止まってくれなかった光
保管区画の白い光は、少しも弱まっていなかった。
フィーネの状態を読み終えた後も、聖印盤は一定の間隔で治癒を送り続けている。
少女の呼吸は浅い。
それでも、先ほどより乱れは小さくなっていた。
オルフェがフィーネの傍らへ膝をつき、細い治癒の光を首元へ流している。
壊れた場所を治しているのではない。
外から押し込まれる治癒に合わせ、魔力路が急激に動かないよう均しているだけだった。
「これで、しばらくは保ちます」
オルフェが告げる。
「眠らせることはできませんか」
リリシアが尋ねた。
「聖印盤が意識の低下を異常と判断する可能性があります。今は状態を変えない方がいい」
「……分かりました」
リリシアはフィーネから目を離せなかった。
少女は苦しんでいる。
休ませるべきだと分かっている。
それなのに、自分には光を止めることができない。
エルマが盤面の紋様を書き写しながら顔を上げた。
「解析には時間が必要ですわ。特に終了から治療継続へ戻る部分は、幾つもの術式が重なっています」
「どのくらいかかりますか」
「まだ断言できません。ですが、患者ごとの終了状態が揃わなければ、書き換える内容も決まりませんわ」
リリシアは残る三人を見る。
ユリウス。
ハインツ。
エステル。
次に誰を診るか決めなければならない。
フィーネのように、見た目からは分からない危険が隠れているかもしれない。
一人を選んでいる間も、ほかの患者への治癒は続く。
胸の内側が締めつけられた。
助けなければならない。
早くしなければならない。
その焦りへ応えるように、リリシアの指先へ白い光が滲んだ。
「リリシアさん」
アトカの声が届く。
床へ広がっていた水膜が、彼女の周囲で僅かに盛り上がる。
漏れた光が水へ触れ、小さな白い渦を作った。
リリシアは慌てて両手を握る。
「ごめんなさい」
「謝らなくて大丈夫です。今は、外へ少し出ただけです」
外へ少し出ただけ。
その言葉が、胸へ重く落ちた。
少しで済んだのは、アトカが見ていたからだ。
一人だったら。
誰にも気づかれなかったら。
また、あの日のようになっていたかもしれない。
「一度、外へ出た方がいい」
オルフェが言った。
「でも、まだ次の人を」
「今の状態で診察を始める方が危険です」
反論できなかった。
リリシアは俯き、保管区画の出口へ向かう。
扉を抜ける直前、フィーネが小さく身じろぎした。
その音だけで、足元の光が強まりかける。
リリシアは逃げるように廊下へ出た。
扉が閉じる。
白い光が細い隙間の向こうへ遠ざかる。
廊下には簡易封鎖が敷かれ、少し離れた場所で職員たちが待機していた。
リリシアは人の少ない壁際まで歩き、長椅子へ腰を下ろした。
両手を膝の上へ置く。
指はまだ震えている。
治癒を使ったわけではない。
使おうと決めたわけでもない。
患者が苦しむ姿を見た。
助けたいと思った。
ただ、それだけだった。
それだけで、自分の力は外へ出ようとした。
「私、何もしていないのに」
声が漏れた。
誰へ向けた言葉でもなかった。
「何もしていないのに、また……」
少し離れた場所で、足音が止まった。
アトカだった。
保管区画の中へ残した水の一部を維持しているためか、普段より呼吸が浅い。
それでも、すぐ隣には座らなかった。
長椅子一つ分ほど距離を空け、壁へ背を預ける。
「ここにいてもいいですか」
リリシアは少し驚き、それから頷いた。
「はい」
アトカは座った。
何があったのか、すぐには尋ねなかった。
励ます言葉も口にしない。
ただ、廊下の向こうから漏れる白い光を、リリシアと一緒に見ていた。
その沈黙が、リリシアには苦しくなかった。
しばらくして、彼女は自分から口を開いた。
「兄さんの言っていることは、間違っていません」
アトカは黙って聞いている。
「私は昔、人を傷つけました」
膝の上で指を組む。
白い光は消えている。
けれど、その手の奥に、いつでも溢れ出せるものがあるように感じた。
「治そうとした人だけじゃありません。その場にいた人たちも、巻き込みました」
記憶の中で、何かが床へ落ちた。
硬い音。
割れる音。
誰かの悲鳴。
それはクラウツ家の屋敷で起きた。
リリシアがまだ幼く、治癒の意味も、自分の力の大きさも理解していなかった頃だった。
その日、屋敷の使用人たちは、物置から治療器具を運び出していた。
木箱へ収められた古い金具。
薬草を乾燥させるための棚。
使われなくなった小型の治療台。
リリシアは廊下の端に立ち、その様子を見ていた。
自分にも何か手伝えると思っていた。
けれど、大人たちは危ないから離れているようにと笑った。
