預け合う強さ
対抗戦まで、あと三日。
両科の出場順はすでに提出され、魔導科の先鋒はミレイユ、戦技科の先鋒はロウ・グランツと決まっていた。
魔導科代表の訓練室では、その初戦を想定した最終確認が行われている。
初日にあった特等枠への反発は、もうミレイユとシオンの視線には残っていなかった。
今の二人が見ているのは、三日後に向き合う戦技科代表と、そこへ勝つために必要な一手だけだった。
「ミレイユさん、今の二枚目は少し高かったと思います」
訓練室の中央に立つアトカが、穏やかに告げる。
「ロウさんが低い姿勢のまま踏み込んできた場合、あの位置では下へ潜られるかもしれません」
ミレイユは額へ張りついた蜂蜜色の髪を払い、杖を握り直した。
「分かっていますわ。ですが、低く置きすぎれば上段への対応が遅れます。短槍は剣より穂先の位置を変えやすい。足元だけを警戒していては、肩口を抜かれますわ」
「二枚目を最初から固定しなければいいと思います」
シオンが静かに口を挟んだ。
以前の彼なら、他人の術式へ自分から意見を出すことはなかった。
今はミレイユの杖の角度も、魔力を通す順番も、障壁を置いた後に生まれる隙間も見ている。
「一枚目でロウさんの進路をずらした後、二枚目を低く滑らせる。槍が上へ動いた時だけ角度を起こせば、最初から出力を分けずに済みます」
ミレイユは少し考え、頷いた。
「その方が合理的ですわね」
エルマが眼鏡を押し上げる。
「ようやく、他者から見た自分の隙間を受け入れられるようになりましたわ」
「……褒めていますの?」
「ええ。本気で問題点を並べれば、三十項目では済みませんもの」
「それは一生聞きたくありませんわ」
壁際で魔石を噛んでいたバルトロが笑う。
リリシアも救急箱を抱えながら、安堵したように二人を見守っていた。
カインは新しい拘束具に包まれたまま、少し離れた位置に立っている。
ギルベルトが懐中時計を開いた。
「ロウ・グランツを想定した最終確認を行う」
訓練室の空気が引き締まる。
「本番でロウと戦うのはミレイユだ。シオンは術式を使わず、外から二人の動きを観察しろ」
シオンが僅かに目を見開いた。
「これまでの二人同時訓練は、二人で一人を倒すためのものではない。味方が何を見て、何を狙ったのかを、術式が完成する前から読むための訓練だ」
ギルベルトはミレイユを見る。
「今回は一人で止めろ」
「承知しましたわ」
「アトカ、何度も悪いが、もう一度突進役を頼む」
「はい」
アトカは訓練室の中央へ進んだ。
右足を半歩引き、重心を静かに落とす。
背筋は伸び、肩には余計な力が入っていない。
靴底と床の間には、移動を補助する薄い水膜が広がった。
踏み出す時には身体を押し、方向を変える時には横へ流れ、止まる時には勢いを受け止める。
攻撃のための水ではない。
キルウェスタから教わった足運びを支えるための水だった。
「条件を確認する」
ギルベルトが告げる。
「アトカは攻撃魔術を使用しない。ミレイユの術式への干渉も禁止だ。足運びと移動補助の水だけを使え」
続いてミレイユへ視線を移す。
「ミレイユはアトカの踏み込みを止め、時計の針が一目盛り進むまでその場へ留めろ。その間に杖先を胸元へ向けられれば成功だ。アトカが先に接触可能な距離へ入れば失敗とする」
「完全に拘束する必要はないのですね」
「ああ。一目盛り奪えば、その間に次の術へ移れる」
エルマがノートを開いた。
「アトカさんはロウさんの完全な代役ではありませんわ。武器の間合いも、身体強化も、踏み込みの目的も異なります」
「それでも、水球と違って私の動きを見て判断を変えます」
ミレイユはアトカを見据えた。
「今の私には、その方が必要ですわ」
アトカが重心を落とす。
ギルベルトの指が懐中時計の蓋へ触れた。
「始める」
最後の音と同時に、アトカが動いた。
速い。
だが、見えないほどではない。
上体をほとんど揺らさず、最初の位置へ重心が残っているように見せたまま、足だけで距離を縮める。
青い瞳はミレイユの右側へ向いていた。
肩も僅かに右へ傾いている。
「右……!」
ミレイユは右側へ屈折障壁を差し込んだ。
触れれば、踏み込みの力を外側へ逸らす角度だった。
しかし、アトカは触れない。
右へ向かうと見せていた重心を、足が着く寸前に中央へ戻す。
大きく跳ばず、置くはずだった右足を僅かに内側へ滑らせ、障壁の縁を抜けた。
ミレイユが二枚目を展開するより早く、義手の指先が額の直前で止まる。
「ここまでです」
ギルベルトが懐中時計を閉じた。
「失敗だ」
「分かっていますわ」
ミレイユは悔しそうに唇を噛んだが、すぐにアトカの足元へ視線を落とした。
ギルベルトがシオンへ問う。
「何が見えた」
「最初の視線と肩は、右へ誘うためのものです。実際の進路は、その後に変えていました」
「それだけか」
シオンは、アトカが踏んだ場所を順に見る。
