壊れ方の違う仲間たち
二度目の訓練で、ミレイユの動きは明らかに変わっていた。
先ほどまでの彼女は、迫る攻撃の一つひとつに対して、正しい障壁を一枚ずつ置こうとしていた。
正確な位置。
整った形。
計算どおりの角度。
それは試験で高得点を得るための、教本に忠実な屈折障壁だった。
だが、戦技科の相手は、一度の攻撃が防がれるまで待ってはくれない。
一つを逸らした時には、すでに次の踏み込みが始まっている。
訓練室の床すれすれを、拳ほどの水球が走る。
ミレイユは杖を握り、薄紫色の瞳を細めた。
一つの攻撃へ、一つの障壁を使い捨てるのではない。
厚くもしない。
必要な位置へ、必要な角度だけを差し込む。
透明な鏡面が、空中へ一枚だけ現れた。
水球は障壁へ正面から衝突しなかった。
表面へ触れた瞬間、自ら道を間違えたように軌道を変え、ミレイユの左横を抜けて床へ弾ける。
二つ目は右肩。
ミレイユは新しい障壁を作るのではなく、先ほどの障壁を滑らせるように移動させた。
角度だけを変え、水球を外へ逃がす。
三つ目は足元。
四つ目は背後。
先ほどなら、迫る水球の数だけ障壁を増やしていた場面だった。
だが、今のミレイユは違う。
深く息を吸う。
正面だけを見ない。
水球の位置と、すでに置いた障壁の角度、その次に生まれる隙間まで見る。
水球を止めない。
受け止めない。
力と力をぶつけるのではなく、相手が進みたい道を僅かにずらす。
背後へ回った水球が迫る。
ミレイユは振り向ききる前に、右側へ置いていた障壁を背後へ滑らせた。
形は少し歪んでいたが、水球の正面には立たない。
障壁の縁へ触れた水球は横へ逸れ、誰もいない床へ弾けた。
エルマのペン先が、ノートの上で止まる。
「……いいですわ」
その短い言葉に、ミレイユの肩が僅かに震えた。
アトカも義手を下ろし、残る水球を静かに消した。
「すごいです、ミレイユさん。今の障壁には、ほとんど負荷が残っていませんでした。水球の勢いを受け止めず、綺麗に横へ逃がしていました」
ミレイユはしばらく黙っていた。
褒められ慣れていないわけではない。
試験で一位を取れば、教師から評価された。
術式の美しさなら、同級生からも何度となく称賛されてきた。
だが、今の言葉はそれらとは少し違った。
失敗を見られている。
未熟な部分も知られている。
それでも、前よりできるようになった箇所を見つけ、真っ直ぐに認められた。
そのことが、妙に胸の奥をくすぐった。
「……当然ですわ。私は魔導科代表ですもの。この程度、できて当たり前です」
口調はいつものように強かった。
けれど、頬は僅かに赤い。
バルトロが魔石を噛みながら、にやにやと笑った。
「褒められて照れてんじゃねぇか」
「照れていませんわ!」
「声が裏返ってるぞ」
「裏返っていません!」
リリシアが安堵したように胸を撫で下ろす。
カインも壁際から、静かにその様子を見ていた。
新しい拘束具に包まれた姿は、以前と変わらず近寄りがたく見える。
だが、暗い赤紫色の瞳は、以前よりも少しだけ穏やかだった。
ギルベルトが懐中時計を閉じる。
「次はシオンだ」
呼ばれたシオンは、無言で訓練室の中央へ進み出た。
彼の術式は、ミレイユの屈折障壁のように華やかなものではない。
あらかじめ床へ土の杭を設置し、相手が踏み込む位置を予測して起動する。
そこから土の鎖や枷を伸ばし、足を止める。
地味で、堅実で、そして起動の判断が遅い。
本人が一番よく理解していた。
「相手役は僕でいいですか?」
アトカが尋ねると、シオンは少しだけ首を横へ振った。
「いえ。できれば、バルトロ先輩にお願いします。速い相手に通じなければ、対抗戦では意味がありませんから」
「言うようになったじゃねぇか」
バルトロが笑いながら前へ出る。
エルマはノートを開いた。
「シオンさん、貴方は捕まえることを考えすぎですわ。バルトロさんへ魔力で編んだ鎖や枷を直接触れさせれば、そのまま喰われます」
