受け継いだ一歩
「第三戦、開始!」
審判の声が大演習場へ響いた瞬間、ユリア・ヴェルナーの姿が低く沈んだ。
速い。
だが、シオンはその姿を真正面から追わなかった。
目だけで追えば遅れる。
見てから杖を向ければ、その時にはもう、ユリアは死角へ入っている。
ミレイユが敗れたのは、実力が足りなかったからだけではない。
ユリアが、相手の視線と杖先を読むことに長けていたからだ。
だからシオンは、刃を見ない。
顔も見ない。
見るのは足だった。
右足がどこへ出るか。
左足へどれだけ重心を残しているか。
膝が内側へ入るか。
腰が沈むか。
ミレイユが残した言葉が、頭の奥で静かに響く。
右へ誘った時、ユリアさんは左足へ重心を残していましたわ。
見せかけの刃へ反応すると、内側へ入られます。
シオンは杖先を床へ向けたまま、呼吸を整えた。
ユリアの短剣が低い位置で光る。
一瞬、視線を持っていかれそうになる。
だが、シオンは奥歯を噛んだ。
「そこじゃない」
見るべきは刃ではない。
ユリアの左足だ。
石畳を蹴る直前、踵が僅かに浮いた。
シオンの杖が床を叩く。
土の杭は、ユリアの現在位置には現れなかった。
彼女が次に踏む場所でもない。
その半歩外側に、低い土の突起が生まれる。
直接足へ当てるためではない。
そこへ障害があれば、ユリアは自然に足を引く。
足を引けば、次に重心を乗せられる場所が絞られる。
ユリアは土の突起を捉え、即座に足を引いた。
「読んだの?」
声には、僅かな興味が混じっていた。
シオンは答えない。
答えれば呼吸が乱れる。
呼吸が乱れれば、次に動かす杖先を読まれる。
ユリアは止まらなかった。
一度足元を読まれた程度で、その動きは鈍らない。
むしろ青灰色の瞳は、先ほどまでより鋭くなった。
シオンの杖先。
肩の高さ。
唇の動き。
息を吸う間隔まで測っている。
「ミレイユから聞いたのね」
ユリアは滑るように距離を詰めながら言った。
「いい判断ね。でも、人から聞いた癖だけでは止められないわ」
次の瞬間、ユリアの姿が消えたように見えた。
実際に消えたわけではない。
真正面から踏み込むと見せ、途中で身体を低く倒し、シオンの右手側へ潜り込んだ。
杖を持つ腕の外側。
魔術師が最も術式を展開しにくい角度だった。
短剣が近い。
訓練用の木剣とは違う。
本物の刃が皮膚へ届きかねない距離にあるだけで、思考の端が白くなる。
怖い。
それでも、シオンは下がらなかった。
下がれば、ユリアは引いた足を追ってくる。
追われれば、杖を構え直す前に終わる。
ならば、下がるのではなく、ユリアが来る場所を奪う。
穴埋めではない。
自分も魔導科代表として、ここに立っている。
床が小さく鳴った。
シオンの足元ではない。
ユリアの目の前でもない。
彼女がシオンの右側へ潜り込んだ後、身体を支えるために左足を置いた場所。
石畳の下にある土が一瞬だけ緩み、踏み石が僅かに沈んだ。
深くはない。
見落としかねないほどの変化だった。
だが、速く動く者にとって、その僅かな沈み込みは大きい。
ユリアの身体が傾く。
短剣の軌道が、シオンの首筋から外れた。
「……っ」
ユリアの目が細くなる。
シオンは、その一拍を逃さなかった。
床から土の輪が跳ね上がる。
足首を完全に縛るためのものではない。
土の縁が、ユリアの足首の外側と踵の内側へせり上がった。
そのまま足を抜くことはできる。
だが、膝を内側へ返して次の一歩を踏み出すには、一度身体を起こさなければならない。
奪うのは足そのものではない。
