↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
優しすぎる光の中で
PR
64/132

治療を終える言葉

フィーネへ伸びる白い光は、先ほどまでより細くなっていた。


それでも治癒は続いている。


聖印盤は、エルマが書き換えた終了条件を受け入れた。


だが、最後に治療を終えるかどうかを決めるのは、盤ではない。


患者本人と、その状態を診た治癒師だった。


リリシアはフィーネのそばへ膝をつく。


少女の目は閉じられている。


呼吸は浅いものの、先ほどのように白い光が流れ込むたび乱れることはなくなっていた。


オルフェの調整と、アトカが治療経路を支え続けたことで、魔力路の破綻は避けられている。


それでも疲労は残っていた。


頭痛も、吐き気も、光や音へ過敏になった感覚も消えてはいない。


以前のリリシアなら、それらを一つ残らず治したいと思っただろう。


苦痛がある。


ならば、治癒が必要だ。


患者が泣いている。


ならば、もっと強い治癒を与えなければならない。


けれど今、フィーネの身体が求めているものは、さらに力を注がれることではなかった。


何も起こされずに眠ることだった。


「フィーネさん」


リリシアは声を落とす。


「聞こえますか」


少女の瞼が僅かに動いた。


「今から、聖印盤の治療を終えることができます」


フィーネの指先が小さく震える。


「頭の痛みや疲れは、すぐには消えません。治療を終えた後は、そのまま休んでもらいます」


リリシアは返事を待った。


「もう一度、確認します。今の治療を終えてもいいですか」


乾いた唇が動く。


「……止めて」


僅かな声だった。


それでも、保管区画にいた全員へ届いた。


「光、もう……いらない」


「分かりました」


リリシアはフィーネの手へ触れない。


すでに診察は終わっている。


今必要なのは、治癒を加えることではなく、本人の言葉を受け取ることだった。


聖印盤へ右手を向ける。


掌に生まれた白い光は、治癒の光ではない。


フィーネの治療終了状態を示す、小さな印だった。


「フィーネ・アルヴェン。現在の治療を終了します」


印が聖印盤へ入る。


フィーネに対応する紋様が明るく光った。


白い帯が、少女の腕から胸元へ向かってゆっくり細くなる。


急に切れたのではない。


流れ込んでいた治癒が少しずつ減り、最後の一筋が身体から離れた。


光の帯は水の中で小さな粒へほどけ、聖印盤へ戻っていく。


フィーネの肩から力が抜けた。


呼吸が一度止まり、次には長く深い息が吐き出される。


少女はそのまま眠りに落ちた。


「状態は」


リリシアが尋ねる。


オルフェがすぐに診察する。


額。首元。手首。


魔力路の流れを順に確かめる。


「自力で休止へ入っています」


オルフェが答えた。


「治癒経路の逆流もありません。成功です」


リリシアは息を吐く。


一人目。


フィーネは完全に元気になったわけではない。


症状も残っている。


それでも、治療を終えることができた。


少女の身体はようやく、自分の力で休むことを許された。


「次へ進めますか」


オルフェが尋ねる。


リリシアは自分の呼吸と、指先の光を確認した。


「進めます」


次はユリウスだった。


左膝へ伸びている治癒は、今も負傷前の形を探している。


書き換えによって出力は落ち着いているものの、骨と筋肉を過去へ引き戻そうとする力は残っていた。


リリシアが近づくと、ユリウスは壁へ背を預けたまま顔を上げた。


「フィーネは」


「眠れています」


「そうか」


少年の表情が僅かに緩む。


「では、次は俺ですね」


「はい」


リリシアは左膝を見る。


「古傷は残ります」


「分かっています」


「聖印盤を止めた後、膝の均衡を確認するための治療が必要です。今までと同じ動きへ戻るまで、少し時間がかかるかもしれません」


「それも分かっています」


ユリウスは一度、自分の膝へ目を落とした。


「それでも、この足で戻りたい」


「はい」


迷いのない答えだった。


リリシアは治療終了印を作る。


「ユリウス・カルナー。現在の身体の均衡を治療完了状態として、治療を終了します」


聖印盤の二つ目の紋様が光る。


左膝へ伸びていた帯が細くなった。


負傷前の形へ戻そうとしていた力が弱まり、骨と筋肉を引く感覚が消えていく。


