初めての合同訓練
訓練室の空気が、一瞬で変わった。
アトカの周囲に浮かぶ水球は、ただ美しく漂っているだけではなかった。
一つひとつが微かに震え、まるで意思を持つ小さな獣のように、ミレイユとシオンの動きを静かに待っている。
水球の配置は、不規則に見えて、実際には逃げ道を削るためのものだった。
正面。足元。肩口。視界の端。
背後へ回り込む軌道。
それぞれの水球が、戦技科の踏み込みや斬り込みを模すように、静かに空間を占めていた。
「まずはミレイユさんからお願いします」
アトカが穏やかに告げると、ミレイユは杖を構えながら小さく息を呑んだ。
「……一年生相手に、情けないところは見せられませんわ」
薄紫の瞳に気丈な光が宿る。
彼女の足元に魔法陣が広がり、透明な板状の障壁が三枚、空中に展開された。
角度を計算された屈折障壁。真正面から受け止めるのではなく、力の向きを変えるための魔術だった。
エルマはノートへ視線を落としながら、冷静に言った。
「角度は悪くありませんわ。ただし、相手が教科書通りに突っ込んでくるなら、という条件付きですけれど」
「分かっていますわ!」
ミレイユが言い返した直後、アトカの水球が動いた。
一つ目は正面から。
ミレイユは即座に障壁を傾ける。水球は障壁に触れた瞬間、綺麗に軌道を逸らされ、床へ弾けた。
「見ましたか!」
勝ち誇るには、ほんの少し早かった。
二つ目の水球は床すれすれを滑るように迫っていた。
「えっ……」
ミレイユが慌てて障壁を下げる。
しかし、その瞬間、三つ目の水球が真上から落ちてきた。
さらに四つ目が右肩側から、五つ目が背後から回り込む。
「ま、待っ……!」
障壁の角度が乱れた。
一つの水球が障壁の端をすり抜け、ミレイユの足元で弾ける。
衝撃は弱められていたが、それでも彼女の姿勢を崩すには十分だった。
「きゃっ!」
ミレイユはその場に尻もちをついた。
訓練室に沈黙が落ちる。
バルトロが堪えきれずに吹き出した。
「おいおい、三十秒どころか十秒じゃねぇか」
「うるさいですわ!」
顔を真っ赤にしたミレイユが立ち上がる。
しかし、エルマは容赦なくノートに記録していた。
「初回記録、八秒二。敗因は正面攻撃への成功で油断し、二撃目以降を想定していなかったこと。加えて、障壁の展開位置が固定的すぎますわ。相手が一方向から来るという前提が、まず甘いです」
「……分かっています」
ミレイユは悔しそうに唇を噛んだ。
アトカは水球を消し、少し申し訳なさそうに首を傾げる。
「すみません。痛くありませんでしたか?」
「痛くはありませんわ。ただ、ものすごく悔しいだけです」
「それなら良かったです」
「良くありませんわ!」
ミレイユの叫びに、訓練室の隅で見守っていたリリシアがびくっと肩を震わせた。
次に、シオンが前へ出た。
彼は無言のまま杖を構え、床へ小さな土属性の魔力杭を打ち込んでいく。
派手さはない。だが、動きは丁寧だった。
複数の地点に魔力の種を仕込み、相手が踏み込んだ瞬間に土の鎖を伸ばして足を止める。
シオンが得意とする拘束術式だった。
ギルベルトが懐中時計を開き、灰色の瞳を細める。
「設置位置は悪くない。ただ、相手に見えている」
シオンの眉がわずかに動いた。
「見えているなら、避けられるということですか」
「違う。避ける価値があると判断される」
ギルベルトは淡々と続けた。
「罠は隠すだけでは足りない。相手が自分の意思でそこへ行きたくなるように配置するものだ」
シオンはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……やってみます」
今度はバルトロが相手役として前へ出た。
琥珀色の瞳が獣のように細まり、口元に楽しげな笑みが浮かぶ。
「へっ。俺を捕まえられたら大したもんだな。ただし、魔力で縛ろうとするなら無駄だぞ」
シオンは杖を握り直した。
「分かっています」
「分かってる顔じゃねぇな」
バルトロは魔石を噛み砕いた。
ガリッ、と硬い音が訓練室に響く。
次の瞬間、彼の姿がぶれた。
魔石を喰らった直後の身体強化。
低い姿勢から、床を蹴り砕くように一気に距離を詰める。
シオンは即座に術式を起動した。
土の鎖が床から伸びる。
しかし、バルトロは避けることすらしなかった。
伸びてきた魔力の鎖へ、足首を軽くぶつける。
バリッ。
鎖が、噛み砕かれたように弾けた。