「右足を置く直前、左足のつま先が僅かに内側へ向いていました。最初から完全に右へ行くつもりはなかったはずです」
アトカが頷く。
「はい。障壁を右へ置かせてから、中央へ戻るつもりでした」
ミレイユはアトカの足を見る。
視線でも肩でもない。
身体を支える足が、次の方向を先に示していた。
「もう一度、お願いしますわ」
ギルベルトが時計を構え直す。
「シオンはもう何も言うな。今の情報を、ミレイユが自分で使え」
シオンは黙って一歩下がった。
ミレイユは深く息を吸う。
青い瞳だけを追わない。
肩。腰。膝。足首。水膜の流れ。
どの足へ体重が乗り、次にどこへ運ばれようとしているのか。
すべてを見る。
「始める」
アトカが踏み込んだ。
視線は右。
肩も右へ傾く。
だが、ミレイユは右側を塞がなかった。
一枚目の障壁を、アトカの正面から僅かに左へずらして展開する。
触れれば、踏み込みを支える力だけが右へ逸れる角度だった。
アトカは接触を避け、右へ進路を変える。
ミレイユは障壁を消さない。
杖を小さく動かし、長い屈折面を斜めに滑らせた。
その一端がアトカの右足の着地点を横切り、反対側の縁は左へ引こうとする足の進路まで塞ぐ。
アトカは右足を置かず、中央へ戻ろうとした。
ミレイユはその動きを待っていた。
「そこですわ!」
二枚目の薄い障壁が、中央へ戻る進路へ差し込まれる。
正面から押し返す壁ではない。
触れた勢いを斜め後方へ逃がす屈折面だった。
右へ行けば、足裏の力を外へ流される。
中央へ戻れば、身体の勢いを後方へ逸らされる。
左へ引けば、一枚目の縁が足の進路を横切っている。
無理に水を噴き出せば、隙間へ滑り込める可能性はあった。
だが、次の一歩を安全に置けない。
アトカは踏み込みを止めた。
ミレイユが杖先を胸元へ向ける。
懐中時計の針が一目盛り進んだ。
「そこまでだ」
アトカは足元の障壁を見下ろし、嬉しそうに顔を上げた。
「止められました」
ミレイユは杖先を保ったまま、長く息を吐く。
「成功、ですわね」
「ああ。ロウ想定の基本案は合格だ」
ミレイユの表情が明るくなる。
だが、エルマはすぐに告げた。
「基本案だけですわ。ロウさんは短槍と身体強化を使います。障壁そのものを突き崩す可能性もある。今の形が本番でそのまま成立するとは思わないことです」
「分かっていますわ。それでも、一度は止めました。次も止めます。本番では、そのまま勝ちますわ」
シオンが口を開く。
「最初の試行で見えたことを、次へ使えましたね」
「ええ。貴方が足元を見ていなければ、また同じ誘いへ引っかかっていましたわ」
「俺は見えたことを伝えただけです。使ったのはミレイユさんです」
「それで十分ですわ」
ミレイユは杖を握り直す。
「本番でも、見えたことは全部伝えます。もっとも、ロウさんはわたくしが倒しますけれど」
「はい。それでも、見せた癖は次の相手を見る材料になります」
シオンも静かに頷く。
「俺も、自分の試合で見つけたものは残します」
二人の言葉には、もう反発も遠慮もなかった。
自分の試合には勝つ。
それでも、見つけたものは次へ渡す。
勝ち抜き戦を四つの独立した試合ではなく、一つの流れとして見られるようになっていた。
アトカは二人を見つめ、柔らかく微笑む。
「勝ちましょう」
ミレイユもシオンも、迷わず頷いた。
エルマがノートへ記録を書き込む。
「良い返事ですわ。ですが、一度では偶然と区別できません。短く休んだ後、同じ開始距離と成功条件で反復します」
「少しくらい余韻へ浸らせてくださってもよろしいのではなくて?」
「勝利してから存分に浸りなさい」
「鬼ですわ……」
「勝つための数式に慈悲は不要です」
バルトロが肩を揺らして笑う。
リリシアはミレイユとアトカの呼吸を順に確かめた。
「再開する前に水を飲んでください。呼吸と肩の力が戻ってからにしましょう」
「三分だ」
ギルベルトが告げる。
「三分で整わなければ、整うまで延ばす。次も条件は同じだが、アトカは別の誘いと進路を使え」
「はい」
カインが壁際で僅かに口元を緩めた。
「エルマより、リリシアの方が止める時は強いな」
「当然です。倒れてからでは遅いですから」
珍しく即答したリリシアに、バルトロが目を丸くする。
「言うようになったな」
「バルトロさんも水を飲んでください」
「俺も?」
「皆さんです」
訓練室に小さな笑いが広がった。
ミレイユは水を一口飲み、再び杖を握る。
シオンも先ほど見たアトカの足運びを、ノートへ簡潔に書き残していた。
ギルベルトは懐中時計の針を戻し、エルマは次の記録欄を開く。
対抗戦まで、あと三日。
魔導科代表はもう、特等枠と一般枠に分かれた寄せ集めではなかった。
それぞれが自分の試合へ勝つために立ち、そこで見つけた一手を次へ預けられる、一つのチームになっていた。




