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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
特等枠の怪物たち
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36/48

灯りの消えないラウンジ

夜も更け、魔導科特等枠のラウンジは静まり返っていた。

けれど、灯りは消えていなかった。


円卓の上には冷めかけた紅茶が置かれ、ソファーの近くには、誰も手をつけていない焼き菓子の皿が残っている。


ギルベルトは懐中時計を片手に座り、バルトロは腕を組んだまま、落ち着かない様子で床を睨んでいた。

エルマは開いたノートの上でペンを止めている。

書き込むべき項目は分かっているはずなのに、その先へ手が進まない。

リリシアは何度も扉の方を見ては、胸元で両手を握りしめていた。


誰もはっきりと言葉にはしなかった。

だが、全員が同じことを待っていた。


カインはどうなったのか。

アトカは無事なのか。


その時、扉が静かに開いた。


「遅くなりました」


アトカの声が聞こえた瞬間、四人が一斉に顔を上げた。


「アトカ君!」


リリシアが弾かれたように立ち上がる。

駆け寄ろうとして、途中で足を止めた。


アトカの頬には、医療科で処置を受けたばかりの薄い保護膜が残っていた。

血は止まっている。

けれど、白い肌にはまだ細い傷が走り、漆黒のローブの裾には森の泥が乾いてこびりついていた。


「ア、アトカ君……そのお顔……」


リリシアの瞳に、みるみる涙が浮かぶ。

アトカは安心させるように微笑んだ。


「大丈夫です。医療科で傷を洗って、治療してもらいました。毒や魔力汚染もなかったそうです」


「痛くは、ないですか……?」


「少しだけです。でも、今夜はもう僕が魔術を使わないように言われました」


リリシアはアトカの頬へ手を伸ばしかけた。

けれど、保護膜へ触れる前に指を止める。


治したい。

残っている痛みをなくしたい。


その気持ちは、震える指先から伝わってきた。

それでも、リリシアは勝手に治癒の光を流さなかった。


「アトカ君」


リリシアは一度手を下ろし、アトカの青い瞳を見つめた。


「わたしが、その傷を治してもいいですか?」


アトカは少しだけ目を瞬かせた。


「医療科で処置を受けた後ですけど、大丈夫でしょうか」


「保護膜は剥がしません。傷の状態を確かめながら、上からほんの少しだけ治癒を重ねます。痛みが増えたり、熱く感じたりしたら、すぐに止めます」


リリシアは急がずに説明を続けた。


「頬にも触れません。治療を受けたくなければ、断っても大丈夫です」


アトカは治療を受けた頬へ意識を向けた。

まだ細い痛みが残っている。


それから、リリシアの前で素直に頷いた。


「お願いします、リリシア先輩」


「はい」


許可を得てから、リリシアはアトカの前へ一歩だけ近づいた。

それ以上は距離を詰めず、頬から手のひら一つ分ほど離れた位置へ右手を上げる。


「今から始めますね。熱かったり、苦しかったりしたら教えてください」


「はい」


淡い緑色の光が、リリシアの指先へ静かに灯った。


以前のように、周囲へ溢れ出す治癒ではない。

細く、柔らかく絞られた光が、保護膜の上から頬の傷だけへ注がれていく。


裂けていた皮膚の奥が、僅かに温かくなる。

鋭く残っていた痛みが、ゆっくりと薄れていった。


アトカは呼吸を止めず、その変化を確かめる。


「熱くありませんか?」


「大丈夫です。温かいです」


「指や肩に違和感はありませんか?」


アトカは義手の指を一度ずつ動かした。


「ありません」


リリシアは一度に傷を消そうとはしなかった。

医療科が閉じた傷口を乱さないよう、残っている炎症と痛みだけを少しずつ鎮めていく。


やがて、淡い光が静かに消えた。


「終わりました」


リリシアはすぐに手を下ろし、アトカの頬へ触れないまま保護膜の状態を確認した。


「痛みはどうですか?」


アトカは頬を僅かに動かしてみた。


「ほとんど痛くありません。ありがとうございます、リリシア先輩」


「よかった……」


リリシアの肩から力が抜ける。

それでも涙は完全には引かず、目元にはまだ薄く残っていた。


「今夜は、もう傷へ魔力を流しません。保護膜もそのままにしてください。痛みが戻ったり、熱を持ったりしたら、すぐに医療科へ戻りましょう」


「はい」


エルマが眼鏡を押し上げる。


「医療科で魔力汚染が検出されず、リリシアさんも追加治療を最小限に留めたのなら、ひとまず問題はなさそうですわ。それでも明日の再診までは、傷へ余計な魔力を流してはいけません」


