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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
優しすぎる光の中で
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傷のある身体 

「次は、ユリウスさんを診ます」


リリシアの言葉に、オルフェはすぐには答えなかった。


白い光の中で、戦技科の少年が左膝を押さえている。


聖印盤から伸びた治癒は、膝の周囲へ何度も入り込み、骨と筋肉を負傷前の形へ戻そうとしていた。


「理由は」


オルフェが改めて尋ねる。


「聖印盤が治そうとしているものと、ユリウスさんが残したいものが同じ場所にあるからです」


リリシアはユリウスを見る。


「フィーネさんの魔力路は、休ませるべきなのに動かされ続けています。ユリウスさんの膝は、今の形そのものを壊されようとしている」


「ハインツさんより先に診る理由にはなっていますか」


部屋の奥では、ハインツの身体に浮かんだ古傷が明滅している。


見た目の苦痛はユリウスより激しい。


リリシアは一度そちらを確認してから答えた。


「ハインツさんの治癒は、まだ一定です。ユリウスさんの膝は、負傷前の形と今の形を行き来するたび、支え方が変わっています」


ユリウスの左膝へ白い光が流れ込む。


僅かに伸びていた足が引きつり、膝が内側へ沈んだ。


少年の呼吸が止まる。


「このまま何度も作り替えられたら、今の形にも、昔の形にも戻れなくなります」


オルフェは膝の周囲へ診察の光を流した。


言葉を挟まず、骨と腱の動きを確かめる。


やがて立ち上がった。


「判断は妥当です」


それは許可ではなかった。


オルフェはユリウスへ向き直る。


「先に、私が詳しく診ます」


「お願いします」


ユリウスの声は掠れていた。


オルフェは膝へ触れる前に、手袋を外した。


「制服の上から触れます。構いませんか」


「はい」


許可を得てから、膝の外側へ指を置く。


銀色の診察光が、布越しに内部へ沈んでいった。


リリシアは少し離れた場所から、その流れを見る。


オルフェの治癒は細い。


患者の身体へ余計な変化を与えず、必要な部分だけをなぞっていく。


自分の光とは違う。


自分の治癒は、傷を見つけると一度に包もうとする。


痛みが強いほど。


苦しそうであるほど。


もっと広く、もっと深く入り込もうとする。


「三年前の負傷について、詳しく聞かせてください」


オルフェが言った。


ユリウスは痛みに耐えながら答える。


「模擬戦で、左足を地面につけたまま身体を捻りました。膝の内側を壊して、骨にもひびが入った」


「当時の治療は」


「骨と腱は繋いでもらいました。ただ、前と同じ角度までは戻らなかった」


「再治療は勧められませんでしたか」


「勧められました」


「受けなかった理由は」


ユリウスは少しだけ顔を上げた。


「再治療をすれば、半年以上まともに歩けないと言われました。五年生になるまでに、戦えるようになりたかった」


オルフェの指が止まる。


「時間を優先したのですね」


「最初は」


ユリウスは息を吐いた。


「でも、今は違う」


白い光が膝へ流れ込んだ。


内部の筋肉が引かれ、足先が僅かに外へ向く。


ユリウスは歯を食いしばりながら続けた。


「この膝で立つ方法を覚えた。重心を置く場所も、踏み込む角度も、全部作り直した」


「負傷前の形へ戻れば、それを失う」


「それだけじゃない」


ユリウスは自分の左膝を見る。


「今の足で勝った試合もある。負けた試合もある。訓練して、癖を直して、それでも直らないところに合わせて動きを変えた」


声には強がりだけではないものがあった。


「これは、治せなかった足じゃない。俺が使えるようにした足です」


保管区画が静かになる。


聖印盤の脈動だけが、低く響いていた。


オルフェは診察の光を引いた。


「現在の膝に急性の損傷はありません」


エルマが記録帳へ書き込む。


「では、聖印盤が参照しているのは三年前の負傷前ですのね」


「そう見えます」


「患者本人が現在の状態を維持したいと望んでも、考慮されない」


「この聖印盤は、本人の希望を判断条件に含める構造ではありません」


オルフェの答えは淡々としていた。


リリシアは兄を見る。


「兄さんは、どう思いますか」


「何についてです」


「ユリウスさんの膝を、負傷前へ戻すことについてです」


オルフェはすぐに答えなかった。


ユリウスの膝。


聖印盤。


そしてリリシアを順に見る。


「治療だけを考えるなら、古傷を修復できる機会を捨てる理由はありません」


ユリウスの眉が動く。


オルフェは続けた。


「現在の膝に適応していても、負担が消えたわけではない。年齢を重ねれば、別の場所へ影響が出る可能性もあります」


