約束は噂に乗って
カイン・デイスターの救出。
そして、クリスタ・マンティスの単独討伐。
その前代未聞の出来事は、数日をかけて静かに、しかし確実に王立エルシオン学園中へ広がっていった。
本来、魔導科特等枠で起きた出来事が、一般生徒の耳へ届くことはほとんどない。
特等枠とは、学園の中にありながら、学園の規格から外れた者たちの集まりである。
彼らに与えられる任務も、その成果も、そして失敗も、多くは学園長と一部の教師だけが把握している。
通常の授業に出ない。通常の試験を受けない。通常の評価では測れない。
だからこそ、一般生徒たちにとって特等枠は、同じ学園に存在しながらも、どこか遠い噂話の中の存在だった。
だが、今回は違った。
カイン救出任務は、城下町の冒険者ギルドを通した正式依頼として処理されていた。
現地に居合わせた冒険者。受付職員。森の異変を見ていた討伐隊。ギルドへ出入りする商人たち。
彼らの証言が少しずつ噂となって外へ流れ、それが再び学園の内側へ戻ってきたのだ。
「聞いたか?魔導科の一年の話」
「入学してすぐ特等枠に入った奴だろ?」
「それだけじゃない。あのバルトロ先輩と模擬戦して認められたらしいぞ」
「嘘だろ。魔力喰らいのバルトロ相手に?」
「それだけじゃねぇよ。暴走したカイン先輩を大森林から連れ帰ったって話だ。しかも未確認魔獣まで討伐したとか」
「本当に一年生の話かよ」
「盛ってるんじゃないのか?」
「でも、ギルド経由の話なら完全な作り話でもないだろうしな」
そんな囁きが、廊下で、食堂で、図書棟で、訓練場の隅で交わされるようになった。
もちろん尾ひれは付いていた。
アトカが大森林を丸ごと霧に変えたとか。
巨大な魔獣を一睨みで跪かせたとか。
カインの爆発を片手で受け止めたとか。
事実よりずっと派手に語られている部分もあった。
だが、その中心にある出来事だけでも十分に異常だった。
アトカ・アッシュフォード。
入学してまだ間もない魔導科一年生。
その名前は、まるで持ち主の手を離れてしまったかのように、学園中を勝手に歩き始めていた。
同じ頃。
学園上層にある戦技科専用演習場では、鋼を打つような鈍い音が響いていた。
広大な演習場には、武器を手にした生徒たちが並び、それぞれの型や実戦訓練に励んでいる。
魔導科の回廊に漂う紙とインクの匂いとは違い、ここにあるのは汗と土埃、革鎧、鉄、そして研ぎ澄まされた闘志の匂いだった。
その中央で、一人の少年が剣を構えている。
土埃を巻き上げる、鋭い踏み込み。
無駄のない腰の回転。
腕だけではなく、足裏から背骨、肩、手首までを一本の線として繋げる、研ぎ澄まされた一閃。
次の瞬間、魔力強化を施された鋼鉄製の訓練人形が、斜め一直線にずれた。
切断された上半身は、ほんの一拍遅れて、重い音を立てながら地面へ滑り落ちる。
断面は荒れていない。
力任せに叩き割ったのではない。
刃が最短距離を通り抜けた証のように、鏡面のような滑らかさを保っていた。
周囲で見守っていた戦技科の生徒たちは、何度見ても慣れないという顔で息を呑む。
「また真っ二つかよ……。今の踏み込み、見えたか?」
「見えるわけねぇだろ。剣を振ったと思ったら、もう斬れてたんだよ」
「四年でこれだもんな。やっぱりルトは別格だ」
その中心で剣を振り抜いた少年は、周囲の騒ぎとは対照的に静かだった。
黒髪を揺らし、赤い瞳をわずかに伏せて呼吸を整える。
派手な勝ち誇りもない。
誇示するような笑みもない。
ただ一つの動作を終えた者として、刃に残った細かな鉄粉を布で拭った。
戦技科四年、ルト・アッシュフォード。
四年生にして戦技科筆頭候補と目され、教師たちからも将来を嘱望される剣士である。
「ルト」
近づいてきた教官が、真っ二つになった訓練人形を見下ろして苦笑した。
「少しは手加減を覚えろ。その人形、高いんだぞ」
ルトは困ったように眉を下げ、素直に頭を下げる。
「すみません。力を入れたつもりはなかったんですが、踏み込みの確認をしていたら、少し深く入りすぎました」
「それを手加減できていないと言うんだ」
教官の呆れた声に、周囲の生徒たちがどっと笑った。
ルトも少しだけ照れくさそうに笑い、剣を肩へ担ぎ直す。
その時だった。
友人の一人が、ふと思い出したように声を上げた。
「そういえばルト、お前と同じアッシュフォードって苗字の一年生が、魔導科でかなり噂になってるぞ」