次の瞬間だった。
積み上げられていた器具の一部が崩れた。
金属製の支柱が倒れ、若い女性使用人の肩と腕を押し潰した。
悲鳴が屋敷に響いた。
床へ血が広がった。
リリシアは考えるより先に駆け寄っていた。
「大丈夫です。今、治します」
そう言ったと思う。
本当に大丈夫だと思っていた。
自分には治癒がある。
傷を塞ぐことができる。
痛みを消すことができる。
誰かを助けられる。
使用人の腕へ両手を伸ばした。
光が生まれた。
最初は、掌に収まるほどの小さな光だった。
裂けた皮膚が塞がる。
流れていた血が止まる。
折れた骨が繋がろうとする。
そこまでは、リリシアが望んだとおりだった。
だが、使用人は泣き続けていた。
突然押し潰された恐怖。
繋がり始めた骨の痛み。
周囲で上がる悲鳴。
誰かが大人の治癒師を呼んでいた。
誰かがリリシアを止めようとしていた。
声が重なった。
血の匂いがした。
使用人が、怖いと叫んだ。
助けなければ。
もっと早く。
もっと強く。
この人が泣かなくなるまで。
リリシアの胸に生まれた焦りが、制御する前に膨れ上がった。
白い光が弾けた。
掌からではない。
肩から。
胸から。
背中から。
身体の中に押し込められていたものが、皮膚を通り抜けて噴き出した。
部屋が白く染まった。
負傷した使用人だけではなかった。
駆け寄っていた者。
器具を動かそうとしていた者。
廊下から様子を見ていた者。
光は、部屋にいた全員へ伸びた。
人の身体に残る小さな傷を探した。
古い切り傷。
火傷の痕。
仕事で痛めた腰。
昔折った足。
眠れていない身体の疲労。
本人たちが治してほしいと望んでいないものまで、リリシアの治癒は勝手に見つけ出した。
負傷した使用人の腕では、繋がったばかりの骨へさらに治癒が重なった。
筋肉が膨らむ。
皮膚の内側で新しい組織が押し合う。
使用人の悲鳴がさらに大きくなった。
別の使用人が足を押さえて倒れた。
古傷へ治癒が集中し、長年かけて馴染んでいた骨格が急に変わろうとしていた。
胸を押さえて苦しむ者もいた。
疲労していた身体へ強制的に活力を送り込まれ、呼吸が乱れていた。
リリシアは止めようとした。
「やめて」
自分の手を握った。
目を閉じた。
治癒を使わないと、何度も心の中で繰り返した。
それでも光は止まらなかった。
周囲の悲鳴が増えるほど、リリシアは怖くなった。
怖くなるほど、もっと助けなければと思った。
助けたいと願うほど、治癒が強くなった。
「止まって」
誰へ頼んでいるのかも分からなかった。
自分の力へ。
泣いている人たちへ。
恐怖で動かない自分の身体へ。
「お願いだから、止まって」
光は答えなかった。
オルフェが駆け込んできた。
今より幼い顔。
それでも、治癒師としての印を手にしていた。
兄は部屋の状況を一目で見て、リリシアへ近づこうとした。
その身体にも治癒が向かった。
右手の小さな切り傷。
訓練で痛めていた肩。
リリシアの光は、兄の身体にあるものまで勝手に治そうとした。
オルフェは顔を歪めながら、床へ抑制印を置いた。
続いて到着した治癒師たちが、部屋を囲むように印を重ねた。
一つ。
二つ。
三つ。
白い光が押し戻される。
それでもリリシアの身体から溢れ続ける。
最後には、オルフェが彼女を抱えるように押さえ込み、治癒師たちが全方向から光を封じた。
リリシアは兄の腕の中で泣いていた。
止めてほしかった。
助けてほしかった。
けれど、周囲にいた人々の目は、彼女を助けるべき子どもとして見ていなかった。
何をするか分からないもの。
近づけば身体を勝手に作り替えられるもの。
恐ろしいものを見る目だった。
事故の後、負傷した使用人は長い再治療を受けた。
過剰に作られた組織を減らし、歪んだ骨と筋肉を整え直さなければならなかった。
周囲で治癒を浴びた者たちも、それぞれ処置を受けた。
屋敷の中では、リリシアが通ると人が道を譲るようになった。
以前は笑いかけてくれた使用人が、目を合わせなくなった。
誰かが怪我をしても、リリシアには知らせなくなった。
クラウツ家は、彼女が一人で患者へ近づくことを禁じた。
必ず監視をつけること。
感情が不安定な時には治癒を使わせないこと。
暴走の兆候があれば、本人の意思にかかわらず抑制すること。
オルフェは、その判断へ反対しなかった。
事故に巻き込まれた者たちの再治療を手伝い、妹を患者から遠ざける側に立った。
回想を語り終えた時、リリシアは自分の指を強く握りしめていた。
「私は、治しすぎたんじゃありません」
廊下へ落ちた声は、ひどく小さかった。
「治癒が、私の言うことを聞かなかったんです」
