治癒師としての報告
事件から三日後。
オルフェ・クラウツは、学園長執務室の前に立っていた。
白い治癒師装束には皺一つない。
胸元の銀印も磨かれている。
けれど、右手に持った報告書の端だけが、僅かに歪んでいた。
紙を強く握っていたことへ気づき、指の力を緩める。
扉を二度叩いた。
「入りたまえ」
中から、穏やかな声が返ってくる。
オルフェは扉を開けた。
学園長執務室には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
窓際に置かれた書架。
整然と積まれた記録。
奥の机には、長い銀髪の男が座っている。
フレデリック学園長は書類から顔を上げ、オルフェを迎えた。
「来てくれてありがとう、オルフェ君」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
オルフェは机の前まで進み、報告書を差し出した。
表紙には、旧聖療室保管区画における聖印盤異常作動について、と記されている。
その下には、クラウツ家治癒監査役および現場治癒責任者としての、オルフェの署名があった。
フレデリックは報告書を受け取り、最初の頁を開く。
室内に、紙をめくる音が響いた。
「座ってくれたまえ」
椅子を勧められたが、オルフェはその場に立ったまま一礼する。
「患者四名の経過から、口頭で報告いたします」
「分かった。頼む」
「エステル・ローデ。右掌の裂傷は閉鎖済みです。過剰治癒によって形成された組織が腱と血管を圧迫していましたが、余剰組織の除去と、圧迫部位の調整を開始しています。現時点では、手指の機能が大きく失われる兆候はありません」
フレデリックが頷く。
「フィーネ・アルヴェン。強制活性を受けた魔力路は、自力で休止状態へ移行しています。現在は刺激を避けた療養室で休ませています。頭痛と感覚過敏は残っていますが、継続的に軽減しています」
次の頁がめくられる。
「ユリウス・カルナー。左膝は、負傷前の状態と現在の状態の間で再構成を受けたため、一時的に均衡を崩しました。現在は、本人がこれまで用いていた足運びを基準として再調整を行っています。本人の意思により、今回の処置として負傷前への再治療は行いません」
「本人が決めたのだね」
「はい。今後、再治療によって得られる利点と危険を説明した上で、改めて選択する機会は設けます。ただし、今回の事件処置として、本人の意思を置いたまま過去の身体へ戻すことはありません」
フレデリックは静かに目を細めた。
「続けてくれ」
「ハインツ・オルデン。複数の古傷と治療痕へ、異なる治癒が同時に作用したため、全身に強い疲労と痛みが残っています。ですが、骨格、筋肉、魔力路は、事件前の身体の均衡へ戻っています。命に関わる異常はありません」
オルフェは一度息を置いた。
「患者四名、全員生存。現時点で、回復不能と判断される後遺症は確認されていません」
フレデリックは報告書から顔を上げた。
「まずは、その結果を喜ぼう」
「はい」
オルフェも頷く。
けれど、表情は緩まなかった。
全員が助かった。
それでも、事件が起きなかったことにはならない。
聖印盤が四人を苦しめたことも。
リリシアの治癒が、何度も周囲へ溢れかけたことも。
「患者の報告は受け取った。ここからは座って話そう」
フレデリックに改めて促され、オルフェは短く礼を述べた。
ようやく椅子へ腰を下ろす。
「対応者についても聞かせてもらえるかな」
「はい」
オルフェは報告書の該当部分を開いた。
「現場治癒責任者は、私が務めました。その上で、学園の特等枠から三名が対応に参加しています」
最初の名を読み上げる。
「アトカ・アッシュフォード」
「聖印盤から伸びる四本の治療経路を水によって可視化し、経路ごとの独立性を確認しました。術式書き換えの際には、治癒を遮断せず、患者へ入る直前の圧力だけを外側から均しています」
「リリシア君から漏れた治癒については」
「すべて、患者へ到達する前に保持しました」
オルフェは淡々と答える。
「患者の体内へ入った治癒には干渉していません。外部へ漏れたものだけを水で包み、患者や周囲へ定着しない状態で維持しています」
「適切な判断だったと思うかね」
「はい。強引に消していれば、リリシアの治癒経路を傷つけた可能性があります。患者へ流れていた治癒と干渉した危険もあったでしょう」
一度言葉を切る。
「彼がいなければ、今回の処置は成立していません」
フレデリックは小さく頷き、次の名を待った。
「エルマ・ガトランド」
「聖印盤の終了判定を解析しました。現在の聖印盤は、傷、疲労、痛み、身体変化のいずれかが一つでも残っていれば、治療継続へ戻る状態にありました」
「生きている限り、終わらない治癒だ」
「そのとおりです」
オルフェは報告書の図面を机へ広げる。
古い術式と、そこへ挿入された新しい分岐が描かれている。
「エルマ・ガトランドは、既存の終了判定を破壊せず、治療継続へ戻る手前へ、新しい確認分岐を挿入しました」
「どのようなものだね」
「今回接続された四患者を安全に解放するための、暫定的な判断手順です」
