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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
約束を果たす対抗戦
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50/85

重盾を止める土

ダリウス・ベルクが試合場の中央へ立つと、それだけで空気が重くなった。


ロウのような鋭い突進ではない。


ユリアのように死角へ潜り込む刃でもない。


目の前の少年は、ただ立っているだけで壁だった。


重装鎧に包まれた大柄な身体。


左手に構えた大盾。


右手に握られた片手斧。


そのすべてが、正面から敵を押し潰し、前へ進むために存在しているように見える。


シオンは杖を握り直した。


指先が汗で滑る。


ユリア戦の消耗は、まだ身体の奥へ重く残っていた。


胸元の裂けた制服の下では浅い傷が熱を持ち、身体へ巡らせられる魔力も細くなっている。


それでも、退くつもりはなかった。


ダリウスは盾を構える前に、低い声で告げた。


「シオン・エイムズ。先ほどの戦いは見事だった」


シオンは僅かに目を見開く。


「君は前の者が残した情報を拾い、自分の術式へ繋げた。魔導科代表として、侮る相手ではない」


ダリウスの表情に嘘はなかった。


本気でシオンの戦いを認めている。


だからこそ、その次の言葉にも揺らぎはなかった。


「だが、俺は止まらない」


シオンは静かに息を吸った。


正直に言えば、怖かった。


ユリアは速かったが、一歩ごとの重心は軽かった。


足場を僅かにずらせば、その速さそのものが身体の軸を崩した。


だが、ダリウスは違う。


足場を沈めても、その重さ自体を支えへ変えるだろう。


小さな杭なら盾で砕かれる。


進路を誘っても、最短距離を押し通されるかもしれない。


それでも、シオンは杖先を床へ向けた。


「止めてみせます」


審判が右手を上げる。


観客席が静まり返った。


「第四戦、開始!」


ダリウスが動いた。


速くはない。


だが、一歩が重い。


右足が石畳を鳴らす。


次に左足が進み、大盾が身体の前へ出る。


一歩ごとに守りと攻撃の両方を完成させながら、真っ直ぐシオンへ近づいてくる。


シオンはすぐには攻撃しなかった。


杖先から細い魔力を床へ流す。


石畳の継ぎ目を通り、その下にある土へ、拘束術式の起点を一つずつ埋め込んでいく。


シオンの術式は、何もない場所へ瞬時に拘束を作れるものではない。


先に起点を置き、相手が踏み込む場所を読み、必要なものを選んで起動する。


設置の遅さは消えていない。


だからこそ、ダリウスの遅く重い前進を利用しなければならなかった。


一つ目。


二つ目。


三つ目。


四つ目。


五つ目を置く時間はない。


シオンが四つの起点を仕込む間にも、ダリウスは着実に距離を詰めてくる。


シオンは第一の起点を起動した。


ダリウスの右足が次に踏む位置へ、斜めの土の突起が立ち上がる。


普通の相手なら、足を取られて体勢を崩す。


ユリアでさえ、一瞬は軸を乱された。


だが、ダリウスは止まらなかった。


右足が突起へ触れる寸前、盾の下端を石畳へ落とす。


鈍い音が試合場へ響いた。


大盾が支柱となり、足元が崩れるより先に、身体の重みを左腕へ逃がす。


土の突起が右足をかすめる。


それでも、ダリウスの上体は揺れなかった。


「浅い」


低い声が、盾の向こうから届く。


シオンは歯を食いしばり、第二の起点を起動した。


ダリウスの左足が着地する瞬間、石畳の下にある土を緩める。


踏み石が僅かに沈み、ダリウスの左膝が落ちた。


普通なら、そこで前進は止まる。


だが、ダリウスは沈んだ膝を無理に伸ばさなかった。


身体を低くしたまま、盾へ預けた重みを前へ運ぶ。


崩された姿勢を、より低い盾の押し込みへ変えた。


シオンの視界が、鉄の壁で埋まる。


「くっ……!」


シオンは後退した。


逃げるためではない。


第三の起点を使える距離まで、ダリウスを引き込むためだった。


杖を床へ打ちつける。


盾の前へ、三本の土の杭が時間差で立ち上がった。


一本目が盾へぶつかる。


硬く締めた土が、一撃で砕けた。


二本目も、盾の重みに耐えきれず折れる。


三本目が斜め下から盾の縁を押し上げ、そこで初めてダリウスの足が半歩止まった。


観客席がどよめく。


シオンは荒い息を吐く。


半歩。


それでいい。


完全に止められなくても、一拍を奪えば次へ繋げられる。


「まだです……!」


残っている未使用の起点は、あと一つ。


シオンは第四の起点へ魔力を通した。


最後の土の杭が、ダリウスの後ろ足、その踵のすぐ後ろへ立ち上がる。


退路を完全に塞ぐためではない。


前へ預けた重心を戻すには、後ろ足を引き直さなければならない。


その一歩を奪うための杭だった。


同時に、第二の起点へ再び魔力を通す。


先ほど左足側の踏み石を沈めた起点は、崩していない。


一度魔力供給を切っただけで、石畳の下にはまだ残っていた。


後ろへ戻れない状態で盾を押し続ければ、ダリウスの重みは僅かに左へ流れる。


その傾きを使い、盾ごと進路を外へずらす。


ミレイユがロウの勢いを利用したように。


自分もまた、ダリウスの重さを利用する。


だが、ダリウスは盾を押し込まなかった。


シオンの視線が左足側の踏み石へ向いた瞬間、大盾を僅かに引く。