シオンは黙って聞いている。
「拘束とは、相手の全身を完全に縛ることだけではありません。一歩を乱す。重心を崩す。次の動作へ移る時間を奪う。僅か半秒でも、実戦では十分な意味を持ちます」
「半秒……」
「ただし、方法は貴方自身で選びなさい。貴方の術式ですもの」
シオンは床へ設置した杭へ視線を落とした。
すでに複数の起点が埋め込まれている。
これまでは、そこから鎖を伸ばして相手の足首を捕らえていた。
だが、鎖はバルトロへ触れた瞬間に喰われる。
ならば、直接触れさせなければいい。
シオンの瞳が僅かに鋭くなった。
「分かりました」
訓練開始の合図と同時に、バルトロが低く沈んだ。
次の瞬間、床を蹴る音が響く。
真っ直ぐではない。
右へ揺れる。
左へ流れる。
肩を大きく沈め、踏み込みの方向を偽る。
戦技科の剣士ほど洗練された歩法ではないが、魔石を喰らった直後の身体能力だけで十分すぎる脅威だった。
シオンは一歩も動かない。
杖先を床へ向け、呼吸を整える。
バルトロの右肩が下がった。
以前なら、それを見た瞬間に左側の杭を起動していた。
だが、それは誘いだった。
シオンは杖へ魔力を流しかけ、歯を食いしばって止める。
肩だけではない。
腰。膝。
踏み込む足の向き。
足裏へ体重が落ちる瞬間。
全部を見る。
アトカは横から見守っていた。
助言はしない。
今は、シオン自身が掴まなければならない瞬間だった。
「遅ぇぞ、シオン!」
バルトロが笑う。
拳が迫る。
その直前、シオンは床へ仕込んでいた杭の一つを起動した。
魔力の鎖は伸ばさない。
足へ触れる枷も作らない。
バルトロが次に踏む地点の床だけが、僅かに隆起する。
変形が終わった瞬間、シオンは杭への魔力供給を切った。
バルトロが触れた時、そこに残っていたのは魔力の拘束ではない。
形を変えた床そのものだった。
「なっ……!」
足先が小さな段差へ乗る。
バルトロの重心が前へ流れ、踏み込みの軸が僅かに崩れた。
ほんの一瞬だった。
彼の怪力なら、隆起した床を踏み砕くことも、姿勢を立て直すことも難しくない。
だが、予定していた一歩は失われた。
バルトロは前へ崩れた上体を腰の力だけで引き戻し、シオンの頬へ向かっていた拳を寸前で止めた。
拳の起こした風が、灰茶色の髪を揺らす。
シオンは息を呑んだ。
自分の術式が、初めて速い相手の踏み込みを乱した。
「……乱せた」
小さな呟きだった。
ギルベルトが灰色の瞳を細める。
「今のは悪くない。相手を捕まえたのではない。相手が踏むはずだった未来の足場を削った」
エルマも頷いた。
「ようやく入口ですわね。ですが、今の変化は浅いです。実戦なら、乱した直後に次の術式へ繋げなければ、そのまま立て直されて終わりますわ」
「はい」
シオンは短く答えた。
その顔には、先日までの諦めはなかった。
バルトロは隆起した床を軽く踏み砕き、口の端を吊り上げる。
「今のはちょっと嫌だったな。魔力なら喰えるが、踏む直前に床そのものを変えられると面倒くせぇ」
「面倒なら有効ですわ」
エルマが即答する。
「戦技科相手に、綺麗な拘束へこだわる必要はありません。一手を遅らせられるのなら、立派な戦術です」
「言い方が悪役ですわね……」
ミレイユが呟く。
エルマは涼しい顔で眼鏡を押し上げた。
その時、壁際にいたカインが静かに口を開いた。
「……失敗しても、止めてくれる奴がいるなら、もう一度試せる」
全員の視線がカインへ向く。
カインは少し気まずそうに目を伏せた。
それでも、言葉を止めなかった。
「俺は、失敗すれば周りを壊す。だから、試すこと自体が怖かった」
新しい拘束具の上から、自分の手を見下ろす。
「けど、俺が止められなくなった時、アトカが止めた。ほかの奴らも、俺を連れて帰る方法を作った」
アトカは何も言わず、カインの言葉を聞いていた。
「だから、もう一度ここへ来られた」
カインはミレイユとシオンを見る。
