死角に潜る刃
ユリア・ヴェルナーが試合場へ足を踏み入れた瞬間、大演習場の空気が変わった。
ロウの時のような熱はない。
真正面から突き破ってくる圧もない。
代わりにあったのは、張りつめた静けさだった。
黒髪を高い位置で結んだ少女は、腰の双短剣へ手を添えたまま、ミレイユを見ている。
だが、その青灰色の瞳が捉えているのは、顔だけではなかった。
杖を握る右手。
肩の高さ。
膝の向き。
足の開き。
呼吸の浅さ。
ロウ戦で乱れた魔力の残り方。
一つずつ、値踏みするように確かめられている。
ミレイユは、背筋へ冷たいものが走るのを感じた。
ロウは速かった。
けれど、分かりやすかった。
彼は前へ来る。
槍を伸ばし、踏み込み、こちらを貫こうとする。
だから、その勢いを曲げることができた。
だが、ユリアは違う。
まだ動いてもいないのに、こちらがどこへ障壁を置くのか、先に読まれているようだった。
審判が右手を上げる。
観客席のざわめきが引いていく。
ミレイユは杖を握り直した。
一戦目で勝った。
だが、魔力は大きく減っている。
ロウを場外へ運ぶため、高速で何度も障壁を展開し直した。
次は、同じ戦い方を続けられない。
同時に維持できるのは、せいぜい二枚。
使い終えた障壁をすぐに消し、その魔力を次の一枚へ回さなければ、最後まで持たない。
「第二戦、開始!」
審判の手が振り下ろされた。
ユリアの姿が低く沈む。
ミレイユは反射的に正面へ障壁を置きかけた。
だが、ユリアはそこへ来なかった。
上半身だけを前へ出し、踏み込むように見せたにすぎない。
足は僅かに外側へ流れ、ミレイユの杖先が向いた方向とは逆へ滑り込んでいた。
誘われた。
ミレイユは咄嗟に障壁の位置を変える。
透明な屈折面が斜めに生まれ、ユリアの進路を塞ごうとした。
しかし、ユリアは止まらない。
障壁へ触れる寸前、足首だけで身体の向きを変え、その縁を抜けた。
ロウなら流された場所を、ユリアは流される前に避けた。
観客席から声が上がる。
「速い……!」
「いや、速さだけじゃない!」
「障壁が出る場所を読んでるんだ!」
ミレイユの頬を、冷たい汗が伝う。
ユリアは障壁を壊そうとしていない。
障壁が出る位置を見てから、そこにいない場所へ動いている。
つまり、ミレイユが防ごうとするほど、次に塞ぐ場所を教えてしまう。
ユリアの身体が右へ流れた。
違う。
右ではない。
ロウ戦を見ていたなら、外側へ流されることを警戒している。
場外線に近い右へそのまま進むはずがない。
ミレイユは左斜め後方へ、薄い障壁を一枚だけ置いた。
ユリアの短剣が、その屈折面へ触れる。
刃が横へ滑った。
初めて、ユリアの動きが僅かに止まる。
ミレイユの瞳へ光が戻った。
読めた。
まったく届かない相手ではない。
だが、ユリアは表情を変えなかった。
「悪くないわ」
短く呟くと同時に、もう片方の短剣が動く。
斬るためではない。
杖を狙うためでもない。
刃へ光を反射させ、ミレイユの視線を引き寄せるためだった。
ミレイユの目が、一瞬だけ光を追う。
その一拍で、ユリアは障壁の反対側へ回っていた。
「しまっ……!」
ミレイユは後退しようとする。
だが、足が重い。
ロウ戦の消耗が、ここで響いた。
ユリアの短剣が肩口へ迫る。
ミレイユは無理やり障壁を差し込んだ。
間に合った。
だが、角度が甘い。
短剣は表面を滑ったものの、完全には逸れず、制服の袖を浅く裂いた。
布が舞う。
観覧区画で、リリシアが小さく息を呑んだ。
傷は浅い。
出血もほとんどない。
それでも彼女は歓声を上げず、ミレイユの腕の動きと呼吸を見つめていた。
ユリアは止まらない。
右。
左。
低く。
高く。
正面へは来ない。
ミレイユが杖を向けた時には、すでに横へずれている。
障壁が完成した時には、さらに別の角度から短剣が迫る。
