三秒先の罠
ギルベルト・クロノスが試合場へ足を踏み入れると、観客席を満たしていたざわめきが僅かに変わった。
ミレイユとシオンへ向けられていたのは、期待と不安だった。
通常課程で学ぶ二人が、戦技科の代表へどこまで通じるのか。
その力を測ろうとする視線が、二人へ注がれていた。
だが、次に立つのは特等枠。
灰色の瞳と古い懐中時計を持つ少年が、普段と変わらない足取りで試合場へ入る。
ギルベルトは真鍮製の懐中時計を片手に、試合場の中央へ向かった。
細い指が蓋へ触れ、かちりと小さな音を鳴らす。
向かい側では、ダリウス・ベルクが大盾を構えていた。
重い鎧。
片手斧。
深い鉄色の瞳。
シオンを押し切った直後だというのに、呼吸に大きな乱れはない。
盾と鎧には、土の杭を受けた跡が残っている。
左腕にも疲労は見えるが、大盾を支えられなくなるほどではなかった。
ギルベルトは足元から盾、斧を持つ右腕へ順に視線を移した。
「なるほど。確かに重いな」
ダリウスが低く告げる。
「君が特等枠のギルベルト・クロノスか」
「ああ。俺が魔導科三番手だ」
ダリウスは大盾を僅かに上げた。
「シオン・エイムズはよく戦った。彼は俺の足を何度も止めた」
「見ていた」
ギルベルトは淡々と返す。
「足場を崩されると、盾の下端を地面へ置いて重心を逃がす。膝が沈んでも、低い姿勢のまま前へ進む。盾だけで押し切れない時には、斧で杖先を狙う」
控え場所で、シオンが僅かに息を呑んだ。
「盾を置く瞬間。盾を引く瞬間。盾から斧へ役割を切り替える瞬間。その時だけ、君の重さは僅かに止まる」
ダリウスの瞳が細くなる。
「そこまで見ていたか」
「シオンが残した」
ギルベルトは懐中時計の蓋を閉じた。
「勝ち抜き戦だからな。前の者が得たものを、次の者が使う。俺たちは、そういう戦い方を選んだ」
狙う瞬間を明かすことに、ためらいはなかった。
知らされれば、ダリウスは動きを変える。
盾を地面へ置かないかもしれない。
斧へ切り替える時機をずらすかもしれない。
ギルベルトが見ようとしているのは、シオン戦ですでに現れた動きではない。
それを警戒したダリウスが、次に何を選ぶかだった。
審判が右手を上げる。
大演習場が静まり返った。
「第五戦、開始!」
合図と同時に、ダリウスが前へ出た。
速くはない。
だが、一歩が重い。
右足が石畳を鳴らし、続いて左足が進む。
大盾を身体の前へ置き、一歩ごとに守りと攻撃の両方を完成させながら、真っ直ぐギルベルトとの距離を潰していく。
ギルベルトは大きく構えなかった。
右手の指先で、ダリウスの進路上にある空間を軽く撫でる。
光も音も生まれない。
通り過ぎた指先に、淡い魔力の種だけが残った。
その一秒後、ギルベルトの指がもう一度動く。
今度は、ダリウスが足場を崩された時、大盾を支柱として落とすであろう位置だった。
ダリウスの鉄色の瞳が僅かに細くなる。
「置いたな」
「見えるのか?」
「いや」
ダリウスは盾を前へ出した。
「だが、何もせずに待つ男ではないだろう」
重い足が石畳を踏みしめる。
「発動する前に届く」
ダリウスが速度を上げた。
ギルベルトは一歩だけ退く。
大きく逃げるのではない。
追えば届く。
あと一歩で盾が触れる。
そう思わせる距離を残している。
大盾の影が、ギルベルトの身体を覆う。
最初に指が動いてから、三秒。
ダリウスの右足の下で、空気が鋭く弾けた。
足を吹き飛ばすほどの力ではない。
重心が最も深く乗った瞬間だけ、足裏を僅かに浮かせる衝撃だった。
ダリウスの身体が揺れる。
だが、倒れない。
即座に盾の下端を石畳へ落とし、左腕へ体重を逃がそうとする。
シオン戦と同じ対処だった。
さらに一秒が過ぎる。
先に置かれていた二つ目の種が、盾の下端の外側で弾けた。
横向きの力が、大盾を僅かに滑らせる。
支柱になるはずだった盾が外へ流れた。
「っ……!」
ダリウスの瞳へ、明確な驚きが浮かんだ。
ギルベルトは盾の脇を、歩くように抜ける。
