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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
約束を果たす対抗戦
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約束の剣と水の魔術

「僕も、全部見せます」


アトカの声は、決して大きくなかった。


けれど、その一言は、大演習場の隅々まで届いたように思えた。


上空の巨大な水球が、呼吸するように脈打つ。


青く透き通った水の内側で、幾つもの流れが分かれていく。


表面から細い水糸が垂れ、その外側には無数の水滴が霧のように漂い始めた。


アトカは義手の指を静かに開く。


その瞬間、巨大な水球がほどけた。


破裂ではない。


爆発でもない。


空に浮かんでいた水が、薄い絹を幾重にも裂くように広がり、無数の水滴となって競技区画へ散っていく。


水滴は朝の光を受けてきらめき、青白い星屑のように空中を満たした。


同時に、場外線の内側へ薄い水膜が立ち上がる。


審判席。


両科の控え区画。


観客席へ面した安全結界の手前。


逸れた水圧や飛沫が戦わない者へ届かないよう、透明な膜が競技区画を包み込んでいた。


これだけの水をルトへ向けながら、アトカは同時に、周囲の安全まで制御している。


観客席から、誰かが息を呑んだ。


「……試合場ごと、水の中にしたのか」


戦技科の生徒が呟く。


その声には、もう魔導科を軽んじる色はなかった。


ルトは剣を構えたまま、周囲の水滴へ目を向ける。


上。


左右。


足元。


背後。


どこにでも水がある。


水滴が集まれば糸になる。


糸が束になれば鞭となり、鞭がほどければ薄い水流へ変わる。


足元へ落ちれば水膜となり、視界へ漂えば霧となる。


アトカの魔術は、単に攻撃を放つものではなかった。


競技区画そのものを、自分の水が働く場所へ変えている。


ルトは小さく笑った。


嬉しさと緊張と、隠しきれない誇らしさが混ざった笑みだった。


「すごいな、アトカ」


アトカは浅くなりかけた呼吸を整え、首を横に振る。


「まだです。兄さんに見せるには、まだ足りません」


義手の指先が細かく動いた。


水滴が一斉に反応する。


ルトの右側で水が集まり、細い鞭となる。


ルトが剣を向けた瞬間、鞭はほどけ、左側で薄い水流へ姿を変えた。


それはルトの身体を切るための刃ではない。


足を置く空間と、剣を振り抜く軌道を塞ぐための、高圧の水の面だった。


ルトが体重を移そうとした足元には水膜が広がる。


退く道には霧が濃くなり、止まれば周囲の水滴が集まり始める。


一つ一つは決定打ではない。


けれど、すべてが次の水へ繋がっている。


ルトが剣を振れば、その剣筋の外側へ水が回る。


踏み込めば、次の着地点へ水膜が滑り込む。


止まれば、水滴が壁を作ろうと集まる。


ルトは一歩を選ぶたび、次に選べる二歩を削られていった。


「……兄さん」


アトカは義手を胸元へ寄せる。


「ここです」


ルトの周囲で、水滴が一斉に集まった。


透明な水の壁が立ち上がる。


円形ではない。


球形でもない。


剣を振るうための肩の幅。


踏み込むための足の位置。


退くための背後の空間。


そのすべてを塞ぐよう、水が歪な檻を形作っていく。


完成すれば、ルトが剣を振るう余地さえ残らない。


観客席が揺れた。


「捕まえた!」


「ルト先輩が……!」


魔導科側から歓声が上がりかける。


だが、ルトの赤い瞳は静かだった。


完成した水の壁を力任せに斬ろうとはしない。


見ていたのは、水滴が壁へ変わる途中で生まれる流れの継ぎ目だった。


水が集まり、厚みを持つまでの、ほんの一瞬。


ルトはその隙間へ剣を差し込んだ。


剣で水を消したのではない。


二つの流れが重なりきる前に押し分け、自分一人が通れる幅だけを作る。


水の檻が閉じる。


その直前、ルトの身体が内側から滑り出た。


水壁が背後で閉じ、石畳を震わせる。


アトカの青い瞳が僅かに見開かれた。


ルトはもう前へ出ている。


斬り分けられた水が飛沫へ変わる。


飛沫は即座に水糸となり、ルトの右腕へ絡みつこうとした。


