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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
優しすぎる光の中で
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白い光の保管区画

対抗戦から三日が過ぎた。


王立エルシオン学園では、あの日の熱がまだ完全には冷めていなかった。


廊下を歩けば、戦技科の生徒がミレイユの屈折障壁について語り、魔導科の生徒がダリウスの盾の使い方を真似している。


以前なら互いの科を遠巻きに見ていた生徒たちが、今では立ち止まって試合の話を交わしていた。


勝ったのは戦技科だった。


それでも、魔導科の代表たちが残したものは、勝敗だけでは測れなかった。


特等枠のラウンジにも、普段の空気が戻りつつあった。


窓際の長椅子では、カインが本を開いている。


以前なら誰かが近づくだけで顔を上げていたが、今は同じ部屋にいる気配を受け入れたまま、静かに頁をめくっていた。


バルトロは卓上へ魔石を並べ、どれから食べるか真剣に悩んでいる。


ギルベルトは真鍮製の懐中時計を分解し、細い工具で内部を調整していた。


エルマは対抗戦の記録帳を開き、書き込んだ数字を別の紙へ移している。


アトカはその向かいで、義手の指を一本ずつ曲げていた。


試合後の検査では異常なしとされたが、数日は自分でも動きを確かめるよう、リリシアから言われている。


アトカは手首をゆっくり回し、異常がないことを確かめた。


少し離れた卓上で治癒術の記録を読んでいたリリシアが、顔を上げる。


「指の遅れはありませんか」


「はい。昨日より軽いです」


「それなら大丈夫そうですね。違和感が出たら、その時に見ます」


「分かりました」


リリシアは再び記録へ目を戻した。


対抗戦を経て、二人だけの間に急な変化があったわけではない。


ただ、ラウンジで顔を合わせ、必要な時に言葉を交わすことが、以前より少し自然になっていた。


それはアトカとリリシアだけではない。


待つ者と戻る者に分かれた対抗戦を終え、特等枠の面々は、互いが同じ場所にいることへ少しずつ慣れ始めていた。


「それにしても、授業がないってのは最高だな」


バルトロが魔石を一つ摘まみ上げる。


「外じゃ今ごろ座学だろ。俺たちは好きな時に食って、好きな時に寝られる」


「特等枠は授業を免除されているのであって、学習を免除されているわけではありませんわ」


エルマが顔を上げずに言った。


「それと、その青い魔石は今日三つ目です」


「まだ三つだ」


「昨日は五つ食べました」


「昨日と今日は別の日だろ」


「胃袋は日付が変わっても交換されませんわ」


バルトロが不満そうに魔石を置いた。


カインの本の向こうで、口元が僅かに動く。


笑ったのかもしれない。


アトカも小さく笑い、窓の外へ目を向けた。


春の光が中庭へ落ちている。


対抗戦の日に降らせた雨はとうに乾き、石畳には新しい訓練の跡がいくつも残っていた。


穏やかな午前だった。


だからこそ、ラウンジの扉が強く叩かれた時、全員が同時に顔を上げた。


三度。


間を置かず、もう二度。


ギルベルトが工具を置く。


「入れ」


扉が開き、学園職員の男が姿を見せた。


息を切らしている。


制服の袖には、白い粉のようなものが付着していた。


だが、粉ではない。


淡い光が、布の上で瞬いている。


リリシアの表情が変わった。


「治癒の魔力……?」


職員は頷き、呼吸を整える。


「学園長命令です。アトカ・アッシュフォード、エルマ・ガトランド、リリシア・クラウツの三名は、ただちに旧聖療室保管区画へ来てください」


「何が起きましたの」


エルマが記録帳を閉じる。


職員は一瞬だけ言葉に迷った。


「保管されていた治癒補助魔導具が作動しました。中に四名が取り残されています」


リリシアが立ち上がる。


椅子の脚が床を擦った。


「四人の状態は」


「詳しくは分かりません。ただ、全員が光に繋がれています。職員が一人を動かそうとしたところ、光の出力が急激に上がりました」


「接続を切ろうとして、出力が上がった……?」


エルマの眉が寄る。


アトカは義手の指を閉じ、立ち上がった。


「行きます」


ギルベルトも立ちかけたが、職員が首を横へ振った。


「招集は三名です。学園長は、ほかの特等枠はラウンジで待機するようにと」


バルトロが不満そうに舌を鳴らす。


カインは本を閉じた。


「戻ってこい」


短い言葉だった。


アトカは頷く。


「はい」


リリシアも小さく頷いた。


三人は職員の案内でラウンジを出た。


通常課程の授業時間であるため、廊下に生徒の姿は少ない。


それでも旧聖療室へ近づくにつれ、教員や職員の数が増えていった。


通路の途中には簡易の封鎖線が張られ、その向こうから白い光が漏れている。


光は温かく見えた。


治癒術に慣れていない者なら、安心を覚えたかもしれない。


しかし、リリシアは足を止めた。


「違います」


誰に向けるでもなく呟く。


「これは、治している時の光じゃありません」


白い光は一定ではなかった。


ゆっくり強まり、弱まり、また強くなる。


呼吸しているようにも見える。


けれど、生き物の呼吸とは違う。


傷を探して、何度も同じ場所へ手を伸ばしているような、落ち着きのない明滅だった。


封鎖線の前には、フレデリック学園長が立っていた。


長い銀髪の一部が白い光を受け、淡く輝いている。


「来てくれたか」


「学園長、中の人たちは」


リリシアが尋ねる。


フレデリックはすぐに答えた。


「全員生存している。だが、治癒を受け続けている」


