最初に診る人
「リリシアを、患者から離してください」
オルフェの言葉が、白い光の中へ落ちた。
リリシアの指先から滲んでいた治癒が、僅かに揺れる。
アトカは水膜を保ったまま、彼女と四人の患者の間へ視線を走らせた。
漏れ出した治癒は、まだ水の内側で留まっている。
患者には届いていない。
「今の治癒は、患者へ流していません」
アトカが答える。
オルフェはアトカを見る。
「あなたが止めているからです」
否定ではなかった。
事実を確認するだけの声だった。
「あなたが制御を外せば、あの治癒は四人へ向かう。違いますか」
アトカは水の中で揺れる白い光を見る。
「違いません」
リリシアの肩が下がった。
庇ってもらえなかったからではない。
アトカが嘘をつかなかったことを、彼女自身が一番よく分かっていた。
リリシアの治癒は、患者へ向かおうとしていた。
自分の意思とは関係なく。
オルフェはそれ以上追及せず、四人の患者へ目を向けた。
「まず診察します。全員、聖印盤からの接続は維持したままです。身体を動かさないでください」
白い治癒師装束の裾を整え、右手の手袋を外す。
胸元の銀印へ指を触れると、淡い光が指先へ集まった。
リリシアの治癒とは違う。
小さく、細く、必要な場所だけを照らす光だった。
オルフェは最初に、右手を抱えている女性職員の前へ膝をついた。
「名前を」
「エステル……エステル・ローデです」
声は震えているが、意識は明瞭だった。
「右手を見せてもらえますか」
エステルが頷く。
オルフェは返事を確認してから、掌を包んでいる左手を外させた。
右の掌には、切り傷があったはずの細い線だけが残っている。
出血はない。
傷口も開いていない。
それにもかかわらず、掌から手首までが赤く腫れていた。
皮膚の下で、新しい組織が作られては押し合っている。
「元の傷は塞がっています」
オルフェはエステルの指を一本ずつ動かした。
「今の痛みは、傷ではありません。治癒によって内側から圧迫されている痛みです」
「止められますか」
「止めます。ただし、今すぐ光を切ることはできません」
エステルの顔に不安が浮かぶ。
オルフェはそれを誤魔化さなかった。
「無理に切れば、さらに強い治癒が流れ込む可能性があります。安全な方法を探します。それまでは、手を動かさないでください」
「分かりました」
次に、壁へ背を預けている戦技科の生徒へ向かう。
少年は額に汗を滲ませながら、左膝を両手で押さえていた。
「ユリウス・カルナー。戦技科五年です」
尋ねられる前に名乗る。
オルフェは左膝の周囲へ目を落とした。
制服の上からでも、内部の骨と筋肉が不自然に動いていることが分かる。
「以前、ここを負傷していますね」
「三年前に。訓練で膝を壊しました」
「完全には元へ戻っていない」
ユリウスの眉が動く。
「不自由はありません」
「否定しているわけではありません。聖印盤が何を見ているか確認しています」
オルフェは膝へ直接触れず、周囲へ指をかざした。
白い光が細く伸び、内部の魔力の流れをなぞる。
「聖印盤は、現在の膝を治療後の状態として認識していません。負傷前の形へ戻そうとしています」
「それは困る」
ユリウスは即座に答えた。
「今の膝で動く方法を覚えた。勝手に変えられたら、立てなくなる」
オルフェは一度だけ彼を見る。
「その意思は記録します」
ユリウスから離れ、部屋の奥へ進む。
ハインツ・オルデンと名乗った年配の職員は、仰向けに倒れていた。
呼吸は深い。
しかし身体の至るところで、古い傷が白く浮かび上がっている。
右の脇腹。左肩。両膝。胸元の手術痕。
一つが明るくなるたび、別の場所の筋肉が引き攣る。
見た目だけなら、四人の中で最も苦しそうだった。
リリシアの足が、無意識に前へ出かける。
アトカの水膜が揺れた。
彼女はそれに気づき、足を止める。
オルフェはハインツの呼吸と瞳孔を確認し、胸元へ手をかざした。
「傷が多すぎる」
エルマが聖印盤の前から顔を上げる。
「それぞれ別の時期のものですわね」
「ええ。古い骨折、裂傷、魔力路の損傷、手術痕。それに加齢による変化まで、すべて治療対象として拾われています」
「危険な状態ですか」
リリシアが尋ねた。