真正面の攻撃なら曲げられる。
だが、ユリアは曲げられる前に、その面から外れていく。
ミレイユは乱れかけた呼吸を押さえながら、エルマの言葉を思い出した。
見てからでは遅い。
相手の呼吸と足元を読みなさい。
今、ユリアは何を見ているのか。
杖先。
肩の緊張。
障壁を置く直前の魔力。
そして、左足へ体重を移す癖。
ならば、こちらも読ませればいい。
ミレイユは、あえて左足へ重心を移した。
杖先を右へ向ける。
ユリアの瞳が僅かに動いた。
右へ障壁が出ると読んだ。
ユリアはその逆、ミレイユの左側へ入ろうとしている。
ミレイユは右へ障壁を張らなかった。
代わりに、自分の左斜め後方へ薄い屈折面を一枚だけ置く。
ユリアの短剣が、そこへ触れた。
「……へえ」
ユリアの声へ、初めて僅かな驚きが混じる。
ミレイユは使い終えた障壁を消し、その魔力を次の一枚へ回した。
「まだですわ!」
ここからは、ロウ戦と同じではない。
ロウは勢いを曲げれば、そのまま場外へ流れた。
だが、ユリアは流される前に避ける。
ならば、進める場所を一つだけ残し、そこへ自分から入らせる。
二枚目の障壁が、ユリアの足元へ斜めに差し込まれる。
接触すれば、踏み込みの力が外側へ流される角度だった。
ユリアは面へ触れず、その手前で方向を変える。
ミレイユは最初の障壁を消し、後退する位置へ新たな一枚を置く。
同時に維持するのは二枚だけ。
ユリアが一枚を越えるたび、それを消し、逃げる先へ別の面を作る。
前。
後ろ。
内側。
場外側。
完全に塞がない。
あえて一つだけ、抜けられるように見える隙間を残す。
ユリアの青灰色の瞳が、障壁の配置を一巡した。
隙間が誘いであることには、気づいている。
それでも彼女は入った。
流された後に止まる方法を、すでに選んでいたからだ。
細い身体が、残された道へ滑り込む。
ミレイユは最後の障壁を、その先へ置いた。
ユリアの進路が折れる。
身体が、場外線の方へ流れた。
観客席がどよめく。
「また場外か!」
「いけるぞ!」
魔導科側の声が大きくなる。
だが、ユリアは流されきる前に動いていた。
右手の短剣を逆手に持ち替え、石畳へ突き立てる。
刃が火花を散らした。
ユリアは柄を握ったまま、腕と腰で身体を引き止める。
ロウも槍を石畳へ突き立てようとした。
だが、彼は場外線の直前まで流されてから踏ん張ろうとしたため、その位置をミレイユに読まれた。
ユリアは違う。
流され始めた時点で止まった。
しかも、左足へ体重を残し、どちらへでも切り返せる軸を手放していなかった。
ミレイユの目が見開かれる。
右手の短剣を石畳へ使いながら、左手にはもう一本の刃が残っている。
片方の武器を移動のために使っても、攻撃手段を失っていない。
「そこまで、考えていましたの……」
「勝つためなら」
ユリアは短く答えた。
その直後、左手の短剣を投げる。
狙いはミレイユの足ではない。
つま先、その僅か手前の石畳だった。
刃先が石畳へ当たり、鋭い音と火花を散らす。
人は足元へ刃が飛べば、反射的に視線を落とす。
ミレイユの目も、一瞬だけ下がった。
その瞬間、ユリアは右手の短剣を石畳から引き抜く。
強引に身体を止めた反動で、右手首へ鈍い痛みが走った。
刃先にも小さな欠けが生じている。
それでも止まらない。
左足を軸に身体を返し、低く踏み込む。
ミレイユは障壁を置こうとした。
だが、魔力が遅い。
呼吸が乱れている。
腕が重い。
それでも、杖を下ろさなかった。
「私は……魔導科代表ですわ……!」
透明な障壁が生まれる。
しかし、ユリアはすでに、その屈折面の背後へ潜り込んでいた。
ミレイユと障壁の間。
外から来る刃を逸らすための角度が、十分に働かない位置だった。
ユリアはミレイユのすぐ横へ入り込み、欠けた短剣の刃を首筋の寸前で止める。
ミレイユが次の障壁を展開するより早い。