前へ来ると思わせて、止まる。


踵の後ろに杭があるため、大きく退くことはできない。


それでも、盾へ預けていた重みだけを身体へ戻すには十分だった。


シオンが作った傾きは、ダリウスの足が乗る前に空を切った。


次の瞬間、片手斧が低く振るわれる。


狙いはシオンの身体ではない。


杖先だった。


シオンは咄嗟に杖を引く。


刃を潰した斧が杖の先端を掠め、重い衝撃が腕へ伝わった。


握りが浮く。


術式へ流していた魔力が一瞬だけ途切れる。


「しまっ……!」


その一拍で、ダリウスは盾を押し上げていた杭を踏み折った。


大盾が再び前へ出る。


シオンは後ろへ下がろうとした。


だが、すでに場外線が近い。


右へ逃げれば盾の縁が追う。


左へ回れば、振り戻された片手斧の間合いへ入る。


さらにダリウスは斧の柄をシオンの杖へ重ね、杖先を床へ押さえ込んだ。


術式を使うには、杖を引き抜かなければならない。


引き抜こうとすれば、胸元へ置かれた大盾がそのまま前へ押し出される。


一歩押されれば場外。


横へ避けようとすれば、斧を持つ右腕へ進路を塞がれる。


シオンには、身体を傷つけずに抜けられる道が残っていなかった。


ダリウスは大盾をシオンの胸元へ触れる寸前で止める。


「ここまでだ」


シオンは唇を噛んだ。


魔力は僅かに残っている。


意識もある。


杖を握る力も完全には失っていない。


だが、動けば盾か斧のどちらかへ自分から触れる。


無理に土を動かしても、使える起点を失った今の術では間に合わない。


審判の手が即座に上がった。


「審判停止!勝者、戦技科代表ダリウス・ベルク!」


戦技科側の観客席から歓声が上がる。


魔導科側には、悔しげな息が広がった。


ダリウスは判定と同時に盾を引き、シオンの杖から斧を離した。


シオンは一歩も動かず、しばらく床を見ていた。


負けた。


ダリウスを止めきれなかった。


それでも、何も残せなかったわけではない。


足場を崩した時、ダリウスは盾の下端を石畳へ置いた。


沈んだ膝を、そのまま低い前進へ変えた。


杭に盾の縁を押し上げられた時、半歩だけ止まった。


罠を察して盾を引く時には、右肩が一度下がり、重心が左足へ戻った。


その後で、片手斧が杖先へ来た。


シオンは荒い息を整え、ダリウスへ頭を下げる。


「ありがとうございました」


ダリウスも大盾を下ろした。


深い鉄色の瞳が、シオンを正面から捉える。


「見事だった」


シオンが顔を上げる。


「君は消耗した状態で、俺に何度も盾の使い方を変えさせた。最後も、斧で杖を押さえなければ安全には踏み込めなかった」


慰めではない。


実際にシオンが強いた行動を、ダリウスは認めている。


シオンの胸へ、悔しさとは異なる熱が灯った。


「……次は、もっと止めます」


ダリウスは僅かに頷いた。


「次は、もっと重く行く」


その返答に、シオンは少しだけ笑った。


教員がシオンの傷と状態を確認する。


敗退が決まったため、今度は必要な処置を受けることができる。


シオンは自分の足で歩けると答え、控え区画へ戻った。


境界の前では、ミレイユが水の入った杯を持って待っていた。


「最後まで貴方らしく地味でしたわね。ですが、十分に残しましたわ」


「それは褒めていますか?」


「かなり褒めていますわ」


シオンは苦笑し、杯を受け取った。


「ありがとうございます」


「倒れる前に飲みなさいませ。情報を伝える途中で意識を失われては困りますもの」


「はい」


ミレイユは手を貸さなかった。


代わりにシオンの隣を歩き、彼が足を止めれば自分も止まれる距離を保っていた。


シオンも自分の足で控え席まで戻る。


アトカが心配そうに顔を覗き込んだ。


「シオンさん、大丈夫ですか?」


「はい」


シオンは浅く息を吐き、試合場に立つダリウスを見る。


「負けました。でも、残せました」


ギルベルトが真鍮製の懐中時計を開く。


「聞こう」


シオンは短く、必要な情報だけを並べた。


「足場が崩れると、盾の下端を地面へ置いて支柱にします」


ギルベルトの灰色の瞳が、ダリウスの盾へ向く。


「膝が落ちても止まりません。姿勢を低くしたまま、盾を前へ出します」


シオンは自分の杖先を見下ろした。


「盾の縁を杭で押し上げた時、半歩だけ止まりました。その後、罠に気づいて盾を引いた時には、右肩が下がって、重心が左足へ戻ります」


ギルベルトの指が懐中時計の縁へ触れる。


「その後は」


「片手斧で杖先を狙います。盾から斧へ切り替える間、ほんの僅かですが、盾の前進が止まりました」


ギルベルトは静かに頷いた。


「十分だ」


シオンは最後に付け加える。


「盾を地面へ置く瞬間と、引く瞬間。その二つだけは、あの人の重さが止まります」


ギルベルトは懐中時計を閉じた。


カチリという小さな音が、控え区画へ響く。


「次は俺が拾う」


彼は静かに立ち上がった。


その手の中で、真鍮の鎖が淡く揺れる。


試合場では、ダリウスが盾を構え直していた。


重い壁のような少年を前に、ギルベルトは普段と変わらない足取りで進んでいく。


灰色の瞳に焦りはない。


相手の動きに生じる僅かな時間の隙を、すでに測り始めている者の静けさだけがあった。


大演習場が息を呑む。


魔導科二勝。


戦技科二勝。


第五戦。


特等枠ギルベルト・クロノスが、重盾の前へ立った。


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