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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
約束を果たす対抗戦
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誇りを賭ける代表たち

カイン・デイスターの救出とクリスタ・マンティスの討伐から、二か月あまりが過ぎていた。


春には柔らかかった日差しも、今では石造りの校舎を白く照らしている。

中庭の木々は濃い緑に覆われ、実技を終えた生徒たちは額の汗を拭いながら、日陰を選んで歩くようになっていた。


アトカが王立エルシオン学園へ来てからも、三か月を越えている。


入学受付で高位防御結界を水霧へ変え、鋼鉄ゴーレムを破壊せず停止させた白髪の一年生。

特等枠へ入った後にはバルトロと向き合い、地下第二実験場の異常を鎮め、学園領大森林からカインを連れ帰った。


最初の頃は、事実よりも大きな噂が飛び交った。


一人で森の魔獣を全滅させた。


カインを力ずくで屈服させた。


バルトロを水だけで一方的に退けた。


高位防御結界を破壊した。


どれも正しくはない。


学園は、監督教師や医療班、捜索班、カイン自身の行動も含めた記録を公開し、誤った部分を訂正した。

それでも噂は消えず、繰り返し語られるうちに、アトカ・アッシュフォードの名だけが学園へ深く残った。


廊下で立ち止まって見られることは減り、食堂で遠巻きに席を空けられることも少なくなった。

アトカも学園内の道を覚え、特等枠の六人は互いの訓練や補給の時刻を知り、誰かが戻らなければ自然に気づくようになっていた。


何もなかった二か月ではない。課題と訓練、状態確認、小さな失敗とやり直しが積み重なり、アトカが珍しい新入生ではなく、学園にいる一人の生徒として受け入れられていく時間だった。


だが、魔導科と戦技科の間では、今も彼の名前が比較に使われていた。


「アトカ・アッシュフォードって、本当に一年なんだよな」


戦技科の演習場で、男子生徒が木槍を肩へ担ぐ。


「特等枠を普通の一年と一緒にする方がおかしいだろ」


「でも魔導科だぞ。正面から踏み込まれたら終わりじゃないのか」


「森の報告を読んで、それを言えるのかよ」


「魔獣相手と人間相手は違う。それに、あいつが強くても魔導科全体が強いわけじゃない」


一方、魔導科の教室にも別の不満があった。


「また特等枠の話ですのね」


「俺たちが術式を積み上げても、話題になるのはアトカかギルベルト先輩だ」


「戦技科には、魔導科ではなく、あの一年だけが強いと言われていますわ」


魔導科の一般生徒にも、積み重ねてきた自負がある。

術式計算を覚え、属性理論を学び、杖の制御を磨き、試験と課題を一つずつ越えてきた。


自分たちの魔術は、本当に戦技科へ届かないのか。


特等枠でなければ、魔導科は前へ立てないのか。


その疑問は、二か月の間に両科へ根づいていた。


魔導科と戦技科の学園内対抗戦は、毎年夏季中間課程に合わせて行われる恒例行事だった。


競い合う二つの科が、実戦形式で互いの技術をぶつける。

開催時期が近づけば、演習場や食堂で過去の勝敗が語られ、今年の代表候補を予想する声が増える。


例年なら、それだけだった。


しかし今年は、アトカを巡る噂が重なっている。


対抗戦の告知を待つ空気は、例年以上に張りつめていた。


全校集会の日、五千人を超える生徒のうち、各学年と各科の代表者が講堂へ集まり、ほかの教室には中継用の魔導鏡を通じて映像と音声が送られていた。


特等枠の六人は、講堂後方の指定席に並んでいる。


以前なら、同じ列にいても互いの間に空席が残っていた。

今はギルベルト、エルマ、リリシア、アトカが続けて座り、バルトロは補給用魔石を指先で転がしている。カインは列の端に座り、落ち着くための一席分だけ間を空けていた。


壇上へフレデリックが上がる。


「本年度の魔導科・戦技科対抗戦について知らせます」


講堂のざわめきが静まる。


「実施日は三週間後。形式は例年どおり、四対四の勝ち抜き個人戦です」


戦技科側から歓声が上がり、魔導科側でも緊張を含んだ声が重なった。


フレデリックは魔導科の席へ視線を向ける。


「魔導科代表は、ミレイユ・フォン・ラスター君、シオン・エイムズ君、ギルベルト・クロノス君、アトカ・アッシュフォード君」


アトカは自分の名を聞き、目を瞬かせた。


隣に座るリリシアが小さな声を漏らす。


「アトカ君、代表です……」


「はい」


「無理はしないでください」


「分かりました」


バルトロが魔石を噛み砕く。


「まあ、そうなるよな」


「口の中に物を入れたまま話さないでくださいませ」


エルマが横目で睨む。


カインは何も言わなかった。ただ、アトカと目が合うと、一度だけ小さく頷いた。


「戦技科代表については、科内の最終確認後に発表します」


戦技科側へ新たなざわめきが広がる。


アトカはそちらへ顔を向けず、自分と同じ側へ選ばれた三人の名前をもう一度確かめた。


集会後、魔導科代表の四人は第一訓練室へ集められた。


石造りの広い部屋には、四方の壁へ魔力板が設置され、床には杖術用の距離線と接近戦を想定した踏み込み位置が刻まれている。


蜂蜜色の髪を肩で揃えたミレイユは、杖を胸元で握っていた。

薄紫の瞳と伸ばされた背筋には、通常課程で結果を積み重ねてきた自負が表れている。


隣に立つシオンは、灰茶色の髪を短く整えた少年だった。

表情は静かだが、杖を握る指には力が入っている。


ギルベルトは窓際で時計盤を開き、アトカは訓練室の中央から少し離れた場所に立った。


最初に口を開いたのはミレイユだった。


「……納得できませんわ」


アトカとギルベルトを順番に見据える。


「学園ではすでに、お二人だけで魔導科の勝敗が決まるような話になっています。わたしたちは毎日授業を受け、試験を受け、術式を積み重ねてきました。それを特等枠の陰へ隠すつもりはありません」


