月明かりの報告
アトカが王立エルシオン学園の外縁門へ辿り着いた時、夜はすっかり深くなっていた。
月明かりに照らされた白亜の校舎は、昼間とは別の場所のように静まり返っている。
遠くの時計塔が低く時を告げ、その音が冷たい石畳の上を薄く広がっていった。
救助隊の中心では、仮拘束具に包まれたカインが担架へ横たえられていた。
担架を運ぶのは二人の医療班員だった。
その左右を防護班が囲み、仮拘束具の刻印と吸収層が正常に働いているかを絶えず確認している。
アトカは担架のすぐ隣を歩いていた。
頬の傷には森で受けた応急処置が施され、薄い保護布が貼られている。
漆黒のローブには泥が残り、裾の一部は白銀の魔獣に切り落とされたままだった。
「もう少しですよ、カイン先輩」
返事はない。
カインの呼吸は浅かったが、途切れてはいなかった。
仮拘束具の内側では荒れた魔力が今も脈打っているものの、独立した刻印が一層ずつ漏出を受け止め、余剰分を帯の吸収層へ逃がしている。
生きている。
今は、それで十分だった。
外縁門の先には、連絡を受けた医療科の職員たちが待機していた。
「カイン・デイスターを隔離治療室へ運ぶ!仮拘束具の第三層は維持したまま移動しろ!」
初老の治癒魔術師が指示を飛ばす。
救助隊は足を止めず、そのまま医療科棟へ向かった。
隔離治療室には、すでに専用の寝台が用意されていた。
一つの大きな術式へ頼るのではなく、小さく独立した封止刻印を幾重にも重ねた設備だった。
一部の刻印が接合崩壊を受けても、隣の刻印まで連鎖して壊れない構造になっている。
医療班がカインの身体を担架から寝台へ移す。
防護班は仮拘束具を外さず、寝台側の封止設備を一層ずつ作動させていった。
「第一層、安定」
仮拘束具の外層が緩められる。
「第二層、循環路へ接続」
カインの身体から漏れようとしていた魔力が、本来の循環へ少しずつ戻されていく。
戻しきれない余剰分は、寝台の下へ組み込まれた吸収層へ流された。
「第三層、固定完了。仮拘束具を解除する」
最後の黒い帯が外されても、新たな魔力漏出は起きなかった。
アトカは隔離室の外から、その様子をじっと見守っていた。
森で一時的に引き受けた役割は、すでに仮拘束具へ渡している。
そして今、その役割も医療科の設備へ正しく引き継がれた。
もう、自分がカインの魔力を抑え続ける必要はない。
治癒魔術師は淡い緑色の光をカインの身体へ巡らせ、外傷と魔力回路の状態を確認していった。
擦過傷。
打撲。
限界を超えた魔力放出による枯渇。
長時間にわたって暴走を押し戻し続けたことで、回路にも強い負荷が残っている。
診察を終えた治癒魔術師が、隔離室から出てきた。
「命に別状はない」
アトカの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「本当ですか?」
「ああ。外傷は見た目ほど深くない。問題は魔力回路だが、焼き切れる前に暴走が止まっている。今夜は封止設備の中で眠らせ、明日改めて魔力循環と拘束具の再設計を行う」
「間に合って、良かったです」
心から漏れた一言だった。
治癒魔術師も静かに頷いた。
「カイン君の処置はこちらで続ける。次は君だ」
「僕ですか?」
「頬の傷だけではない。義手の反応、接合部、魔力循環、それから他人の魔力へ長時間干渉した影響も確認する。診察室へ入りなさい」
アトカは隔離室の窓へ一度だけ目を向けた。
カインの胸は、先ほどよりも深く上下している。
「はい。お願いします」
診察では、頬の傷が改めて洗浄された。
白銀の魔獣が持つ毒性や魔力汚染は検出されず、傷も浅いものだった。
治癒魔術によって裂けた皮膚が閉じられ、新しい保護膜が張られる。
続いて、義手の接合部と肩が確認された。
親指から小指までを順に動かし、森で遅れの出た薬指も何度か曲げ伸ばしする。
「今は遅れも熱もないな」
「はい。少し重い感じはします」
「疲労だろう。だが、今夜はもう魔術を使ってはいけない。義手も必要以上に動かさず、部屋へ戻ったら休ませること」
「分かりました」
魔力循環にも大きな乱れは見つからなかった。
ただし、外界魔力へ長時間意識を重ねた影響で、通常よりも脈が浅く、全身に疲労が残っている。
治癒魔術師は診察記録を閉じた。
「短い報告と、ラウンジまで歩くことは許可する。その後は休むこと。少しでも肩が熱い、指が遅れる、外の魔力が必要以上に近く感じるといった異常があれば、すぐに戻りなさい」
「はい。ありがとうございます」
診察室を出ると、医療科の待合室にはフレデリックが来ていた。
長い銀髪を背へ流し、琥珀色の瞳で隔離治療室の窓を見つめている。
「学園長先生」
フレデリックが振り返る。
「診察は終わったようだね」
「はい。今日はもう魔術を使わないように言われました」
「それなら、報告は短くしよう。まずは二人とも戻ってきてくれて、本当によかった」
穏やかな声だった。
学園長としてではなく、生徒を預かる大人としての安堵が滲んでいた。
医療科の許可を得て、二人は待合室の端にある小さな面談区画へ移った。
アトカは大森林で起きたことを、順番に報告した。
フェル・ザイン冒険者ギルドで最新の情報と装備を受け取ったこと。
監督教員、防護班、医療班、斥候たちと合流して森へ入ったこと。
途中でシャドウウルフの群れを討伐したこと。
接合崩壊域の外で教師たちが退路と救護地点を維持していたこと。
