灯りの消えないラウンジ
夜も更け、魔導科特等枠のラウンジは静まり返っていた。
けれど、灯りは消えていなかった。
円卓の上には冷めかけた紅茶が置かれ、ソファーの近くには、誰も手をつけていない焼き菓子の皿が残っている。
ギルベルトは懐中時計を片手に座り、バルトロは腕を組んだまま、落ち着かない様子で床を睨んでいた。
エルマは開いたノートの上でペンを止めている。
書き込むべき項目は分かっているはずなのに、その先へ手が進まない。
リリシアは何度も扉の方を見ては、胸元で両手を握りしめていた。
誰もはっきりと言葉にはしなかった。
だが、全員が同じことを待っていた。
カインはどうなったのか。
アトカは無事なのか。
その時、扉が静かに開いた。
「遅くなりました」
アトカの声が聞こえた瞬間、四人が一斉に顔を上げた。
「アトカ君!」
リリシアが弾かれたように立ち上がる。
駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。
アトカの頬には、医療科で処置を受けたばかりの薄い保護膜が残っていた。
血は止まっている。
けれど、白い肌にはまだ細い傷が走り、漆黒のローブの裾には森の泥が乾いてこびりついていた。
「ア、アトカ君……そのお顔……」
リリシアの瞳に、みるみる涙が浮かぶ。
アトカは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫です。医療科で傷を洗って、治療してもらいました。毒や魔力汚染もなかったそうです」
「痛くは、ないですか……?」
「少しだけです。でも、今夜はもう僕が魔術を使わないように言われました」
リリシアはアトカの頬へ手を伸ばしかけた。
けれど、保護膜へ触れる前に指を止める。
治したい。
残っている痛みをなくしたい。
その気持ちは、震える指先から伝わってきた。
それでも、リリシアは勝手に治癒の光を流さなかった。
「アトカ君」
リリシアは一度手を下ろし、アトカの青い瞳を見つめた。
「わたしが、その傷を治してもいいですか?」
アトカは少しだけ目を瞬かせた。
「医療科で処置を受けた後ですけど、大丈夫でしょうか」
「保護膜は剥がしません。傷の状態を確かめながら、上からほんの少しだけ治癒を重ねます。痛みが増えたり、熱く感じたりしたら、すぐに止めます」
リリシアは急がずに説明を続けた。
「頬にも触れません。治療を受けたくなければ、断っても大丈夫です」
アトカは治療を受けた頬へ意識を向けた。
まだ細い痛みが残っている。
それから、リリシアの前で素直に頷いた。
「お願いします、リリシア先輩」
「はい」
許可を得てから、リリシアはアトカの前へ一歩だけ近づいた。
それ以上は距離を詰めず、頬から手のひら一つ分ほど離れた位置へ右手を上げる。
「今から始めますね。熱かったり、苦しかったりしたら教えてください」
「はい」
淡い緑色の光が、リリシアの指先へ静かに灯った。
以前のように、周囲へ溢れ出す治癒ではない。
細く、柔らかく絞られた光が、保護膜の上から頬の傷だけへ注がれていく。
裂けていた皮膚の奥が、僅かに温かくなる。
鋭く残っていた痛みが、ゆっくりと薄れていった。
アトカは呼吸を止めず、その変化を確かめる。
「熱くありませんか?」
「大丈夫です。温かいです」
「指や肩に違和感はありませんか?」
アトカは義手の指を一度ずつ動かした。
「ありません」
リリシアは一度に傷を消そうとはしなかった。
医療科が閉じた傷口を乱さないよう、残っている炎症と痛みだけを少しずつ鎮めていく。
やがて、淡い光が静かに消えた。
「終わりました」
リリシアはすぐに手を下ろし、アトカの頬へ触れないまま保護膜の状態を確認した。
「痛みはどうですか?」
アトカは頬を僅かに動かしてみた。
「ほとんど痛くありません。ありがとうございます、リリシア先輩」
「よかった……」
リリシアの肩から力が抜ける。
それでも涙は完全には引かず、目元にはまだ薄く残っていた。
「今夜は、もう傷へ魔力を流しません。保護膜もそのままにしてください。痛みが戻ったり、熱を持ったりしたら、すぐに医療科へ戻りましょう」
「はい」
エルマが眼鏡を押し上げる。
「医療科で魔力汚染が検出されず、リリシアさんも追加治療を最小限に留めたのなら、ひとまず問題はなさそうですわ。それでも明日の再診までは、傷へ余計な魔力を流してはいけません」
「はい。気をつけます」
アトカが素直に頷くと、エルマはなぜか言葉に詰まった。
「……本当に、そういうところですわよ」
バルトロが短く息を吐く。
「で、カインは」
その一言で、ラウンジの空気が静かになった。
アトカは全員へ向き直る。
「カイン先輩は、医療科の隔離治療室で休んでいます。命に別状はないそうです」
リリシアの肩から、僅かに力が抜けた。
「ただ、長い間魔力を外へ出し続けていたので、回路に強い負担が残っています。今夜は封止設備の中で眠らせると言っていました」
