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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
優しすぎる光の中で
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もう塞がっている傷

エステルの右手は、最初に見た時よりもさらに腫れていた。


掌の中央には、傷口だった細い線が残っている。


皮膚は完全に塞がっていた。


出血もない。


それでも聖印盤は、同じ場所へ治癒を送り続けている。


白い光が流れ込むたび、掌の内側で作られた組織が押し合い、指の付け根まで赤く膨らんだ。


エステルは右手を胸元へ抱え、浅く息を吐いた。


「指は動かせますか」


オルフェが尋ねる。


「少しなら」


エステルは親指を動かそうとした。


指先が僅かに持ち上がり、すぐに止まる。


「痛みは」


「握ろうとすると強くなります。何もしていなくても、内側から押されているような感じがします」


オルフェは腫れた掌へ診察の光を向けた。


直接は触れず、皮膚の下を細くなぞる。


「傷が開いている痛みではありません」


エルマが記録帳へ目を落とす。


「過剰に形成された組織が、指を動かす腱と血管を圧迫していますのね」


「ええ。このまま治癒が続けば、手の機能へ影響が残る可能性があります」


リリシアはエステルの右手を見つめた。


四人の中では、最も軽い傷だった。


元は掌を切っただけ。


それが今では、治癒によって指を動かせなくなりかけている。


傷が小さかったからといって、苦痛まで小さいわけではない。


待てる状態だったことと、待たせても平気だったことは違う。


「エステルさん」


リリシアは彼女の前へ膝をついた。


「最後まで待たせてしまいました」


「さっきも言いましたが、私は待てました」


「はい」


リリシアは否定しなかった。


「待てると判断しました。だから、フィーネさん、ユリウスさん、ハインツさんの順に診ました」


エステルは静かに聞いている。


「でも、痛くなかったわけではありません。私が順番を決めたことで、エステルさんはその間も治癒を受け続けました」


「それは、あなたのせいでは」


「聖印盤を動かしたのは私ではありません」


リリシアは言葉を選ぶ。


「それでも、順番を決めたのは私です。だから、待ってくれたことを当然にはしたくありません」


エステルの表情が僅かに緩んだ。


「分かりました」


右手を抱え直し、小さく笑う。


「では、あとで少しだけ文句を言わせてもらいます」


リリシアは目を瞬かせた。


「文句、ですか」


「痛かったです、と」


「はい」


リリシアも少しだけ笑った。


「ちゃんと聞きます」


張り詰めていた空気が、僅かに和らぐ。


アトカは二人の少し後ろで水膜を維持していた。


ハインツを診た時に受け止めた治癒は、すでに水の外へ残っていない。


それでもリリシアの感情が動けば、いつまた白い光が漏れるか分からない。


水は床へ薄く広がり、彼女と患者の周囲を静かに囲んでいた。


オルフェはエステルの状態を確認し終えると、一歩下がる。


「元の裂傷は完全に閉じています。現在の問題は、聖印盤によって追加された治癒です」


「止めた後は、どうなりますか」


エステルが尋ねた。


「すぐに腫れが消えるわけではありません」


オルフェは曖昧にしなかった。


「余分に作られた組織を減らし、圧迫された腱と血管を整える処置が必要です。回復まで時間もかかります」


「手は元どおりになりますか」


「今の段階なら、可能性は高いです。ただし断言はできません」


エステルは右手へ目を落とした。


傷はもう塞がっている。


それでも治療は終わらず、別の治療が必要になった。


「治してもらったのに、また治療を受けるんですね」


自嘲するような声だった。


リリシアの胸の奥が僅かに痛む。


「治してもらったからではありません」


エステルが顔を上げる。


「傷が塞がった後も、治癒が続いたからです」


リリシアは腫れた掌を見る。


「必要なところまでは、治療でした。そこから先は、身体を苦しめています」


「どこから先が余計なのか、分かるんですか」


「診てみないと分かりません」


リリシアは正直に答えた。


「でも、傷が残っているかどうかだけでは決められません。痛みがあるから、まだ治していいとも限りません」


エステルの痛みは、治癒不足から生まれているのではない。


治癒が続いているから生まれている。