自分だけがカインを目視できる位置まで進み、身体の外へ漏れた魔力だけへ干渉したこと。
医療班が運んできた仮拘束具へ、漏出魔力の制御を少しずつ引き継いだこと。
そして、カインの拘束具を切断した白銀の魔獣を討伐したこと。
フレデリックは途中で口を挟まず、必要な部分だけを書き留めていった。
「僕だけで連れ帰ったわけではありません」
アトカは報告の最後に付け加えた。
「監督の先生が進んでよい場所を決めてくれました。斥候の方たちが足場を確認して、防護班の方たちが帰る道を守っていました。医療班の方たちが仮拘束具を持ってきてくれたから、僕もカイン先輩の魔力を手放すことができました」
「全員の役割を、正式な救助記録へ残そう」
フレデリックは静かに頷いた。
「その中でも、最後の距離へ進み、カイン君の漏出魔力へ触れる役割は君にしか果たせなかった。だが、それだけで救助は成り立たない。君が見たとおり、多くの者が帰路を繋いでいた」
「はい」
アトカは隔離室の方角へ視線を向けた。
「カイン先輩も、最後まで耐えていました。僕が着いた時も、ずっと来るなって言っていたんです。自分のせいで誰かを傷つけたくないって」
「あの状態でも、か」
「はい。だから、間に合って良かったです」
フレデリックはほんの少し目を細めた。
「本当に、君は最初に他人のことを話すのだね」
「え?」
「君の働きを軽く見るなということだよ。それと同時に、自分の傷や疲労も、他人のものと同じように大切にしなさい」
アトカは治療を受けた頬へ意識を向けた。
「はい。今回は、ちゃんと診てもらいました」
「それでいい。仲間を大事にするなら、仲間とともに帰る自分の身体も大切にしなければならない」
「気を付けます」
面談区画の外では、現場監督教員と一人の斥候が待っていた。
斥候が抱えているのは、森で回収した結晶刃を収めた硬質封印容器だった。
「証拠品を保管庫へ移します」
斥候が告げ、容器の確認窓をフレデリックへ向ける。
透明な結晶刃。
白銀の層が幾重にも重なった構造。
刃の内部には、霧化に使われていたものと同じ微かな魔力痕が残っている。
フレデリックの表情がわずかに変わった。
「クリスタ・マンティスか」
「クリスタ・マンティス……」
アトカが名前を繰り返す。
「白銀の外殻を魔力を帯びた微粒子へ分解し、霧の中へ拡散する魔獣だ。通常の探知術式では捉えにくく、結晶刃は厚い防壁そのものではなく、守りを成立させている継ぎ目や要を狙う」
フレデリックは容器越しに刃を観察した。
「この層状の結晶構造と、霧化の魔力痕に間違いはない。カイン君の拘束具が要となる帯だけを切られていた理由も説明できる」
アトカは治療を終えた頬へ、そっと義手の甲を近づけた。
「僕の水膜も、流れが重なるところを切られました」
「その攻撃を受けながら、霧化の仕組みを見抜いて討伐したのだね」
「森の霧と水滴が、どこへ集まろうとしているかを教えてくれました」
フレデリックは封印容器から視線を戻した。
「証拠品は学園の保管庫へ移し、帝都の冒険者ギルドにも調査結果を共有しよう。討伐記録と、学園領へ侵入した経路の調査も必要になる」
「はい」
「今回の救助と討伐は、学園とフェル・ザイン冒険者ギルドが連携した正式な任務として処理される。後日、規定に沿った報酬も支払われるだろう」
アトカは驚いたように瞬きをした。
「お金もいただけるんですか?」
「正式な救助と討伐を果たした者には、それに見合った対価が支払われる。それも帝国の定める大切な規則だよ。君の分は学園が管理する本人名義の口座へ預け、明細をアッシュフォード家へ送る」
「お父さんとお母さんにも伝わるんですね」
「もちろんだ」
アトカの青い瞳が少し明るくなる。
それでも、すぐに隔離室の方へ目を向けた。
「でも、一番安心したのは、カイン先輩が助かったことです」
「君らしい答えだ」
フレデリックは苦笑した後、穏やかに続けた。
「今日はもう休みなさい。詳細な記録は明日、体調を確認してから改めて聞こう」
「はい」
「ラウンジへ戻るつもりかな」
「皆さんが待っていると思うので、少しだけ顔を見せたいです。医療科の先生からも、歩く許可はいただきました」
「ならば、長居はしないこと。肩や指に違和感が出たら、すぐに医療科へ戻りなさい」
「分かりました」
アトカは隔離治療室の窓へ近づいた。
カインは静かに眠っている。
新しい封止設備に守られた胸が、一定の間隔で上下していた。
「また明日、来ますね」
返事はない。
それでも、森の中にいた時よりも穏やかな呼吸だった。
アトカはフレデリックと医療科の者たちへ頭を下げ、夜の廊下へ出た。
月明かりが、白亜の床へ長く差し込んでいる。
治療を終えた頬には、まだ僅かな痛みが残っていた。
右肩にも、森で水を操り続けた重さが薄く残っている。
けれど、もう隠すつもりはなかった。
異常があれば止まり、必要なら医療科へ戻る。
そのうえで今は、待っている仲間たちのところへ帰りたかった。
きっとリリシアは、泣きそうな顔をしている。
エルマは報告を聞きたがりながらも、傷の状態を先に確かめるだろう。
バルトロは無茶をしたと笑い、ギルベルトは懐中時計を閉じて、任務終了を告げるかもしれない。
そして、カインが目を覚ましたら。
今度こそ、同じラウンジで話をしよう。
アトカは歩調を急がず、静かな月明かりの中を進んでいった。
特等枠のラウンジへ戻るために。




