決戦の朝
対抗戦当日の朝。
王立エルシオン学園は、いつもの学園とはまるで異なる熱を帯びていた。
最上層にある大演習場へ向かう石畳の道には、早朝から生徒たちの列ができている。
戦技科の生徒たちは拳を振り上げ、興奮を隠さず声を張り上げていた。
魔導科の生徒たちは杖を胸元へ抱え、緊張した面持ちで同じ方向へ歩いている。
普段なら互いに距離を置く二つの科が、今日は一つの場所を目指していた。
魔導科と戦技科。
これまで言葉と噂でぶつかっていた二つの誇りが、今日、同じ舞台の上で確かめられる。
大演習場は、学園内でも最大規模を誇る実戦訓練施設だった。
円形の闘技場を思わせる広大な空間の中央には、石畳と土の地面が混ざった試合場が広がっている。
その周囲を、階段状の観客席が幾重にも取り囲んでいた。
競技区画の境界は、淡い青色の魔力光で示されている。
四方には安全結界を維持する魔導柱がそびえ、試合場の外側では複数の教員が結界と停止設備の最終確認を行っていた。
観客席の一角では、戦技科の生徒たちがすでに声を上げている。
「ロウ、初戦で決めろよ!」
「魔導科に術式を組む時間なんか与えるな!」
「ルト先輩まで回る前に終わるんじゃねぇか?」
それに対し、魔導科側はやや静かだった。
だが、そこに以前のような諦めはない。
「ミレイユさんなら、きっとやれる」
「シオン先輩の拘束術式、最近かなり変わったらしいぞ」
「特等枠だけじゃないって、見せてほしい」
小さな声が、次第に観客席のあちこちへ広がっていく。
魔導科代表の控室では、四人が静かに出番を待っていた。
ミレイユは椅子へ腰を下ろし、杖の先端を布で丁寧に拭いている。
いつもなら髪や服装を鏡で確かめるところだが、今の彼女の視線は杖を走る魔力導線だけへ向けられていた。
「緊張していますか?」
アトカが穏やかに尋ねる。
ミレイユは一瞬だけ手を止め、それから小さく鼻を鳴らした。
「当然ですわ。代表として戦うのですから、緊張しない方がおかしいでしょう」
「そうなんですね」
「ですが、怖気づいているわけではありませんわ」
ミレイユは顔を上げた。
薄紫色の瞳には、確かな光が宿っている。
「わたくしが相手の進路を曲げます。そこで見えたものは、すべてシオンさんへ残します。昨日、そう決めましたもの」
隣で術式ノートを閉じていたシオンが、静かに頷く。
「はい。ミレイユさんが残したものは、俺が拾います」
ギルベルトは真鍮製の懐中時計を開き、秒針を確認していた。
「悪くない。だが、情報を残すことを負ける理由にはするな。まずは勝て。勝った上で、見えたものも次へ繋げろ」
「命令されなくても、そのつもりですわ」
ミレイユは立ち上がった。
その背筋は、初めて代表訓練室へ集められた時よりも、ずっと真っ直ぐに伸びていた。
入場準備までの短い時間、付き添いを許されたリリシア、バルトロ、カインも控室にいた。
リリシアは代表四人の顔色と呼吸を順に確かめ、アトカの右肩にも異常がないことを確認する。
「皆さん、今のところ問題ありません。ですが、少しでも身体や魔力に異常を感じたら、すぐに伝えてください」
「はい」
アトカが答える。
バルトロは魔石を噛みながら、ミレイユへ視線を向けた。
「先鋒で全員ぶっ飛ばしてきてもいいんだぞ」
「そのつもりですわ。貴方に言われるまでもありません」
「いい顔になったじゃねぇか」
ミレイユは返事をせず、杖を握り直した。
壁際のソファーに座っていたカインは、代表たちを一人ずつ見た後、アトカへ僅かに頷いた。
前夜の言葉を繰り返す必要はなかった。
戻ってこい。
その願いは、すでに全員の胸へ届いている。
控室の扉がノックされた。
「魔導科代表、入場準備を」
教師の声が響き、室内の空気が変わった。
ミレイユが杖を握る。
シオンがノートを閉じる。
ギルベルトが懐中時計をしまう。
アトカは、漆黒のローブの胸元へ義手を添えた。
黒蜘蛛の紋章。
その下では、翡翠色のブローチが朝の光を受けている。
三年間、キルウェスタのもとで学んだ日々を思い出しながら、アトカは静かに息を吸った。
今日ここへ立つのは、師の弟子としてだけではない。
魔導科代表として。
アッシュフォード家の息子として。
そして、三年前に兄と交わした約束を果たす、一人の魔術師として。
「行きましょう」
アトカが告げる。
四人は控室を出た。
リリシアたちは別の通路から関係者用の観覧区画へ向かい、エルマはすでに記録席で分厚いノートを開いている。
大演習場へ続く通路は、朝の光に満ちていた。
先頭を歩くミレイユの足音は硬い。
けれど、揺れてはいない。
シオンはその半歩後ろを歩き、静かに呼吸を整えている。
ギルベルトは普段と変わらぬ足取りで進み、アトカは空の左袖を揺らしながら、真っ直ぐ前を見ていた。
通路の先に、眩しい試合場が見える。
歓声が近づく。
魔導科代表が姿を現した瞬間、観客席が大きくざわめいた。
「来たぞ、魔導科だ」
「アトカだ。あれが噂の特等枠一年」
