曲げる誇り
透明な障壁が、一枚だけ生まれた。
厚い壁ではない。
真正面から敵を受け止めるためのものでもない。
薄く、斜めに置かれた鏡のような屈折障壁だった。
ミレイユ・フォン・ラスターの正面へ、戦技科代表のロウ・グランツが突っ込んでくる。
赤茶色の髪を揺らし、短槍を低く構え、石畳を踏み砕くような勢いで距離を詰めていた。
開始から、まだ一秒も経っていない。
ロウの狙いは明らかだった。
ミレイユに術式を組ませない。
考える時間を与えない。
魔導科の生徒が杖を構え、魔力を練り、術式を完成させるより先に、短槍の間合いへ入って押し切る。
観客席の戦技科側から歓声が上がった。
「行け、ロウ!」
「そのまま潰せ!」
「魔導科に撃たせるな!」
ミレイユの耳にも、その声は届いていた。
怖くないわけではない。
最初の一歩だけで間合いの半分が消えた。
次の一歩には、槍の穂先が胸元へ届く。
真正面から受ければ、障壁ごと押し破られるかもしれない。
それでも、ミレイユは逃げなかった。
真正面から止めない。
厚く張らない。
自分の力だけで相手の勢いを受け止めようとしない。
訓練室で、何度も叩き込まれた考えが頭の奥に残っている。
相手の力を消そうとするのではなく、相手が進みたい方向から外す。
ミレイユは杖を僅かに傾けた。
目の前の障壁も、それに合わせて数度だけ角度を変える。
試験ならば、誤差として見落とされるほどの違いだった。
だが、全力で突進するロウにとって、その数度は小さくない。
槍の穂先が障壁へ触れた。
ロウはそのまま押し破るつもりで、腕と肩へ力を込める。
しかし、槍の力は正面から受け止められなかった。
穂先が障壁の表面を滑り、右へ流れる。
槍を握る腕が引かれる。
肩がずれる。
踏み込んだ身体の軸まで、槍の向きへ引きずられた。
「なっ……!」
ロウの目が見開かれる。
力負けしたのではない。
止められたのでもない。
自分の勢いを利用され、進む向きだけを変えられた。
その違和感に、ロウの身体が僅かに遅れる。
ミレイユは、その一瞬を逃さなかった。
一枚目の障壁は、槍の向きを外すため。
次に狙うのは、ロウが体勢を戻すための一歩だった。
槍を右へ流されたロウは、左足で石畳を踏み直そうとしている。
その靴底が触れる位置へ、ミレイユは二枚目の薄い障壁を斜めに差し込んだ。
正面から足を止める壁ではない。
触れた足裏の力を、さらに外側へ逃がすための屈折面だった。
ロウの左足が障壁へ触れる。
踏ん張るはずだった力が、横へ流れた。
「うおっ……!」
ロウの身体が大きく傾く。
観客席の歓声が、ざわめきへ変わった。
「今の、何だ?」
「防いだのか?」
「いや、逸らした……?」
魔導科側からも、息を呑む音が広がる。
控え場所で、アトカが青い瞳を輝かせた。
「ミレイユさん、すごいです」
隣のシオンは答えなかった。
ロウの足運びと、ミレイユが置いた障壁の位置を黙って追っている。
ミレイユは先手を取った。
だが、ロウはまだ倒れていない。
彼は流された槍の穂先を石畳の継ぎ目へ噛ませ、腕と腰の力で身体を引き戻した。
「やるじゃねぇか!」
その声から、試合前の軽さが消えている。
驚き。
悔しさ。
そして、自分の全力へ正面から応じなかった相手に対する、僅かな楽しさ。
ロウは短槍を構え直し、腰を低く落とした。
「でも、一回流したくらいで勝ったと思うなよ!」
次の踏み込みは、さらに速かった。
しかも、今度は真正面ではない。
右へ進むように肩を揺らし、ミレイユが障壁を置くより先に左へ切り返す。
短槍の穂先が低く沈み、膝を狙う軌道へ変わった。
