子に背負われていました。意識があったかまでは分かりません」
「この近くに、ほかに診てもらえる場所はありますか」
「ありません。上の区画まで行く者もいますが、灰庭を頼る者の方が多い」
リリシアは門の奥へ視線を向けた。
今すぐ走れば、少しでも早く辿り着ける。
だが、灰色がどこまで広がっているのかも分からない。
焦って四人の確認を崩せば、救護院へ着く前に自分たちの判断まで鈍らされるかもしれない。
握りかけていた手を開き、呼吸を整える。
「ありがとうございます」
ギルベルトが門の内側を見渡した後、バルトロへ向き直った。
「お前はここで待機だ」
「まだ何も喰ってねえぞ」
「喰う対象が決まっていないからな」
バルトロは門の奥から流れてくる空気を吸い込んだ。
煮炊きの煙。
湿った土。
古い木材。
むき出しの排水路。
幾つもの匂いに混ざる魔力を確かめるように、口の中で舌を動かす。
「変な味はする」
エルマが銀針を一本取り出した。
「灰色ですの?」
「薄い。飯の匂いにも、水の匂いにも混じってる。どれか分からねえ」
「分からないものには触れるな」
ギルベルトが告げる。
バルトロは門の向こうを見つめたまま、少し黙った。
「喰ったら減るかもしれねえぞ」
「子供へつながっているものまで引くかもしれない」
「……分かってる」
本当に危険の違いを理解できたわけではない。
それでも、灰色だけを選べないことは自分で認めている。
バルトロは門の脇に置かれた長椅子へ座り、布袋を隣へ下ろした。
ギルベルトは小さな連絡札を一枚、バルトロへ渡した。
「こちらから合図が来た時だけ使え。異常を感じても、先に内容を伝えろ」
「味で説明してもいいのか」
「分かる言葉でいい。エルマが記録へ直す」
バルトロは札を裏返して見た後、布袋の脇へ置いた。
「呼ばれた時だけ来い」
「口に入ってても行く」
「飲み込んでから来い」
「走りながらでも飲める」
ギルベルトは答えず、四人を門の奥へ促した。
石門をくぐると、道の様子がはっきり変わった。
地面には石が敷かれているものの、何度も掘り返され、隙間へ泥が溜まっている。
排水溝はむき出しで、板を渡しただけの場所も多い。
家々の壁には、別の建物から持ってきたらしい木材や煉瓦が使われていた。
硝子のない窓には布が張られ、風が吹くたび、その向こうの暗がりが見えた。
人がいないわけではない。
道端では女性が大鍋を洗い、老人が壊れた椅子へ新しい脚を付けている。
仕事道具を抱えた男たちが、四人の横を無言で通り過ぎていった。
子供たちもいた。
裸足で走る子。
自分の身体より大きな荷物を運ぶ子。
建物の隙間にしゃがみ、固いパンを分け合う子。
壊れたものばかりが目に入る。
けれど、暮らしが止まっているわけではなかった。
鍋には湯気が立ち、椅子は直され、洗濯物は風に揺れている。
上の区画より不便だからといって、ここにいる全員がアトカたちの助けを待っているわけではない。
アトカは道を確かめる水を、生活の中へ踏み込ませないように進めた。
四人の黒いローブと学園章へ気づくと、多くは目を逸らした。何人かは路地へ姿を隠した。
アトカは追わない。
水滴も人の後ろへは入れず、路面と排水路の縁だけを進ませた。
「見られていますわね」
エルマが声を抑える。
「こちらも見すぎるな」
ギルベルトは歩調を変えない。
「誰かを探す目で追えば、警戒を強める」
エルマは周囲を一度見回した後、銀針を道の前方へ向けた。
針先に、薄い灰色が絡みつく。
「門の外より濃くなっていますわ」
「灰庭から流れているのでしょうか」
リリシアが尋ねる。
「方向までは、まだ決められませんわ。ですが、途切れず空気中へ残っています」
エルマは針先の灰色を透明な筒へ収めた。
「隔離した残滓より、ずっと薄いですわね。今すぐ同じ作用が出るかは分かりません」
銀針の先と、道の奥を見比べる。
「ですが、ここで暮らす人は毎日触れ続けています。長く受けた場合の影響は、確認が必要ですわ」
アトカの水滴が、むき出しの排水路へ近づく。
水の表面にも、空気中と同じ薄い灰色が貼りついた。
流れの中へ溶けているのではなく、水面や石壁に触れながら広がっている。
「水路にも付いています」
「採取は先ほどの一つで足りますわ」
