行かない役目
フレデリックが任務方針を伝えるため、カインとバルトロも特等枠のラウンジへ呼ばれた。
二人が来るまでの間、灰色の残滓は三重の覆いの中へ封じられたままになっていた。
アトカの水球に絡んだ細い灰色は、今も帝都下層の方角へ伸びている。
机には、灰庭救護院の古い記録が広げられていた。
十二年前の火災で閉鎖され、保護されていた者も移送されたはずの施設である。
だが数か月前の報告には、夜間の灯りと炊事の煙、建物へ出入りする子供たち、負傷者を運び込む姿、そして元職員らしき人物の存在が残されていた。
やがて、カインとバルトロがラウンジへ入ってきた。
カインは窓辺の長椅子へ腰を下ろし、本を開く。
バルトロは窓枠へ背を預け、手にしていた果実を丸ごと齧った。
二人とも、すぐには会話へ加わらなかった。
それでも灰庭救護院の名が出た瞬間、頁をめくる音も、果実を噛む音も止まった。
「灰庭救護院へ、調査に向かうのですか」
リリシアが尋ねる。
フレデリックは六人を見渡してから答えた。
「初動調査は行う。ただし、目的は施設の制圧ではない。内部にいる子供たちの状態確認と、灰色の術式が旧聖療室のものと同じ系統かを確かめることだ」
「元職員が術式を使っている可能性は?」
ギルベルトが問う。
「ある。だが、関与の程度も目的も分からない」
フレデリックは閉鎖前の職員名簿を開いた。
一人の名前へ、細い印が付いている。
マルセル・グレイ。
「灰庭に残っていると見られる人物だ。かつて救護院で、負傷者の処置と子供たちの生活管理を担当していた」
「治癒師ですの?」
エルマが尋ねる。
「正式な治癒師資格は持っていない。簡単な治療術と、痛みや不安を和らげる鎮静術を扱っていた記録がある」
リリシアは三重の覆いの中を見た。
「その鎮静術が、この灰色と同じものかもしれないのですね」
「その可能性を確かめる。ただし、同じ術式を使っているからといって、彼が旧聖療室の異常を起こしたと決めつけてはならない」
「子供たちが、自分から鎮静を望んでいる可能性もありますわね」
エルマが記録へ視線を落としたまま言う。
「痛みを和らげること自体は、害ではありませんもの」
「はい」
リリシアも頷いた。
「包帯を替える時や、痛みで眠れない時に、短い時間だけ苦痛を和らげる処置はあります。必要なのは、身体の状態と、本人が何を望んでいるかを分けて確かめることです」
「問題は、どこまで作用しているかだな」
ギルベルトが言った。
「痛みだけか。恐怖や拒絶まで鈍らせているのか。止める手順があるのか。本人が途中で変えられるのか」
「それらを現地で確認してほしい」
フレデリックは帝都下層の古い経路図を長机へ広げた。
上層や学園周辺の街路とは異なり、細い道が複雑に入り組んでいる。
閉鎖された水路や崩れた建物も記されていたが、十二年前の図であるため、現在も通れる保証はない。
「初動調査に向かうのは、アトカ君、リリシア君、エルマ君、ギルベルト君の四名とする」
名前を呼ばれた四人が返事をする。
「出発は一時間後だ。その前に、灰色へ近づく際の規則を確認しよう」
ギルベルトが白紙へ三本の線を引いた。
「一つ。痛みや恐怖がなくなったことを、安全になった証拠と考えない」
リリシアが頷く。
「怖くなくなったから進める、痛くないから怪我をしていない、とは判断しません」
「二つ。誰か一人でも異常を指摘したら、その場で調査を止める。本人が平気だと言っても、続けるかどうかは影響範囲から出てから決める」
エルマが書き取った。
「自分だけは正しく判断できる、という考えも保留しますわ」
「三つ。帰路を常に確認する」
ギルベルトは古い経路図へ指を置いた。
「アトカは、灰庭までの道と近くの迂回路だけを水で確かめろ」
アトカは図面を覗き込んだ。
下層全体へ水を伸ばせば、もっと多くの道を見つけられるかもしれない。
崩れている場所も、灰色が流れている場所も、一度に調べられる。
それでも、今必要なのは灰庭へ行き、四人で戻ってくるための道だった。
「灰庭の周囲までなら、細い水路を何本か並べられます」
「必要な範囲に絞れ」
「はい。行きと帰りに使う道を優先します」
役割も短く決められた。