一度見た方法へ、同じ形では突っ込まない。
ロウもまた、戦技科の代表だった。
ミレイユの喉が小さく鳴る。
速い。
訓練の水球よりも速い。
バルトロの荒い突進より、槍の先が鋭く、間合いが長い。
恐怖が指先へ絡みつく。
厚く張りたい。
身体を覆いたい。
力で止めたい。
リリシアへ水球を跳ね返しかけた日の白い霧が、脳裏をよぎる。
焦って障壁を重ねれば、また制御を失う。
あの日の失敗から学んだことを、今度こそ使わなければならない。
ミレイユは短く息を吸った。
「……終わらせませんわ」
ロウの槍は膝を狙っている。
だが、ミレイユは膝の前へ障壁を置かなかった。
そこへ置けば、槍は止められるかもしれない。
けれど、身体強化を乗せた一撃を正面から受ければ、薄い障壁では砕かれる。
厚くすれば、次の判断が遅れる。
何より、槍を止めてもロウ自身の勢いは残る。
だから、攻撃ではなく、その後を狙う。
ロウは低く沈んだ姿勢から槍を突き出している。
次の一歩では肩を起こし、身体の軸を中央へ戻すはずだった。
ミレイユは、その肩が戻ろうとする場所へ障壁を置いた。
「そこじゃねぇだろ!」
ロウが叫ぶ。
槍は下にある。
障壁は肩の外側にある。
攻撃を防ぐ位置ではない。
だが、次の瞬間、ロウは気づいた。
槍を外されたのではない。
身体を立て直す方向を奪われた。
肩が屈折障壁へ触れる。
押し返されたのではない。
身体を起こすために上へ向かっていた力だけが、斜め外側へ流された。
ロウの上体が起きない。
低く沈んだまま伸びた槍は、ミレイユの膝へ届かず、石畳の表面を掠めた。
ミレイユは一歩だけ後ろへ下がった。
逃げたのではない。
誘っている。
青い光で示された場外線までの距離を、彼女は試合開始前から数えていた。
そこへ、ロウの身体を運ぶ。
ロウも意図に気づく。
「場外狙いかよ!」
「お気づきになるのが少し遅いですわ」
ミレイユは杖を振る。
ここから先は、ロウを倒すための攻撃ではない。
彼が自分の力で進む先を、場外へ向ける。
三枚目の障壁は、ロウの斜め後方へ置いた。
身体を引いて距離を取り直す進路へ、触れれば勢いが横へ逸れる角度で差し込む。
四枚目は、短槍を引き戻す側へ置いた。
槍を支えに体勢を戻そうとすれば、穂先の力が外へ逃げる。
五枚目は、踏み直そうとした足の外側へ置く。
どの障壁も薄い。
一枚だけなら、ロウが足を止め、面へ正対して槍を叩き込めば破壊できる程度だった。
だが、走りながら斜めの面へ穂先を当てても、力そのものが横へ流される。
壊すには、足を止めて姿勢を整えなければならない。
足を止めれば、次の障壁を置かれる。
踏み込めば、進路を曲げられる。
ミレイユは使い終えた障壁から順に消し、その魔力を次の一枚へ回していた。
複数の障壁を、厚く重ねているのではない。
一枚ごとの強度を最低限まで落とし、必要な角度だけを保ちながら、ロウの進路へ先回りしている。
それでも、魔力の消耗は軽くなかった。
額から汗が流れ、杖を握る指先が痺れ始める。
だが、ロウの突進力は、少しずつ、確実に場外線へ向かっていた。
「くそっ!」
ロウは短槍を両手で握り直した。
足へ魔力が集まり、石畳が低く鳴る。
何度進路を変えても、先を読まれる。
ならば最後は、自分が最も得意とする一歩へ賭ける。
「だったら、まとめてぶち抜く!」
今までで最も強い踏み込みだった。
迷いも駆け引きも捨てた、真正面からの一点突破。
ミレイユの身体が一瞬だけ強張る。
怖い。
それでも、目は逸らさない。
訓練室で何度も失敗した。
アトカの水球に隙間を抜かれ、バルトロの踏み込みに判断を乱され、エルマに何度も遅いと告げられた。