光が完全に離れた瞬間、ユリウスの左足が床へ落ちた。


少年は反射的に立ち上がろうとしたが、オルフェが止める。


「まだ体重をかけないでください」


「分かっています」


そう答えながらも、ユリウスは左足の感覚を確かめていた。


「俺の足だ」


小さく呟く。


「ちゃんと、今の足だ」


リリシアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


二人目。


次はエステルだった。


腫れた右手を抱えた女性職員は、リリシアが近づくと苦笑した。


「ようやく、文句を言う順番ですね」


リリシアは少しだけ目を丸くする。


先ほど交わした約束を思い出した。


「はい。聞きます」


「痛かったです」


エステルはすぐに言った。


「とても」


「はい」


「軽い傷だから、我慢できると思っていました。でも、光が入るたびに、手の中が膨らんでいくみたいで怖かったです」


「待たせてしまいました」


リリシアは頭を下げる。


「それでも、順番を変えるべきだったとは思っていません。フィーネさんとユリウスさんとハインツさんを先に診る必要がありました」


エステルは少し驚き、それから笑った。


「謝るだけではないんですね」


「はい」


「その方が安心します」


右手を僅かに持ち上げる。


「終わらせてください」


「分かりました」


リリシアは傷が塞がっていることを、もう一度目で確認した。


痛みがある。


腫れもある。


それでも、今の治癒を続ける理由にはならない。


「エステル・ローデ。掌の裂傷は閉鎖しています。現在の痛みと腫れは停止後に処置するものとして、治療を終了します」


三つ目の紋様が光った。


エステルの右手へ伸びていた白い帯が、ゆっくりほどける。


治癒が消えても、腫れは残った。


痛みもすぐにはなくならない。


それでも、皮膚の下で何かが作られ続ける脈動は止まった。


エステルは右手を見つめる。


「まだ痛いです」


「はい」


「でも、増えていません」


「もう増えません」


オルフェが診察し、頷いた。


「治癒の流入は完全に止まっています。後ほど処置します」


三人。


残る光は一つだけになった。


ハインツの身体へ伸びる、最も複雑な治療経路。


白い帯の中には、幾つもの細い流れが重なっている。


左肩を若い頃の形へ戻そうとする流れ。


胸元の手術痕を消そうとする流れ。


古い骨折を繋ぎ直そうとする流れ。


年齢によって変化した筋肉や関節を、傷として修復しようとする流れ。


一人の身体へ向けられた治癒とは思えないほど、多くの光が渦巻いていた。


リリシアが近づく。


ハインツは苦しそうに息をしながらも、意識を保っていた。


「三人とも、終わりましたか」


「はい」


「よかった」


自分が最後まで残されたことへ、不満を口にしない。


その優しさに触れた瞬間、リリシアの胸の中で治癒が反応した。


白い光が指先へ滲む。


「出ています」


アトカがすぐに告げる。


「まだ小さいです」


「分かりました」


リリシアは隠さなかった。


「ハインツさんを見たら、治したいと思いました」


オルフェが抑制印を構える。


「続けられますか」


「続けます。でも、増えたら伝えます」


ハインツの前へ膝をつく。


「手に触れてもいいですか」


「お願いします」


リリシアは右手を取った。


今度は、診察のためではない。


本人の意思を確かめ、最後の終了印へ繋ぐためだった。


触れた瞬間、再び無数の傷が流れ込んでくる。


左肩。胸。脇腹。膝。背中。古い魔力路。


一つ一つが、治してほしいと叫んでいるように感じられた。


白い光がリリシアの背中から広がった。


アトカの水膜がすぐに持ち上がる。


治癒は水へぶつかり、保管区画の床を白く照らした。


「後ろから増えています」


「お願いします」


「押さえています」


リリシアはハインツから目を逸らさない。


「もう一度、確認します」


声が震える。


「昔の傷も、今の身体の変化も残ります。それでも、今の治療を終えていいですか」


ハインツは頷こうとした。


その時、胸元の手術痕が強く光った。


身体が大きく反る。


ハインツの喉から声にならない息が漏れた。


リリシアの中で恐怖が弾けた。


助けなければ。


今すぐ治さなければ。


治癒が一気に膨れ上がる。


水膜が大きく波打った。