魔力の構造そのものがバルトロの身体へ吸い込まれ、土の鎖は形を保てず、砂のように崩れる。
「な……」
シオンの目が見開かれた。
二本目の鎖が床から伸びる。バルトロはそれも踏み抜いた。
三本目は、拳で払う。
魔力で編まれた拘束は、触れた瞬間に喰われ、崩れ、彼の身体強化へ変換されていく。
「だから言ったろ」
バルトロの拳が、シオンの額の寸前で止まった。
「俺を魔力で縛るな。餌を差し出してるのと同じだ」
シオンは動けなかった。
「……負けました」
静かに杖を下ろす。
その声には、悔しさよりも諦めの色が強かった。
魔力で相手を縛る術式。それが自分の武器だった。
けれど、触れた魔力を喰らうバルトロ相手には、その武器が武器として成立しない。
自分の積み重ねてきたものが、最初から通用しない相手がいる。
その現実が、シオンの肩をわずかに落とさせた。
アトカはそれに気づいた。
「シオンさん」
「何ですか」
「今の、三本目は少し良かったと思います」
シオンが顔を上げる。
「壊されました」
「はい。でも、バルトロ先輩の足が、ほんの少し外へ流れました。鎖が効いたわけではありませんけど、踏み込む場所を変えさせることはできていました」
バルトロが眉を上げる。
「お前、今の見えてたのかよ」
「はい」
アトカは素直に頷いた。
「バルトロ先輩は二歩目で右肩が少し下がっていました。たぶん、そこから左へ抜ける癖があります。だから、足首を縛ろうとするんじゃなくて、左へ跳びたくなる場所の床を先に変えれば、少しだけ動きを乱せると思います」
シオンは黙ったままアトカを見る。
アトカは続けた。
「魔力を直接触れさせたら、バルトロ先輩は喰べてしまいます。でも、地面そのものを少しだけ沈ませたり、盛り上げたりして、そのあと魔力をすぐ切れば、触れるのは魔力じゃなくて変わった足場になります」
ギルベルトが懐中時計を閉じた。
「悪くない。拘束ではなく、足場の誘導だ」
エルマもペンを走らせながら頷く。
「術式の維持時間を極限まで短縮し、接触前に魔力供給を断つわけですわね。残るのは魔力で一時的に変形させた床面。バルトロの特性に対して、直接拘束よりは遥かに合理的です」
バルトロは少し不満そうに鼻を鳴らした。
「おい、俺の対策を本人の前で組み立てるなよ」
「訓練ですもの」
エルマが即答する。
アトカは柔らかく笑った。
「キルウェスタ先生に、相手の重心をよく見なさいと教わりました。踊る時も、戦う時も、相手の身体は次に行きたい場所を少しだけ先に教えてくれるそうです」
シオンは驚いたようにアトカを見つめた。
特等枠。規格外。生まれつきの怪物。
そう思っていた。
けれど、今の言葉は違った。
そこにあったのは、誰かに教わり、何度も失敗し、身体で覚えた技術だった。
理解できない力だけではない。
見て、考えて、失敗して、身につけたものがある。
「……もう一度、お願いします」
シオンは静かに言った。
アトカは嬉しそうに頷く。
「はい」
二度目。バルトロが踏み込む。
一歩目。床が鳴る。
二歩目。右肩がわずかに下がる。
シオンは、その瞬間を見逃さなかった。
今度は足首を縛らない。
鎖を伸ばさない。
左へ抜ける先の床、その一点へ、短く魔力杭を打ち込む。
術式は一瞬だけ起動した。床の一部が、わずかに沈む。
すぐに魔力供給を切る。
バルトロの足が、そこへ乗った。
「おっ」
沈んだ足場に体重が流れ、バルトロの踏み込みがほんの少しだけ崩れた。
拘束ではない。停止でもない。
バルトロはすぐに体勢を戻し、次の瞬間にはシオンの額の前で拳を止めていた。
「まだ遅ぇ」
だが、今回は違った。
バルトロの拳が届くまでに、わずかな遅れが生まれていた。
ほんの一拍。
それだけだった。
けれど、それだけで十分だった。
ギルベルトが懐中時計を閉じる。
「及第点だ」
シオンは息を呑む。
「今ので、ですか」
「ああ。捕まえたのではない。未来の足場を削った。戦技科相手には、その一拍が次の術式へ繋がる」
エルマもノートに書き込みながら言う。
「初回より三秒延びましたわ。まだ話になりませんが、進歩ではあります。次は沈下ではなく隆起も混ぜなさい。相手が足元の違和感に慣れた時点で、同じ手は通用しません」
シオンは額の汗を拭った。
「……ありがとうございます」
その言葉が誰に向けられたものか、一瞬分からなかった。