「はい。気をつけます」


アトカが素直に頷くと、エルマはなぜか言葉に詰まった。


「……本当に、そういうところですわよ」


バルトロが短く息を吐く。


「で、カインは」


その一言で、ラウンジの空気が静かになった。

アトカは全員へ向き直る。


「カイン先輩は、医療科の隔離治療室で休んでいます。命に別状はないそうです」


リリシアの肩から、僅かに力が抜けた。


「ただ、長い間魔力を外へ出し続けていたので、回路に強い負担が残っています。今夜は封止設備の中で眠らせると言っていました」


「過放出による回路疲弊か」


ギルベルトは懐中時計の針へ視線を落とした。


「カインがそこまで追い詰められるとはな」


「拘束具も切られていました」


アトカは静かに続ける。


「霧化型のクリスタ・マンティスという魔獣だったそうです。霧に紛れて、防御の要や継ぎ目だけを切る結晶刃を持っていました。カイン先輩の拘束具も、その刃で切られていたみたいです」


エルマの表情が硬くなる。


「クリスタ・マンティス……通常の探知術式では捉えにくい魔獣ですわ。よりによって、カインさんの拘束具の要を見抜くなんて……」


バルトロが苦々しく舌打ちした。


「あいつ、そんなもんを相手に一人で粘ってたのかよ」


リリシアは涙をこらえながら俯いた。


「カイン先輩……怖かったですよね……」


アトカは頷いた。


「はい。でも、最後まで誰も近づかないように言っていました。自分のせいで誰かを傷つけたくないって」


ギルベルトは静かに目を伏せた。


「そうか」


短い一言だった。

けれど、その声には確かな安堵と、僅かな痛みが混じっていた。


バルトロはアトカのそばまで歩いてくると、大きな手を持ち上げた。

頭を撫でようとしたらしい。

しかし、頬の傷へ気づくと、触れない位置で手を止めた。


「よく連れてきたな、新入り」


いつものようにからかう声ではなかった。

ぶっきらぼうだが、本気の言葉だった。


アトカは少し驚き、それから嬉しそうに笑った。


「はい。皆さんが心配していると思ったので」


「……そういうところだぞ、お前」


バルトロは目を逸らし、手つかずだった焼き菓子の皿をアトカの前へ押し出した。


「食え。帰り道の分まで残せって言われただろ」


「覚えていてくれたんですね」


「うるせぇ」


リリシアが温かい紅茶をアトカの前へ置く。


「少しずつ飲んでください。熱すぎないようにしてあります」


「ありがとうございます」


エルマは開いていたノートを閉じた。


「カインさんの拘束具と回路の記録は、明日確認しますわ。今夜は医療科から面会許可も出ていないでしょうし、押しかけても処置の邪魔になるだけですもの」


「わ、わたしも、明日になったら医療科へ確認します」


リリシアも小さく頷く。


ギルベルトは懐中時計の蓋を閉じた。


「今夜は全員ここまでだ。カインは医療科へ任せる。アトカは紅茶を飲んだら休め」


「はい」


「任務は終了した。カインも、お前も、学園へ戻った」


その言葉を聞いて、アトカはようやく椅子へ深く腰を下ろした。

頬の痛みは、もうほとんどない。

けれど、義手にはまだ森の湿った空気と、白霧を保ち続けた感覚が残っていた。


カインを連れて帰ることができた。

その事実が、ゆっくりと胸の中へ染み込んでくる。


「……よかった」


小さく呟くと、アトカは温かな紅茶を一口飲んだ。


この部屋が何なのか、アトカにはまだよく分からない。

教室ではない。

寮の部屋でもない。

家でもない。


けれど、誰かが灯りを消さずに待っていた場所ではあった。

そのことだけは、少し分かった。


翌朝。


柔らかな朝日が差し込む隔離治療室で、カインはゆっくりと目を開けた。


身体は重い。

喉は乾き、指先には力が入らない。

全身に巻き直された仮拘束具が、魔力の流れを慎重に抑えているのが分かった。


いつもの拘束具とは違う。

独立した刻印を何層にも重ねた、応急的なものだった。


それでも、周囲は壊れていない。

天井も、壁も、寝台も、誰の身体も崩れていない。


カインはぼんやりと自分の手を見つめた。


「……生きてる」


かすれた声が漏れる。


その声に、寝台から少し離れた椅子で本を読んでいたアトカが顔を上げた。

医療科から短時間の付き添いを許され、カインが目を覚ますのを待っていたのだ。


「あ、おはようございます、カイン先輩」


「……アトカ」


カインはしばらく黙っていた。

昨夜の記憶が、途切れ途切れに戻ってくる。


壊れた拘束具。

止まらない魔力。

近づくなと叫んだ自分。

それでも霧の中を歩いてきた、白髪の少年。


「……俺は」


カインは唇を噛む。


「また、壊したのか」


「森は壊れていました」


アトカは正直に答えた。


「今、先生たちと冒険者ギルドの方たちが被害を調べています。でも、誰も死んでいません」


カインの指が僅かに震える。


「カイン先輩は、最後まで人がいる方へ魔力が向かないように耐えていました。僕が近づいた時も、逃げろって言っていました」


「俺は、抑えきれなかった」


「それでも、止めようとしていました」


アトカの声は柔らかい。

けれど、嘘はなかった。


「自分のせいで、誰も傷ついてほしくないって言っていました」


カインの瞳が揺れる。


「……誰も来ないと思ってた」


かすかな声だった。