オルフェは彼女を見ずに答える。
「危険です。ただし、今すぐ一つの経路が破綻する兆候はありません。複数の治癒が衝突していますが、流量は一定です」
最後に、魔導科の制服を着た少女のもとへ移る。
少女は床へ横向きに倒れ、目を強く閉じていた。
耳を塞ごうとした両手は途中で力を失い、頬の横へ落ちている。
「聞こえますか」
オルフェが声を落とす。
少女の瞼が僅かに動いた。
「名前を言えますか」
唇が開く。
「フィー……ネ」
途切れた声だった。
「フィーネ・アルヴェン。魔導科三年生ですね」
少女は小さく頷いた。
白い光が腕から胸元へ流れ込むたび、身体が細かく震える。
外傷は見えない。
それでも四人の中で、彼女だけは光が入るたびに呼吸の間隔が変わっていた。
リリシアはじっとフィーネを見つめる。
光が胸元へ入る。
短い呼吸。
次に首の後ろへ流れる。
指先が震える。
さらに光が強まる。
閉じた瞼の下で、目が激しく動く。
「魔力路が休めていません」
リリシアが言った。
オルフェが振り返る。
「何が見えました」
「治癒が流れるたびに、胸から首へ魔力が上がっています。身体は止めようとしているのに、聖印盤がまた動かしている」
オルフェはフィーネの額へ指先を近づける。
直接は触れない。
薄い診察の光を流し、返ってくる反応を読む。
その表情が僅かに変わった。
「強制活性です」
エルマが立ち上がる。
「外傷ではなく、魔力疲労を損傷として拾ったのですか」
「おそらく」
オルフェはフィーネの手首へ目を落とす。
「本来なら眠らせるべき魔力路を、治癒によって動かし続けている。このまま続けば、自力で流れを止められなくなる可能性があります」
リリシアはハインツを見る。
身体中の古傷が光っている。
次にフィーネを見る。
外見上は、ハインツほど激しい変化がない。
だが、内部では魔力路が休むことを許されていない。
「最初は、フィーネさんです」
リリシアが言った。
部屋にいた全員の視線が集まる。
オルフェは立ち上がった。
「理由を」
「ハインツさんは複数の治癒が衝突しています。でも流れは一定です。フィーネさんは、一度流れ込むたびに魔力路の止まり方が弱くなっています」
リリシアは少女の浅い呼吸を見る。
「先に状態を読まないと、自分で休む力を失います」
「私も同じ判断です」
オルフェは淡々と答えた。
リリシアが僅かに目を見開く。
兄から同意を得られるとは思っていなかった。
「ただし、あなたは触れません」
短い安堵は、すぐに消えた。
「触れなければ、深いところまで分かりません」
「私が診ます」
「兄さんの治癒は、整えるための治癒です。私の方が、流れ込んでいる力に近い」
オルフェの目が細くなる。
リリシアは怯みながらも、目を逸らさなかった。
「聖印盤が何を治そうとしているのか、私ならもっと近くで読めます」
「その代わり、聖印盤もあなたを読みます」
「分かっています」
「分かっていません」
声が僅かに強くなった。
それでも怒鳴り声ではない。
オルフェは一度息を整え、言葉を選び直した。
「先ほど、患者を見ただけで治癒が漏れました。接触すれば、共鳴はさらに強くなる可能性があります」
リリシアの指先に、また白い光が滲む。
兄の言葉が恐怖を呼び、その恐怖へ治癒が反応した。
アトカが水膜を少し厚くする。
オルフェはそれを見た。
「これが理由です」
リリシアは自分の手を見つめる。
光は弱い。
だが、確かに外へ出ている。
「それでも」
リリシアは指を握った。
「フィーネさんの中にある流れを、見つけないといけません」
「危険を冒す理由にはなりません」
「私が危険だから、患者さんを診ないという理由にもなりません」
オルフェの表情が止まった。
リリシア自身も、言った後で息を詰める。
兄へ逆らいたかったわけではない。
自分が安全だと証明したいわけでもない。
目の前で苦しむ少女へ、必要なことをしたかった。
エルマが二人の間へ声を入れる。
「条件を決めましょう」
聖印盤の前に戻りながら、盤面へ指を置く。
「リリシアさんが接触する間、アトカさんが外へ漏れた治癒を保持します。オルフェさんは共鳴が一定以上に強まった場合、即座に接触を解除する。わたくしは聖印盤側の出力変化を記録します」