「シオンが見せてくれた。君は足場を崩されると、盾を地面へ置く」
ダリウスは体勢を戻しながら、片手斧を低く振るった。
狙いはギルベルトの足元。
退路を奪う横薙ぎだった。
ギルベルトは半歩だけ身体を引く。
斧頭がローブの裾を掠めた。
その間にも、指先が斧の通過した空間を一度撫でている。
だが、すぐには何も起こらない。
ダリウスは盾を構え直し、ギルベルトから距離を取った。
重装鎧が軋む。
「三秒か」
ギルベルトの眉が僅かに動いた。
「よく数えたな」
「戦技科は、攻撃を受けてから考えるだけでは生き残れない」
ダリウスは腰を落とす。
「君が指を動かしてから、最初の衝撃まで三秒。盾の下へ置いたものも、置かれてから三秒で弾けた」
ギルベルトは懐中時計を開いた。
「それで?」
「三秒より前に通り抜けるか、三秒目にそこへいなければいい」
ダリウスが再び進む。
一歩目を右へ。
二歩目を左へ。
三歩目へ進むと見せ、その途中で完全に足を止めた。
その少し前、ギルベルトの指が前方の空間を撫でている。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きなかった。
盾の陰で、ダリウスの眉が動く。
四秒目。
通り過ぎたはずの空間が、遅れて弾けた。
衝撃は誰にも触れず、砂埃だけを揺らした。
ダリウスの瞳が細くなる。
「三秒ではないのか」
「三秒で発動するのが基本だ」
ギルベルトはあっさり答えた。
「ただし、意識を繋いでいる間だけ、その先へ待たせられる」
指先から放した種は、三秒後に発動する。
それがギルベルトの遅延術式の基本だった。
三秒を超えて待機させる場合は、種へ意識を繋ぎ、発動を抑え続けなければならない。
待たせる種が増えるほど、割かなければならない集中も増える。
いつまでも、いくつでも待たせられる術ではない。
それでも、三秒を数え終えれば安全だと思った相手へ、もう一度疑念を与えるには十分だった。
ダリウスは盾を寄せ、歩幅を変えた。
短く踏む。
次は大きく踏む。
途中で止まり、進むと見せて斜めへずれる。
ギルベルトが右側へ指を動かせば左へ寄る。
足元を撫でれば歩幅を狭める。
盾の外側へ置かれたと感じれば、盾を身体へ引きつける。
予測を外された場所で、衝撃が一つずつ空しく弾けた。
一つ。
二つ。
三つ。
ギルベルトは外している。
だが、ダリウスも自由に進んでいるわけではなかった。
見えない衝撃を避けるため、自分から歩幅を変えている。
盾を置きやすい平らな石畳を外れ、場外線へ近い継ぎ目の多い場所へ寄せられていく。
ギルベルトが覚えていたのは、シオン戦で残った足跡だけではない。
この試合場のどこへ体重を預けやすいのか。
ダリウスが姿勢を戻す時、どの足場を選ぶのか。
衝撃を避けようとすれば、どの道へ寄るのか。
それらを繋ぎ、ダリウスが避けたい場所と、選びたい場所を組み立てていた。
控え場所で、シオンが息を呑む。
「避けさせています」
アトカが青い瞳で試合場を追う。
「当てるために置いているんじゃないんですね」
「ええ」
ミレイユが腕を組んだまま答える。
「外れたように見せて、ダリウスさんが選べる道を減らしていますわ」
試合場で、ギルベルトがさらに一歩退いた。
指先が一度。
二度。
三度。
異なる位置を撫でる。
続いて四度目。
五度目。
六度目。
種はすべて、置かれてから三秒で発動する。
ただし、そのうち二つだけには、ギルベルトが意識を繋いだままにしていた。
三秒を過ぎても待機させ、必要な瞬間に抑えを解くためだった。
集中を割けば、他の種を置く精度が落ちる。
だから待たせるのは二つまで。
残る四つは、設置した時刻をずらすことで発動順を組み立てている。
そこで、ギルベルトの指が止まった。
七度目の動きはない。
ダリウスの瞳が鋭くなる。
六つが限界とは限らない。
ただ配置を終えただけかもしれない。
待てば、さらに置かれる可能性もある。
それでも、前へ出なければ勝てない。
