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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
優しすぎる光の中で
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終われない治療

「もう、休めるところまで戻っています。それなのに聖印盤が、休ませてくれないんです」


リリシアの言葉へ応えるように、聖印盤の紋様が白く明滅した。


フィーネへ伸びる光は止まらない。


細い帯となって腕から胸元へ入り、休もうとする魔力路を何度も起こし続けている。


エルマは聖印盤の前へ膝をついたまま、盤面の変化を見逃さなかった。


「今、反応しましたわ」


「止まってはいません」


リリシアはフィーネの手を包んだまま答える。


「私の判断は、届いたと思います。でも、受け入れてもらえなかった」


オルフェが近づく。


「一度、手を離しなさい」


リリシアはフィーネの指先を見る。


先ほどより震えは小さい。


自分の治癒が漏れたことで、さらに苦しませてはいない。


それを確認してから、ゆっくり手を離した。


接触が切れる。


同時に、リリシアの周囲へ滲んでいた白い光も少しずつ弱まった。


アトカは水膜を崩さず、残った治癒の魔力が完全に収まるまで待つ。


水の中で揺れていた白い光が薄くなり、最後には小さな粒となって消えた。


「もう外へ出ていません」


アトカが告げる。


リリシアは胸元で両手を握った。


「ありがとうございます」


オルフェはフィーネの手首へ指をかざす。


リリシアが触れる前と比べ、魔力路の状態が悪化していないことを確認する。


「余分な治癒は入っていません」


その声には安堵も称賛もなかった。


ただ、診察結果だけがあった。


それでもリリシアは、小さく息を吐いた。


エルマが盤面へ顔を近づける。


聖印盤の表面には、四つの大きな紋様が均等に配置されていた。


中心から伸びた線がそれぞれの紋様を通り、床へ流れ、四人の患者へ繋がっている。


フィーネに対応する紋様だけが、先ほどから僅かに揺れていた。


「リリシアさんが治療終了を判断した時、ここへ信号が返りましたわ」


エルマは杖の先で、紋様の外周を示す。


「ですが、終了へ進まず、同じ位置へ戻っています」


「戻っている?」


アトカが尋ねる。


「ええ。治療を終えるための手順へ進みかけて、その直後に治療継続へ戻されているように見えます」


エルマは記録帳を開き、盤面の紋様を書き写す。


古い術式は、現在の学園で使われている魔導具ほど整理されていなかった。


一つの線に複数の意味が重ねられ、治癒師の感覚によって補われることを前提としている。


同じ紋様が、治療対象の確認と、治癒量の調整と、終了判断の受け入れを兼ねていた。


「ずいぶん不親切な構造ですわね」


エルマが呟く。


オルフェが答える。


「古い聖印盤は、術式だけで完結するように作られていません。扱う治癒師が患者を診て、足りない部分を感覚で補うものです」


「つまり、説明書の半分が使用者の頭の中にあるようなものですわ」


「否定はしません」


エルマは不満そうに眉を寄せた。


「その使用者がいなくなった後に保管するなら、せめて補足記録を残すべきでしたわね」


「クラウツ家の記録には残っているはずです」


「今ここにはありません」


オルフェは返さなかった。


エルマもそれ以上は追及せず、解析へ戻る。


アトカは床へ流した水を、四本の光の帯へ沿わせた。


透明な水が光を包み、内部を流れる魔力の濃淡を映し出す。


フィーネへ向かう流れ。


エステルへ向かう流れ。


ユリウスへ向かう流れ。


ハインツへ向かう流れ。


四本は中央で繋がっているように見える。


だが、水へ映った動きは別々だった。


フィーネの経路が脈打っても、ほかの三本は変化しない。


ハインツへ流れる治癒が一時的に乱れても、エステルとユリウスへの流量は一定のままだった。


「別々に動いています」


アトカが言う。


エルマが水面を見る。


「四人へ分けた一つの治癒ではありませんわね」


「はい。入口は同じです。でも、途中から四つに分かれて、それぞれ別のものとして動いています」


オルフェも水の流れを確認する。


「四つの治療経路が独立している」


「一人の状態が変わっても、ほかの三人には影響しませんわ」


エルマは記録帳へ書き加えた。


「少なくとも、単純な分配式ではありません。一人を外したからといって、残る三人への出力が上がる構造ではない」


リリシアは四人を見る。


それは救いでもあり、別の難しさでもあった。