「接触を解除すれば、安全機構が働く可能性があります」
オルフェが言う。
「患者と聖印盤の接続ではありません。リリシアさんと患者の接触です。手を離すだけなら、聖印盤の経路は残ります」
「リリシアの治癒が患者の内部へ入った後では遅い」
「ですから、治癒を送り込む前に止めます」
エルマはリリシアを見る。
「できますか」
リリシアはすぐには答えなかった。
できると断言するのは、嘘になる。
自分の治癒が意思を聞かないことを、誰より理解している。
「一人では、分かりません」
リリシアはアトカを見る。
「アトカ君」
「はい」
「外へ出たら、教えてください。自分で気づけないかもしれません」
「分かりました」
次にオルフェを見る。
「兄さんも、止める必要があると思ったら止めてください」
オルフェは妹の顔を見つめた。
過去のリリシアなら、止められることを拒んだわけではない。
ただ、暴走の最中に助けを求める余裕さえなかった。
今は自分から、止めてほしいと言っている。
「条件を守るなら、許可します」
「ありがとうございます」
リリシアはフィーネの前へ膝をついた。
白い光が床を流れ、少女の身体へ入り続けている。
近くで見ると、フィーネの唇は乾き、閉じた瞼の端には涙が溜まっていた。
「フィーネさん」
声をできるだけ柔らかくする。
「今から、手に触れてもいいですか」
少女はすぐには反応しなかった。
リリシアは待つ。
返事がないまま触れることはしない。
しばらくして、床へ落ちていたフィーネの指先が僅かに動いた。
リリシアの方へ伸びる。
言葉にはならない。
それでも、拒絶ではなかった。
リリシアはオルフェを見る。
オルフェも少女の動きを確認し、短く頷いた。
「触れます」
リリシアはフィーネの手を取った。
冷たい。
その感覚を受け取った直後、フィーネの内部を巡る魔力が、濁流のように流れ込んできた。
休みたい。
動きたくない。
光も音も痛い。
それでも外から押し込まれた治癒が、止まりかけた魔力路を何度も叩き起こしている。
リリシアの胸が締めつけられた。
助けなければならない。
今すぐ楽にしなければならない。
感情が膨らんだ瞬間、背中から白い光が噴き出した。
「リリシアさん、出ています」
アトカの声が届く。
床へ広がった治癒を、水が包む。
光はフィーネだけではなく、エステル、ユリウス、ハインツへ向かおうとしていた。
リリシアの呼吸が速くなる。
止めなければ。
また周りへ広がる。
そう思うほど、治癒は強くなる。
オルフェの抑制印が光った。
「手を離しなさい」
リリシアの指が強張る。
ここで離れれば、安全にはなる。
それでも、まだフィーネが何を必要としているのか分かっていない。
「少しだけ、待ってください」
「リリシア」
「アトカ君」
リリシアは兄ではなく、アトカを呼んだ。
「右側へ流れています。押さえてください」
「はい」
アトカの水が右側へ厚くなる。
漏れ出した治癒が、水の中で白い渦へ変わる。
患者には届かない。
リリシアは一人で押さえ込もうとするのをやめた。
自分の外へ出たものは、アトカが支えている。
危険になれば、オルフェが止める。
聖印盤の変化は、エルマが見ている。
全部を自分だけでどうにかしなくていい。
呼吸が一つ、深くなる。
白い光の勢いが僅かに弱まった。
リリシアは治癒を送り込まない。
フィーネの中へあるものを変えず、ただ流れを読む。
魔力路は壊れていない。
疲れている。
何度も起こされ、休めなくなっているだけだった。
必要なのは、さらに整えることではない。
動かすことでもない。
止まること。
眠ること。
自分の身体へ、休んでもよいと返すこと。
リリシアは目を開いた。
「分かりました」
エルマが顔を上げる。
「何がですの」
「フィーネさんは、治癒が足りないんじゃありません」
リリシアは少女の手を包んだまま答える。
「もう、休めるところまで戻っています。それなのに聖印盤が、休ませてくれないんです」
その言葉を聞いた瞬間、聖印盤の紋様が一度だけ明滅した。
止まりはしない。
フィーネへ流れ込む白い光も、変わらず続いている。
リリシアは少女の状態を見つけた。
それでも、治療は終わらなかった。