背後だけではない。


肩。胸元。足元。


身体のあらゆる場所から白い光が噴き出す。


「リリシア!」


オルフェの抑制印が輝いた。


過去の光景が蘇る。


床へ広がった血。


泣き続ける使用人。


部屋中へ噴き出した治癒。


自分の力によって倒れていく人たち。


止まって。


お願いだから。


あの日と同じ言葉が、喉まで上がる。


光は止まらない。


ハインツが苦しんでいる。


自分が助けなければならない。


全部の傷を消せば。


若い身体へ戻せば。


痛みがなくなるまで治せば。


その考えに反応して、治癒がさらに強くなる。


アトカの水が白く染まった。


「左からも出ています」


声が聞こえる。


「まだ押さえられます。でも、増えています」


リリシアは答えられない。


視界が白い。


目の前にいるのがハインツなのか、過去の使用人なのか分からなくなりかける。


「リリシア」


オルフェが呼ぶ。


「患者を見なさい」


兄の声だった。


あの日、自分を押さえつけた兄。


今、自分を止めるために抑制印を構えている兄。


けれど、その声は、ただ離れろとは言わなかった。


患者を見ろと言った。


リリシアは白い光の中で、ハインツの顔を探す。


彼は苦しんでいる。


それでも、リリシアの手を握り返していた。


「昔へ……戻してほしいわけでは、ありません」


途切れた声が届く。


「この身体で……帰りたい」


リリシアの呼吸が止まった。


治癒は、傷だけを見ている。


消すべき痕。


戻すべき骨。


若く作り直すべき身体。


けれど、その身体の持ち主は、今の自分へ帰りたいと望んでいる。


リリシアはハインツの右手を握る。


治すためではない。


彼の言葉を離さないために。


「はい」


声が震えた。


「分かりました」


白い光はまだ噴き出している。


自分の治癒は、傷を見つけ続けている。


それでも、患者はもう答えている。


傷が残っていてもいい。


老いがあってもいい。


昔と違う身体でもいい。


今起きている苦痛だけを止めて、自分の身体へ戻りたい。


リリシアは、自分の治癒へ向けるように言葉を口にした。


「もう、大丈夫です」


光が揺れる。


「この人の傷は、治療の途中ではありません」


左肩の傷。


胸の手術痕。


古い骨折。


それらは失敗ではない。


生きてきた身体に残ったものだった。


「昔と同じ身体に戻らなくてもいいんです」


白い光が、なおも外へ押し寄せる。


アトカの水膜が軋むように震えた。


オルフェの抑制印も、いつでも閉じられる明るさを保っている。


エルマは聖印盤から目を離さず、終了手順を維持していた。


一人ではない。


誰かを助けたい気持ちを、一人で抱えて暴走しなくていい。


リリシアはハインツを見る。


「治療を終えてもいいですか」


「はい」


はっきりと返事があった。


その言葉を受け取り、リリシアは微笑んだ。


「もう、この光で治り続けなくていいんだよ」


誰かを突き放す言葉ではなかった。


治せないと諦める言葉でもない。


ハインツの身体を、治癒師が望む完全な形から解放する言葉だった。


同時に、止まれずにいた自分の治癒へ、終わりを教える言葉だった。


噴き出していた白い光が止まった。


突然消えたのではない。


広がっていた流れが、行き先を失う。


次に、リリシアの言葉を聞き入れるように向きを変えた。


背中から漏れていた光。


胸元から溢れていた光。


床を這っていた光。


それらが細い流れとなり、リリシアの身体へ戻っていく。


アトカの水の中に残っていた白い光も、少しずつ薄くなった。


「戻っています」


アトカが言う。


リリシアは頷く。


ハインツの治療終了印を作った。


「ハインツ・オルデン」


声はもう震えていなかった。


「現在の身体の均衡を治療完了状態として、治療を終了します」


最後の印が聖印盤へ入る。


四つ目の紋様が強く光った。


ハインツへ伸びていた白い帯が、幾つもの細い流れへほどける。


左肩から。


胸元から。


両膝から。


古い傷跡から。


一つずつ光が離れていく。


最後の一筋が身体から抜け、聖印盤へ戻った。


ハインツの全身から白い線が消える。


呼吸は荒い。


傷も老いも残っている。


それでも身体を異なる過去へ引き裂こうとする力は、完全に止まっていた。