痛みを消そうとしてさらに治癒を加えれば、もっと組織が増え、圧迫が強くなる。


助けようとするほど悪化する。


かつての自分の光と同じだった。


「診てもいいですか」


リリシアが尋ねる。


「右手へ触れます。嫌なら、触れずに診る方法を考えます」


エステルは少しだけ考えた。


白い光を漏らしたリリシアを、最初から見ている。


ハインツを診た時には、部屋を満たしかけるほど治癒が広がった。


怖くないはずはない。


それでもエステルは、右手を僅かに前へ出した。


「お願いします」


リリシアはすぐには触れない。


アトカを見る。


「今は、外へ出ていませんか」


「出ていません」


「もし出たら、教えてください」


「はい」


次にオルフェを見る。


兄は抑制印を手にしている。


「危険だと思ったら、止めてください」


「そのつもりです」


最後にエステルへ向き直る。


「触れます」


右手の手首側へ、そっと指を置いた。


腫れた掌の中心へ直接触れない。


それでも、接触した瞬間に内部の状態が流れ込んできた。


元の切り傷。


薄い金具で裂けた皮膚。


その下の筋肉。


傷はもうない。


切断されていた組織は繋がり、血管も閉じている。


身体はとっくに修復を終えていた。


だが、その上へ新しい治癒が何層も重ねられている。


皮膚を厚くしようとする流れ。


筋肉を増やそうとする流れ。


すでに繋がった血管の周囲を、さらに補強しようとする流れ。


聖印盤は、過剰治癒によって生まれた腫れと痛みまで、新しい損傷として拾っていた。


治す。


腫れる。


腫れを傷と判断する。


さらに治す。


自分で作った異常を、自分で治そうとしている。


終わりのない循環だった。


「聖印盤は、自分が作った症状まで治そうとしています」


リリシアが言った。


エルマの筆が動く。


「腫れと痛みを、新しい治療対象として追加していますのね」


「はい。治癒を続けるほど、終わる理由がなくなっています」


リリシアの掌へ、白い光が集まりかけた。


腫れを減らしたい。


痛みを消したい。


圧迫された指を動かせるようにしたい。


治すべき場所が、目の前に幾つもある。


けれど、そのすべてへ今すぐ治癒を加えてはいけない。


掌から漏れた白い光が、エステルの手へ向かおうとする。


「少し出ています」


アトカが告げる。


「右手の下です」


リリシアは自分の治癒を見る。


白い光は小さい。


ハインツの時ほど激しくない。


それでも患者へ向かっている。


「手の下だけ、押さえてください」


「はい」


透明な水が薄く持ち上がり、リリシアの掌とエステルの手の間へ沿う。


直接の接触は残したまま、外側へ漏れた治癒だけを包み込む。


オルフェが尋ねる。


「続けられますか」


「はい」


リリシアはエステルの中へ意識を戻す。


治すことではない。


今、何が起きているかを読む。


傷は塞がっている。


身体は追加の治癒を求めていない。


腫れと痛みは残っている。


だが、それらは治癒を続ける理由ではなく、治癒を止めなければならない理由だった。


「エステルさん」


「はい」


「今、傷があった場所は塞がっています」


リリシアはゆっくり伝える。


「痛みも腫れも残っています。でも、それを今ここで治癒し続けると、もっと悪くなります」


エステルは自分の右手を見る。


「では、この痛みがあるまま、治療を終えるんですか」


「はい」


答えることが怖くないわけではなかった。


苦しんでいる人へ、痛みが残ったまま終わると言う。


幼い頃の自分なら、絶対に選べなかった。


痛みがあるなら治さなければならない。


泣いているなら、もっと力を使わなければならない。


そう思って、光を止められなかった。


「治療を終えた後、別の処置が必要です」


リリシアは続ける。


「全部が終わるわけではありません。でも、この光を止めない限り、次の治療へ進めません」


エステルはしばらく黙った。


「止めたら、すぐ楽になりますか」


「すぐには、ならないと思います」


「それでも、止めた方がいい」


「はい」


エステルは目を閉じ、長く息を吐いた。


「分かりました」


もう一度目を開く。


「終わらせてください」


リリシアの胸の奥で、白い光が揺れる。


患者本人が、痛みを残したまま治療を終えることを選んだ。


リリシアはその意思を、自分の治したい感情より先に置く。


「エステルさんの治療完了は、傷が塞がり、追加の治癒が不要になった状態です」


エルマが記録する。


「痛みと腫れは残っています」


