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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
約束を果たす対抗戦
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水天に舞う魔術師

大演習場の空気が、変わった。


それまでの歓声も、ざわめきも、熱も、すべてが一度奥へ沈んでいくようだった。


魔導科三勝。


戦技科三勝。


勝ち抜き戦は、ついに最後の一戦へ辿り着いた。


魔導科大将、アトカ・アッシュフォード。


戦技科大将、ルト・アッシュフォード。


同じ姓を持つ二人が、試合場の中央へ向かう。


観客席の誰もが、その意味を理解していたわけではない。

だが、ただの大将戦ではないことだけは、空気で分かった。


戦技科の生徒たちは、ルトの名を知っている。


四年生にして筆頭候補。


派手な力ではなく、基礎を極限まで磨き上げた剣士。


訓練人形を一刀で断ち、誰もを黙らせる、戦技科の誇り。


一方で、魔導科の生徒たちは、アトカの名をもう知っていた。


入学して間もない一年生。


特等枠。


クリスタ・マンティスを討伐し、カインを救い、対抗戦では仲間の訓練相手として、通常課程の二人をここまで押し上げた少年。


雪のような白髪。澄んだ青い瞳。


右肩から伸びる義手。空っぽの左袖。


漆黒のローブの胸元には、翡翠色のブローチと黒蜘蛛の紋章が静かに光っている。


アトカは試合場へ足を踏み入れた。


大きな歓声が降ってくる。


けれど、その耳には、どこか遠くの水音のようにしか聞こえなかった。


目の前にいるのは、ルトだった。


黒髪。赤い瞳。


無骨な戦技科の制服。手にした剣。


三年前、村を出る日に笑ってくれた兄が、今は試合場の向こう側に立っている。


ルトもまた、アトカを見ていた。


その目には、兄としての温かさが確かにあった。

けれど、それは一瞬だけだった。次の瞬間、赤い瞳の奥には、剣士としての静かな闘志が灯る。


ルトは剣を下げたまま、穏やかに言った。


「来たな、アトカ」


アトカは胸の奥が熱くなるのを感じながら、義手の指先を軽く握った。


「はい。約束を守りに来ました」


それだけでよかった。


三年分の言葉を、ここで並べる必要はない。


どれだけ会いたかったか。


どれだけ見せたかったか。


どれだけこの日を待っていたか。


そのすべては、これからの戦いで伝えればいい。


ルトは小さく笑った。


「見せてくれ。お前が、どれだけ凄い魔術師になったのか」


アトカはまっすぐ頷いた。


「はい」


審判が二人の間に立つ。


大演習場全体が、息を止めた。


観客席の上段では、フレデリック学園長が静かに見下ろしている。

エルマは眼鏡の奥で鋭く二人を見つめ、リリシアは両手を胸の前で握りしめ、泣きそうな顔で震えていた。

バルトロは魔石を噛むのも忘れ、カインは無言で背筋を伸ばしている。


ギルベルトは懐中時計を開いたまま、灰色の瞳を細めた。


「始まるな」


ミレイユは杖を握りしめ、息を呑む。


シオンは、まだ残る疲労を忘れたように試合場を見ていた。


審判の右手が上がる。


「大将戦」


その声が、結界に反響する。


「アトカ・アッシュフォード対ルト・アッシュフォード」


アトカは義手を胸の前へ上げた。


ルトは剣を構える。派手な構えではない。


片足をわずかに引き、剣先を自然に置き、肩から余計な力を抜く。

だが、その姿勢には隙がなかった。踏み込むにも、受けるにも、斬るにも、すべてが最短で繋がっている。


アトカは、それを見て嬉しくなった。


やっぱり兄さんは、すごい。


怖い。けれど、それ以上に嬉しい。