「過放出による回路疲弊か」
ギルベルトは懐中時計の針へ視線を落とした。
「カインがそこまで追い詰められるとはな」
「拘束具も切られていました」
アトカは静かに続ける。
「霧化型のクリスタ・マンティスという魔獣だったそうです。霧に紛れて、防御の要や継ぎ目だけを切る結晶刃を持っていました。カイン先輩の拘束具も、その刃で切られていたみたいです」
エルマの表情が硬くなる。
「クリスタ・マンティス……通常の探知術式では捉えにくい魔獣ですわ。よりによって、カインさんの拘束具の要を見抜くなんて……」
バルトロが苦々しく舌打ちした。
「あいつ、そんなもんを相手に一人で粘ってたのかよ」
リリシアは涙をこらえながら俯いた。
「カイン先輩……怖かったですよね……」
アトカは頷いた。
「はい。でも、最後まで誰も近づかないように言っていました。自分のせいで誰かを傷つけたくないって」
ギルベルトは静かに目を伏せた。
「そうか」
短い一言だった。
けれど、その声には確かな安堵と、僅かな痛みが混じっていた。
バルトロはアトカのそばまで歩いてくると、大きな手を持ち上げた。
頭を撫でようとしたらしい。
しかし、頬の傷へ気づくと、触れない位置で手を止めた。
「よく連れてきたな、新入り」
いつものようにからかう声ではなかった。
ぶっきらぼうだが、本気の言葉だった。
アトカは少し驚き、それから嬉しそうに笑った。
「はい。皆さんが心配していると思ったので」
「……そういうところだぞ、お前」
バルトロは目を逸らし、手つかずだった焼き菓子の皿をアトカの前へ押し出した。
「食え。帰り道の分まで残せって言われただろ」
「覚えていてくれたんですね」
「うるせぇ」
リリシアが温かい紅茶をアトカの前へ置く。
「少しずつ飲んでください。熱すぎないようにしてあります」
「ありがとうございます」
エルマは開いていたノートを閉じた。
「カインさんの拘束具と回路の記録は、明日確認しますわ。今夜は医療科から面会許可も出ていないでしょうし、押しかけても処置の邪魔になるだけですもの」
「わ、わたしも、明日になったら医療科へ確認します」
リリシアも小さく頷く。
ギルベルトは懐中時計の蓋を閉じた。
「今夜は全員ここまでだ。カインは医療科へ任せる。アトカは紅茶を飲んだら休め」
「はい」
「任務は終了した。カインも、お前も、学園へ戻った」
その言葉を聞いて、アトカはようやく椅子へ深く腰を下ろした。
頬の痛みは、もうほとんどない。
けれど、義手にはまだ森の湿った空気と、白霧を保ち続けた感覚が残っていた。
カインを連れて帰ることができた。
その事実が、ゆっくりと胸の中へ染み込んでくる。
「……よかった」
小さく呟くと、アトカは温かな紅茶を一口飲んだ。
この部屋が何なのか、アトカにはまだよく分からない。
教室ではない。
寮の部屋でもない。
家でもない。
けれど、誰かが灯りを消さずに待っていた場所ではあった。
そのことだけは、少し分かった。
翌朝。
柔らかな朝日が差し込む隔離治療室で、カインはゆっくりと目を開けた。
身体は重い。
喉は乾き、指先には力が入らない。
全身に巻き直された仮拘束具が、魔力の流れを慎重に抑えているのが分かった。
いつもの拘束具とは違う。
独立した刻印を何層にも重ねた、応急的なものだった。
それでも、周囲は壊れていない。
天井も、壁も、寝台も、誰の身体も崩れていない。
カインはぼんやりと自分の手を見つめた。
「……生きてる」
かすれた声が漏れる。
その声に、寝台から少し離れた椅子で本を読んでいたアトカが顔を上げた。
医療科から短時間の付き添いを許され、カインが目を覚ますのを待っていたのだ。
「あ、おはようございます、カイン先輩」
「……アトカ」
カインはしばらく黙っていた。
昨夜の記憶が、途切れ途切れに戻ってくる。
壊れた拘束具。
止まらない魔力。
近づくなと叫んだ自分。
それでも霧の中を歩いてきた、白髪の少年。
「……俺は」
カインは唇を噛む。
「また、壊したのか」
「森は壊れていました」
アトカは正直に答えた。
「今、先生たちと冒険者ギルドの方たちが被害を調べています。でも、誰も死んでいません」
カインの指が僅かに震える。
「カイン先輩は、最後まで人がいる方へ魔力が向かないように耐えていました。僕が近づいた時も、逃げろって言っていました」
「俺は、抑えきれなかった」
「それでも、止めようとしていました」
アトカの声は柔らかい。
けれど、嘘はなかった。
「自分のせいで、誰も傷ついてほしくないって言っていました」
カインの瞳が揺れる。
「……誰も来ないと思ってた」
かすかな声だった。
「来るなって言えば、みんな離れる。離れてくれれば、壊さずに済む。だから、それでいいと思ってた」
アトカは静かに聞いていた。
「でも、お前は来た」
「はい」