「はい。でも、それは今の治癒を続ける理由ではありません」


「治療終了後に必要な処置は」


「余分に形成された組織を減らすこと。圧迫された腱と血管を確認すること。身体が落ち着くまで、新しい治癒を重ねないことです」


オルフェが僅かに頷く。


「診断に異論はありません」


エルマは四人分の記録を並べた。


フィーネ。


ユリウス。


ハインツ。


エステル。


すべて異なる。


一つとして、傷が完全に消えた状態を治療完了にはしていない。


フィーネには疲労と頭痛が残る。


ユリウスには古傷が残る。


ハインツには傷跡と老いが残る。


エステルには過剰治癒による痛みと腫れが残る。


「共通点が見えましたわ」


エルマが言った。


リリシアはエステルからゆっくり手を離す。


掌の下に残った白い光が、水の中で小さく渦を巻いた。


「戻します」


自分の中へ言い聞かせる。


エステルの痛みは残っている。


それでも、今は治さない。


治さないことが、患者を見捨てることではない。


次へ進むために、ここで止める。


白い光は僅かに抵抗し、それから少しずつ薄くなった。


完全に消える。


アトカが水を床へ戻した。


「外には残っていません」


「ありがとうございます」


リリシアは立ち上がった。


足元が少し揺れる。


アトカが一歩だけ近づきかけ、途中で止まる。


「座りますか」


「大丈夫です」


リリシアは自分の身体を確かめる。


「少し疲れました。でも、まだ立てます」


オルフェが彼女の顔色を見る。


「無理だと思った時点で申告してください」


「はい」


以前なら、兄の言葉を監視だと感じたかもしれない。


今も完全に違う意味へ変わったわけではない。


それでも、患者だけでなく自分の状態も伝える必要があることを、リリシアは理解し始めていた。


エルマは四枚の記録を聖印盤の前へ並べる。


「終了条件の原型を作りますわ」


記録帳へ、新しい文章を書き始める。


「現在の聖印盤は、損傷や変化が一つも残っていない状態を求めています」


「そんな状態はありません」


リリシアが言う。


「ええ。ですから、条件そのものを変えます」


エルマは一つ目を書いた。


患者の身体が、外部から治癒を与え続けなくても、自力で状態を維持できること。


二つ目。


残っている症状について、治癒の継続より停止後の処置が適切であること。


三つ目。


患者本人が、現在の治療を続けることを望んでいないこと。


四つ目。


担当治癒師が、追加治癒は不要、または危険であると判断していること。


「この四つを満たした時、治療完了として受け入れさせます」


オルフェが文章を見る。


「本人の希望だけで終了させるのではないのですね」


「当然ですわ。患者が治療を止めたいと言っても、止めれば直ちに命へ関わる状態なら、そのまま終了条件にはできません」


「治癒師の判断だけでもない」


「患者が何を望むかを無視して、完全な身体を押しつければ、今の聖印盤と同じですもの」


リリシアは四つの条件を見つめた。


患者の身体。


今後の処置。


本人の意思。


治癒師の判断。


どれか一つだけではない。


治療を終えることは、治癒師が一方的に宣言するものではなかった。


「書き換えることはできますか」


アトカが尋ねる。


エルマは聖印盤を見た。


「やります」


断言した。


「ただし、表面へ新しい命令を加えるだけでは足りませんわ。終了印を受け入れた後、治療継続へ戻す判断部分を書き換える必要があります」


杖の先で、盤面の中心を示す。


「ここは四つの経路すべてへ繋がっています。一つでも誤れば、四人全員の流れが乱れる可能性があります」


保管区画の空気が重くなる。


四人分の答えは揃った。


それでも、まだ誰一人として光から解放されていない。


エルマが術式を書き換えるまで、治癒は続く。


「何が必要ですか」


リリシアが尋ねる。


「クラウツ家の管理印を開く者」


エルマはオルフェを見る。


「患者ごとの治療完了状態を保持し、聖印盤へ渡す者」


今度はリリシアを見る。


「四本の経路が書き換えの揺れを患者へ伝えないよう、外側から支える者」


アトカを見る。


三人が必要だった。


誰か一人ではできない。


「わたくしが終了条件を書き換えます」


エルマは四人分の記録を閉じる。


「次で、この治療を終わらせますわ」


聖印盤が低く脈打った。


四本の白い光は、何も知らないまま患者へ治癒を送り続けている。

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