次の動作へ移るための角度だった。
ユリアの身体が止まる。
本当に一瞬だけだった。
それでも、観客席には十分見えた。
「止めたぞ!」
「シオン先輩が、ユリアを止めた!」
魔導科側から歓声が上がる。
ユリアはすぐに短剣を逆手へ持ち替え、土の輪の内側へ刃を差し込んだ。
魔術そのものを斬ったのではない。
土の縁へ刃を入れ、固定の弱い箇所を砕こうとしたのだ。
だが、刃先はミレイユ戦ですでに小さく欠けていた。
硬く締められた土へ欠けた部分が噛み、いつもより僅かに砕くのが遅れる。
さらに短剣を捻った瞬間、右手首へ鈍い痛みが走った。
ユリアの眉がほんの僅かに動く。
その遅れは短かった。
けれど、存在しなかったわけではない。
ユリアは土の縁を砕き、足を引き抜いた。
「足元をよく見ているわね」
低い声だった。
シオンは汗を流しながら、杖を構え直す。
「ミレイユさんが、残してくれましたから」
ユリアの表情が僅かに変わる。
冷静なままだった。
それでも、その奥に小さな熱が灯る。
「なら、私も変える」
その直後、ユリアは左手の短剣を一本、空中へ投げた。
観客席がざわめく。
刃はシオンの顔へ向かっていない。
杖を弾く軌道でもない。
頭上を越え、背後へ落ちる軌道だった。
意味のない投擲ではない。
背後へ落ちる刃を確認するか。
正面のユリアから視線を外さないか。
どちらを選んでも、迷いが生まれる。
ユリアが狙っているのは、その一瞬だった。
シオンは背後の刃を見なかった。
視線を落とさず、ユリアの足だけを見る。
残った短剣を構えたユリアが低く迫った。
今度は足音がほとんどしない。
膝を柔らかく使い、身体の高さを変えながら、地を這う影のように近づいてくる。
シオンは杖を床へ強く突いた。
一つ目の杭。
ユリアは避ける。
二つ目。
それも避ける。
三つ目。
ユリアの足が、その外側へ踏み込んだ。
外れたように見えた。
だが、シオンは奥歯を噛み締める。
「そこです」
三本の杭は、ユリアを捕まえるためのものではなかった。
避ける道を作るための杭だった。
一つ目で右側を嫌わせる。
二つ目で左へ流させる。
三つ目で、最後に足を置ける場所を一つへ絞る。
その場所こそが、本命だった。
石畳の下で、土が低く鳴る。
ユリアが踏み込んだ場所だけ、踏み石が円を描くように沈んだ。
深くはない。
足首が埋まるほどでもない。
だが、短剣を振り抜くために必要な軸が僅かに崩れる。
ユリアの刃がシオンの胸元を掠め、制服を裂いた。
浅い痛みが走る。
観覧区画で、リリシアが息を呑んだ。
それでも、シオンは退かなかった。
痛みより先に、杖を振る。
沈んだ足場の縁から、四本の土の杭が斜めに突き出した。
ユリアの身体を刺す位置ではない。
前方。
左前。
左後。
そして右後方。
四本の杭は、ユリアを中心に歪んだ菱形を作り、次の一歩を踏み出す方向を塞いでいた。
ユリアの動きが、一瞬だけ完全に止まる。
審判が二人の動きを注視する。
だが、シオンは勝ったとは思わなかった。
ユリアなら、この程度の囲いは抜ける。
短剣で一本を砕き、空いた場所へ肩を入れて出てくる。
問題は、どの杭を壊すかだった。
ユリアの右後方には、青い場外線がある。
距離は三歩ほど。
四本の中で右後方の杭だけが、ほかより僅かに細い。壊して囲いを抜けるなら、そこが最も早く、最も安全に見える。
だが、その杭から青い線まで続く三枚の踏み石には、すでにシオンの魔力が流されていた。
ミレイユの声が蘇る。
私が曲げます。
貴方が捕まえます。