「ミレイユさんもいる。通常課程から選ばれた代表だ」
驚き。期待。疑い。不安。
無数の視線が、四人へ降り注ぐ。
ミレイユは一度だけ深く息を吸い、顎を上げた。
見られている。
ならば、見せればいい。
魔導科の通常課程で学ぶ者たちが、積み重ねてきたものを。
向かい側の通路から、戦技科代表が入場してきた。
先頭に立つのは、赤茶色の髪をした少年、ロウ・グランツ。
短槍を肩へ担ぎ、快活な笑みを浮かべている。
その後ろには、双短剣を腰へ差したユリア・ヴェルナー。
青灰色の瞳は、入場した時点ですでに魔導科代表の足運びや杖の持ち方を観察していた。
続くのは、重い盾と斧を携えたダリウス・ベルク。
大柄な身体は、歩いているだけで周囲へ圧を与える。
そして最後に、ルト・アッシュフォードがいた。
黒髪。
赤い瞳。
無駄のない歩幅。
兄として知る姿が、今日は戦技科代表の列へ立っている。
その姿を見た瞬間、アトカの呼吸が一度だけ浅くなった。
胸元へ添えていた義手の指先が、僅かに止まる。
「兄さん……」
声には出さなかった。
けれど、口の形だけが、そう動いた。
ルトもまたアトカを見た。
ほんの一瞬だけ、兄としての優しさが赤い瞳へ浮かぶ。
しかし、すぐにその表情は戦技科代表のものへ戻った。
アトカも前へ向き直る。
今は駆け寄る時ではない。
約束について語る時でもない。
この場所で、自分がどれほど魔術師になれたかを見せる。
言葉は、その後でよい。
中央の壇上へ、学園長フレデリックが立つ。
長い銀髪が朝の光を受け、琥珀色の瞳が両科の代表を静かに見渡した。
「諸君。今日ここで行われるのは、単なる優劣を決めるための試合ではない」
その声は、大演習場全体へ澄んで響いた。
「戦技科には戦技科の誇りがある。魔導科には魔導科の積み重ねがある。互いを噂で測るのではなく、目の前に立つ相手として知りなさい」
観客席のざわめきが、ゆっくりと静まっていく。
「勝者は胸を張りなさい。敗者は、そこで得たものを次へ繋げなさい。ここは学園だ。勝利も敗北も、君たちを前へ進ませるためにある」
フレデリックは審判席へ視線を送った。
審判役の教員が一歩前へ出る。
「試合は四対四の勝ち抜き個人戦とする。降参、戦闘続行不能、審判による停止、または両足が競技区画の外へ出た時点で敗北だ」
淡い青色の場外線が、試合場の周囲で一度強く輝いた。
「致命傷や後遺症を残す攻撃、降参後の追撃を禁止する。審判が危険と判断した場合は、勝敗が決する前でも試合を停止する」
続いて、両科の控え場所を示す。
「各試合の終了後には、負傷確認と試合場整備のための短い準備時間を設ける。その間に限り、同科の出場代表間での情報交換を認める。ただし、教員、記録係、観客からの助言は禁止する」
記録席にいるエルマは、その宣言と同時に一度だけペン先を止めた。
ここから先、自分にできるのは記録することだけだった。
戦う四人自身が、訓練で得たものを繋がなければならない。
審判の説明が終わる。
フレデリックは両科の代表を見渡し、穏やかに微笑んだ。
「では、魔導科対戦技科、学園内対抗戦を開始する」
大きな歓声が、大演習場を揺らした。
第一戦の名が告げられる。
「魔導科代表、ミレイユ・フォン・ラスター」
ミレイユは静かに前へ出た。
足が震えていないと言えば、嘘になる。
だが、彼女は止まらなかった。
背後から、シオンの声が届く。
「ミレイユさん」
振り返らず、ミレイユは答える。
「分かっていますわ」
「曲げてください」
「当然ですわ」
その短いやり取りだけで十分だった。
ミレイユは青く輝く場外線を越え、試合場へ足を踏み入れた。
向かい側から、ロウ・グランツが短槍を肩で回しながら歩いてくる。
「へえ。あんたが一番手か」
ロウは歯を見せて笑った。
「その綺麗な障壁、一枚目を出す暇があるといいな」
「ご心配には及びませんわ」
ミレイユは杖を構える。
薄紫色の瞳が、ロウの足元を捉えた。
槍の穂先ではない。
視線でもない。
最初の一歩。
そこに、すべてが表れる。
ロウは短槍を低く構えた。
「俺は最初から全力で行くぜ」
ミレイユの口元が、僅かに上がる。
「その勢いごと、お持ち帰りくださいませ」
審判が右手を上げる。
観客席が息を呑んだ。
ミレイユは深く息を吸う。
真正面から止めない。
力で受けない。
アトカが見守っている。
シオンが次へ繋ぐ準備をしている。
ギルベルトが時間を見ている。
記録席では、エルマが一言も助言せず、すでにペンを構えている。
ならば、無様な負け方などできない。
審判の手が振り下ろされた。
「第一戦、開始!」
ロウの足が、石畳を蹴った。
その踏み込みは、訓練で向き合った水球とはまるで違った。
安全な着地点を選ぶアトカの足運びとも違う。
多少姿勢を崩してでも短槍を届かせるための、戦技科の一歩だった。
だが、ミレイユは目を逸らさない。
杖の先端に、透明な屈折障壁が一枚、静かに生まれた。