「四人目、終了しましたわ」


エルマが告げる。


その直後だった。


聖印盤の中心が、激しく光った。


低い音が保管区画を震わせる。


四人への治療経路を失った盤面から、無数の細い光が伸びた。


フィーネへではない。


ユリウスへでもない。


ハインツやエステルでもない。


光は保管区画にいる全員へ向かって広がった。


リリシアの指先。


オルフェの肩。


エルマの目元。


アトカの頬。


傷、疲労、古い負担。


人の身体に残る僅かな変化を、新しい治療対象として探している。


「新規接続を始めていますわ!」


エルマが杖を盤面へ押しつける。


「まだ停止手順が終わっていません!」


一本の光がアトカの右肩へ向かう。


義手の接続部を傷と認識したのかもしれない。


アトカは水を立ち上げ、光を外側へ流す。


「全部は止めません。集めます」


床の水が渦を作る。


無数に伸びた白い光が、水の流れへ引かれ、一つの大きな輪となって聖印盤の周囲を回り始めた。


消してはいない。


新しい患者へ届かないよう、盤の周囲を循環させている。


別の光がリリシアへ向かう。


先ほど暴走した治癒の疲労を、新しい損傷として拾っていた。


リリシアは逃げなかった。


「私は、治療を望んでいません」


聖印盤へ向かって告げる。


光は止まらない。


だが、リリシア自身の治癒は反応しなかった。


今度は、助けなければという焦りに飲まれない。


患者はもう解放された。


残るのは、魔導具を眠らせる手順だけだった。


「エルマさん」


「新規接続の拒否を書き込みますわ!」


青い術式が盤面へ走る。


「オルフェさん、管理印を閉じる準備を!」


「できています」


オルフェが銀印を聖印盤の外周へ押し当てる。


「アトカさん、内部へ戻せますの」


「一度には無理です」


白い光を水の輪へ乗せ、何度も盤の周囲へ循環させる。


「少しずつなら戻せます」


「それで十分ですわ」


エルマは停止手順を一つずつ起動する。


新しい治療対象を探さない。


登録された四人以外へ接続しない。


残った治癒を急激に放出しない。


内部へ回収し、段階的に出力を下げる。


一つ目の命令が固定される。


保管区画へ伸びようとしていた光が止まった。


二つ目。


アトカの水の中を回っていた治癒が、少しずつ聖印盤へ吸い込まれていく。


三つ目。


盤面の外周にある白い紋様が、一つずつ暗くなる。


「今です」


エルマが叫ぶ。


オルフェが銀印を回した。


「管理印、閉鎖」


乳白色の円盤を覆うように、銀の光が広がる。


中心だけが最後まで抵抗するように明滅した。


リリシアは聖印盤を見つめる。


治癒のために作られた光。


誰かを救うための術式。


優しさだけを与え続け、終わることを知らなかったもの。


「もう、誰も治さなくて大丈夫です」


リリシアが静かに告げた。


最後の光が消えた。


保管区画から白い明滅がなくなる。


棚も。床も。患者たちの身体も。


久しぶりに、窓から差し込む自然な光だけが部屋を照らしていた。


静寂の中で、誰かの呼吸が聞こえる。


フィーネの寝息。


ユリウスが痛みに耐えながら吐く息。


エステルが安堵して漏らした声。


ハインツの、長く深い呼吸。


全員が生きている。


全員が、自分の身体へ戻っている。


リリシアの膝から力が抜けた。


倒れる前に床へ手をつく。


アトカが一歩近づき、途中で止まった。


「支えてもいいですか」


リリシアは顔を上げる。


青い瞳が、自分の返事を待っていた。


「はい」


アトカは義手でリリシアの右腕を支えた。


強く掴まない。


立てるだけの力を貸し、それ以上は引かなかった。


リリシアはゆっくり立ち上がる。


「ありがとうございます」


「僕も、頼ってもらえてよかったです」


すぐそばで、オルフェが二人を見ていた。


何も言わず、まず四人の患者へ向かう。


治癒師として、事件が終わった後にするべきことを続けるために。


リリシアも、アトカの義手から自分の腕を離した。


疲れている。


怖さもまだ残っている。


それでも、もう自分の光から目を逸らしてはいなかった。


優しすぎる光は消えた。


その中で、リリシアは初めて、治すことではなく、治療を終えることで四人を救った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。