避けようとすれば、刃へ自分から触れる距離だった。
審判が即座に手を上げる。
「審判停止!勝者、戦技科代表ユリア・ヴェルナー!」
戦技科側から歓声が上がった。
魔導科側には、悔しげな沈黙が広がる。
ミレイユはしばらく動けなかった。
負けた。
一戦目で勝ち、二戦目で敗れた。
身体は疲れ切り、魔力もほとんど残っていない。
それでも、膝はつかなかった。
ユリアは短剣を首筋から離し、一歩下がる。
投げたもう一本も拾い上げ、刃の状態を確かめた。
「悪くなかった」
その声は冷たくなかった。
「一戦目の障壁は見事だった。だから、二戦目は先に潰した」
ミレイユは荒い息を整えながら、ユリアを見返す。
「褒め言葉として……受け取っておきますわ」
「ええ。そうして」
ユリアは短く頷き、試合場の中央へ戻った。
審判が、負傷確認と試合場整備のための準備時間開始を告げる。
教員たちが競技区画へ入り、石畳へ残った傷と魔力の乱れを確認し始めた。
ミレイユは控え区画の境まで戻る。
足元が僅かに揺れた。
だが、倒れない。
境界の向こうでは、次鋒のシオンがすでに待っていた。
二人は声を落とす。
「右へ誘った時、ユリアさんは左足へ重心を残していましたわ」
シオンはすぐに頷いた。
「どちらへでも切り返すための軸ですね」
「ええ。短剣を石畳へ使ってでも、場外へ出る前に止まります。場外だけを狙えば、同じ方法で逃げられますわ」
「右手首へ負担が残っています。突き立てた短剣の刃先も欠けました」
シオンはユリアの右手を見る。
表情には出していない。
だが、短剣を握り直した時、指先が僅かに遅れた。
ミレイユは続ける。
「もう一つ。あの方は杖先だけを見ていません。光や刃で視線を誘い、こちらの目が動いた瞬間に屈折面の背後へ入ります」
「障壁へ正面から挑まず、術者との間へ入る」
「はい。私には一度しか見えませんでした。癖と決めつけないでください。けれど、同じ選択をする可能性はあります」
シオンの表情が変わる。
「分かりました。全部、拾います」
ミレイユは小さく息を吸った。
悔しさで、声が震えそうだった。
それでも、言わなければならない。
自分が見たものを、次へ渡さなければならない。
「私は負けました」
薄紫色の瞳が、シオンを真っ直ぐ見る。
「ですが、何も残せなかったわけではありませんわ」
「はい」
シオンは静かに答えた。
「残してくれたものを、勝ちへ繋げます」
ミレイユの表情が、僅かに緩む。
「頼みましたわよ、シオンさん」
「任せてください」
準備時間の残りが告げられる。
シオンは試合場へ向かう。
ミレイユは控え場所へ戻る途中、アトカと目が合った。
アトカは何かを言おうとして、少しだけ迷った。
けれど、結局いつものように真っ直ぐ告げる。
「ミレイユさん、すごかったです」
ミレイユの唇が、僅かに震えた。
負けた。
悔しい。
勝ち続けたかった。
それでも、その言葉は嬉しかった。
「……当然ですわ」
ミレイユは顔を背ける。
「私は、魔導科代表ですもの」
アトカは柔らかく微笑んだ。
試合場の中央へ、シオンが立つ。
向かい側には、ユリアがいる。
呼吸は大きく乱れていない。
だが、何も失っていないわけではなかった。
右手首へ残った負担。
欠けた短剣。
左足へ残す重心。
刃の光で視線を誘う動き。
障壁へ正対せず、術者との間へ入った判断。
すべて、ミレイユが残したものだった。
シオンは杖の先端を、静かに床へ向ける。
「ここからは、俺の番だ」
小さな声だった。
だが、確かな意志があった。
「残してくれたものを、無駄にはしない」
審判が右手を上げる。
大演習場の熱が、再び高まった。
魔導科は一勝一敗。
次の一戦が、流れを大きく変える。
シオンは深く息を吸った。
審判の手が振り下ろされる。
「第三戦、開始!」




