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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
優しすぎる光の中で
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生きてきた形

ハインツの身体に浮かぶ白い線は、先ほどよりも増えていた。


右の脇腹。左肩。胸元。両膝。


背中の一部にも、服越しに細い光が滲んでいる。


それぞれが同じ間隔で明滅しているわけではない。


左肩の光が強くなると、右脇腹の流れが弱まる。


胸元の傷跡へ治癒が集まった直後、両膝へ別の光が流れ込む。


一つの身体の中で、複数の治療が互いに場所を奪い合っていた。


ハインツは仰向けになったまま、浅い呼吸を繰り返している。


目は開いていた。


意識もある。


だが、身体の内側で何が起きているのか、自分でも分からないようだった。


「ハインツさん」


オルフェが傍らへ膝をつく。


「聞こえますか」


「聞こえて……おります」


掠れた声だった。


「痛みが強い場所を教えてください」


ハインツは答えようとした。


その瞬間、左肩が強く光る。


古い傷跡の周囲が引き攣り、左腕が僅かに浮いた。


「肩が……いえ、今は胸です」


胸元の手術痕へ治癒が移る。


呼吸に合わせて広がるはずの胸が、内側から押し返されるように止まった。


次には、右膝の骨が小さく鳴った。


ハインツの顔が歪む。


「次々と変わるんです。昔痛めた場所が、全部……」


リリシアは少し離れた場所から、光の流れを見ていた。


傷が多い。


それだけではなかった。


一つ一つが、異なる時期の身体を基準にしている。


左肩は、二十年以上前に負傷する前の形へ戻ろうとしている。


胸元の治療痕は、手術を受ける前の身体を探している。


膝は若い頃の骨格を参照し、加齢によって変化した現在の関節を異常と見なしていた。


すべてを治そうとしている。


しかし、すべてを治せば同じ身体になるわけではない。


それぞれが別の過去へ、ハインツの身体を引き戻そうとしている。


「兄さん」


リリシアが呼ぶ。


「胸元の流れと左肩の流れが、繋がっていません」


オルフェは診察の光を二か所へ伸ばした。


「別々の身体情報を参照しているようです」


「一つずつ止められませんか」


「終了印は受け付けない。外側から流量だけを落とせば、聖印盤が不足と判断して補います」


エルマも聖印盤を確認する。


「四人の治療経路は独立していますが、一人の患者の中では、さらに幾つもの修復指示へ枝分かれしていますわ」


記録帳の新しい頁へ、ハインツの身体を簡略化して描く。


左肩。胸。右脇腹。両膝。


それぞれから、別の過去へ向かう線を引いた。


「これを一つの正常状態へ戻すことはできません」


「戻す先がありませんから」


リリシアが答える。


ハインツは六十二年間、生きてきた。


怪我をした。


治療を受けた。


傷を残した。


年齢とともに身体の使い方も変わった。


そのすべてを取り除いた先に、現在のハインツがいるわけではない。


むしろ、それらが重なった結果として今の身体がある。


リリシアはハインツの近くへ進んだ。


胸の奥で、小さな光が揺れる。


先ほどユリウスを診た時よりも強い反応だった。


目の前には、治癒が必要だと訴える場所が幾つもある。


自分の力が、それらすべてへ手を伸ばそうとしている。


アトカが水膜を足元へ寄せた。


何も言わない。


ただ、いつでも漏れた治癒を受け止められるようにしている。


オルフェは抑制印を手にしたまま、リリシアを見る。


「今の状態で診られますか」


「怖いです」


リリシアは正直に答えた。


「でも、診ないと終わらせる場所が分かりません」


オルフェはハインツへ顔を向ける。


「彼女が触れれば、別の治癒が漏れる可能性があります」


ハインツは苦しそうに息を吐く。


「先ほどから……聞いておりました」


「断っても構いません」


「分かっています」


ハインツはゆっくりと首を動かし、リリシアを見る。


白い光に照らされた顔には、痛みと疲労が浮かんでいた。


それでも、目を逸らさなかった。


「お願いします」


リリシアはすぐに手を伸ばさなかった。


「どこへ触れてもいいですか」


ハインツは少し考える。


「右手を」


胸や肩ではなく、まだ強い治癒が集中していない場所だった。


「分かりました」


リリシアは右手の横へ膝をつく。


指先を近づける。


触れる直前、ハインツが小さく頷いた。


その合図を確認してから、手の甲へそっと触れた。


瞬間、無数の痛みが押し寄せた。


左肩を切り裂かれたような痛み。


胸元を開かれた記憶。


右脇腹の奥に残る鈍い疼き。


膝が体重を支えきれなかった感覚。


古い魔力路が裂けた時の冷たさ。


今この場で起きている痛みだけではない。


ハインツの身体に残る治療の記録を、聖印盤が一つ残らず呼び起こしている。


治さなければ。


傷がある。


ここにも。


あそこにも。


全部、治せる。


リリシアの内側で、白い光が膨れた。


手の甲へ触れている右手からではない。