この人に見せるために、自分はここまで来た。


審判の手が振り下ろされる。


「始め!」


その瞬間、アトカの周囲の空気が震えた。


魔力の光が派手に爆ぜたわけではない。術式陣が床に広がったわけでもない。


ただ、演習場の空気に含まれていた湿り気が、一斉に目を覚ましたように動き出した。


細かな水滴が集まる。


ひとつ。またひとつ。


アトカの頭上で、水が丸く形を結ぶ。


最初は拳ほどだった。次に人の頭ほど。


さらに大きく膨らみ、馬車の車輪ほどになり、やがて演習場の上空に、巨大な水球が浮かび上がった。


観客席が爆発するようにどよめいた。


「でかい……!」


「あれを、一人で制御しているのか?」


「術式が見えないぞ!」


水球は、ただ大きいだけではなかった。


表面は静かに波打ち、内側にはいくつもの流れが渦を巻いている。

透き通った水の奥で、光が折れ、揺れ、まるで空そのものが水に沈んだようだった。


アトカは義手の指先を、ほんの少し動かした。


水球の一部が伸びる。


細く。長く。しなる。それは鞭だった。


水の鞭が、空を裂いてルトの足元へ走る。


ルトは跳ばなかった。剣で斬り払うこともしない。


右足を半歩だけずらし、踏み込む角度を変えた。水の鞭は石畳を叩き、白い飛沫を上げる。

だが、飛び散った水は消えない。床に広がった瞬間、薄い水膜となってルトの足元へ滑り込んだ。


「足場まで……!」


戦技科の生徒が声を上げる。


ルトの靴底がわずかに滑る。しかし、ルトは崩れなかった。


足裏の重心を一瞬で変え、剣の柄を軽く下げる。

身体の軸が整い、滑るはずの足場を、まるで湿った土を踏むように受け流した。


アトカの青い瞳が輝く。


「やっぱり、止まりませんね」


ルトは剣を構え直しながら笑った。


「お前こそ、随分器用になったな」


その声には、兄としての喜びが滲んでいた。だが、ルトの足は止まらない。


水膜の上を慎重に踏むのではなく、必要な場所だけを選んで走る。

濡れた石畳の上でも、靴底が滑る瞬間に体重を置かない。

ガイルに叩き込まれた泥臭い足捌きが、魔術の足場を相手にしても崩れなかった。


アトカは義手を横へ払う。巨大水球から、今度は三本の水の鞭が伸びた。


一本は正面。一本は右。一本は頭上から。


さらに水球の表面が薄く剥がれ、水の刃となってルトの退路を塞ぐ。


攻撃が、ひとつではない。


上、横、足元。


ルトが進みたい場所を、アトカは次々と水で埋めていく。


ルトは一歩踏み込んだ。


正面の水の鞭を剣で受ける。


受けた瞬間、水は切れて飛び散る。


だが、その飛沫が空中で再び細い糸へ変わり、ルトの手首を絡め取ろうとした。


ルトは目を細める。


切って終わりではない。


水は斬られても、形を変える。


剣士にとって、これほど厄介な相手はない。


ルトは手首を捻り、絡む前に剣を引く。同時に、左足で水膜を踏み抜くようにして前へ出た。


アトカとの距離が、一気に縮まる。


観客席が息を呑んだ。


「近い!」


「アトカ、避けろ!」


ルトの剣が走る。


速い。


アトカの視界に、銀の線が迫った。


水の盾を出せば間に合う。


けれど、ルトの剣はきっと、水が形になる前に届く。


だから、アトカは防がなかった。


漆黒のローブの裾が、ふわりと揺れる。


足先が床を撫でる。


肩の力を抜き、重心を沈め、相手の剣筋の中心から身体をほんのわずかに外す。


キルウェスタから叩き込まれた、優雅で残酷なほど精密な体捌き。


剣は、アトカの白髪を数本だけ散らして空を斬った。


ルトの赤い瞳が、一瞬だけ見開かれる。


その動きに、覚えがあった。


ただの懐かしさではない。


胸の奥に、古い悔しさと、熱と、守りたかったものを守れなかった時の痛みが蘇る。