ダリウスは、今見えた六つへ賭けた。
「行く」
大盾が前へ出る。
ギルベルトは右へ避けると見せ、動かなかった。
ダリウスは盾を振り、右側の進路を先に塞ぐ。
その瞬間、背後で一つ目が弾けた。
前向きの衝撃が、ダリウスの背中を押す。
ダリウスは一歩踏み出して耐える。
右足の外側で、二つ目が弾けた。
足を打つほどの力ではない。
外へ開こうとした右足を、内側へ踏み直させる程度の力だった。
姿勢を守るため、ダリウスは大盾を身体へ引き寄せる。
シオンが見つけた停止の一つ。
盾を引く瞬間だった。
前進へ使われていた重さが、一度だけダリウス自身の身体へ戻る。
三つ目が盾の外側で弾けた。
引き寄せられていた大盾が、さらに内側へ押される。
盾の内面が胸当てへ近づき、左腕の可動域が狭まった。
ダリウスは片手斧を振り上げる。
盾を押し戻す空間を作り、そのままギルベルトへ攻撃を切り替えるつもりだった。
盾から斧へ役割を切り替える瞬間。
四つ目の衝撃が、斧を振り上げた先で弾けた。
右腕へ直接当てたのではない。
柄が進む空間から、軌道だけを外へ押し流した。
斧頭が石畳へ落ちる。
重い音が響いた。
右腕は外へ伸び、大盾は胸元へ寄せられたまま。
それでもダリウスは倒れなかった。
斧の柄を石畳へ突き立て、右腕を新たな支柱へ変える。
ギルベルトの灰色の瞳が僅かに細くなった。
シオン戦では見せなかった立て直しだった。
本来なら、崩れた右膝を石畳へ落とすと読んでいた。
五つ目は、その膝が来る位置へ置いてある。
だが、ダリウスは膝をつかない。
斧を支えにし、盾を胸元から押し戻そうとする。
五つ目の衝撃が、誰もいない石畳で弾けた。
一つ外れた。
観客席がどよめく。
ダリウスの左腕が動く。
胸当てへ寄せられていた大盾が、僅かに開いた。
ギルベルトは退かなかった。
残っているのは、あと一つ。
最も長く待たせていた種。
それはダリウスの足元にも、盾の周囲にも置かれていない。
ギルベルト自身の正面。
ダリウスがどのような方法で体勢を立て直そうとも、再びギルベルトへ迫るなら通らなければならない位置だった。
ギルベルトはその種へ、設置した瞬間から意識を繋ぎ続けている。
三秒はとうに過ぎていた。
それでも、まだ発動させない。
ダリウスは斧を支柱に身体を起こし、大盾を開きながら前へ重みを戻そうとした。
胸当てが、ギルベルトの正面へ残された種の位置へ入る。
ギルベルトが集中を解いた。
六つ目が弾ける。
大きな音はしない。
胸当てを打ち抜くほどの威力もない。
だが、開きかけた盾の内側から、ダリウスの上体だけを後ろへ押すには十分だった。
支柱にしていた斧へ右腕が引かれる。
大盾を押し開こうとしていた左腕にも、逆向きの力がかかる。
二つの支えが、同時に身体から離れた。
ダリウスの右膝が石畳へ落ちる。
そこはシオンが見つけた動きではない。
ギルベルトが、ダリウスの新しい立て直しを崩すことで作った停止だった。
六つの衝撃はすべて使い切った。
だが、ギルベルトの魔力はまだ十分に残っている。
長く待たせた種へ集中を割いていたため、新しい配置を同時に増やさなかっただけだ。
ギルベルトはすでに、ダリウスの懐へ入っていた。
ダリウスが盾を開き直すより早く、指先が胸当ての中央、その一歩手前にある空間を撫でる。
淡い魔力の種が残った。
基本どおりなら、三秒後に発動する。
種が弾ければ、開きかけた盾と胸当ての間から上体だけを押される。
右腕は斧へ伸び、右膝も落ちている。重装鎧を安全に支え直せる姿勢ではなかった。
審判は三秒後に起こる結果を確認し、即座に手を上げた。
「審判停止!勝者、魔導科代表ギルベルト・クロノス!」
ギルベルトは指先の種を消した。
大演習場が、一瞬遅れて大きく揺れる。
魔導科側から歓声が上がった。
「ギルベルト先輩!」
「勝った!」
「あれが特等枠の遅延術式……!」
ダリウスは盾と斧から力を抜き、数度呼吸を整えてから立ち上がった。
シオンは唇を噛み、少しだけ笑っていた。