誰か一人を解放したことで、ほかの患者を悪化させる心配はない。


けれど、四人の治療はそれぞれ別に終わらせなければならない。


一つの答えを見つければ全員が助かるわけではない。


「終了も、四人分必要なんですね」


「おそらく」


エルマが頷く。


オルフェは聖印盤の前へ進み、胸元の銀印へ触れた。


「正規の終了印を試します」


「さきほど職員が接続を外そうとして、出力が上がったと聞きました」


アトカが言う。


「接続を切るのではありません」


オルフェは盤面の外周へ右手をかざす。


「クラウツ家の治癒師が、治療終了を承認するための印です。正常なら、患者の状態を確認した後、この印で経路を閉じます」


リリシアが僅かに身を固くする。


その動きを、オルフェは見なかった。


銀印から細い光が伸びる。


盤面の紋様が一つずつ点灯し、オルフェの指先へ応えた。


聖印盤は彼を、クラウツ家の治癒師として認識している。


「フィーネ・アルヴェン」


オルフェは患者の名を告げる。


「魔力路に損傷なし。外部治癒の継続は不要。休止状態への移行を治療完了と認定する」


リリシアが息を止める。


先ほど自分が見つけた答えと同じだった。


オルフェの指が、フィーネへ対応する紋様へ触れる。


「治療終了」


銀色の光が盤面へ沈んだ。


フィーネへ伸びる白い帯が、一瞬だけ細くなる。


少女の肩から力が抜けた。


終わる。


誰もがそう思った。


次の瞬間、聖印盤の中心が強く光った。


細くなった帯へ、再び治癒が流れ込む。


先ほどより強くはない。


だが、完全に元の太さへ戻った。


フィーネの呼吸がまた浅くなる。


「受け付けませんでしたわ」


エルマが盤面へ目を走らせる。


「いえ。一度は受け付けています。その後で、別の条件によって否定された」


オルフェは銀印を下ろさない。


もう一度、フィーネの状態を読む。


「損傷はありません」


「それでも盤は、治療未完了と判断しています」


リリシアは光の帯を見る。


「フィーネさんの中に、まだ何かを見つけている」


「疲労ですわ」


エルマが言った。


「頭痛、吐き気、魔力路の乱れ。治癒を止めれば残る症状を、すべて未治療と判断しているのではありませんか」


オルフェの表情が僅かに険しくなる。


「疲労が消えるまで治癒を続けるようには設計されていません」


「本来は、でしょう」


エルマは外周の紋様を指で追う。


「現在の聖印盤は、患者に残る変化をすべて損傷として拾っている可能性がありますわ」


「確認します」


オルフェは今度はエステルの前へ移動した。


腫れた右手を診る。


元の切り傷は完全に塞がっている。


指の動きが悪いのは、治癒不足ではなく、過剰に形成された組織による圧迫だった。


「エステル・ローデ。掌部裂傷は閉鎖。追加治癒不要」


再び銀印を使う。


一瞬だけ光が弱まる。


だが、掌の腫れが残っていることを理由にするように、聖印盤は治療継続へ戻った。


次はユリウス。


オルフェは左膝を診た。


現在の骨格に新しい損傷はない。


それでも聖印盤は、三年前の負傷前と異なる形を治療未完了と判断した。


終了印は拒否された。


最後にハインツ。


複数の古傷と治療痕を抱えた身体では、終了手順へ進む反応すら起きなかった。


聖印盤は、治すべきものがあまりに多いと判断している。


四人すべての確認を終え、オルフェは銀印を下ろした。


「正規の終了手順では止められません」


保管区画に白い光の音だけが残る。


小さな震動。


一定の脈動。


治療を続けることだけを目的にした、意思のない優しさだった。


「終了印が壊れているのですか」


アトカが尋ねる。


「完全に壊れているなら、先ほど一瞬だけ出力が下がった説明がつきませんわ」


エルマは盤面の一部を示した。


「終了印は動いています。問題はその後です」


記録帳へ、二つの流れを書き込む。


治療完了。


終了確認。


その先から線が分かれ、一方は停止へ、もう一方は治療継続へ繋がっている。


「本来なら、担当治癒師が完了と判断すれば停止へ進むはずです」


エルマは治療継続へ戻る線を指した。


「ですが今は、患者に何らかの変化が残っている限り、こちらへ戻される」


「何らかの変化とは」


リリシアが尋ねる。


「今見た限りでは、傷跡、疲労、痛み、腫れ、過去の負傷、身体の形の違いですわ」


エルマはハインツを見る。


「おそらく、加齢による変化まで含まれています」


「そんな条件では、誰も治療を終えられません」


「そのとおりです」


生きている身体は、何一つ変化のない完全な形では存在しない。


昨日の疲労が残る。


昔の傷がある。


