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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
約束を果たす対抗戦
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45/66

同じ魔導科として

対抗戦前日の夕刻。


昼過ぎまで訓練室へ響いていた激しい水音も、土の杭が床を震わせる音も、すでに止んでいた。


最終調整を終えた魔導科代表たちは、特等枠ラウンジの円卓を囲んでいる。


ギルベルトは真鍮製の懐中時計を机の上へ置き、その横に対戦表と戦技科代表の情報を広げていた。


両科の出場順は、すでに公開されている。


魔導科は、先鋒ミレイユ、次鋒シオン、中堅ギルベルト、大将アトカ。


戦技科は、先鋒ロウ、次鋒ユリア、中堅ダリウス、大将ルト。


ただし、勝ち抜き戦である以上、順番どおりの者同士が必ず戦うわけではない。


先に出た者が勝ち続ければ、次の代表が戦う相手も変わる。


机の上に置かれた対戦表には、考えられる組み合わせが幾つもの線で結ばれていた。


ミレイユは自分の杖を布で丁寧に拭いている。


シオンは術式ノートへ、最終調整で気づいたことを短く書き加えていた。


アトカは、リリシアが淹れた紅茶のカップを義手で慎重に持ち、ゆっくりと口をつける。


昼の確認では、義手の動きにも右肩にも異常はなかった。


それでも、こぼさないように扱う指先は丁寧だった。


円卓の中央には焼き菓子の皿と、空になりかけた水差しが置かれている。


バルトロが噛み砕いた魔石の欠片だけが、小皿の上で時折乾いた音を立てていた。


訓練後の疲労は残っている。


けれど、初日のようなぎこちなさはなかった。


ミレイユが特等枠の二人を警戒し、シオンが自分たちを穴埋めだと思い込んでいた頃とは違う。


今ここにいる四人は、それぞれ異なる力と不安を抱えながら、同じ勝利へ向かう代表だった。


ギルベルトが灰色の瞳で一同を見渡す。


「明日の第一戦は、ミレイユとロウ・グランツだ」


ミレイユが顔を上げた。


薄紫色の瞳には、強い集中が宿っている。


「ロウは単純な突進型だ。だが、単純だからこそ初動が速い。真正面へ厚い障壁を置けば、短槍と身体強化を重ねて押し切られる可能性が高い」


「承知していますわ」


ミレイユは杖を膝の上へ置いた。


「真正面から受け止めるのではなく、踏み込みの力を逸らします。ロウさん自身の勢いを利用し、進路を場外側へ流す。初動を止める基本案は、何度も反復しましたもの」


「それでいい。ただし、一枚目で場外まで運べるとは思うな。ロウが槍を地面へ突き、無理にでも進路を戻す可能性がある」


「戻ろうとした時の二歩目を狙いますわ。最初から完全に止めようとはしません」


エルマが眼鏡を押し上げる。


「ようやく戦術らしい答えになりましたわね。最初の貴方なら、最も美しい障壁を真正面へ置いて、最も綺麗な形で押し切られていたでしょうけれど」


「それを前日に言う必要がありますの?」


「慢心を防ぐためです」


「エルマ先輩は、褒め言葉の前に必ず棘を付けなければ気が済みませんのね」


「忘れにくくてよいでしょう?」


ミレイユは不満そうに眉を寄せたが、口元には僅かな笑みがあった。


ギルベルトは続ける。


「ミレイユがロウに勝った場合、次はユリアだ。ユリアは一戦目を外から見た上で、障壁を置く時の視線と杖先の癖を利用してくる」


ミレイユの表情が引き締まる。


「全部の手札をロウさんへ見せるつもりはありませんわ。ですが、温存することばかり考えて初戦を落とせば意味がない。必要なものは使います」


「それでいい。明日の一戦目に勝たなければ、二戦目の心配は不要になる」


「分かっていますわ」


ギルベルトはシオンへ視線を移した。


「シオン。お前が最初に想定する相手は二人だ」


シオンはノートを閉じる。


「ミレイユさんがロウさんに敗れた場合はロウさん。勝った後にユリアさんへ敗れた場合は、ユリアさんです」


「ああ。ロウが残った場合は、ミレイユがどこまで進路を削れたかを見ろ。どちらの足で踏み直すか、槍を使って体勢を戻すか、その情報を杭の配置へ使え」


「はい」


「ユリアが相手なら、完成した動きを見てからでは遅い。彼女は相手の呼吸と視線を読み、術式の発動より一拍早く動く」


シオンは静かに答えた。


「だから、来てから捕まえるのではなく、来る場所へ置きます。ミレイユさんの障壁を避ける時、どちらの足へ重心を逃がしたかを見ます。その情報が残れば、二歩目を狙えます」