アトカはすぐには答えなかった。
リリシアも、慰めてほしくて話したわけではない。
怖くないと言われても、信じることはできなかった。
実際に危険だった。
今も危険だった。
少し前にも、患者を見ただけで光が漏れた。
「今日も、出ました」
リリシアは続ける。
「フィーネさんを見て、苦しそうだと思ったら、勝手に広がりました。昔と何も変わっていないのかもしれません」
「同じだったら」
アトカが静かに言った。
リリシアは顔を上げる。
「同じだったら、僕に押さえてほしいとは言わなかったと思います」
「それは、アトカ君がいてくれたからです」
「はい」
否定しなかった。
「僕がいたから、頼めたんですよね」
リリシアは言葉に詰まる。
「それなら、一人で止められなくても、前と同じではないと思います」
「でも、アトカ君がいなかったら」
「いない時に同じことが起きたら、どうするかは考えないといけません」
優しいだけの答えではなかった。
危険は残っている。
誰かがそばにいなければ制御できないなら、そのままでよいとは言えない。
アトカは、それを曖昧にしなかった。
それでも、現在のリリシアまで過去と同じだとは決めつけなかった。
「僕も、義手に違和感があったら、一人で直そうとしないように言われています」
アトカは右の義手へ目を落とす。
「自分では大丈夫だと思っても、すぐに相談します。僕の義手だから、自分だけで何とかしないといけないとは思いません」
「それとは違います」
「違います」
また、すぐに認める。
「リリシアさんの治癒は、人を傷つけるかもしれません。僕の義手は、同じようには広がりません」
アトカは空の左袖を僅かに揺らした。
「でも、自分の身体や力のことを、全部一人で扱わなくてもいいところは、少し似ていると思います」
リリシアはその言葉を胸の中で繰り返した。
全部一人で扱わなくてもいい。
昔の自分は、助けを求めることすらできなかった。
止めてと叫んではいた。
けれど、それは光が止まることを願っただけだった。
誰に何をしてほしいのか、伝えられなかった。
今日は違った。
右側へ流れていると伝えた。
押さえてほしいと頼んだ。
オルフェにも、必要なら止めてほしいと自分から言った。
それだけで危険が消えるわけではない。
それでも、何も変わっていないわけでもなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがてアトカが、自分の左袖を見る。
「さっき、ユリウスさんが言っていました」
「今の膝で動く方法を覚えた、と」
「はい」
アトカは頷く。
「僕には、生まれる前の腕がどんなものだったのか分かりません」
リリシアは黙って聞く。
「右の義手も、左に何もないことも、今の僕の形です。治してあげると言われても、何に戻すのか、僕には分かりません」
治癒師として、リリシアは傷を見つけることを教えられてきた。
本来あるべき形を知り、そこへ戻す。
欠けたものを補い、壊れたものを繋ぐ。
それが治癒だと思っていた。
けれど、アトカには戻るべき腕の記憶がない。
ユリウスは、古傷を含んだ膝で歩く方法を身につけている。
その身体を、治癒師が勝手に不完全だと決めてよいのか。
アトカは答えを言わなかった。
ユリウスをどう診るべきかも、治癒とは何かも語らない。
ただ、自分の身体について話しただけだった。
だからこそ、その言葉はリリシアの中へ残った。
保管区画の扉が開く。
エルマが顔を出した。
「リリシアさん。戻れますか」
リリシアは自分の手を見る。
震えは、完全には消えていない。
怖さも残っている。
それでも、次に診るべき相手は決まっていた。
「戻ります」
立ち上がる。
アトカも続いて腰を上げた。
リリシアは一歩進み、途中で振り返る。
「アトカ君」
「はい」
「さっき、一緒にいてくれて、ありがとうございました」
アトカは穏やかに笑った。
「僕も、話してくれて嬉しかったです」
二人は並んで保管区画へ戻る。
扉の向こうでは、今も白い光が四人へ流れ続けている。
リリシアは最初にフィーネの状態を確認した。
オルフェの調整によって、魔力路はまだ保たれている。
次に、左膝を押さえるユリウスを見る。
傷が残っている身体。
それでも本人が、自分のものとして使い続けてきた身体。
リリシアはオルフェとエルマへ向き直った。
「次は、ユリウスさんを診ます」
「理由は」
オルフェが尋ねる。
リリシアは、まっすぐ兄を見る。
「聖印盤が治そうとしているものと、ユリウスさんが残したいものが、同じ場所にあるからです」
白い光の中で、オルフェは妹の答えを聞いた。




