失敗を止める水霧
訓練開始から数日が過ぎた。
魔導科代表の訓練室には連日、重い魔力の気配と、床を擦る靴音が響いていた。
最初こそミレイユとシオンの表情には、特等枠に対する反発や警戒が色濃く残っていた。
けれど、エルマの容赦ない指導と、アトカの穏やかな助言を受け続けるうちに、その感情も少しずつ形を変えていた。
エルマは厳しかった。
「ミレイユさん、障壁の展開角度が三度甘いですわ。その三度で槍の穂先は貴方の肩へ届きます。防御魔術は美しさを競うものではありません。実戦では、綺麗に負けるより泥臭く生き残る方が百倍価値がありますのよ」
「シオンさん、杭の設置が遅いですわ。貴方は相手の足が地面に触れてから捕まえようとしている。戦技科の踏み込みは、足が動く前に肩と腰へ表れます。術式を発動する前に、まず相手の身体を読みなさい」
その言葉は鋭く、逃げ場がなかった。
だが、そこに悪意はない。
エルマは二人を見下しているのではなかった。
本気で勝たせようとしている。
ミレイユもシオンも、数日をかけてそれを理解し始めていた。
その日の訓練は、ミレイユの屈折障壁を実戦用へ組み替えるものだった。
訓練室の中央に立つミレイユの前には、アトカが浮かべた水球が六つ並んでいる。
どれも大きさは拳ほどだった。
内部では圧縮された水流が巡り、正面からの突進、低い斬撃、左右からの連撃、背後への回り込みを模した軌道を取るよう調整されていた。
アトカは義手を胸の高さへ上げ、穏やかに告げる。
「最初は正面から三つ、その後に左右から二つ、最後に背後から一つです。危ないと思ったら、すぐに止めます。ミレイユさんも、無理だと思ったら教えてください」
「お気遣いは無用ですわ。私だって魔導科代表に選ばれた以上、守られてばかりで終わるつもりはありませんもの」
ミレイユは強気に言い返した。
けれど、杖を握る指先は僅かに震えていた。
自分の障壁は、机上では優秀だった。
試験でも教師たちから高い評価を受けてきた。
だが、実戦ではまだ遅い。
角度を考え、魔力を通し、障壁を展開する。
その僅かな間に、戦技科の生徒は一歩、二歩、三歩と踏み込んでくる。
その怖さを、この数日で何度も思い知らされていた。
ギルベルトが懐中時計を開く。
「始める」
アトカの義手の指先が動いた。
一つ目の水球が正面から走る。
ミレイユは透明な屈折障壁を斜めに展開し、綺麗に軌道を逸らした。
二つ目も同じように処理する。
三つ目は低く、膝を狙う軌道だった。
ミレイユは短く息を吐き、薄い障壁を床すれすれへ差し込み、水球を横へ流した。
「今の角度は合格ですわ」
エルマの声が飛ぶ。
ミレイユの表情へ、ほんの少しだけ安堵が浮かんだ。
だが、続く左右からの二つで状況が変わる。
右から来た水球を逸らした瞬間、左から迫っていた水球が僅かに軌道を変え、障壁同士の隙間へ滑り込んだ。
アトカの水球は、決められた直線を進むだけではない。
障壁の位置に合わせ、空いた場所へ進路を変える。
「っ……!」
ミレイユは反射的に魔力を強めた。
本来なら、薄い障壁を一枚だけ差し込めばよかった。
しかし、焦りが判断を狂わせた。
透明な障壁が一枚、二枚、三枚と重なる。
複数の屈折面が歪んだ鏡のように重なり合い、周囲の光景まで不自然に揺れ始めた。
エルマが鋭く叫ぶ。
「ミレイユさん、出力を落としなさい!屈折面が重なっていますわ!」
「分かって……分かっていますわ!」
ミレイユは必死に杖を握った。
だが、焦るほど魔力は乱れる。
屈折障壁は、本来なら外から来る力を別方向へ逸らす術式である。
しかし、過剰な出力を受けた複数の面が重なれば、逸らすはずの力を一点へ集め、別の方向へ強く跳ね返してしまう。
次の瞬間、アトカの水球が歪んだ障壁へ触れた。
水球は弾けなかった。
重なった屈折面に押し出され、速度を増しながら訓練室の端へ跳ね返る。
「危ない!」
シオンが声を上げた。
水球の先には、救急箱を抱えたリリシアがいた。
リリシアは大きく目を見開き、身体をすくませる。
その瞬間、アトカはすでに動いていた。
漆黒のローブの裾が揺れる。
床を強く蹴ったのではない。
水面を滑る雫のように身体の軸だけを移し、水球とリリシアの間へ入る。
右肩の義手が静かに持ち上がった。