「いい答えだ」


ギルベルトの短い評価に、シオンの肩から僅かに力が抜けた。


ミレイユがシオンを見る。


「私が負ける前提で話されるのは不本意ですけれど、見えたことは残らず伝えますわ」


「勝った場合も伝えてください。次の試合で使うかもしれません」


「もちろんですわ」


数週間前なら、二人は互いの術式へ口を出されることを嫌がっていた。


今は、自分の試合の先に立つ仲間が何を必要とするかを考えている。


ギルベルトは対戦表の中央を指で押さえた。


「俺が出る時点で、相手が誰になっているかは分からない。ロウが残っている可能性も、ユリアやダリウスが出ている可能性もある」


「ギルベルト先輩の基本方針は、すでに確認済みですわね」


エルマが言う。


「ああ。俺は前の試合で生じた時間差と、相手の動きの乱れを使う。ここで細部を増やす必要はない」


ギルベルトは最後にアトカを見る。


「大将のお前も同じだ。ルトと戦えるとは限らない」


アトカは静かに頷いた。


「はい。僕の前に誰が残っていても、皆さんが見つけたことを使います」


ロウの突進。


ユリアの死角への潜り込み。


ダリウスの重い盾。


そして、兄であるルトの剣。


誰が相手であっても、アトカが最後に立つ可能性がある。


「前の三人が残した情報は、全部聞きます」


アトカは対戦表を見つめる。


「どちらの足から動くのか。どんな時に魔力を使うのか。攻撃を外した後、どこへ体勢を戻すのか。それが分かれば、僕も次の方法を考えられます」


ギルベルトが頷く。


「それでいい。自分の番だけを見ている者は、勝ち抜き戦では勝てない」


一通りの確認が終わると、ラウンジへ張りつめていた空気が僅かに緩んだ。


バルトロが椅子の背にもたれ、魔石を噛みながら鼻を鳴らす。


「お前ら、真面目すぎねぇか?明日になったら、結局ぶっ飛ばした方が勝つんだろ」


エルマが冷たい目を向ける。


「貴方が代表でなくて本当によかったですわ。作戦会議が一秒で終わりますもの」


「俺が出ても食える魔術が無いからな。戦技科と相性が悪すぎんだよ」


「そこは正しく理解していますのね」


「俺だって考える時は考えるぞ」


「今がその時ではなさそうですけれど」


リリシアが焼き菓子の皿を円卓の中央へ寄せた。


「皆さん、今日はきちんと食べて、眠ってください。今夜無理をして、明日力を出せない方が困ります」


穏やかな声だった。


それでも、言葉には以前より確かな強さがある。


「怪我をした時は、必要な治療を手伝います。でも、できれば怪我をせずに戻ってきてください」


壁際のソファーに座っていたカインが、静かに口を開いた。


「ここで待っている」


代表四人が彼を見る。


カインは新しい拘束具に包まれた手を膝の上へ置いたまま、短く続けた。


「全員で戻ってこい」


その言葉は簡素だった。


けれど、誰よりも重かった。


かつては誰かを傷つけないため、一人でいることを選んでいたカインが、今は仲間の帰りを待つと言っている。


ミレイユとシオンも、真剣な表情で頷いた。


アトカは紅茶のカップを机へ置いた。


「僕も、皆さんに無事でいてほしいです」


義手の指先が、カップの取っ手から静かに離れる。


「でも、同時に……勝ちたいです」


ラウンジが少しだけ静かになった。


普段のアトカは、誰かと争うことを好まない。


自分が褒められることより、誰かが無事でいることを喜ぶ少年だった。


だからこそ、自分の望みとして勝利を口にしたことに、ミレイユとシオンは思わず彼を見る。


アトカは少し照れたように微笑んだ。


「兄さんと約束したんです。三年後、学園へ行ったら、僕がどれだけ魔術師になれたか見せるって」


右肩の義手へ、青い瞳が向けられる。


「学園へ来た姿だけではなくて、ここで皆さんと学んだことを、魔術師として戦う姿で見てもらいたいんです」


対抗戦で必ずルトと剣を交えられるとは限らない。


アトカが大将まで勝ち残り、ルトも戦技科の大将として出てきて、初めて二人は対戦相手として向き合える。


それでも、ルトは戦技科の代表として会場にいる。


アトカがどの相手と戦おうとも、その姿を兄へ見せることはできる。


「だから明日は、代表として勝ちたいです」


ミレイユは少しの間、黙っていた。


やがて、杖を拭いていた布を静かに畳む。


「でしたら、私たちも無様な姿は見せられませんわね」


アトカが顔を上げる。