ミレイユはもう試合場には立っていない。
けれど、彼女が残した戦い方はここにある。
シオンは杖を握り直した。
土を大きく盛り上げる必要はない。
ユリアの進む先を強制するのでもない。
自分から選びたくなる道を一つだけ残し、その道を場外まで繋げる。
ユリアの視線が四本の杭を走った。
前方は、シオンに近すぎる。
左側へ抜ければ、場内の広い場所へ逃げられるが、二本の杭を続けて避けなければならない。
右後方なら、一本を壊すだけで囲いから出られる。
ユリアは右足へ重心を移した。
「そこです」
シオンが小さく呟く。
ユリアは右後方の杭へ短剣を振った。
欠けた刃が硬く締められた土へ食い込む。
右手首へ再び鈍い痛みが走り、振り抜きが僅かに遅れた。
それでもユリアは杭を砕いた。
開いた隙間へ右肩を入れ、囲いの外へ身体を滑り込ませる。
最初に右足が着いた。
そこは、青い場外線へ続く一枚目の踏み石だった。
右足が体重を受けた瞬間、石の外側だけが僅かに沈む。
見た目には、ほとんど分からない傾きだった。
だが、囲いを抜けるために強く踏み込んでいたユリアの勢いは、その傾きに沿って右後方へ流れた。
青い場外線の方角へ。
「……なるほど」
ユリアが初めて、小さく声を漏らした。
身体を立て直すため、左足を前へ出す。
左足が着いたのは、二枚目の踏み石だった。
そこも、場外側へ僅かに傾いている。
右足で外へ流れた勢いを左足で受け止めるはずが、二枚目の石も同じ方向へ沈んだ。
ユリアの身体が、さらに半歩だけ青い線へ近づく。
まだ両足とも場内にある。
だが、線まではもう一歩もない。
ユリアは腰を捻った。
次に出す右足を場内側へ戻し、身体ごとシオンの方へ向き直るつもりだった。
シオンは床へ流した魔力を切らない。
ユリアの右足が上がる。
場内へ戻すための一歩ではない。
外へ崩れかけた身体を支えるため、反射的に踏み出された一歩になった。
右足が、青い場外線の向こうへ着く。
片足が競技区画を離れた。
まだ決着ではない。
場内に残った左足を軸にして身体を引き戻せばよい。
ユリアは短剣を逆手に持ち替え、場内側の石畳へ突き立てようとした。
ミレイユ戦で見せた動きだった。
場外へ流されながらも、短剣を支点にして身体を止める。
シオンは、それを待っていた。
短剣が向かった先には、石畳の継ぎ目がある。
シオンは、その継ぎ目の下へ仕込んでいた土へ魔力を通した。
硬い石を動かしたのではない。
石と石の間を支えていた乾いた土だけを、外側へ押し崩す。
ユリアの短剣が継ぎ目へ突き立つ。
だが、刃先は硬い石へ噛まなかった。
押し上げられた乾いた土の中へ、想定より深く沈み込む。
ユリアが腕へ体重を預けた瞬間、土が場外側へ崩れた。
支点になるはずだった短剣が動く。
右腕が伸び切り、場内へ身体を引き戻す力が逃げた。
「……っ!」
ユリアは左足へ力を込める。
だが、その左足が乗っているのは、場外側へ傾けられた二枚目の踏み石だった。
石の外縁が、さらに僅かに沈む。
靴底が傾斜に沿って滑った。
場内に残っていた左足が青い線へ近づき、そのまま線を越える。
両足が、競技区画の外へ着いた。
青い魔力光が大きく弾ける。
審判の声が、大演習場へ響き渡った。
「場外!勝者、魔導科代表シオン・エイムズ!」
一瞬、シオンは何が起きたのか理解できなかった。
杖を構えたまま、荒く息をしている。
胸元の布は裂け、浅く血が滲んでいた。
魔力は底に近い。
足も震えている。
それでも、競技区画の内側へ立っていた。