青い瞳が、跳ね返った水球の拍子を捉える。
押さえ込まない。
力へ別の力をぶつけない。
水球を形作っている制御そのものを解き、誰かを傷つける勢いを白い霧へほどいていく。
リリシアの頬へ届く寸前、水球は柔らかな霧へ変わった。
細かな水滴が、冷たい雨のように空中へ散る。
「中止だ」
ギルベルトの声が響いた。
アトカはすぐに残る水球をすべて霧へ戻した。
ミレイユも障壁を消し、杖を下ろす。
「リリシア先輩、怪我はありませんか?」
アトカが尋ねる。
「は、はい……。当たってはいません」
リリシアは浅く呼吸を繰り返しながら、自分の頬と身体を確かめた。
「少し怖かったですけど、大丈夫です」
その言葉を聞いたミレイユの顔から、力が抜けた。
杖を握る手が震えている。
「リリシアさん……申し訳ありません」
ミレイユは近づこうとして、途中で足を止めた。
「わたくしの制御不足です。怪我がなかったからといって、なかったことにはできませんわ」
リリシアは救急箱を抱え直した。
「本当に、怖かったです」
小さな声だった。
ミレイユの肩が強張る。
「ですが、怪我はありません。アトカ君が止めてくれました」
リリシアはミレイユを真っ直ぐ見つめた。
「次は、跳ね返した力が誰かへ向かわないようにしてください。治せるから、怪我をしてもよいわけではありませんから」
「……はい。必ず」
ミレイユは深く頭を下げた。
ギルベルトが懐中時計を閉じる。
「ミレイユ、呼吸は」
「少し速いですわ。魔力も、まだ完全には落ち着いていません」
「なら座れ。今すぐ再開はしない」
「ですが――」
「焦った状態で続けて、同じ失敗を繰り返す方が時間の無駄だ」
ミレイユは唇を引き結び、黙って椅子へ腰を下ろした。
エルマはノートへ事故の経過を書き込んでいた。
「原因を言いなさい」
ミレイユは俯いたまま答える。
「左からの水球へ対応しようとして、障壁の枚数と出力を増やしました。けれど、重なった屈折面が水球の力を集め、別方向へ跳ね返してしまいましたわ」
「それだけではありません」
エルマが即座に返す。
「貴方は自分へ当てないことばかり考え、逸らした力がその後どこへ向かうかを見ていませんでした」
ミレイユは膝の上で両手を握る。
「……はい」
シオンが静かに口を開いた。
「右側の障壁を消すのが早かったと思います。残しておけば、跳ね返った水球の向きをもう一度変えられたかもしれません」
ミレイユが顔を上げる。
シオンは床に残った水滴と、先ほど障壁があった位置を見比べていた。
「障壁を一枚ずつ攻撃へ当てるんじゃなくて、逸らした後の進路まで繋げればいい」
エルマが眼鏡を押し上げる。
「その考え方は使えますわ。障壁を防御面として並べるのではなく、力を運ぶ経路として扱う。枚数を増やすより合理的です」
ミレイユはしばらく考えた後、小さく頷いた。
「次は、受ける水球だけを見ません。逸らした先と、残した障壁の位置も見ますわ」
アトカも頷く。
「最初の三つは、とても綺麗に逸らせていました。焦る前の角度は合っていたと思います」
「……どうして怒らないんですの」
ミレイユが尋ねた。
「私は失敗しました。リリシアさんを傷つけかけました。魔導科代表として、あまりにも未熟ですわ」
アトカは少し考え、それから義手を見下ろした。
「僕も、たくさん失敗しました」
ミレイユは黙って耳を傾ける。
「水を浮かべるだけで暴発して、キルウェスタ先生に何度もゼロ点と言われました。義手も最初は上手く動かせなくて、ティーカップを落としたり、紙を破いたりしました」
アトカは少しだけ照れたように笑った。
「失敗するのは怖いです。でも、止めてくれる人がいて、何が悪かったか一緒に考えてくれるなら、もう一度やってもいいのかなと思います」
ミレイユは何も言えなかった。
特等枠は、生まれつき完成された怪物なのだと思っていた。
自分たちが積み重ねる努力とは、別の場所にいる存在なのだと。
だが、目の前の少年も、初めから今のように水を操れたわけではない。
義手の指一本を動かすところから。
小さな水球を浮かべるところから。
失敗し、止められ、教えられ、何度も繰り返してきた。
その積み重ねの先に、今のアトカがいる。
十分に時間を置き、ミレイユの呼吸と魔力が落ち着いてから、ギルベルトが確認する。
