交わり始める術と刃
二人同時の訓練は、ミレイユとシオンにとって想像以上に難しかった。
個人で術式を展開するだけなら、自分の呼吸だけを整えればよい。
自分の魔力を練り、自分の杖先を定め、自分の計算に従って術式を完成させる。
それは魔導科の生徒にとって、最も基本的で、最も慣れ親しんだ戦い方だった。
けれど、他者の術式を前提に動くとなれば話は違う。
ミレイユが屈折障壁で水球の進路を逸らす。
シオンは、逸らされた先を予測して床へ仕込んだ土の杭を起動し、そこから立ち上げた土の輪で水球を捕らえる。
理屈だけなら単純だった。
だが、実際にやってみると、ミレイユの障壁角度が僅かにずれただけで、水球はシオンの想定地点から外れる。
シオンが杭を選ぶのが一瞬遅れれば、土の輪が立ち上がる前に水球は通り過ぎる。
二人とも、個人としては決して弱くない。
それでも、互いの術式が作る次の状況を読む経験が、あまりにも足りていなかった。
「ミレイユさん、今の角度は浅すぎますわ。貴方は水球を逸らしたつもりでしょうけれど、あれでは相手に進路を選び直す余裕を与えただけです」
エルマの鋭い声が飛ぶ。
「シオンさん、貴方も遅いですわ。ミレイユさんの障壁が完成してから杭を選んでいては間に合いません。完成する前に読みなさい」
「完成する前にと言われても……」
シオンは額の汗を拭いながら、珍しく困ったように声を漏らした。
「それでは勘になってしまいます」
「違いますわ。勘ではなく予測です。ミレイユさんの癖、杖の角度、魔力の流れ、足の向き。それらを見れば、どこへ流そうとしているかは分かります。分からないなら、分かるまで見なさい」
「無茶苦茶ですわ……」
ミレイユが小さく呟く。
エルマは当然のように眼鏡を押し上げた。
「戦技科はもっと無茶苦茶ですわよ。彼らは術式の完成など待ってくれません。だからこちらは、完成した術式だけを見るのではなく、完成する前の兆候を読まなければなりませんの」
ギルベルトが懐中時計の蓋を閉じた。
「本番は勝ち抜き個人戦だ。お前たちが同時に戦うことはない」
ミレイユとシオンが彼を見る。
「だが、前の試合で起きたことは消えない。相手が見せた癖、使った技、削られた体力。前の代表が残した情報を、次の代表が使う」
ギルベルトは二人の間へ視線を落とした。
「この訓練は、二人で一人の相手を倒すためではない。味方が何を狙い、次にどんな状況を残そうとしたのかを、短い時間で読むためのものだ」
エルマも頷く。
「本番では、試合の合間に長い相談などできませんもの。今のうちに互いの考え方を覚えなさい。ミレイユさんが作る進路をシオンさんが読めるなら、ミレイユさんの試合で得た情報を、次のシオンさんが利用できるようになりますわ」
その説明に、二人は黙って頷いた。
アトカは二人の様子を見ながら、空中に浮かべた水球を一度すべて止めた。
六つの水球が訓練室の灯りを受け、静かにきらめく。
「少し、ゆっくりにしてみましょうか」
「ゆっくり、ですか?」
ミレイユが息を切らしながら聞き返す。
「はい。最初から速い相手に合わせようとすると、身体が先に怖がってしまうと思います。まずは、ミレイユさんがどこへ流したいのかを、シオンさんが分かる速さで練習した方がいいかなって」
アトカは義手を静かに動かした。
一つの水球が、歩くよりも遅い速度でミレイユへ近づく。
これならば怖くない。
ミレイユは深く息を吸い、屈折障壁を一枚だけ展開した。
透明な鏡面が斜めに生まれる。
水球は表面へ触れ、右斜め前へ滑るように進路を変えた。
「今です」
アトカが静かに告げる。
シオンはその声へ合わせ、床へ仕込んだ杭の一つを起動した。
杭を起点に小さな土の輪が立ち上がり、ゆっくりと進んできた水球を包み込む。
土の輪の中で、水球が静かに弾けた。
成功だった。
ほんの小さな成功。