だからこそ、今は分かる。
速い突進ほど、一度進路を曲げられれば戻れない。
「シオンさん」
ミレイユは、控え場所にいる仲間の名を小さく呼んだ。
試合中に答えを求めたのではない。
数週間前、彼へ告げた言葉を、自分自身へ確かめるように口にした。
「私が曲げます」
杖の先へ魔力が集まる。
一枚目を、ロウの正面へ置く。
二枚目を、その奥へ僅かに角度を変えて展開する。
さらにその先へ、使い終えた障壁の魔力を回しながら、薄い屈折面を一枚ずつ繋ぐ。
防ぐための壁ではない。
押し返すための結界でもない。
ロウの力を止めずに運ぶための道だった。
ただし、彼が望む方向ではない。
ミレイユが選んだ、場外線へ続く道。
ロウの槍が最初の障壁へ触れた。
穂先が流れる。
二枚目へ触れ、さらに軌道がずれる。
ミレイユはロウが通過した一枚目を消し、その魔力を前方の障壁へ送り直す。
三枚目。
四枚目。
ロウの突進は止まらない。
止まらないからこそ、もう急には戻れない。
「なっ、これ……!」
ロウの足が青い場外線へ向かう。
観客席の生徒たちが、一斉に立ち上がった。
「止まれ、ロウ!」
「踏ん張れ!」
ロウは短槍を石畳の継ぎ目へ突き立てようとした。
穂先を噛ませることができれば、腕の力で身体を引き止められる。
それが最後の踏ん張りだった。
だが、ミレイユはその動きを初めの突進ですでに見ていた。
最後の一枚が、槍を突き立てようとした位置へ滑り込む。
穂先は石畳の継ぎ目へ届かなかった。
屈折障壁の表面を滑り、場外線と平行に流される。
「嘘だろっ……!」
ロウの右足が、青い場外線を越えた。
それでも彼は止まろうと、左足を強く踏み出す。
だが、その左足も競技区画の外へ着いた。
青い魔力光が大きく弾ける。
審判の声が、大演習場へ響き渡った。
「場外!勝者、魔導科代表ミレイユ・フォン・ラスター!」
一瞬、誰も声を出せなかった。
戦技科の生徒も。
魔導科の生徒も。
ロウ本人でさえ、場外の石畳へ片膝をついたまま、呆然とミレイユを見ていた。
次の瞬間、魔導科側の観客席が爆発したように沸く。
「勝った……!」
「ミレイユさんが戦技科の先鋒を落とした!」
「特等枠だけじゃないぞ、魔導科は!」
歓声が波のように広がっていく。
ミレイユは、しばらくその場から動けなかった。
杖を握る手が震えている。
膝にも力が入りにくい。
魔力も大きく削られた。
それでも倒れず、試合場の内側に立っている。
勝った。
本当に、自分の術式で勝った。
控え場所で、アトカが立ち上がる。
「ミレイユさん!」
シオンも小さく息を吐き、固く拳を握った。
ギルベルトは懐中時計を開き、試合時間を確認する。
「初戦は取ったな」
記録席では、エルマのペン先が一度だけ止まっていた。
眼鏡の奥の瞳には、僅かに誇らしげな色が浮かんでいる。
だが、彼女はすぐに記録を再開した。
まだ対抗戦は終わっていない。
リリシアは目に涙を浮かべながらも、歓声を上げるより先にミレイユの立ち方と呼吸を見ていた。
かなり魔力を消耗している。そのことだけは、離れた場所からでも分かった。
バルトロは口笛を吹き、カインは壁際の観覧席で静かに頷いた。
場外へ出たロウは、しばらくして立ち上がった。
悔しそうに頭を掻き、短槍を肩へ担ぎ直す。
「……やられた」
ロウは、自分が通ってきた障壁の位置を振り返った。
「止められたんじゃなくて、走らされたのか」
ミレイユは荒い呼吸を整えながら、ロウを見る。
「貴方の突進は、本当に速かったですわ。真正面から受け止めていたら、私は負けていました」
ロウは少し驚いた顔をした。
それから苦笑する。