「続けられるか」
ミレイユは自分の手を開き、震えが収まっていることを確かめた。
それからリリシアを見る。
「もう一度、試してもよろしいですか」
リリシアは少しだけ迷った後、頷いた。
「はい。見ています」
「ありがとうございます」
ミレイユは立ち上がり、杖を構え直した。
アトカの周囲へ、再び六つの水球が浮かぶ。
今度のミレイユは、自分の正面だけを見ていなかった。
水球の位置。
アトカの義手の指先。
使い終えた障壁。
その先にいる者たち。
全部を見る。
焦って障壁を増やさない。
一枚を使い捨てず、次の力を運ぶために残す。
ギルベルトが懐中時計を開いた。
「始める」
一つ目の水球が正面から走る。
ミレイユは障壁を斜めに置き、右へ逸らした。
二つ目は低い軌道。
足元へ薄い障壁を差し込み、横へ流す。
三つ目は肩口。
前回なら、ここで出力を上げていた。
だが、ミレイユは杖を強く握りすぎなかった。
焦らない。
重ねない。
必要な一枚だけを置く。
水球は障壁へ触れ、横へ逸れる。
その先には、最初の水球を受けた障壁が残っていた。
ミレイユは杖を小さく動かし、残した障壁の角度を変える。
水球はもう一度進路を変え、誰もいない床へ弾けた。
「……できた」
ミレイユが呟く。
その瞬間、背後へ回り込んだ水球が迫る。
「まだですわ!」
ミレイユは振り向ききる前に、背後へ障壁を滑り込ませた。
形は歪だった。
角度も完全ではない。
それでも水球はリリシアのいる方向へ向かわず、別の障壁へ受け渡されて床へ落ちた。
残る左右の二つも、ミレイユは一枚ずつ正面から受けなかった。
先に置いた障壁を回転させ、逸らした力の進路を繋ぎ替える。
最後の水球が、誰もいない床へ弾けた。
訓練室へ、水音だけが残る。
ギルベルトが懐中時計を閉じた。
「十七秒四。六球すべて処理。制御の暴走なし」
エルマが素早く記録する。
「障壁の形は粗いですし、最後の二球では出力も僅かに上がっています。ですが、同じ失敗は繰り返しませんでしたわ」
ミレイユは肩で息をしながら、その場に立っていた。
十七秒。
戦技科の実戦なら、まだ十分とは言えない。
障壁も美しくはなかった。
それでも、自分が失敗した同じ場所で、今度は誰も危険へさらさず、六つの水球を処理できた。
アトカは表情を明るくした。
「すごいです、ミレイユさん。今度は全部、誰もいない方へ逸らせました」
「……だから、そういう真っ直ぐな褒め方は調子が狂いますの」
ミレイユは顔を背けた。
だが、その耳は赤かった。
リリシアも安堵したように微笑む。
「今度は怖くありませんでした」
その言葉を聞き、ミレイユの表情が僅かに緩んだ。
「ありがとうございます。次も、そう言っていただけるようにしますわ」
エルマは容赦なく告げる。
「喜ぶのはまだ早いですわ。今の対応を安定して繰り返せて、初めて本番で使えます」
ミレイユは一瞬うなだれた。
けれど、すぐに顔を上げる。
「……分かりましたわ。続けます」
シオンも足元へ視線を落とした。
「俺も、次は一つの杭を使い捨てないようにします。最初の動きを避けられても、その先へ繋げられる配置を考えます」
ギルベルトが頷く。
「いい傾向だ。失敗を言葉にできるなら、次の手へ繋げられる」
訓練室の隅で見守っていたカインも、静かに口を開いた。
「失敗しても、止めてくれる奴がいるなら、もう一度試せる」
その声は小さかった。
けれど、全員の耳へ届いた。
カインは新しい拘束具の上から、自分の手を見下ろしている。
「俺は、それを知るのに時間がかかった」
訓練室が一瞬だけ静かになった。
アトカはカインを見て、柔らかく微笑む。
「カイン先輩」
カインは少しだけ視線を逸らした。
「……今のは独り言だ」
バルトロがにやりと笑う。
「独り言にしちゃ、いいこと言うじゃねぇか」
「うるさい」
そのやり取りに、リリシアが小さく笑った。
ミレイユは杖を握り直す。
シオンも次に使う杭の配置を考え始める。
エルマはノートの新しいページを開き、ギルベルトは懐中時計の針を戻した。
アトカの周囲へ、再び水球が浮かぶ。
魔導科代表の訓練は、まだ続く。
失敗しないためだけではない。
失敗した時には止まり、原因を確かめ、同じ危険を繰り返さず次へ繋げるために。