「怖くなかったのか」
アトカは少し考えた。
「怖くないわけではありませんでした。でも、カイン先輩を一人にしたくありませんでした」
カインは目を閉じた。
胸の奥に長く張り付いていたものが、少しだけ形を変える。
罪悪感が消えたわけではない。
恐怖がなくなったわけでもない。
壊れた森が元に戻ったわけでもない。
それでも、破壊の中心へ誰かが来てくれたという事実だけは、確かに残っている。
「……すまなかった」
「どうして謝るんですか?」
「お前を危ない目に遭わせた」
「僕はここにいます。カイン先輩も、ここにいます」
アトカは柔らかく笑った。
「壊れたもののことは、先生たちと一緒に考えればいいと思います。先輩が一人で全部を背負う必要はありません」
あまりにも真っ直ぐな答えだった。
カインはしばらく何も言えなかった。
やがて、かすれた声で呟く。
「……ありがとう」
短い一言。
けれど、それはカインが長い間、誰にも向けられなかった言葉だった。
アトカは嬉しそうに目を細めた。
「はい」
静かな沈黙が流れる。
冷たいものではなかった。
朝の光のように、穏やかに部屋へ満ちる沈黙だった。
カインは少しだけ視線を逸らした。
「いつか」
「はい?」
「いつか、俺もお前を守る」
強い宣言ではなかった。
まだ震えの残る声で、それでも自分の意思として口にした約束だった。
アトカはぱっと笑う。
「はい。でも、その時は一緒に戻りましょうね」
カインは小さく息を吐いた。
笑ったようにも、泣きそうになったようにも見えた。
「……変な奴だな、お前」
「そうでしょうか」
「そうだ」
カインは疲れたように目を閉じた。
けれど、今度の眠りは、暴走の果てに落ちる意識喪失ではなかった。
誰かがそばにいると知った上で、ようやく身体を休めるための眠りだった。
数日後。
医療科から短時間の滞在許可を受けたカインを迎え、特等枠のラウンジには久しぶりに全員が揃っていた。
円卓の上には、フェル・ザイン冒険者ギルドから届いた報酬明細と、本人名義口座への入金通知が置かれている。
救助任務とクリスタ・マンティス討伐、その両方に対するアトカ個人分の報酬だった。
アトカは明細へ記された数字を見て、青い瞳を丸くする。
「わぁ……こんなにいただけるんですね」
エルマも眼鏡の奥で目を見開いた。
「これだけあれば、高級な魔導素材をかなり購入できますわ」
「お祝いもできますね」
リリシアは嬉しそうに両手を合わせる。
アトカは報酬の一部を祝いの食事へ使いたいと学園へ申請し、すでに少額の利用許可を受けていた。
「みんなで、おいしいものを食べたいです」
「肉、多めな」
バルトロが当然のように言う。
「あと魔石もな」
「祝いの食事と補給用魔石を一緒にしないでくださいまし」
エルマが呆れたようにため息をつく。
「それにカインさんはまだ療養中です。刺激の強い料理は避けるべきですわ」
「俺は肉でいい」
「貴方の話ではありませんわ」
ラウンジの奥では、仮拘束具を身につけたカインが静かに座っていた。
以前と同じように、円卓からは少し離れている。
けれど、完全に輪の外ではなかった。
医療科へ繋がる呼び出し具を手元へ置き、以前よりも円卓へ近い椅子から、皆の声を聞いている。
アトカは皿から焼き菓子を一枚取った。
すぐには立ち上がらず、カインへ声をかける。
「カイン先輩。近くの小さな台まで行ってもいいですか?」
カインの身体が一瞬だけ強張る。
それでも、暗い赤紫色の瞳でアトカと小さな台の距離を確かめた。
「……そこまでならいい」
「ありがとうございます」
アトカはカインが示した場所まで歩き、小さな台へ皿を置いた。
それ以上は近づかず、すぐに一歩下がる。
「よかったら、どうぞ」
カインは皿を見た。
それから、距離を守ったまま立っているアトカを見る。
「……あとで食べる」
「はい」
アトカは嬉しそうに頷き、円卓へ戻った。
そのやり取りを見て、ギルベルトが静かに懐中時計を閉じる。
「少しは、ラウンジらしくなってきたな」
バルトロが鼻で笑った。
「前から騒がしかっただろ」
「騒がしさと、居場所は別だ」
ギルベルトの言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
けれど、その沈黙は重くなかった。
リリシアは涙ぐみながら笑い、エルマは照れ隠しのようにノートを開く。
バルトロは明細ではなく料理の相談を始め、カインは離れた席で、自分のために置かれた焼き菓子をじっと見つめていた。
アトカはその光景をゆっくりと見渡した。
お父さん。
お母さん。
キルウェスタ先生。
僕、この学園でも、大切な場所を見つけられそうです。
窓から入った風が、空の左袖を柔らかく揺らす。
アトカは仲間たちの声を聞きながら、自分の椅子へ腰を下ろした。
その日、そこへ座る時に感じていた緊張が、ほんの少しだけ薄くなっていることに気づいた。