それでもミレイユとシオンは、思わず顔を見合わせた。
「今の……合いましたわね」
「はい。初めて、ちゃんと」
アトカは嬉しそうに微笑んだ。
「今の感覚を、少しずつ速くしていけばいいと思います。ミレイユさんの障壁は角度が分かりやすいので、シオンさんが杖の動きや魔力の流れを覚えれば、きっと早く読めるようになります」
ミレイユは一瞬だけ黙り、それから小さく咳払いをした。
「ま、まあ、わたくしの障壁が正確なのは当然ですわ。問題は、シオンさんがそれへ追いつけるかどうかです」
シオンは少しだけ目を細めた。
「追いつきます。ですから、できれば毎回角度を変えすぎないでください」
「実戦では相手に合わせなければなりませんもの。多少は変わりますわ」
「多少でお願いします」
「努力しますわ」
数日前なら考えられないやり取りだった。
互いの未熟さを責めるのではなく、勝つために必要な要求を言葉へしている。
エルマはその様子を見て、ノートへ大きく丸をつけた。
「ようやく会話が訓練内容になりましたわね。大変よろしいです」
バルトロが壁際で魔石を噛みながら、大きくあくびをした。
「なあ、そろそろ速くしねぇのか。見てるだけだと腹が減るんだけど」
「貴方は何をしていても腹が減っているでしょう」
エルマが冷たく返す。
「違ぇよ。今日はいつもより減ってる」
「それは訓練と何の関係もありませんわ」
リリシアは救急箱を抱えたまま、バルトロをじっと見た。
「治せますけど、怪我を前提に訓練しないでください。怪我をしない方がいいに決まっています」
「分かってるよ」
「本当に分かっていますか?」
「……たぶん」
「たぶんでは困ります」
珍しく強く言い返したリリシアに、バルトロは少しだけ目を丸くした。
そのやり取りの間も、カインは静かに訓練を見ていた。
壁際に立つ身体には、新しく作り直された拘束具が巻かれている。
それは独立した遮断刻印を幾重にも重ね、一部が崩れても全体へ連鎖しないよう組み直されたものだった。
それでも、完全ではない。
自分が制御を誤れば、床も壁も、そこへ刻まれた術式も、接合を失って崩れ始めるかもしれない。
その恐怖は、まだ消えていなかった。
それでも、ここにいる。
逃げずに、仲間の訓練を見ている。
カインにとっては、それだけでも大きな変化だった。
最初の成功以降、アトカはもう合図を出さなかった。
水球の速度を少しずつ上げる。
最初は歩くほど。
次に駆け足。
やがて、戦技科の踏み込みを模した鋭い速度へ。
ミレイユの障壁が水球を曲げる。
シオンが杖の角度と魔力の流れを読み、進路上の杭を選ぶ。
失敗も多かった。
水球がシオンの土の輪をすり抜け、ミレイユの肩を濡らす。
別の杭を起動してしまい、土の輪だけが何もない場所へ立ち上がる。
二人の判断が食い違い、互いに睨み合う場面もあった。
それでも、最初のような絶望的な距離はなかった。
「もう一度ですわ、シオンさん。今のはわたくしの角度が浅かった。次はもう少し右へ流します」
「分かりました。なら、俺は半歩奥の杭を使います」
「半歩では浅いですわ。貴方の術式は、起動してから輪が立ち上がるまでに僅かな間がありますもの。一歩奥です」
「……分かりました。一歩奥で」
エルマは静かに頷いた。
「よろしい。自分の術式だけでなく、相手の術式の癖を前提に話せていますわ。これなら、本番で前の試合から情報を受け取ることもできるでしょう」
「勝てるとは言ってくださらないんですのね」
ミレイユが不満げに言う。
エルマは即答した。
「勝つかどうかは、貴方たちが本番で証明することですわ」
ミレイユは悔しそうに、けれど僅かに笑った。
「でしたら、証明してみせますわ」
シオンも杖を握り直す。
「俺も、もう一度お願いします。次は杭を起動した後、次の配置まで見ます」
アトカは嬉しそうに頷いた。
「はい。では、次は少しだけ実戦に近づけます」