ルトは剣を引かない。


柄を返し、水糸が腕へ巻きつく前に空中で弾く。


足元へ水膜が滑り込む。


ルトはそこへ重心を落とさず、触れた足から次の足へ身体を送った。


一歩。


二歩。


三歩。


剣がアトカへ近づく。


アトカの瞳が鋭くなる。


「まだです」


周囲の霧が濃くなった。


白い霧が競技区画を覆い、ルトの視界からアトカの姿が消える。


右から水の鞭。


左から薄い水流。


頭上から水糸。


ルトは剣先を下げ、霧の流れを見た。


水滴が一か所だけ、人の身体を避けるように渦を作っている。


濡れた石畳の上で、靴底が小さく鳴った。


さらに、水の形を切り替える直前の、短い吸気が重なる。


幼い頃から知る弟の呼吸。


そして、剣士として拾った霧と足音の変化。


ルトは三つの兆候を繋ぎ、その方向へ剣を振った。


霧が割れる。


アトカがいた。


漆黒のローブがふわりと舞う。


肩の力を抜き、重心を沈め、剣筋の中心から半歩だけ外れる。


キルウェスタから何度も叩き込まれた、精密な体捌きだった。


剣先がローブの胸元を浅く掠める。


刃が布だけを裂き、身体には届かない。


観覧区画で、リリシアが声を上げかける。


けれど、傷が布だけに留まったと見極め、胸元で握った手へさらに力を込めた。


アトカは倒れない。


義手を横へ払う。


ルトの背後で霧が集まり、巨大な水の帯となった。


前にはアトカ。


後ろには水の帯。


左右には霧と水の面。


逃げ道はほとんど残っていない。


ルトは一瞬だけ息を吐いた。


「本当に、手加減できないな」


その言葉は、嬉しそうだった。


身体へ魔力が流れる。


派手な光はない。


必要な瞬間、必要な筋肉へだけ通される身体強化。


ガイルに叩き込まれた基礎。


足場が崩れても腰を残し、振り抜いた剣を次の動作へ繋げる、泥臭いほど確かな戦い方。


ルトは背後を振り返らず、身体を回しながら水の帯へ剣を入れた。


一刀で消したわけではない。


水流の向きが切り替わる継ぎ目へ刃を差し込み、帯を二つへ分ける。


分かれた水が左右へ流れる。


ルトはその剣の勢いを殺さず、回転を次の踏み込みへ繋げた。


アトカとの距離が再び縮まる。


アトカは水を集めようとする。


盾ではない。


ルトの進路を横へ流すための、薄い水の面。


だが、ルトは水が形を持つ前に進路を変えた。


右でも左でもない。


アトカが同時に動かしている水の配置を見て、その瞬間だけ薄くなった斜め前へ入る。


アトカの身体に欠けた側を狙ったのではない。


右側では水の面を作り、背後では分けられた水帯を引き戻し、頭上では水糸を維持している。


幾つもの水へ別々の役割を与えた結果、意識の配分が一拍だけ遅れた空間だった。


ルトは、その一瞬の空白へ踏み込む。


アトカもすぐに気づいた。


床の水膜を跳ね上げ、ルトの足へ絡めようとする。


ルトは足裏から重心を抜く。


水膜が足首を捉えるより先に、体重をもう一方の足へ渡した。


白い飛沫が石畳で弾ける。


「兄さん……!」


アトカは義手を突き出した。


霧が一点へ集まり、高圧の薄い水流となる。


狙いはルトの身体ではない。


剣を持つ右手と、次に踏み込む空間を横へ流すための一撃だった。


ルトの剣と水流がぶつかる。


澄んだ音が鳴った。


ルトの一閃が、水流を断つ。


薄い水流が形を崩し、細かな雨へ変わる。


その雨の向こうから、ルトが踏み込んだ。


最初の剣が走る。


アトカは見ている。


肩の力を抜き、キルウェスタから教わった半歩で剣筋から外れる。


正しい回避だった。


一度目にも、ルトの剣を避けた動き。


だからこそ、ルトはその先を知っていた。


最初の剣は、アトカを斬るためではない。


半歩を使わせるための一の太刀だった。


ルトの腰が返る。


剣が引き戻される。


回避した先へ、二の太刀が来る。


アトカの青い瞳が大きく見開かれた。


水を集める時間はない。


さらに外へ動けば、剣の間合いから逃げる前に体勢が崩れる。


剣先が、アトカの胸元の手前で止まった。


触れてはいない。


それでも、安全に抵抗できる距離は残っていなかった。


大演習場が静まり返る。


審判はアトカの姿勢とルトの剣先を確認し、即座に手を上げた。