背中から光が溢れ、肩の周囲へ広がる。


足元からも白い筋が走った。


「出ています」


アトカの声がする。


「後ろと、左側です」


「押さえてください」


リリシアはすぐに答えた。


アトカの水が背後へ立ち上がる。


白い光が透明な水へぶつかり、細かな波となって広がった。


だが、勢いは止まらない。


次の光がリリシアの胸元から滲む。


水膜の内側が、瞬く間に白く染まっていく。


「流量が上がっています」


エルマが聖印盤とリリシアを交互に見る。


「聖印盤も反応していますわ」


中央の円盤が強く脈打った。


リリシアの治癒へ呼応するように、ハインツへ伸びる光が太くなる。


ハインツの身体が跳ねた。


「リリシア」


オルフェの抑制印が光る。


「手を離しなさい」


リリシアの指が強張った。


離さなければならない。


このままでは、自分の治癒までハインツへ流れ込む。


分かっている。


それでも、まだ何も聞けていない。


痛みだけを見ている。


どの傷を治したいのか。


何を残したいのか。


患者本人の言葉を、まだ聞いていない。


「待ってください」


「出力が上がっています」


「まだ、聞けていません」


「聞く前に患者を傷つければ意味がない」


オルフェの声が強くなる。


抑制印の光が一段明るくなった。


リリシアは、自分の周囲へ広がる白い光を見る。


過去と同じだった。


部屋を満たそうとする治癒。


苦しむ人を見て、全部治さなければと膨らむ力。


止めようとするほど、怖くなる。


怖くなるほど、光が強くなる。


呼吸が速くなった。


視界の端が白く霞む。


「リリシアさん」


アトカの声が届く。


近くには来ない。


触れもしない。


水の向こうから、ただ名前を呼んでいる。


「僕はまだ押さえられます」


リリシアはアトカを見る。


透明な水膜が何層にも重なっている。


白い光を消してはいない。


患者へ向かわないよう、外側だけで受け止めている。


「でも、増えたら言います」


アトカは続けた。


「今は、話せますか」


話せる。


まだ、患者の声を聞ける。


リリシアは自分の治癒を見ないようにするのではなく、その存在を感じたまま、ハインツへ目を戻した。


「ハインツさん」


声が震える。


「どこを、治してほしいですか」


ハインツは苦痛に顔を歪めている。


左肩。胸。膝。


幾つもの場所が、白い光に引かれている。


「全部……治した方が、いいのでしょうか」


問い返す声だった。


リリシアの胸が痛んだ。


患者自身も、何を選ぶべきか分からない。


治癒師に問われれば、治せるものは治した方がよいと思ってしまう。


昔の傷が消える。


痛みがなくなる。


若い頃の身体へ戻れる。


それは、良いことのように聞こえる。


「治せるかどうかではなくて」


リリシアは言葉を探す。


「今の身体から、なくしてほしいものを教えてください」


ハインツは目を閉じた。


長い沈黙だった。


その間にも治癒は流れ続ける。


やがて、掠れた声が返ってきた。


「今の、この痛みです」


「今の痛み」


「昔の傷を、消してほしいわけではありません」


ハインツは息を整えながら続けた。


「左肩は、若い頃に魔物に襲われた時の傷です。治りきらなかったおかげで、無理な持ち上げ方をしなくなった」


次に、胸元の手術痕へ視線を向ける。


「そこは病を取ってもらった痕です。残っていることを、失敗だとは思っておりません」


右脇腹。膝。


一つずつ思い出すように話す。


「この身体で働きました。結婚もしました。子どもを抱きました。走れなくなってからは、歩く速さを覚えました」


聖印盤は、それらを傷として見ている。


消すべきもの。


治療の途中に残されたもの。


けれど、ハインツにとっては違った。


「戻りたい時がないわけではありません」


ハインツは小さく笑った。


「若い身体が嫌だということでもない。ただ、今ここで、勝手に戻されたいとは思いません」


リリシアの中で、治癒の向きが揺れた。


左肩を治せ。


胸の痕を消せ。


膝を若い形へ戻せ。


そう訴えていた力へ、一つずつ別の意味が与えられていく。


左肩は、現在の動きを支えている。


胸元の痕は、治療が終わった証だった。


膝の変化は、長い年月の中で身体全体へ馴染んでいる。


老いは、傷ではない。


リリシアは、心の中で一つずつ治療対象から外していった。


左肩は治さない。


胸の痕も消さない。


膝を若い形へ戻さない。


過去へ向かおうとしていた自分の治癒へ、今は必要ないと伝える。


白い光は、すぐには従わなかった。


背後の水膜へ何度も押し寄せる。


それでも、先ほどまでのように際限なく膨らみ続けることはなかった。


「流量が下がっています」


アトカが言った。


リリシアは呼吸を一つ深くする。


「もう少しだけ、お願いします」


「はい」


ハインツの手を取ったまま、現在の身体を読む。


複数の傷は残っている。


だが、そのすべてが今も壊れているわけではない。


現在の苦痛を生んでいるのは、過去の傷そのものではなかった。


聖印盤が複数の過去へ身体を引き戻そうとしていること。


異なる治癒が衝突していること。