「来るなって言えば、みんな離れる。離れてくれれば、壊さずに済む。だから、それでいいと思ってた」


アトカは静かに聞いていた。


「でも、お前は来た」


「はい」


「怖くなかったのか」


アトカは少し考えた。


「怖くないわけではありませんでした。でも、カイン先輩を一人にしたくありませんでした」


カインは目を閉じた。

胸の奥に長く張り付いていたものが、少しだけ形を変える。


罪悪感が消えたわけではない。

恐怖がなくなったわけでもない。

壊れた森が元に戻ったわけでもない。


それでも、破壊の中心へ誰かが来てくれたという事実だけは、確かに残っている。


「……すまなかった」


「どうして謝るんですか?」


「お前を危ない目に遭わせた」


「僕はここにいます。カイン先輩も、ここにいます」


アトカは柔らかく笑った。


「壊れたもののことは、先生たちと一緒に考えればいいと思います。先輩が一人で全部を背負う必要はありません」


あまりにも真っ直ぐな答えだった。

カインはしばらく何も言えなかった。


やがて、かすれた声で呟く。


「……ありがとう」


短い一言。

けれど、それはカインが長い間、誰にも向けられなかった言葉だった。


アトカは嬉しそうに目を細めた。


「はい」


静かな沈黙が流れる。

冷たいものではなかった。

朝の光のように、穏やかに部屋へ満ちる沈黙だった。


カインは少しだけ視線を逸らした。


「いつか」


「はい?」


「いつか、俺もお前を守る」


強い宣言ではなかった。

まだ震えの残る声で、それでも自分の意思として口にした約束だった。


アトカはぱっと笑う。


「はい。でも、その時は一緒に戻りましょうね」


カインは小さく息を吐いた。

笑ったようにも、泣きそうになったようにも見えた。


「……変な奴だな、お前」


「そうでしょうか」


「そうだ」


カインは疲れたように目を閉じた。

けれど、今度の眠りは、暴走の果てに落ちる意識喪失ではなかった。


誰かがそばにいると知った上で、ようやく身体を休めるための眠りだった。


数日後。


医療科から短時間の滞在許可を受けたカインを迎え、特等枠のラウンジには久しぶりに全員が揃っていた。


円卓の上には、フェル・ザイン冒険者ギルドから届いた報酬明細と、本人名義口座への入金通知が置かれている。

救助任務とクリスタ・マンティス討伐、その両方に対するアトカ個人分の報酬だった。


アトカは明細へ記された数字を見て、青い瞳を丸くする。


「わぁ……こんなにいただけるんですね」


エルマも眼鏡の奥で目を見開いた。


「これだけあれば、高級な魔導素材をかなり購入できますわ」


「お祝いもできますね」


リリシアは嬉しそうに両手を合わせる。


アトカは報酬の一部を祝いの食事へ使いたいと学園へ申請し、すでに少額の利用許可を受けていた。


「みんなで、おいしいものを食べたいです」


「肉、多めな」


バルトロが当然のように言う。


「あと魔石もな」


「祝いの食事と補給用魔石を一緒にしないでくださいまし」


エルマが呆れたようにため息をつく。


「それにカインさんはまだ療養中です。刺激の強い料理は避けるべきですわ」


「俺は肉でいい」


「貴方の話ではありませんわ」


ラウンジの奥では、仮拘束具を身につけたカインが静かに座っていた。

以前と同じように、円卓からは少し離れている。


けれど、完全に輪の外ではなかった。

医療科へ繋がる呼び出し具を手元へ置き、以前よりも円卓へ近い椅子から、皆の声を聞いている。


アトカは皿から焼き菓子を一枚取った。

すぐには立ち上がらず、カインへ声をかける。


「カイン先輩。近くの小さな台まで行ってもいいですか?」


カインの身体が一瞬だけ強張る。

それでも、暗い赤紫色の瞳でアトカと小さな台の距離を確かめた。


「……そこまでならいい」


「ありがとうございます」


アトカはカインが示した場所まで歩き、小さな台へ皿を置いた。

それ以上は近づかず、すぐに一歩下がる。


「よかったら、どうぞ」


カインは皿を見た。

それから、距離を守ったまま立っているアトカを見る。


「……あとで食べる」


「はい」


アトカは嬉しそうに頷き、円卓へ戻った。


そのやり取りを見て、ギルベルトが静かに懐中時計を閉じる。


「少しは、ラウンジらしくなってきたな」


バルトロが鼻で笑った。


「前から騒がしかっただろ」


「騒がしさと、居場所は別だ」


ギルベルトの言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。

けれど、その沈黙は重くなかった。


リリシアは涙ぐみながら笑い、エルマは照れ隠しのようにノートを開く。

バルトロは明細ではなく料理の相談を始め、カインは離れた席で、自分のために置かれた焼き菓子をじっと見つめていた。


アトカはその光景をゆっくりと見渡した。


お父さん。

お母さん。

キルウェスタ先生。


僕、この学園でも、大切な場所を見つけられそうです。


窓から入った風が、空の左袖を柔らかく揺らす。

アトカは仲間たちの声を聞きながら、自分の椅子へ腰を下ろした。


その日、そこへ座る時に感じていた緊張が、ほんの少しだけ薄くなっていることに気づいた。


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