「審判停止!」


ルトは剣を動かさない。


アトカも無理に抜けようとはしなかった。


「勝者、戦技科代表ルト・アッシュフォード!」


宣告を聞き、アトカはゆっくりと息を吐いた。


そして義手の指を静かに閉じる。


水の鞭がほどける。


水糸が切れるのではなく、細かな水滴へ戻る。


霧は一つの流れへ集まり、競技区画を囲っていた安全膜も役目を終えて静かに下がった。


空中に残っていた水滴は、最後までアトカの制御を失わないまま、細かな雨となって石畳へ降り注ぐ。


敗れた後でさえ、一滴も危険な方向へ逸れなかった。


一瞬遅れて、大演習場が爆発したように揺れる。


戦技科の歓声。


魔導科のどよめき。


兄弟の名を呼ぶ声。


信じられないという叫びと、惜しみない拍手。


そのすべてが混ざり合い、安全結界を震わせるほどの音となった。


アトカは胸元の手前で止まった剣先を見つめる。


負けた。


約束を果たすために来た。


自分が学んだものを、すべて見せるつもりだった。


それでも、兄の剣より先に勝利へ届くことはできなかった。


悔しさが胸の奥から込み上げる。


悲しいのではない。


悔しい。


そして、それと同じくらい嬉しかった。


兄は、やはり強かった。


ルトは剣を下ろした。


髪も制服も濡れている。


呼吸は荒く、右足にはギルベルトの衝撃による鈍い痺れが残っている。


剣を握る右手も、水流と衝撃を受けて僅かに震えていた。


制服には水圧を受けた痕が幾つも残っている。


辛勝。


ルトは呼吸を整え、アトカの前へ立つ。


剣士としての熱が、赤い瞳の奥へまだ残っていた。


それがゆっくりとほどけ、兄の優しさへ戻っていく。


「強くなったな、アトカ」


アトカの喉が震えた。


その一言だけで、四年間のすべてが報われそうになる。


けれど、アトカは首を横に振った。


「……でも、負けました」


声は震えていた。


それでも、目は逸らさなかった。


ルトは少し笑った。


「負けた相手には、次に勝てばいい」


アトカは兄を見上げる。


青い瞳に、悔しさと新しい光が揺れていた。


ルトは静かに続ける。


「見せてもらった。お前は、ちゃんと凄い魔術師になっていた」


アトカの表情が、くしゃりと揺れる。


涙が滲みかけた。それでも、次の言葉を伝えるために兄を見上げた。


義手の指を握りしめ、胸を張る。


「次は、勝ちます」


ルトは笑った。


今度は完全に、兄の笑顔だった。


「待ってる」


観客席では、ミレイユが涙を堪えるように唇を結んでいた。


シオンは、積み重ねられた七つの戦いへ敬意を示すように静かに頭を下げる。


ギルベルトは懐中時計を閉じた。


エルマは眼鏡の奥で、何かを噛み締めるように目を細めている。


リリシアはアトカが無事に立ち、水の制御まで終えたことを確かめてから、ようやく涙を拭った。


バルトロは照れ隠しのように魔石を噛み、カインは小さく呟く。


「……いい戦いだった」


フレデリック学園長は、上段から二人を見下ろしていた。


琥珀色の瞳には、深い満足が宿っている。


勝ったのは戦技科だった。


けれど、今日この場で示されたものは、勝敗だけではない。


両科は、噂ではなく、目の前で互いの積み重ねを知った。


通常課程の二人も、特等枠の二人も、自分の戦いを次の仲間へ繋いだ。


戦技科の代表たちもまた、前の者が残した情報と消耗を受け取り、最後の勝利まで運んだ。


そしてアトカ・アッシュフォードは、兄との約束を果たした。


ルトが右手を差し出す。


アトカはその手を見つめ、少しだけ息を整える。


それから義手を伸ばし、自分から兄の手を取った。


その瞬間、観客席からさらに大きな拍手が起こった。


戦技科からも。


魔導科からも。


二つの科の声が、初めて一つの場所で重なった。


アトカはその音を聞きながら、胸の奥で静かに思う。


キルウェスタ先生。


僕、ちゃんと見せられたでしょうか。


そして、次は。


次は、兄さんに勝ちたいです。


アトカが降らせた細かな雨が、大演習場の光を受けて輝いていた。


三年前の約束を終わらせ、新しい約束の始まりを告げる雨のように。

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