かつて、ルトはキルウェスタに挑んだ。


遊びではなかった。腕試しでもなかった。


弟を守るためだった。


アトカの才能を見抜き、魔術師として鍛えるために現れたあの赤髪の魔女は、あまりにも大きく、あまりにも遠く、幼いルトには得体の知れない存在に見えた。


アトカを連れていかれるのではないか。傷つけられるのではないか。


自分の大切な弟が、自分の知らない場所へ奪われてしまうのではないか。


そう思った瞬間、ルトは剣を取っていた。


勝てるはずがないなど、分かっていた。


それでも退けなかった。


兄だから。


アトカを守ると決めていたから。


その時のキルウェスタは、笑っていた。


見下した笑みではなかった。


けれど、ルトの本気を真正面から受け止めながら、なお届かない場所に立つ者の笑みだった。


ルトの剣は、何度も空を斬った。


踏み込んだはずの間合いに、彼女はいない。


斬り込んだはずの線の外へ、彼女は半歩だけ外れている。


避けられたのではない。斬らされた。


呼吸も、視線も、足裏の重心も、すべて読まれた上で、ルトは自分の剣を空へ振らされていた。


最後に剣を受けられ、地面へ膝をついた時、キルウェスタはルトへ何かを告げた。


その言葉の細部までは、今この瞬間、思い出す余裕がない。


だが、悔しさだけは覚えている。守りたいのに、届かなかった。


弟を守るために振った剣が、届かなかった。


だからルトは、強くなろうと思った。


アトカを守れる兄でいるために。


そしていつか、守るだけではなく、アトカが自分の足で立った時、真正面から向き合える剣士になるために。


今、その記憶が目の前のアトカと重なった。


アトカの動きは、キルウェスタそのものではない。


まだ幼く、まだ危うく、剣先を避けるたびに息が乱れている。


それでも、その足運びには確かに、あの魔女の教えが宿っていた。


ルトは剣を引きながら、心の中で呟く。


そうか。これは、アトカの我流じゃない。


あの人が、本当に鍛えたんだ。


ルトの口元に、静かな笑みが浮かんだ。


アトカは息を切らしながら、すぐに巨大水球を動かす。


水球が裂け、今度は大きな水の帯となってルトの背後へ回り込む。

前方からは水の鞭。左右からは細い水の刃。足元には滑る水膜。


ルトの周囲が、水で満たされていく。


だが、ルトの目はもう迷っていなかった。


彼はアトカを見ていた。魔術ではなく、アトカ自身を。


義手の指先。肩の動き。呼吸。足先。


水が動く前に、アトカの身体がほんの少しだけ先に教えている。


ルトは剣を握り直した。


「……そうか」


アトカが、水の鞭を止めずに問い返す。


「兄さん?」


ルトの声は、嬉しそうだった。


そして、少しだけ誇らしそうだった。


「お前、本当にキルウェスタに鍛えられたんだな」


アトカの瞳が揺れた。


その言葉は、どんな称賛より胸に響いた。


自分の魔術が、師の教えが、兄に届いた。


アトカは少しだけ笑った。


「はい。たくさん、ゼロ点をもらいました」


ルトは声を出して笑った。戦いの最中だというのに、その笑みはひどく自然だった。


「なら、俺も手加減できないな」


ルトの足が、石畳を鳴らす。


それまでより、さらに深く。さらに鋭く。


赤い瞳に宿る光が、兄の優しさから、一人の剣士のそれへ変わった。


アトカは巨大な水球を背に、義手の指先を開く。


空の左袖が、風に揺れる。


怖い。けれど、逃げたいとは思わなかった。


「はい」


アトカはまっすぐ、ルトを見た。


「僕も、全部見せます」


巨大な水球が、空の上でさらに大きく波打った。


大将戦は、ここから本当の領域へ入ろうとしていた。

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