「受け続けている……?」


「傷が塞がった後も、だ」


エルマが封鎖線の向こうを見る。


「魔導具の種類は判明していますの」


「聖印盤だ。複数の患者へ治癒を送るための、旧式の補助魔導具と聞いている」


その名を聞いた瞬間、リリシアの肩が僅かに揺れた。


「聖印盤……」


アトカが顔を向ける。


リリシアは白い光を見たまま、唇を結んでいる。


「知っているのですか」


「名前だけではありません」


声が少し掠れた。


「クラウツ家で使われていたものです」


フレデリックは頷く。


「中央の盤面に、クラウツ家の術式紋が確認されている。家にはすでに連絡した。担当の治癒師がこちらへ向かっている」


リリシアの顔から、僅かに血の気が引いた。


それでも何も尋ねず、保管区画の扉へ目を向ける。


フレデリックが続けた。


「内部へ入る前に伝えておく。接続された四人を無理に動かしてはならない。先ほど職員が一人の腕から光を外そうとしたところ、治癒の出力が急上昇した」


「治療中断を防ぐ安全機構ですわね」


エルマが言った。


「経路を切られたことで、残った治癒を一度に送り込もうとした可能性があります」


「同じ見立てだ。したがって、破壊も移動も許可しない」


フレデリックは三人を見る。


「エルマ君は術式の解析を。アトカ君は外部へ漏れる魔力の制御を。リリシア君には、患者の状態を診てもらう」


リリシアは一度だけ息を吸う。


「分かりました」


扉が開かれた。


白い光が廊下へ溢れ出す。


最初に感じたのは、温かさだった。


次に、甘い匂い。


新しい布と、薬草と、雨上がりの土を混ぜたような匂いがする。


治癒の魔力が濃すぎる時にだけ現れる感覚だった。


旧聖療室保管区画は、細長い部屋だった。


両側の棚には、退役した治癒補助魔導具や古い記録箱が並べられている。


床の中央には、直径一メートルほどの円盤が置かれていた。


乳白色の石と銀の枠で作られた聖印盤。


表面には幾重もの紋様が刻まれ、その中心から四本の光が伸びている。


四人の身体へ。


右の棚際には、若い女性職員が倒れていた。


右手の掌を胸元へ抱え込んでいる。


傷は見えない。


それでも指先から手首までが赤く腫れ、皮膚の下で何かが脈打っていた。


その向こうでは、魔導科の制服を着た少女が身体を丸めている。


目を閉じ、耳を塞ごうとしているが、腕に力が入っていない。


小さな呼吸が途切れ、白い光が流れ込むたびに肩が震える。


左側には、戦技科の男子生徒が壁へ背を預けていた。


左膝を伸ばすことも曲げることもできず、歯を食いしばっている。


さらに奥には、灰色の髪をした年配の職員が倒れていた。


身体中の古い傷跡が、白い線となって浮かび上がっている。


一つの傷が光るたび、別の場所が沈み、また別の傷が膨らむ。


四人とも意識はある。


四人とも、治癒されている。


そして四人とも、その治癒によって苦しんでいた。


リリシアが一歩踏み込む。


白い光が頬を撫でた。


その瞬間だった。


彼女の足元へ、聖印盤とは異なる白い光が滲んだ。


リリシア自身の内側から漏れた治癒だった。


アトカはすぐに水を床へ走らせた。


薄い水の層がリリシアと四人の間へ広がり、漏れ出した治癒を包み込む。


水の中で、白い波紋が幾重にも重なった。


リリシアが息を呑む。


「まだ、使っていません」


治癒を発動したつもりはなかった。


誰にも触れていない。


ただ、苦しんでいる四人を見ただけだった。


それでも力は、彼女の動揺へ応えるように外へ出ていた。


「リリシアさん。治癒が漏れています」


アトカが告げる。


リリシアは自分の手を見る。


指先が白く光っていた。


「止めます」


両手を握り、呼吸を整える。


しかし、魔導科の少女が苦しそうに息を詰まらせた瞬間、光はさらに強くなった。


床を這い、四人へ向かおうとする。


アトカの水が広がり、その進路を塞ぐ。


治癒の魔力は消えない。


透明な水の内側で白い光となり、行き先を失って揺れ続けた。


エルマが聖印盤の前へ膝をつく。


「アトカさん、そのまま外側を保持してください。患者の体内へ入っている流れには干渉しないでくださいませ」


「はい」


「リリシアさんは少し下がって。今は近づくほど共鳴が強まります」


リリシアは四人を見た。


離れたくはなかった。


それでも、自分が近くにいることで治癒が増えるなら、前へ出るべきではない。


一歩、後ろへ下がる。


「分かりました」


その時、保管区画の外で足音が止まった。


複数の職員が道を開ける気配がする。


白い治癒師装束を着た青年が、開いた扉から入ってきた。


十六歳ほど。


淡い金色の髪を首元で揃え、青緑色の瞳を持っている。


胸元には、クラウツ家の治癒師であることを示す銀の印章があった。


青年は部屋全体を見渡した。


聖印盤。


四人の患者。


術式を解析するエルマ。


水で漏出魔力を抑えるアトカ。


そして、水の向こうで白い治癒を滲ませているリリシア。


その表情が硬くなった。


リリシアの唇が動く。


「兄さん……」


オルフェ・クラウツは妹へ返事をしなかった。


最初に四人の患者へ目を向け、その次にアトカの水へ包まれた白い光を確認した。


過去の事故と同じ兆候だと、彼には一目で分かった。


「リリシアを下げてください」


怒りでも、嫌悪でもない。


治癒師として危険を見つけ、患者から遠ざけようとする声だった。


リリシアの顔が強張る。


聖印盤が低く脈打った。


その光へ引かれるように、彼女の指先も再び白く輝いた。

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