オルフェは図面の青い線を示す。
「患者の身体が、外部から治癒を与え続けなくても、自力で状態を維持、または回復へ移れること」
次の線へ指を移す。
「残っている症状について、治癒を継続するより、停止後の処置へ移る方が適切であること」
さらに次。
「患者本人の意思、または意思表示が困難な場合には、身体反応が治癒の継続を拒んでいること」
最後の分岐。
「担当治癒師が、この聖印盤による治癒を安全に終了できると判断していること」
フレデリックは図面を見つめる。
「一つの完全な身体を求めるのではなく、患者ごとに異なる終わりを認める仕組みか」
「はい。ただし、あくまで今回の四患者を解放するための暫定処置です。恒久的な運用へ転用するには、追加の検証が必要です」
「見事な判断だ」
オルフェは異論なく頷いた。
そして、最後の名へ進む。
「リリシア・クラウツ」
自分の妹の名だった。
口にしただけで、過去の記憶が蘇る。
白い光に満ちた屋敷。
苦しむ使用人たち。
泣きながら止めてと叫ぶ幼い妹。
その身体を押さえ、患者から引き離した自分。
オルフェは報告書へ目を落とした。
そこに記されているのは、過去ではない。
今回のリリシアが行ったことだった。
「患者四名の処置順を決定しました」
オルフェは読み上げる。
「外見上の症状ではなく、内部の危険度と悪化速度を基準に、フィーネ・アルヴェンを最初に選択。次に、現在の身体の均衡が失われつつあったユリウス・カルナー。複数の治癒が衝突していたハインツ・オルデン。最後に、当時の状態から一定時間の待機が可能と判断したエステル・ローデを診察しました」
「その順番に問題は」
「ありません」
即答だった。
「結果を知った上での評価ではありません。当時得られていた情報に基づいても、妥当な順番でした」
フレデリックは何も挟まず、続きを促す。
「リリシアは、各患者について、この聖印盤による治癒を終了できる状態を個別に判断しました」
フィーネは、症状がすべて消えることではなく、自力で休息へ入れること。
ユリウスは、古傷が消えることではなく、現在の身体の均衡が保たれること。
ハインツは、傷や老いがなくなることではなく、生きてきた現在の身体へ戻ること。
エステルは、痛みと腫れが消えることではなく、元の裂傷が塞がり、追加治癒が不要になること。
「リリシアの判断がなければ、エルマ・ガトランドは患者ごとの終了状態を、聖印盤へ登録できませんでした」
「治癒の漏出については」
フレデリックの問いに、オルフェは僅かに目を伏せた。
避けては通れない。
むしろ、そのために自分はここへ来た。
「複数回、治癒の漏出を確認しています」
オルフェは明確に答えた。
「特にハインツ・オルデンの診察時と、治癒終了時には、保管区画全体へ広がり得る規模まで出力が上がりました」
フレデリックの表情は変わらない。
「過去と同じだったかね」
オルフェは答える前に、あの場面を思い返した。
白い光に包まれたリリシア。
漏れる治癒。
アトカへ向けられた声。
右側を押さえてほしい。
左からも出ている。
まだ患者の声を聞けている。
必要なら止めてほしい。
幼い頃のリリシアは、ただ止まってと泣いていた。
今回は違った。
「力の性質は同じです」
オルフェは言った。
「感情へ反応し、本人の意思を越えて周囲へ広がる危険があります。それは現在も変わっていません」
「では、監査上、従来どおり彼女を患者から遠ざけるべき術者と評価するのかね」
執務室に静けさが落ちる。
窓の外から、遠く生徒たちの声が聞こえた。
オルフェは報告書を閉じる。
答えはすでに書いてある。
それでも、紙の記録だけへ任せず、自分の言葉で伝える必要があった。
「クラウツ家は、事故以降、リリシアを危険性の高い術者として扱ってきました」
「君も、その判断に従った」
「はい」
否定しない。
「患者を守るために必要だと考えました。今でも、当時の判断がすべて誤りだったとは思いません」
フレデリックは黙って聞いている。
「実際に傷ついた者がいました。善意だったから許されるものではありません。本人の意思ではなかったとしても、危険がなかったことにはできません」
オルフェは両手を膝の上で組んだ。
「ですが、私はこれまで、制御とは暴走を一度も起こさないことだと考えていました」
リリシアが少しでも光を漏らせば、過去と同じ。
患者から離すべき。
抑制するべき。
その考えは、患者を守るためのものだった。
同時に、リリシアが変わる可能性を見ることをやめる理由にもなっていた。
「今回の彼女は、治癒を漏らしました」
オルフェは続ける。
「一人では止められない場面もありました。アトカ・アッシュフォードの支援がなければ、患者へ治癒が届いていた可能性もあります」
事実を削らない。
それでも、その先がある。
「ですが、彼女は漏出を隠しませんでした。どこへ広がっているかを伝え、支援を求めました。患者の状態を見分けられなくなった時や、周囲の保持限界を越えた時には止めてほしいと、自分から私へ頼みました」
オルフェの声が僅かに低くなる。