ルトの手が、そこでぴたりと止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、普段から無駄のない彼の所作を見慣れている友人たちには、そのわずかな変化だけで十分だった。
「白髪で、漆黒のローブを着た特等枠の新入りだって聞いたけど」
ルトは、ゆっくりと友人の方を向いた。
「……アトカか」
静かにこぼれた名前に、周囲の視線が集まる。
「知ってるのか?」
ルトは遠く、魔導科の校舎が見える方角へ目を向けた。
その横顔には、驚きよりも、懐かしさと、抑えきれない嬉しさが滲んでいた。
「ああ。知ってる」
そして一拍置き、少しだけ誇らしげに続ける。
「俺の弟だ」
演習場の空気が、一瞬だけ止まった。
次の瞬間、驚きの声が一斉に弾ける。
「弟!? あの噂の一年がか?」
「だから同じ苗字だったのかよ!」
「おいおい、アッシュフォード家どうなってんだ。兄は戦技科筆頭候補で、弟は魔導科特等枠ってことか?」
「しかも大森林の未確認魔獣を討伐したって噂の奴だろ?」
「兄弟そろって規格外じゃねぇか」
友人たちが口々に騒ぐ中、ルトは何も言わなかった。
ただ、魔導科の塔を見つめたまま、三年前の記憶を静かに辿っていた。
故郷を出る日の朝。
まだ幼かった弟は、自分を見上げていた。
両腕のない小さな身体。
それでも不安を隠すように、精一杯背筋を伸ばしていた。
青い瞳は、寂しさを滲ませながらも、真っ直ぐこちらを見ていた。
三年前、ルトはその弟へ言った。
「約束だ。三年後、お前も十歳になったら学園へ来い。その時、お前がどれだけ立派な魔術師になったか、俺に見せてくれ」
そう言った自分に、アトカは少し寂しそうにしながらも、すぐに笑った。
「はい。約束です、お兄ちゃん。僕、ちゃんと行きます」
その声を、ルトは今でも覚えている。
誰より努力家で。
誰より優しくて。
時々少しだけ泣き虫で。
けれど、自分ができないことを誰かのせいにしたことは一度もなかった弟。
右腕がなくても。左腕がなくても。
アトカはいつも、できない理由より、どうしたらできるかを探していた。
その弟が、本当に約束どおり学園へやって来た。
しかも、自分が想像していた以上の姿で。
魔導科特等枠。
バルトロに認められ。カインを救い。
未知の魔獣を討伐した。
噂のすべてが正確ではないとしても、アトカがこの学園で何かを成し遂げたことだけは間違いない。
ルトは目を閉じ、小さく笑った。
「ちゃんと来たんだな、アトカ」
その声には、兄としての誇らしさが深く滲んでいた。
「会いに行かないのか?」
友人の一人がそう尋ねる。
ルトは少しだけ考え、首を横に振った。
「今すぐには行かない」
「なんでだよ。弟なんだろ?」
「ああ。俺の自慢の弟だ」
ルトは迷いなくそう答えた。
その言葉に、友人たちがまた少しざわめく。
だが、ルトの視線は変わらなかった。
「でも、アトカは約束を果たすためにここへ来た。俺に守られるためじゃない。あいつがどれだけ凄い魔術師になったのか、それを見せるために来たんだ」
ルトは剣の柄を握り直す。
「だったら、俺も兄としてだけじゃなく、一人の剣士として会いたい」
演習場の空気が、少しだけ静かになった。
ルトの赤い瞳には、弟を思う温かさと、戦技科の剣士としての誇りが同時に宿っていた。
約束は覚えている。
今すぐ駆け寄って、よく来たなと抱きしめたい気持ちもある。
アトカがどれほど頑張ったのか、今すぐ聞きたい気持ちもある。
けれど、ここは学園だ。
それぞれが自分の力を示す場所だ。
次に会うなら、ただの兄弟としてだけではなく、一人の戦士と一人の魔術師として向き合いたい。
ルトは剣先を静かに構えた。
「対抗戦の舞台で会おう、アトカ」
小さく呟いた声は、周囲の喧騒には紛れていった。
だが、その言葉は確かにルトの中へ刻まれる。
その時、お前がどれほど凄い魔術師になったのか、今度こそ真正面から見せてくれ。
そして俺も、今の俺をお前に見せる。
赤い瞳には、弟との再会を心から楽しみにする兄としての優しさと、一人の剣士として決して譲れない闘志が、静かに宿っていた。
ルトはもう一度踏み込んだ。
剣が空気を裂く。
次の訓練人形が、音もなく斬り伏せられる。
周囲から再び歓声が上がる中、ルトの胸には、三年前の約束が熱を帯びて灯り続けていた。