「勝った奴が、それ言うかよ」
「事実ですもの」
「そっか」
ロウは短く笑い、槍を下ろした。
「魔導科って、思ってたより面倒くせぇな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
ミレイユは胸を張った。
魔導科側から、再び歓声が上がる。
審判が両者の間へ進み、準備時間の開始を告げた。
試合場では教員たちが、ロウの槍によって傷ついた石畳と、残された魔力の乱れを確認していく。
ミレイユは控え場所の手前まで戻った。
競技区画を完全に離れることはできないが、準備時間中に限り、同科の代表同士で短い情報交換が認められている。
リリシアは試合へ介入できないため、離れた場所からミレイユの顔色を見守っていた。
シオンが真っ先に口を開く。
「ユリアさんは、最後の障壁の枚数よりも、一枚目を出す直前の左足を見ていました」
ミレイユの表情から、勝利の余韻が消えた。
「左足?」
「はい。貴方は障壁の角度を変える時、先に左足へ体重を移しています。杖を見るより早く、足を見れば置く方向が読めると思われたかもしれません」
ギルベルトも続ける。
「呼吸も見られていた。ロウの二度目の突進で、お前は一度だけ息を止めた。その直後に防御ではなく肩の戻りを狙っている」
「そこまで……」
ミレイユは短く息を吐き、左足の位置を確かめる。
自分では気づいていなかった癖だった。
アトカが静かに言う。
「全部を今から直そうとすると、動きが固くなると思います」
ミレイユが彼を見る。
「左足へ体重を移す動きを消すのではなく、違う方向へ障壁を置く時にも同じ動きを見せれば、ユリアさんを迷わせられるかもしれません」
ミレイユは一瞬考え、杖を握り直した。
「癖を隠すのではなく、嘘へ変えるのですね」
「はい」
シオンがユリアの控え場所へ視線を向ける。
「ただし、一度しか使えないと思います。あの人なら、二度目には修正します」
「一度あれば十分ですわ」
ミレイユは荒れていた呼吸を、ゆっくり整える。
「その一度で、次の手へ繋げます」
ギルベルトが懐中時計を見る。
「残り時間は短い。魔力は」
「まだ戦えますわ。ですが、先ほどと同じ枚数を続けて展開するのは難しいです」
「なら、場外へ運ぶことに固執するな。次は一枚で勝とうとせず、一枚で何を見せるかを選べ」
「承知しましたわ」
準備時間の終了を知らせる鐘が鳴った。
戦技科側の控え場所から、一人の少女が立ち上がる。
黒髪を高い位置で結び、腰へ双短剣を差した細身の少女。
ユリア・ヴェルナー。
ロウとすれ違う時、淡々と告げる。
「悪くなかったわ。でも、少し真っ直ぐすぎた」
「うるせぇ。次は任せた」
「ええ」
ユリアは競技区画へ足を踏み入れた。
青灰色の瞳は、ミレイユの杖先だけを見ていない。
肩。
足元。
呼吸。
障壁を置く前の体重移動。
そのすべてを見ている。
ミレイユは、まだ僅かに震える足で試合場の中央へ戻った。
勝った。
だが、魔力を使った。
手の内も見せた。
癖まで読まれようとしている。
勝ち抜き戦では、勝利そのものが次の相手へ情報を与える。
それでも、ここで終わるつもりはない。
「一戦目で満足するほど、殊勝ではありませんの」
ミレイユは杖を構える。
左足へ、ゆっくりと体重を移した。
ユリアの視線が、その動きを捉える。
ミレイユは小さく笑った。
見たいのなら、見せればいい。
ただし、それが真実とは限らない。
審判が第二戦の開始位置を示す。
大演習場の熱は、さらに高まっていた。
魔導科代表は、確かに一勝を掴んだ。
だが、勝ち抜き戦はまだ始まったばかりだった。