ギルベルトへか。エルマへか。アトカへか。
それとも、わざわざ喰らって壊して見せたバルトロへか。
だが、アトカは柔らかく笑った。
「一緒に頑張りましょう」
ミレイユはその様子を見て、少しだけ黙り込んだ。
悔しい。
特等枠に助言されていることが悔しい。
入学したばかりの一年生に、足りない部分を見抜かれていることが悔しい。
けれど、それ以上に悔しかったのは、その助言が正しかったことだった。
アトカは上から見下ろしていない。
自分たちを笑っていない。
ただ、本気で勝とうとしている。
そして、そのために自分が見えているものを惜しげもなく渡そうとしている。
ミレイユは杖を握り直し、アトカへ向き直った。
「アトカさん」
「はい」
「次、もう一度お願いしますわ。今度は十秒以上、耐えてみせます」
アトカは嬉しそうに水球を浮かべる。
「はい。では、少しだけ速くしますね」
「少しだけにしてくださいませ!」
「はい。少しだけです」
バルトロが横から笑った。
「こいつの少しは信用すんな。ちょっと水出しますねって顔で、逃げ道全部塞いでくるぞ」
「そんなにしません」
アトカは真面目に答えた。
少し間を置いてから、小さく付け加える。
「……必要なら、少しだけ」
「ほら見ろ」
バルトロが腹を抱えて笑い、リリシアが涙目で救急箱を抱え直す。
カインは訓練室の隅で、静かにその光景を見ていた。
新しい拘束具に包まれた身体はまだ本調子ではない。
それでも彼は、以前より少しだけ近い場所に立っていた。
誰かの訓練を、遠くからではなく、同じ空気の中で見守っている。
ギルベルトが時計を開き、エルマがノートを走らせる。
水球が再び空中へ並んだ。
ミレイユは屈折障壁を展開する。
今度は正面だけではない。
一枚は足元へ。一枚は右肩側へ。
もう一枚は、背後へ回り込む水球に備えて斜め後ろへ置かれていた。
エルマの眼鏡がきらりと光る。
「先ほどよりはまともですわ」
「まとも程度では困りますの!」
「では、証明なさい」
アトカの義手の指先が、小さく動いた。
一つ目の水球が走る。ミレイユは正面の障壁で受け流した。
二つ目は低く。今度は足元の障壁で軌道を逸らす。
三つ目は真上。ミレイユは一瞬遅れたが、右肩側の障壁を回転させて水球の落下角をずらした。
四つ目。背後。
「そこですわ!」
ミレイユが声を上げ、斜め後ろの障壁を滑らせる。
水球は障壁に触れ、軌道を曲げられた。
十秒。
超えた。
だが、アトカの五つ目はまだ残っていた。
それは攻撃の水球ではなかった。
他の水球が弾けた床の水を集め、薄い膜のように広がっていた。
ミレイユの足元が、わずかに滑る。
「えっ」
姿勢が崩れた。
すかさず小さな水球が肩口へ当たり、ミレイユはまた床に座り込んだ。
「……今のは、ずるくありませんこと?」
ミレイユが震える声で言う。
アトカは申し訳なさそうに首を傾げた。
「すみません。戦技科の方も、最初の攻撃だけで終わらないと思ったので」
ミレイユは言葉に詰まった。
エルマが記録を読み上げる。
「二回目、十二秒六。目標達成。ただし足元の二次変化に対応できず敗北。改善点は明確ですわね」
ミレイユは悔しさで頬を赤くしながら、それでも小さく息を吐いた。
「……十秒は超えましたわ」
アトカはぱっと表情を明るくした。
「はい。すごいです、ミレイユさん」
「そ、そういう素直な褒め方はやめてくださる?」
「どうしてですか?」
「調子が狂いますの!」
ミレイユは顔を背けた。
だが、その耳は少し赤かった。
シオンが静かに杖を握り直す。
「次は俺も、もう一度お願いします。今度は沈ませるだけでなく、踏み直す先も潰します」
ギルベルトが頷く。
「いい。勝ち抜き戦では、前の失敗を次へ持ち越せる者が強い」
エルマもノートを閉じずに言った。
「本日は基礎測定を続けますわ。泣き言は数式の邪魔なので、簡潔にお願いします」
「誰が泣き言など言いますの!」
「今の声量は泣き言に近いですわ」
「違いますわ!」
「け、喧嘩は駄目です……!」
リリシアが救急箱を抱えたままおろおろし、バルトロがまた笑う。
その騒がしさの中で、アトカは静かに水球を整え直した。
魔導科代表の訓練は、まだ始まったばかりだった。
けれど、その日初めて、ミレイユとシオンは特等枠をただの遠い化け物としてではなく、同じ勝利を目指す仲間として、ほんの少しだけ見るようになっていた。