「アトカさんの少しだけは、あまり信用できませんわ」
ミレイユが警戒したように言う。
アトカは真面目に首を傾げた。
「そんなに速くはしません」
「その言い方が不安ですの」
バルトロが腹を抱えて笑う。
「ほらな。新入りの少しはそういう意味だ」
「バルトロ先輩、僕、ちゃんと加減しています」
「加減してあれだから怖ぇんだよ」
訓練室に小さな笑いが広がる。
その笑いは、最初の頃のような棘を含んでいなかった。
魔導科代表は、まだ未熟だった。
それでも少しずつ、同じ方向を見始めていた。
同じ頃、学園北側の高台にある戦技科演習場では、別の熱気が渦巻いていた。
切断訓練用の標的が、重い音を立てて地面へ倒れる。
その前に立っていた赤茶色の少年、ロウ・グランツは、短槍を肩へ担ぎながら快活に笑った。
「魔導科相手なら、術式を組み終える前に間合いへ入れば終わりだろ。俺が一番手で、一気に流れを作ってやるよ」
近くで双短剣の手入れをしていたユリア・ヴェルナーが、冷たい視線を向ける。
「油断すると足元を掬われるわよ。魔導科は弱いんじゃない。遅いだけ。遅さを補う準備をされたら厄介になる」
「準備する前に潰せばいいんだって」
「その単純さは嫌いじゃないけれど、本番で転ばないでね」
ロウは笑いながら槍を振る。
「転ばねぇよ。俺は真っ直ぐ行って、真っ直ぐ貫くだけだ」
「真っ直ぐすぎるから心配しているの」
ユリアはため息をつき、短剣の刃を光へかざした。
少し離れた場所では、大柄な少年が重い盾を磨いていた。
ダリウス・ベルク。
年齢以上に落ち着いた雰囲気を持つ、重装の戦技科代表である。
彼は盾の縁を布で拭いながら、低い声で言った。
「魔導科にも意地はある。代表に選ばれる以上、侮るべきではない」
ロウが肩をすくめる。
「ダリウス先輩は真面目すぎるんですよ」
「油断するよりはいい」
「俺、油断なんかしてませんって」
「術式を組み終える前に突っ込めば終わり、という言葉が油断でないなら、何なのか考えておけ」
ロウは言い返そうとして、少しだけ言葉に詰まった。
ユリアが静かに笑う。
「ほら、怒られた」
「うるせぇな」
そのやり取りのさらに奥で、ルト・アッシュフォードは静かに剣を振っていた。
一振りごとに、空気が細く裂ける。
足裏から腰へ。
腰から肩へ。
肩から剣先へ。
身体のすべてが一本の線として繋がり、無駄なく刃へ力を伝えていく。
必要な瞬間にだけ流れる身体強化。
大きく膨らませない。
見せつけない。
斬る瞬間だけ、必要な筋肉へ必要なだけ魔力を通す。
それは派手な技ではなかった。
だが、実戦を知る者ほど、その無駄のなさへ背筋を冷やす剣だった。
ルトの剣が走る。
標的へ引かれていた指定線だけが、音もなく斬り開かれた。
刃はその奥へ食い込まず、寸分違わず止まっている。
ルトは剣先を下ろし、遠く魔導科の校舎を見上げた。
夕暮れの光を受けた建物が、淡い金色に染まっている。
「アトカ」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
弟はきっと、あちらで努力している。
魔導科の代表として。
特等枠へ入ったばかりの一年生として。
そして、三年前に交わした約束を果たすために。
ならば自分も、兄としてただ待つだけではいられない。
一人の剣士として、弟の前へ立てる自分でなければならない。
ルトは再び剣を構えた。
「約束の日まで、俺も止まれないな」
赤い瞳に、静かな闘志が灯る。
次の瞬間、ルトの踏み込みが演習場の土を鳴らした。
剣が走る。
今度は標的へ触れる寸前で、刃が止まった。
遅れて生じた風だけが、標的の表面を揺らす。
夕暮れの光が、戦技科と魔導科、二つの訓練場を静かに染めていた。
対抗戦まで、あと十日。
それぞれの代表たちは、それぞれの誇りを胸に、来るべき日へ向けて刃と術式を磨き続けていた。