自分が見つけた盾の動きが、確かにギルベルトの時間へ繋がっていた。
アトカも胸元で義手を握り、青い瞳を輝かせている。
「すごいです……」
ダリウスは盾を下ろし、ギルベルトを正面から見た。
悔しさはある。
だが、言い訳はなかった。
「君の術は軽くなかった」
ギルベルトは懐中時計を閉じる。
「君の重さもな。斧を支柱にした時は、少し焦った」
「そうは見えなかった」
「見せないようにしていたからな」
ダリウスは僅かに口元を緩めた。
「次は、三秒を過ぎても安心しない。置かれた数も信じない」
「ああ」
ギルベルトも薄く笑う。
「その時は、疑って止まった場所へ置く」
審判が準備時間の開始を告げる。
ダリウスは戦技科側の境界へ戻った。
そこで、立ち上がったルトへ声を落とす。
「三秒後に発動するのが基本だ。だが、意識を繋いでいる種だけは、それより後まで待つ」
ルトは静かに頷く。
「待たせている間は、集中の一部を使い続ける。数を増やせば、他の術式の精度が落ちるはずです」
「ああ。それでも、どれを待たせているかは外から分からない」
「置かれた場所は動かない。ですが、外れた衝撃も次の道を決めるために使われます」
「指の回数だけを信じるな。最後まで一つ残している可能性を考えろ」
「分かりました。ありがとうございます」
ダリウスは一度だけ頷き、ルトへ道を譲って控え場所へ下がった。
ギルベルトは試合場へ残る。
呼吸は試合開始前と大きく変わっていない。
懐中時計を持つ指にも震えはなかった。
複数の種へ異なる時刻を与え、一部を三秒以上待たせたことで集中は使った。
だが、魔力と身体には十分な余裕が残っている。
一つ一つの衝撃も、重装鎧を吹き飛ばすほど強いものではなかった。
足を僅かに浮かせる。
盾を僅かに滑らせる。
斧の軌道を僅かに外す。
必要な時刻へ、必要な分だけ置いた小さな力だった。
ダリウスを止めたのは、魔力の量ではない。
シオンが残した停止へ、異なる時刻から衝撃を重ねた結果だった。
戦技科側の控え場所から、黒髪の少年が静かに歩き出す。
ルト・アッシュフォード。
アトカの兄。
戦技科大将。
大演習場を満たしていた熱が、鋭く研ぎ澄まされていく。
ギルベルトは懐中時計を開いた。
秒針が静かに進む。
「さて」
灰色の瞳が、ルトを捉える。
「俺が置く未来へ、君が来るか試してみようか」
ルトは剣を手に、試合場へ入る。
足音は静かだった。
特別に速いわけではない。
重くもない。
それでも、ギルベルトはすぐに理解した。
先ほどまでの相手とは違う。
歩幅が一定なのではない。
どの歩幅にも変えられる余地を残したまま、必要な場所へ足を置いている。
身体強化も流れていない。
剣を振るう方向も決まっていない。
必要になる瞬間まで、何一つ選択を確定させていない。
三秒後にどこへいるのか。
何を斬ろうとしているのか。
まだ、ルト自身さえ決めていないのかもしれない。
ルトはギルベルトの前で足を止め、穏やかに礼をした。
「よろしくお願いします」
ギルベルトは口元だけで笑う。
「礼儀正しいな。だが、遠慮はしなくていい」
「はい」
ルトは剣を構えた。
赤い瞳が、静かにギルベルトを見る。
「最初から行きます」
ギルベルトは懐中時計を握り直した。
魔力は十分に残っている。
呼吸も乱れていない。
ダリウス戦の消耗を、敗因にできる状態ではなかった。
それでも、最初の衝撃が生まれるまでには三秒かかる。
三秒より後へ待たせるには、その種へ集中を割き続けなければならない。
一度置いたものは、相手を追わない。
そして目の前の剣士は、必要になる瞬間まで、どの未来も選ばない。
ギルベルトは初めて、その三秒がひどく長いものに感じられた。
審判の手が上がる。
魔導科三勝。
戦技科二勝。
魔導科に残るのは、ギルベルトとアトカ。
戦技科に残るのは、ルト一人。
ギルベルトが勝てば、対抗戦はそこで終わる。
ルトが勝てば、兄弟が同じ試合場へ立つ。
「第六戦、開始!」