リリシアは子供たちの身体を診て、本人へ何を望んでいるか尋ねる。
エルマは灰色の濃さ、流れる方向、術式の接続を記録する。
アトカは外部へ現れた魔力と帰路を水で確かめる。
ギルベルトは時間、連絡、撤退判断を担う。
「灰庭にいる者を、最初から加害者と決めつけないこと」
フレデリックが言った。
「子供たちを、助けを待つだけの存在と決めつけないこと。そして、自分たちなら必ず正しい選択ができるとも思わないこと」
第四章では、治癒を終えることで四人を救った。
だが、今度も同じ答えになるとは限らない。
痛みを戻せば、それだけで救いになるわけではなかった。
「確認し、聞き、戻ってくる。それが今回の任務だ」
その言葉を受けて、窓辺のバルトロが顔を上げた。
「俺は?」
「帝都下層へ入る門の近くで待機してもらう」
「中には行かねえのか」
「君の力を使えば、証拠となる魔力や、子供たちを支えている術式まで失う可能性がある」
バルトロは隔離線の外から硝子皿へ顔を寄せた。鼻から短く息を吸い、舌先を歯へ当てる。
「喰えると思うぞ」
「灰色だけを喰えるか」
ギルベルトが尋ねる。
バルトロは灰色、アトカの水、実験に使われた器具を順番に見た。
少し考えた後、残っていた果実を噛み砕く。
「分けられねえ」
「なら、今は喰わせられない」
「灰色が外まで漏れてきてもか」
フレデリックが答えた。
「勝手に喰わない。周囲へ流れた魔力も、灰庭へつながる経路を見つける手掛かりになる。ギルベルト君かエルマ君から、対象と範囲を指定されるまで手を出してはならない」
バルトロは眉を寄せた。
「喰えるのにか」
「喰えることと、喰ってよいことが同じかは、まだ分からない」
「俺には同じに見える」
「だから、君一人では決めないでほしい」
危険だから喰うなと言われても、バルトロには灰色が食物のように感じられる。
喰えば自分の身体は動く。喰えば灰色も減る。
何が悪いのかを、自分では分けられなかった。
「必要になった時、すぐ動ける位置で待ってもらう」
バルトロはしばらく灰色を見つめた。
やがて、舌打ちする代わりに息を吐く。
「……分かった。門にいる。呼ばれるまで喰わねえ」
フレデリックが頷く。
バルトロは空になった果実の芯を見た。
「待つなら、飯は多めに用意しろ」
「用意させよう」
「ならいい」
納得したわけではない。
それでも、喰うなという命令と、呼ばれるまで門を離れないという役目は受け取った。
「呼ばれる条件も決めておく」
ギルベルトが言った。
「俺かエルマが、喰う対象と範囲を指定した時だけ灰庭へ入れ。それ以外では門を離れるな」
「子供が危なかったら?」
「それでも先に連絡を受けろ。何へつながっているか分からない魔力を喰えば、子供からまで引くかもしれない」
バルトロは不満そうに歯を鳴らした。
「分かったよ」
今度は、さきほどより少しだけ早く答えた。
「カインさんは、学園で待機ですの?」
エルマが尋ねた。
フレデリックが答えるより先に、長椅子から声が返る。
「俺は行かない」
全員の視線がカインへ向いた。
カインは本を閉じた。
普段なら、自分が任務から外されれば先に理由を求めただろう。
必要がないと言われることを嫌う。何も任されない時間を、役に立てない時間として受け取りやすい。
だが今回は、フレデリックに告げられる前に自分から言った。
「灰色の術式は、子供の身体へつながっている可能性があるんだろ」
「高いですわ」
エルマが答える。
「旧聖療室では、患者の治癒拒絶や恐怖に重なっていました。灰庭でも同じなら、建物から伸びる術式線と、子供自身の魔力路が近い場所を通っている可能性があります」
「なら、壊す場所はまだ分からない」
カインの魔術は、高密度の黒い魔力を一点へ通し、物理構造や術式線を破断する。
正しく対象を選べば、強固な障壁や結界の固定部も壊せる。
だが、灰色の供給線と、子供自身を支える魔力路を見分けられない状態では、その鋭さが危険になる。
「調べる前に撃てば、灰色だけじゃなく、残すべきものまで壊すかもしれない」
カインは拘束具へ触れなかった。
黒い魔力も出さなかった。
ただ、硝子皿の中で揺れる小さな灰色を見ていた。
「切ればいい事件じゃないなら、俺が行く理由はない」