「あの子は、暴走しなかったのではありません」
フレデリックの琥珀色の瞳が、まっすぐオルフェを見る。
「暴走しかけながら、患者の意思を見失わなかったのです」
治したい。
全部の傷を消したい。
その感情に力が反応しても、リリシアは患者へ尋ねた。
何を治してほしいのか。
今の身体へ戻りたいのか。
この聖印盤による治癒を終えてもよいのか。
自分の優しさを患者へ押しつけず、答えを受け取った。
「私は今回、それを制御だと判断します」
オルフェは報告書を開き、評価欄をフレデリックへ向けた。
以前なら、そこには監視対象と記しただろう。
単独治療禁止。
感情変動時の治癒使用禁止。
危険性あり。
今回、その欄に記した言葉は違う。
対応治癒師。
リリシア・クラウツ。
それは正式な資格認定ではない。
今回の事件でリリシアが担った役割を、危険性だけではなく、治療行為として記録するための言葉だった。
「危険性が残っていることは、報告書にも明記します」
オルフェは言う。
「ですが、その危険性だけで彼女のすべてを定義し、患者から遠ざける従来の評価は改めます。支援を組み込みながら治療判断を担える、一人の治癒師として再評価するよう、クラウツ家へ報告します」
フレデリックは記載された名を見つめる。
「兄としても、同じように認められたのかね」
オルフェは静かに首を横へ振った。
「分かりません」
偽らない答えだった。
「あの事故の後、私は患者を守る側へ立つことばかりを優先しました。それ自体は必要な判断でした。ですが、リリシアが一人になっていることを、見ようとしませんでした」
患者へ近づけない。
治癒を使わせない。
危険な時には押さえる。
必要な判断だった。
だが、その判断を受ける妹が何を感じていたのか、聞こうとはしなかった。
「兄として何を言えばよいのか、まだ分かりません。謝れば済むとも思いません。あの時の判断を、すべて否定することもできません」
一度言葉を切る。
「これは、治癒師としての評価です」
フレデリックは柔らかく頷いた。
「それでよいと思う」
オルフェが顔を上げる。
「無理に以前の兄妹へ戻ろうとすれば、かえって彼女の歩みを、君の都合へ合わせることになる」
フレデリックは報告書を閉じた。
「君が今日見た彼女を、今日の彼女として記録した。それだけでも、過去とは違う」
オルフェは返事をしなかった。
けれど、その言葉を否定もしなかった。
短い沈黙の後、フレデリックは別の頁を開く。
聖印盤の異常作動原因について記された部分だった。
「原因は不明、か」
「はい」
オルフェの表情が、治癒監査役のものへ戻る。
「終了判定が異常な状態にあったことは確認しました。しかし、いつ、どのように変化したのかは特定できません」
「経年劣化の可能性は」
「否定はできません。ただし、それだけでは説明しにくい不整合があります」
「人為的な改変かね」
「断定できる証拠はありません」
オルフェは慎重に答えた。
「起動時の記録にも欠落があります。ですが、退役後の管理記録自体が不完全です。記録の欠落と今回の異常に関係があるかも、現時点では判断できません」
フレデリックは、それ以上の推測を重ねなかった。
「聖印盤はどうする」
「再起動を防ぐ封印処置を施しました。クラウツ家としては、回収を求めます」
「学園内で事件が起きた以上、すぐに引き渡すことはできない」
「承知しています」
「学園長権限で、封印記録保管庫へ移す。クラウツ家からの調査員の立ち会いは認めよう」
オルフェは頷いた。
「そのように家へ報告します」
話すべきことは終わった。
オルフェは立ち上がる。
フレデリックも席を立ち、報告書を手元へ置いた。
「良い報告書だった」
「ありがとうございます」
「特に、評価欄がね」
オルフェの視線が、机上に記されたリリシアの名へ向かう。
自分が書いた文字だった。
それでも、見慣れないもののように感じられる。
これまで妹の名のそばへ記してきたのは、危険性と制限ばかりだった。
今回は違う。
何を恐れるべきかだけではない。
何を成し遂げたかが記されている。
「失礼いたします」
オルフェは一礼し、執務室を出た。
扉が静かに閉じる。
一人残ったフレデリックは、報告書をもう一度開いた。
患者四名。
全員生存。
聖印盤停止。
原因不明。
継続調査。
現場治癒責任者。
オルフェ・クラウツ。
そして、特等枠対応者三名。
アトカ・アッシュフォード。
エルマ・ガトランド。
リリシア・クラウツ。
窓から差し込む光が、その名を照らしている。
恐れられた少女としてではない。
強すぎる力を持つ特等枠としてだけでもない。
治癒が暴れようとする中で、患者の声を聞き、この聖印盤による治癒へ終わりを与えた者として。
報告書には、はっきりと記されていた。
対応治癒師――リリシア・クラウツ。
第四章「優しすぎる光の中で」は、アトカたちが旧聖療室の異常を追う中で、人を救うはずの優しさが誰かの選択を奪う危うさと、灰色の魔力の痕跡に触れる物語です。
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