エルマは新しい筒を出さなかった。
「ここでは濃さと広がりだけを見ます」
四人は歩き続けた。
門へ入ってからしばらく経った頃、ギルベルトが人通りの少ない壁際で足を止める。
「確認する」
四人は互いの状態と帰路を、決めた順に答えた。
アトカは義手を握り、開き、肘を曲げる。肩にも遅れや重さはない。
リリシアの治癒は漏れていない。エルマの指先と視界にも異常はなかった。
全員が石門までの道を答え、怖さや焦りが消えていないことも確認する。
「怖さはあります。でも、急いで走りたい気持ちは先ほどより整理できています」
リリシアが答える。
「わたくしは、灰色の濃さが増していることを気にしていますわ。判断が鈍った感覚はありません」
エルマも続けた。
アトカは帰路と身体状態に加え、もっと広く水を伸ばしたい気持ちが残っていることも伝えた。
ギルベルトは三人の返答を聞き、自分も焦りと帰路を答えた。
「続行する」
ギルベルトの判断で、四人は再び進み始めた。
一軒の家の前を通り過ぎた時、開いた窓から幼い子供の泣き声が聞こえた。
すぐに、母親らしい女性の声が続く。
「ここにいるよ」
泣き声は止まらない。
「どこが痛いの」
子供はうまく言葉にできないのか、何度も息を詰まらせて泣いた。
女性も同じ問いを繰り返す。
怒鳴らず、離れず、返事を待っていた。
アトカは窓を見上げた。
泣き声は苦しそうだった。
けれど、泣けば返事が届いていた。
自分なら水で何かできるだろうかと、一瞬考える。
冷たい水を作ることも、頼まれれば濡れた布を運ぶこともできる。
だが、何が起きているのかも、助けを求められているのかも分からない。
アトカは水滴を窓へ向けず、そのまま道の上へ進ませた。
窓から聞こえる声が遠ざかる。
エルマの銀針へ絡む灰色は、進むほど少しずつ濃くなっていた。
道もさらに狭くなる。
建物の間に張られた洗濯物が空を塞ぎ、昼間なのに薄暗い。
排水路の水面には、灰色の薄い膜が続いている。
アトカの前を進んでいた水滴の一つが、左側の路地から戻った。
崩れた壁。
足元へ散らばる煉瓦。
その先に、焼け焦げた大きな建物がある。
一部は新しい木材で補修され、窓には布が張られていた。
古い煙突から、細い煙が上がっている。
建物の周囲を囲むように、灰色の魔力が流れていた。
「見えました」
アトカが足を止める。
エルマも銀針を建物へ向けた。
針先を覆う灰色が、これまでより明らかに濃くなる。
「ここが、灰庭ですわね」
焼け跡の前には、小さな空き地があった。
割れた木板。
古い樽。
紐を結んで作られた輪。
子供たちが遊び道具にしているらしい。
姿は建物の陰に隠れている。
それでも、明るい笑い声と、誰かを追いかける足音が聞こえた。
笑い声がある。
走る足音もある。
そのため、一見しただけでは救護院の異常は分からなかった。
灰色は子供たちを倒れさせるのではなく、傷ついても騒がない静けさを、日常の中へ混ぜているのかもしれない。
アトカたちは、すぐに空き地へ入らなかった。
ギルベルトが片手を上げ、三人を止める。
正面の入口。
左右へ抜ける細い道。
建物の裏へ回る通路。
灰色が流れている範囲。
引き返す場合に使える場所。
アトカは水滴を道の端へ送り、エルマは灰色の濃さを測った。
リリシアは建物の陰から聞こえる呼吸や声へ耳を澄ませる。
急激な魔力の変化はない。
助けを求める声も聞こえなかった。
その時だった。
硬い地面へ、身体が倒れる音がした。
笑い声が一度途切れる。
アトカの水滴が前へ走りかけた。
だが、ギルベルトがまだ手を下ろしていない。
アトカは水を空き地の手前で止め、自分の目で建物の陰を見る。
一人の少年が姿を現した。
地面へ片膝をついている。
膝の皮膚が裂け、赤い血が石の上へ落ちていた。
周囲の子供たちも、少年を見る。
少年自身も傷口を見下ろした。
それなのに、顔をしかめない。
息を呑むこともない。
何事もなかったように、傷のある足へ力を入れて立ち上がろうとする。
つい先ほど聞いた泣き声が、アトカの耳に蘇った。
痛い場所を伝えられず、それでも誰かへ向かって泣いていた声。
目の前の少年の膝からは、今も血が落ちている。
それでも。
泣き声は、上がらなかった。