言い切った後、僅かに視線を下げる。
不満がないわけではない。
アトカたちが、自分の知らない場所へ向かう。
負傷した子供がいる。
その先で何が起きるのかも分からない。
それでも、力を使えるという理由だけで同行する方が危険だと、カイン自身が判断した。
フレデリックは静かに頷いた。
「そう判断してくれて助かる」
「後方待機なら、ここにいる」
「今回は、君を予備戦力にも指定しない」
カインの眉が僅かに動く。
「何もするなってことか」
「違う」
フレデリックは穏やかに否定した。
「君が必要になるかもしれないという理由だけで、いつでも戦える状態に置いておくことはしない」
カインの指が、閉じた本の表紙へ僅かに食い込む。
現地へ行かないことは、自分で決めた。
だが、呼ばれる可能性まで取り上げられるとは思っていなかった。
待っていれば、必要になった時に立てる。
何かが壊れそうになれば、自分が壊すべき一点を探せるかもしれない。
その可能性を残しておけば、仲間が遠くにいても、自分には役目があると思える。
「……本当に呼ばないのか」
「命に関わる予想外の事態が起き、君の力でなければ救えないと私が判断した時は別だ」
フレデリックは曖昧に励まさなかった。
「だが、その時が来るかもしれないという理由で、君へ待ち続ける役目は与えない。今日は、誰かに呼ばれることを待たず、自分の時間へ戻ってくれたまえ」
カインは、意味の分からないものを見るようにフレデリックを見た。
何も壊さない。
誰かを助けに行かない。
危険が来るまで待つ必要もない。
それを自分の時間と言われても、まだうまく受け取れなかった。
窓の外では、通常授業へ向かう生徒たちが中庭を横切っている。
本を読む者。
課題を抱えて走る者。
昼食を終え、友人と話す者。
灰庭で何が起きているかを知らない時間が、そこには流れていた。
「役目がないのではない」
フレデリックが続ける。
「今回は、行かないと判断した時点で、君は必要なことをした」
カインの視線が灰色へ戻る。
正体の分からない術式。
つながっているかもしれない子供たち。
この段階で自分の黒い魔力を持ち込まないことは、何もしないのとは違う。
壊せるものを壊さず残した。
まだ見えていないものへ、先に亀裂を入れなかった。
「分かった」
短く答え、カインは本を開き直した。
だが頁をめくる前に、アトカたちを見る。
「戻ったら、何があったか話せ」
アトカが微笑んだ。
「はい」
「全部だ」
「覚えていることは、ちゃんと話します」
「忘れたらエルマに聞く」
「当然、わたくしが記録いたしますわ」
エルマが胸を張る。
すでに机の端へ新しい記録紙を何枚も重ねていた。
現地の術式、子供たちの反応、建物の構造、マルセルの証言。調べられるものは、できるだけ多く持ち帰るつもりだった。
リリシアも表情を和らげる。
「わたしも、診たことと、本人から聞けたことをお伝えします」
「患者を見る前から、俺に話すことを考えるな」
「それも覚えておきます」
カインは返事をしなかった。
だが、本を持つ指から少しだけ力が抜けていた。
一時間後。
必要な道具を整えた四人が、ラウンジの出口へ向かう。
バルトロも、待機中の食料を詰めた大きな袋を肩へ担いでいた。
袋から漂う匂いへ気を取られながらも、灰色の残滓には近づかなかった。
カインだけが長椅子へ残っている。
アトカは扉の前で一度振り返った。
カインは見送りの言葉を口にしない。
本へ視線を落としたまま、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「戻ったら、何があったか話せ」
「はい。戻ってきます」
扉が閉じる。
足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
ラウンジに残ったカインは、開いた本の同じ行をしばらく見つめていた。
追いかけようと思えば、まだ間に合う。
何かが起きてからでは遅いかもしれない。
それでもカインは立ち上がらなかった。
行かなかった者にしかできないことがあるのかは、まだ分からない。
今回は、分からないまま追いかけず、壊すべきものが見えるまで自分の力を持ち込まないことを選んだ。