「それは分かっています」


「完全に修復できるなら、将来の危険を減らせるかもしれない」


ユリウスは黙った。


オルフェは患者の希望を無視しているわけではない。


今の身体を残すことにも、将来の負担がある。


治癒師として、その危険を口にしている。


「ただし」


オルフェが言葉を継ぐ。


「現在の聖印盤が行っているものは、治療とは呼べません」


ユリウスが顔を上げる。


「本人への説明も、同意もない。負傷前の形を正確に再現できる保証もない。今ある均衡を壊しながら、過去の記録だけを押しつけている」


リリシアは兄の横顔を見つめた。


「治せる可能性があることと、今ここで治してよいことは別です」


オルフェはユリウスへ向き直る。


「聖印盤を停止した後、改めて診察を受けることを勧めます。その上で、今の身体を維持するか、再治療を受けるかを選んでください」


ユリウスはしばらく黙り、それから頷いた。


「それなら、受けます」


「今は、あなたの現在の身体を治療完了の基準とします」


その言葉を聞いた瞬間、リリシアの胸の中で何かがほどけた。


兄は、傷を残すことを無条件に正しいとは言わなかった。


完全に治すことを悪いとも言わなかった。


選ぶための説明をして、今は本人が望む状態を守ろうとしている。


リリシアはユリウスの前へ進んだ。


近づくほど、膝へ流れ込む治癒の感覚が強くなる。


曲がったものを戻そうとする力。


繋ぎ直そうとする力。


過去に記録された形へ、身体を引き寄せる力。


それらが光の中で重なっている。


「ユリウスさん」


リリシアは膝をついた。


「私も、左膝の状態を診ていいですか」


ユリウスはリリシアの顔を見る。


先ほど、彼女の周囲へ治癒が漏れ出したことを見ている。


怖くないはずはなかった。


リリシアは返事を急かさなかった。


「私の治癒は、感情が強くなると外へ漏れることがあります」


自分から告げる。


「アトカ君が外へ出た治癒を押さえ、オルフェさんが危険だと判断した時は止めます。それでも、触れられたくなければ断ってください」


ユリウスはアトカを見る。


床には透明な水膜が広がり、リリシアの周囲を囲んでいる。


次にオルフェを見る。


兄は抑制印を使える位置に立っている。


最後に、リリシアへ目を戻した。


「診てください」


「ありがとうございます」


リリシアは右手を伸ばす。


すぐには触れない。


ユリウスが足を僅かに動かし、受け入れる姿勢を示したことを確認してから、制服越しに膝へ手を置いた。


痛みが流れ込んだ。


骨の内側を何度も擦られるような痛み。


筋肉が自分の知る位置から引き剥がされる感覚。


立ち方を忘れさせられる恐怖。


リリシアの呼吸が止まる。


治さなければ。


その思いが浮かんだ瞬間、掌に白い光が集まった。


ユリウスの膝へ向かおうとする。


同時に、足元からも光が滲んだ。


先ほどより速い。


白い流れが床を這い、右側へ広がる。


「アトカ君」


リリシアは目を閉じなかった。


自分の治癒がどこへ向かうか見ながら、はっきり告げる。


「右側へ広がります。床と、ユリウスさんの足の外側を押さえてください」


「はい」


アトカの水が動いた。


床を這う白い光を包み、ユリウスの足へ向かう流れとの間へ薄い水の層を差し込む。


治癒が透明な水の内側で揺れた。


「掌にも集まっています」


「分かりました」


アトカは膝へ触れているリリシアの手には水を重ねなかった。


患者の身体へ入っていない外側の治癒だけを、水滴で包んでいく。


オルフェの抑制印が淡く光る。


「まだ続けられますか」


兄の声が届く。


リリシアは、自分の呼吸を確かめた。


怖い。


光が強くなるかもしれない。


けれど、どこへ漏れているか分かっている。


アトカへ伝えられている。


「続けられます」


「患者の状態を聞けていますか」


その問いに、リリシアは意識をユリウスの膝へ戻した。


治したいという自分の感情ではない。


目の前の身体が、今どうなっているのか。


聖印盤は三年前の形を押しつけている。


けれど、現在の膝は孤立していない。


僅かに狭い可動域へ合わせ、太腿の外側の筋肉が強く発達している。


足首は膝の不足を補う角度で動く。


腰の魔力の流れも、左足へ体重を移す時だけ僅かに変わる。


一か所だけを見れば、負傷前とは異なる。


身体全体を見れば、今の形で繋がっている。


「傷は残っています」


リリシアが言った。


ユリウスの表情が僅かに強張る。


「でも、傷だけが残っているんじゃありません」


膝を支える筋肉。


重心を受け渡す足首。


負担を逃がす腰。


三年間で作り上げられた動きが、今の膝を中心に一つの身体を形作っている。


「ユリウスさんの身体は、もうこの膝で立つ方法を知っています」