勝った。
穴埋めとして選ばれたのではない。
ミレイユが残したものを、自分の術式で勝利へ繋げた。
ミレイユが残したものを拾い、自分の術式へ組み替えて、ユリア・ヴェルナーに勝った。
魔導科側の観客席が、爆発したように沸く。
「シオン先輩!」
「勝った!」
「ミレイユさんの次を拾ったんだ!」
控え場所で、ミレイユが立ち上がっていた。
疲れ切った顔のまま、それでも誇らしげに笑っている。
「当然ですわ」
誰に言うでもなく呟く。
「私が曲げて、シオンさんが捕まえる。そう決めていましたもの」
アトカは胸の前で義手を握りしめ、青い瞳を輝かせていた。
「すごいです……。本当に、すごいです」
ギルベルトは懐中時計を閉じ、灰色の瞳を細める。
「情報は繋がった。いい勝利だな」
ユリアは場外線の外で、自分の足元を見下ろしていた。
やがて崩れた土から短剣を引き抜き、シオンへ向き直る。
「負けたわ」
その声には悔しさがあった。
だが、言い訳はなかった。
「私が短剣を支点にするところまで見ていたのね」
シオンは息を整えながら、深く頭を下げた。
「ミレイユさんが見て、教えてくれました。俺は、それを自分の術式へ使っただけです」
「使えたなら、あなたの力よ」
ユリアは短く答えた。
安全確認を終えた教員から、背後へ投げた短剣を受け取る。
二本の刃を鞘へ戻し、戦技科側の控え場所へ下がっていった。
シオンは控え区画との境へ戻ろうとして、足をふらつかせた。
胸の傷は浅い。
だが、魔力の消耗が重かった。
その時、ミレイユが境界越しに手を差し出した。
「まったく、最後の詰めが荒いですわ。勝ったのですから、もう少し堂々となさいませ」
シオンは差し出された手を見た。
少しだけ笑い、自分からその手を取る。
「すみません。足が震えて」
「仕方ありませんわね。今日だけですわよ」
ミレイユはシオンの意思を確かめてから、控え区画との境まで腕を支えた。
シオンはまだ勝ち残っている。
治療を受け、完全に控え場所へ戻ることはできない。
それでも、仲間の近くで次の試合へ備えるための僅かな時間はあった。
アトカと目が合う。
アトカは嬉しそうに、けれど少し泣きそうな顔で言った。
「シオンさん、かっこよかったです」
シオンは一瞬、言葉に詰まった。
真っ直ぐな称賛が、どう受け取ればよいのか分からないほど眩しい。
「……ありがとうございます」
それだけ返すのが精一杯だった。
だが、試合はまだ終わらない。
戦技科側の控え場所から、重い足音が響く。
大柄な少年が立ち上がった。
短く刈った黒髪。
深い鉄色の瞳。
片手には大盾。
もう片方には、刃を潰した競技用でありながら、実戦用と変わらない重量を持つ斧。
ダリウス・ベルク。
彼が試合場へ向かって歩くだけで、石畳が僅かに鳴った。
ロウの速さとも、ユリアの鋭さとも違う。
今度の相手は、重い。
逃げない。
崩れない。
正面から押し潰すために来る。
準備時間の終了が告げられる。
シオンは荒い呼吸を整え、杖を握り直した。
魔力は残り少ない。
身体も重い。
それでも、彼は再び試合場の中央へ進んだ。
ダリウスは向かい側で立ち止まり、低く告げる。
「ユリアを倒したこと、見事だった」
シオンは静かに頷く。
「ありがとうございます」
「だが、俺は止まらない」
脅しではなかった。
ただの事実として告げている。
シオンは杖先を床へ向けた。
「止めてみせます」
大演習場を満たしていた熱が、重く沈んだ。
魔導科二勝。
戦技科一勝。
第四戦が、始まろうとしていた。