年齢とともに筋肉や骨格が変わる。


治療を受けた痕も、身体が自分で治した痕も残る。


それらをすべて損傷と見なすなら、治癒は永遠に終わらない。


「書き換えられますか」


オルフェが尋ねる。


エルマはすぐには答えなかった。


盤面へ近づき、幾重にも重なった紋様を一つずつ確認する。


「可能かどうかを判断するには、もう少し時間が必要ですわ」


「時間はどの程度ありますか」


「それを決めるのは、わたくしではありません」


エルマは四人の患者を見る。


「患者の状態を診る方が必要です」


オルフェが頷く。


「私が担当します」


リリシアの指が動いた。


「兄さん一人で、四人を?」


「必要なら順番に診ます」


「フィーネさんの状態は、私の方が先に気づきました」


オルフェが振り返る。


リリシアは一度怯み、それでも続けた。


「兄さんの診察が間違っていたとは言いません。でも、聖印盤の治癒は私の力に近いです。どこへ入ろうとしているのか、私には分かります」


「だからこそ危険です」


「分かっています」


「本当に分かっているなら、先ほどの状態で患者へ触れようとはしない」


「触れたから、フィーネさんが休める状態だと分かりました」


「アトカ君が抑えていなければ、あなたの治癒は四人へ流れていました」


リリシアは言葉を失う。


オルフェの指摘は正しい。


フィーネを診られたことも事実。


自分の治癒が広がりかけたことも事実だった。


どちらかだけを選んで、自分を正当化することはできない。


アトカは二人の間へ割り込まなかった。


代わりに、水の中へ残る白い粒を見ながら口を開く。


「リリシアさんの治癒は危険でした」


リリシアがアトカを見る。


「僕が抑えなければ、患者さんへ届いていました」


オルフェも黙って聞いている。


「でも、リリシアさんは外へ出たことを隠しませんでした。僕に押さえてほしいと頼みました。フィーネさんへ余計な治癒も入れていません」


アトカはオルフェへ顔を向ける。


「危険だったことと、診察が必要だったことは、両方だと思います」


オルフェの青緑色の瞳が細くなる。


「だから、また危険を許せと?」


「許すかどうかを、僕が決めることではありません」


アトカは静かに答えた。


「でも、危険だから何もしないのではなく、危険になった時に止められるようにして診る方法はあると思います」


エルマが記録帳を閉じた。


「患者ごとの終了条件を決めるには、聖印盤が何を治そうとしているかを正確に読む必要がありますわ」


オルフェを見る。


「あなた一人で可能なら、それでも構いません」


続いてリリシアを見る。


「ですが、フィーネさんの異常を先に見抜いたのはリリシアさんです」


オルフェは四人へ目を向けた。


エステルの右手。


ユリウスの左膝。


フィーネの魔力路。


ハインツの古傷。


一人として同じ治療状態ではない。


正規終了印が通じない以上、誰をどの状態へ戻すべきか、一つずつ判断しなければならない。


「条件を設けます」


オルフェが言った。


リリシアが顔を上げる。


「患者へ触れる前に、必ず本人の許可を取ること」


「はい」


「治癒が漏れた時点で申告すること。隠して続けない」


「はい」


「アトカ君が保持できる範囲を超えた場合、私が診察を中止します」


リリシアの指が僅かに強張る。


それでも頷いた。


「分かりました」


「私が止めろと言った時は、患者から手を離してください」


今度は、返事まで少し時間がかかった。


過去、自分の治癒を止めるために大人たちから引き離された記憶が、胸の奥へ触れた。


それでも、目の前にいるのは過去の使用人ではない。


今も治癒され続けている四人の患者だった。


「止まります」


リリシアは答えた。


オルフェは妹の顔をしばらく見つめる。


「なら、診察への参加を認めます」


許されたという喜びはなかった。


代わりに、重い責任が胸へ落ちる。


四人のうち、フィーネの状態はすでに読んだ。


残る三人を誰から診るか。


何を治療完了と判断するか。


エルマが終了条件を書き換えられるまで、治癒そのものを止めることはできない。


リリシアは三人の患者を見た。


最も強く光っているハインツ。


左膝を押さえ続けるユリウス。


腫れた掌を胸元へ抱えるエステル。


誰もが苦しんでいる。


誰もが、自分よりほかの者を先にしてほしいと口にするかもしれない。


それでも、順番を決めなければならない。


治癒師として。


リリシアはゆっくり息を吸った。


その胸の奥で、まだ小さな光が揺れていた。


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