白い治癒が掌で脈打つ。


古い形へ戻せと迫る。


リリシアは、その力を患者へ加えなかった。


「負傷前と違うからといって、治療の途中ではありません」


エルマが記録帳へ書き込む。


「現在の均衡を完了状態として記録しますわ。リリシアさん、具体的に読み上げてください」


リリシアは目を閉じず、一つずつ答えた。


「左膝の可動域は、右より狭いです。内側の腱は少し短いままです」


「続けてくださいませ」


「太腿の外側と足首が、その不足を補っています。腰から左足へ流れる魔力も、今の角度に合わせて変わっています」


エルマの筆が紙を走る。


「その状態を壊さなければ、自力で立てますか」


「立てます」


「歩行と戦闘動作は」


「今の均衡なら可能です。聖印盤が負傷前へ戻そうとすると、全部の繋がりが崩れます」


「記録しましたわ」


エルマは盤面のユリウスに対応する紋様へ目を向けた。


「この情報を、患者個別の終了条件へ変換します」


治療を止めることは、まだできない。


それでも、何を守るべきかは見つかった。


リリシアはゆっくり手を離した。


接触が切れると、掌へ集まっていた光が水の中へ流れた。


アトカはその動きに合わせ、外側へ漏れた治癒を小さな水球へまとめる。


「全部、患者さんの外にあります」


「はい」


リリシアは胸元へ手を寄せる。


「戻します」


白い光はすぐには従わなかった。


水の中で膨らみ、もう一度ユリウスへ向かおうとする。


リリシアは力で押し潰そうとしなかった。


治すべき傷ではない。


今は必要とされていない。


自分へそう言い聞かせる。


光は少しずつ薄れ、最後には水の中から消えた。


アトカが水球をほどく。


透明な水滴が床へ戻った。


「終わりました」


リリシアが言う。


オルフェはユリウスの膝をもう一度診た。


リリシアの治癒が内部へ加わっていないこと。


聖印盤以外の新しい流れが残っていないこと。


現在の均衡が崩れていないこと。


すべてを確認してから頷く。


「問題ありません」


ユリウスが壁へ背を預けたまま、息を吐く。


「今の足を、治っていないと言われなかったのは初めてです」


リリシアは僅かに目を見開いた。


「これまでは、言われていたんですか」


「再治療を受ければ、もっと良くなる。昔のように動けるようになる。そう言われることはありました」


ユリウスは左膝へ目を落とす。


「悪気がないことは分かってる。でも、昔のように動く方法なんて、もう覚えていない」


リリシアは返す言葉を探した。


アトカが廊下で話したことを思い出す。


戻るべき腕の形を知らない。


今の義手も、空の左側も、自分の身体だという言葉。


「治療を受けるかどうかは、これから決めていいと思います」


リリシアは言った。


「今の身体を残すことも。違う形を目指すことも。説明を聞いた後で、ユリウスさんが決めていいことです」


ユリウスは小さく笑った。


「そうします」


オルフェは二人の会話を黙って聞いていた。


リリシアの治癒は、今回も漏れた。


完全に制御できたわけではない。


アトカがいなければ、患者へ余計な治癒が届いていた可能性がある。


それでもリリシアは、漏出を隠さなかった。


どの方向へ広がるかを伝えた。


支援を受けながら患者の状態を読み、治す必要がないものへ治癒を加えずに戻した。


過去と同じ力だった。


だが、過去と同じ対応ではなかった。


「次は、誰を診ますか」


オルフェが尋ねた。


リリシアはエステルとハインツを見る。


掌の傷が塞がっているエステル。


何十年分もの傷が同時に光るハインツ。


エステルは、自分の苦痛を押し隠すように右手を抱えていた。


ハインツは呼吸を乱しながらも、まだ意識を保っている。


「ハインツさんです」


リリシアは答えた。


「理由は」


「さっきより、治癒の流れ同士がぶつかる間隔が短くなっています」


ハインツの左肩と胸元で、異なる白い光が同時に脈打つ。


「まだ一定ではあります。でも、このまま待たせれば、一つずつ診ることができなくなるかもしれません」


オルフェはハインツを確認する。


少しの沈黙の後、頷いた。


「私も同じ判断です」


リリシアはその言葉を受け止める。


兄に認められたことを喜ぶ余裕はなかった。


次に待つのは、ユリウスよりも遥かに多くの傷を抱えた患者だった。


一つの身体の中に、治癒が求める過去の形が幾つも重なっている。


リリシアの指先へ、まだ消えきらない白い光が僅かに滲んだ。


彼女はそれを隠さず、アトカへ見せた。


「少し残っています」


「見えています」


アトカが答える。


「次も、外へ出たら教えます」


「はい。僕も見ています」


リリシアは頷き、ハインツのもとへ歩き始めた。

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