「アトカさんがお兄様へ胸を張れるよう、私も先鋒として勝ってきます」


シオンも頷いた。


「俺たちは特等枠ではありません。でも、魔導科代表です」


「はい」


アトカは嬉しそうに目を細めた。


「一緒に勝ちましょう」


ミレイユはその真っ直ぐな返事に、僅かに視線を逸らした。


「……本当に、そういうところですわよ」


「何か変でしたか?」


「変ではありません。真っ直ぐすぎて、こちらの調子が狂うだけですわ」


「すみません」


「謝るところでもありませんの」


バルトロが声を上げて笑い、リリシアもつられて小さく笑った。


緊張も不安も消えてはいない。


それでも、その空気はもう重苦しいだけのものではなかった。


ミレイユは膝の上の杖を見下ろし、少しだけ迷ってから口を開く。


「最初は、この四人で戦うなんて冗談ではないと思っていましたわ」


シオンが僅かに目を瞬かせる。


バルトロは何か言おうとしたが、エルマに睨まれて口を閉じた。


ミレイユは特等枠の者たちを順に見る。


「今は、明日この四人で戦えることを誇りに思っています」


長い告白ではなかった。


けれど、それで十分だった。


シオンもノートへ置いていた手を下ろす。


「俺たちは穴埋めではなかった。それを、明日結果で証明します」


ギルベルトは懐中時計を開いたまま、微かに笑った。


「いい認識だ。勝ち抜き戦は一対一の連続だが、孤独な戦いではない」


エルマも眼鏡を押し上げる。


「その理解に辿り着くまで、随分かかりましたけれどね」


「最後まで素直に褒めてはくださらないのですね」


ミレイユが苦笑する。


「褒めていますわ。かなり」


「分かりづらいですわ……」


やがて、ギルベルトが懐中時計を閉じた。


カチリという音が、ラウンジへ響く。


「作戦確認はここまでだ。今から新しいものを増やしても、精度が落ちるだけだ」


円卓の全員へ視線を巡らせる。


「今夜やるべきことは、杖と装備の確認、魔力回路の回復、食事、睡眠。それだけだ」


エルマも頷いた。


「不安だからといって、夜中に隠れて術式確認などしないことですわ。特にミレイユさん」


「なぜ私だけ名指しですの?」


「やりそうだからです」


ミレイユは僅かに目を逸らした。


「……一度だけならと思っていましたわ」


「駄目です」


「はい……」


リリシアが安堵したように息を吐く。


「眠れなくても、一人で訓練室へ行かないでください。温かいお茶なら、いつでも淹れます」


「それなら俺は、寝る前に肉が食いたい」


バルトロが焼き菓子を一枚摘まみながら言った。


「貴方は明日出場しないでしょう」


エルマが即座に返す。


「応援にも体力を使うんだよ」


「応援する気はあるのですね」


「当たり前だろ。魔導科が負けたら、つまんねぇじゃねぇか」


ミレイユとシオンが僅かに目を丸くする。


バルトロは照れ隠しのように顔を背けた。


「なんだよ。見るな」


カインが小さく息を吐いた。


笑ったのかもしれない。


代表たちがラウンジを出る頃には、窓の外はすっかり夜へ沈んでいた。


廊下へ差し込む月明かりが、白い石床を淡く照らしている。


昼間の喧騒が嘘のように静まり返った学園の中を、魔導科代表たちはゆっくり歩いた。


アトカは最後に一度だけ、ラウンジの扉を振り返った。


何度も帰りを待ってもらった場所。


訓練を終えた後、失敗について話し合った場所。


最初はばらばらだった四人が、少しずつ同じ勝利を見るようになった場所。


アトカは小さく微笑んだ。


「対抗戦、楽しみです」


隣を歩いていたギルベルトが、懐中時計を閉じる。


「楽しみだけで済めばいいがな」


「はい。でも、兄さんに僕たちの戦いを見てもらえますから」


その一言だけは、アトカの声が少し柔らかかった。


ギルベルトは横目で新入生を見る。


「三年前の約束だったな」


「はい。僕が学園へ来たら、どれだけ凄い魔術師になったか見せるって約束しました」


「なら、見せてこい」


ギルベルトは短く告げた。


「魔導科代表として。そして、弟としてだけではなく、一人の魔術師として」


アトカは静かに頷いた。


「はい」


夜の廊下へ、四人の足音が響く。


対抗戦まで、あと一日。


それぞれの胸で、不安と期待と、積み重ねてきた誇りが静かに揺れていた。


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