シオンも低い声で続ける。


「俺たちは穴埋めですか」


訓練室に短い沈黙が落ちる。


「特等枠を二人入れて、残った二人分を埋めただけなら、そう言ってもらった方がましです」


「僕は、そうは思いません」


アトカが答えた。


シオンの眉が動く。


「どうしてだ」


「僕は通常授業を受けていません。ミレイユさんとシオンさんが何を学び、どんな訓練をしてきたのかも知りません。知らないものを、必要ないとは言えません」


「ずいぶん簡単におっしゃいますのね」


「僕も、人を相手にする対抗戦は初めてです。魔獣を止められたことと、模擬戦で勝てることは同じではありません」


アトカは右義手の指を一度閉じた。


「皆さんと一緒に戦えるかも、訓練してみないと分かりません」


ミレイユの表情から、不満が消えたわけではない。


それでも、アトカを見る目から僅かに険しさが薄れた。


ギルベルトが時計盤の蓋を閉じる。


「言いたいことがあるなら、今のうちに言え。ただし、三週間ずっと同じ話をするつもりはない」


「感情を後回しにしろとおっしゃるのですか」


「違う。黙ったまま本番へ持ち込むなと言ってる。話しながらでも訓練はできる」


「でしたら、最初に確認するべきは――」


ミレイユが言いかけた時、訓練室の扉が開いた。


「現状のままでは、何秒で間合いへ入られるかですわ」


凛とした声が室内へ響く。


ミレイユが勢いよく振り返った。


シオンも驚いたように背筋を伸ばす。


「エ、エルマ・ガトランド先輩!?」


扉の前には、眼鏡を押し上げるエルマが立っていた。

片手には厚い記録帳、もう片方には書き込みで埋められた訓練計画書を持っている。

その後ろには、治療鞄を抱えたリリシアと、面倒そうな顔をしたバルトロがいた。


ミレイユとシオンは、エルマを魔導科の術式理論において最も信頼できる上級生の一人として尊敬していた。


ミレイユが屈折障壁へ不要な反射面を重ね、術式を不安定にしていた時、エルマは完成した術式を頭から否定せず、本人の計算を一行ずつ確認したうえで、残すべき角度と削るべき誤差を示した。


シオンが土の拘束を強固にしようとして起点を増やしすぎた時も、彼の術式を別物へ作り替えず、重複した計算だけを指摘した。


二人が尊敬しているのは、エルマが高度な術式を扱えるからだけではない。


通常課程で積み重ねた努力を見下さず、本人が作ったものを残したまま、何が不足しているのかを正確に示してくれるからだった。


「エルマ先輩が、どうしてこちらに……」


先ほどまでの鋭さを失った声で、ミレイユが尋ねる。


「代表訓練の分析補助ですわ」


エルマは四人の前まで歩き、計画書を作業台へ置いた。


「初日は、術式を始めてから発動するまでの時間、移動中の精度、接近された時の反応、崩された後の立て直しを確認します」


「いきなり欠点からですの?」


「できていることは、測ればそのまま残りますわ」


ミレイユは姿勢を正し、杖を持ち直した。


「ご指導、よろしくお願いいたしますわ」


「指導ではなく分析です。わたくしの答えを真似するだけでは、本番で条件が変わった時に止まりますもの」


バルトロが壁へ寄りかかる。


「面倒くせぇな」


「後ほど相手役をお願いしますわ」


「結局走らせる気かよ」


リリシアは治療鞄を抱えたまま、四人を見渡した。


「わたしは近くにいます。何かありましたら、すぐに教えてください」


アトカはミレイユとシオンを見る。


「最初は、僕が相手役をしてもいいですか」


「あなたが?」


「はい。水球で、戦技科の人が近づいてくる動きを作ります」


アトカが右義手を上げると、掌ほどの水球が三つ浮かんだ。


一つは正面。


一つは低い位置。


もう一つは僅かに外側へ離れている。


「最初の水球を、正面から踏み込んでくる相手にします。二つ目は、その直後に来る武器の軌道。三つ目は、途中で横へ回り込む動きです」


ミレイユが三つの水球を順番に見る。


「同時に来ますの?」


「少しずつ時機をずらします。正面だけを止めた時に、次へどう動くかを見たいです」


シオンが床の距離線へ目を落とした。


「途中で進路も変えるのか」


「はい。戦技科の人が、最初から最後まで真っすぐ来るとは限りませんから」


エルマがギルベルトを見る。


「時間をお願いしますわ」


ギルベルトが時計盤を開く。


ミレイユは杖を構え、シオンも床へ術式の起点を置いた。


エルマは二人の横へ立ったが、何を使うべきかは告げなかった。


「自分で判断なさい。終わった後で、選んだ動きと結果を確認します」


時計盤の針が動く。


正面の水球が僅かに震え、その後ろで二つ目が低く沈む。外側の一つは、いつでも横へ回れる位置に浮かんでいた。


「始めるぞ」


アトカが三つの流れを見渡す。


「行きます」


一つ目の水球が、戦技科の踏み込みを模して放たれた。


対抗戦まで、三週間。


魔導科代表の訓練は、互いを知るところから始まった。

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