「特等枠は、特別だから楽なんじゃない。壊れ方が普通と違うだけだ」
その言葉は、訓練室の中へ静かに落ちた。
ミレイユは杖を握り直す。
シオンも、床へ埋めた杭を見つめた。
二人はこれまで、特等枠を遠くから見ていた。
通常の授業へ出なくても許される者たち。
規格外の力を持つ者たち。
自分たちが試験や授業で積み重ねてきたものとは、別の場所にいる存在。
だが、数日間同じ訓練室で過ごし、少しずつ違うものが見え始めていた。
リリシアは溢れようとする治癒を抑え、必要な分だけ使おうとしている。
バルトロは飢えを抑えるために魔石を噛み、自分の力を訓練の範囲へ留めている。
カインは周囲を壊さないため、拘束具の中で自分の魔力と向き合っている。
ギルベルトは全員の動きと時間を見ながら、危険が起きる前に訓練を止める。
エルマは感情を挟む余地もないほど細かな計算を重ね、全員の技術を使える形へ組み直している。
アトカもまた、最初から完成された存在ではなかった。
義手の指を動かすところから始め、水球を一つ浮かべるたびに失敗し、教えられ、繰り返してきた。
持っている問題も、失敗した時に起きることも違う。
それでも全員が、次にどうするかを考え続けている。
ミレイユはゆっくりと息を吐いた。
「……わたくしは、少し勘違いしていましたわ」
アトカが首を傾げる。
「勘違い、ですか?」
「ええ。特等枠は、最初から何でもできる方々なのだと思っていました。努力をしなくても、規格外の力だけで結果を出せるのだと」
ミレイユは一度、床へ視線を落とした。
「ですが、違いましたわ。貴方たちは、わたくしたちとは違う失敗をして、違う方法で立ち上がっている」
シオンも静かに頷く。
「俺も、別世界の人たちだと思っていました。でも、少なくとも今は、同じ相手に勝つために訓練している」
アトカは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。一緒に勝ちたいです」
あまりにも素直な言葉に、ミレイユは僅かに顔を赤くした。
「代表として協力することに異論はありませんわ。それと……貴方の助言が正しかったことも認めます」
「ありがとうございます」
「ですが、対抗戦で誰より活躍するのはわたくしですからね」
「はい。僕も負けないように頑張ります」
張り合うでもなく、素直に答えられたことで、ミレイユはまた言葉に詰まった。
シオンが杖を構え直す。
「俺も、もう一度お願いします。次は一歩を乱した後の術式まで繋げます」
エルマは満足そうにノートを閉じた。
「ようやく訓練らしくなってきましたわね。では、休憩は終了です」
「今の流れで終了ですの?」
ミレイユが目を見開く。
「当然です。理解した内容は、実際に動いて確かめなければ意味がありません」
エルマは訓練室の中央を示した。
「次はミレイユさんとシオンさん、二人同時です。ミレイユさんが水球の進路を変え、シオンさんが変化した軌道を読んで杭を起動する。互いの術式を邪魔せず、次へ繋げなさい」
「二人同時……」
シオンが呟く。
ギルベルトが懐中時計を開いた。
「対抗戦は勝ち抜き個人戦だ。だが、勝敗は一人の試合だけで完結しない」
全員の視線がギルベルトへ向く。
「前の者が見つけた癖を、次の者が使う。前の者が削った体力を、次の者が勝利へ繋げる。自分の試合だけを考えているなら、勝ち抜き戦を理解していない」
ミレイユとシオンは顔を見合わせた。
数日前なら、どちらかが先に視線を逸らしていた。
今は、短く頷き合う。
アトカは空中へ、訓練に使う水球を浮かべた。
静かな水の粒が、訓練室の灯りを受けてきらめく。
「では、行きますね」
ミレイユとシオンは並んで杖を構えた。
もう二人の視線は、特等枠の者たちへ向いてはいなかった。
目の前に浮かぶ水球と、その先で待つ戦技科の代表たちを見ていた。
対抗戦まで、あと十七日。
魔導科代表は、少しずつ一つのチームになり始めていた。