それが、今止めるべきものだった。


「ハインツさんの治療完了は、傷が全部なくなった状態ではありません」


リリシアが言う。


エルマの筆が動き出す。


「現在の骨格と筋肉の均衡が戻ること。過去の治療痕を、それ以上変えないこと。年齢による変化を損傷として扱わないこと」


「魔力路はどうですの」


「古い損傷は残っています。でも、今の流れで身体を保てています。繋ぎ直す必要はありません」


「現在の苦痛については」


「聖印盤の治癒を止めた後、衝突した流れだけを整える必要があります。今ここで全部治そうとすると、もっと崩れます」


エルマは一つずつ記録する。


「患者自身の希望は」


リリシアはハインツを見る。


「今の痛みを止めてほしい。過去の傷や老いを消すことは望んでいません」


「記録しましたわ」


リリシアはゆっくり手を離した。


接触が切れる。


掌には、まだ白い光が残っていた。


アトカの水の中にも、外へ漏れた治癒が渦を巻いている。


「戻せますか」


オルフェが尋ねる。


抑制印はまだ消していない。


リリシアは頷いた。


「やります」


治したいという気持ちは消えていない。


ハインツの傷を見れば、力が反応する。


今でも、全部をなくせば楽になるのではないかと思う。


けれど、それは自分が見て安心できる身体だ。


患者が望む身体とは限らない。


「今は、必要ありません」


リリシアは自分の光へ言い聞かせた。


「この人は、もうこの傷と一緒に生きています」


白い光が僅かに収縮する。


「今、苦しませているものだけを止めます」


水の中の渦が小さくなる。


最後まで残った光が、リリシアの指先へ戻っていく。


完全に消えた時、アトカが水膜を少し薄くした。


「外には残っていません」


リリシアは肩で息をする。


額には汗が滲んでいた。


それでも、倒れなかった。


オルフェはハインツの状態を診る。


リリシアの治癒が患者へ流れ込んでいないこと。


聖印盤の流れ以外に、新しい治療経路が作られていないこと。


現在の身体の均衡が保たれていること。


確認を終え、抑制印を下ろした。


「問題ありません」


ハインツが長く息を吐く。


痛みは消えていない。


光もまだ身体へ流れ続けている。


それでも、自分の身体を勝手に過去へ戻されないと知ったことで、表情から僅かに力が抜けた。


「ありがとうございます」


リリシアは首を横に振る。


「まだ、終わっていません」


「それでも、聞いてもらえました」


その言葉に、リリシアは何も返せなかった。


オルフェは妹を見ていた。


治癒は暴走しかけた。


過去と同じ規模へ広がる兆候もあった。


自力だけで完全に押さえ込めたわけではない。


アトカの水がなければ、周囲へ流れていた。


それでも、リリシアは患者の声を聞くことをやめなかった。


力を止めるために患者から目を逸らすのではなく、患者が望まない治癒を一つずつ自分の中から外していった。


「兄さん」


リリシアが呼ぶ。


「はい」


「さっき、止める準備をしてくれていましたよね」


「必要なら止めていました」


「ありがとうございます」


オルフェの表情が僅かに動く。


礼を言われるとは思っていなかった。


「嫌ではないのですか」


リリシアが尋ねる。


「私を止めることが」


過去、兄は自分を押さえつける側にいた。


患者から遠ざける側にいた。


リリシアにとって、その記憶は今も痛い。


オルフェはすぐには答えなかった。


「嫌かどうかで決めることではありません」


治癒師としての答えだった。


「患者を守るために必要なら止めます。あなたを守るためにも、必要なら止めます」


リリシアは兄を見る。


オルフェは視線を逸らさなかった。


「ただし、今回は止める前に戻りました」


それだけ言い、ハインツの診察へ戻る。


褒めたわけではない。


許したわけでもない。


それでも、過去と同じではなかったことを、兄は認めていた。


エルマが記録帳を閉じる。


「これで三人分ですわ」


フィーネ。


ユリウス。


ハインツ。


三人それぞれの治療終了状態が揃った。


残るのは、右手を抱えたエステルだけだった。


エステルは痛みに耐えながらも、静かにこちらを見ている。


「私で最後ですね」


「はい」


リリシアは答えた。


「待たせてしまって、ごめんなさい」


エステルは小さく首を横に振る。


「順番を決めた理由は、聞いていました」


右手を胸元へ抱え直す。


「私の傷は、もう塞がっています。ほかの方より待てると思っていました」


リリシアはその言葉を聞きながら、腫れ上がった掌を見る。


傷は塞がっている。


それでも痛みは残っている。


治癒によって作られた痛みが。


「次に診ます」


リリシアは言った。


「軽いから最後にしたわけではありません。今の状態なら待てると判断したからです」


自分が決めた順番だった。


誰かへ責任を渡さない。


その判断が正しかったかどうかも、最後まで自分で確かめる。


エステルは頷いた。


リリシアは一度だけ深く息を吸う。


指先には、もう白い光は滲んでいなかった。

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