白銀の刃と帰る道
白銀の外殻を持つ魔獣は、無数の赤い複眼を蠢かせ、アトカと、その背後に横たわるカインを見据えていた。
アトカは義手を構え直す。
背後では、カインの周囲に薄い白霧が残っている。
完全に暴走が止まったわけではない。
拘束具は壊れたままで、彼の内側にはまだ荒れた魔力が渦巻いていた。
だから、アトカは戦いながらも、その霧を切らすわけにはいかない。
目の前の魔獣。
背後のカイン。
その両方を見なければならなかった。
足元には、切り裂かれた黒い拘束具が散らばっている。
千切られたのではない。
接合崩壊によって内側からほどけたのでもない。
魔力を抑える要となる帯だけが、薄い刃で測ったように滑らかに断たれていた。
この魔獣は、ただ力任せに暴れる獣ではない。
アトカがそう判断した瞬間、白銀の外殻がゆらりと歪んだ。
細い脚も、透明な結晶刃も、無数の複眼も、輪郭からほどけるように白い粒へ変わっていく。
微細な外殻片と魔力が混ざり合い、森に立ち込める霧の中へ散っていった。
音はない。
気配も急速に薄れていく。
先ほどまでそこにいたはずの異形が、まるで最初から存在していなかったかのように消えた。
けれど、完全に消滅したわけではない。
霧の流れがわずかに裂ける。
木の葉の震え方が、一か所だけ不自然に遅れる。
細く研ぎ澄まされた魔力の圧が、右上から近づいてくる。
アトカは義手を掲げた。
透明な水が、前方へ幾重にも広がる。
一枚の厚い壁ではない。
薄い水流を異なる角度で循環させ、受けた力を横へ逃がすための水膜だった。
霧の中から、白銀の結晶刃が突き出される。
速い。細い。
そして、正確だった。
刃は水膜の厚い場所を狙わなかった。
複数の流れが重なり、魔力の拍子が一瞬だけ薄くなる継ぎ目へ滑り込む。
水膜の一部が切り開かれた。
アトカは首を傾けて急所を外す。
それでも完全には避けきれず、頬に熱い痛みが走った。
白い肌が浅く裂け、赤い血が一筋だけ首筋へ落ちる。
アトカは瞬きを一度した。
痛みはある。
けれど、呼吸も視線も乱れなかった。
青い瞳が、足元へ散らばったカインの拘束具へ向く。
今の水膜と同じだった。
強い場所へ力をぶつけたのではない。
守りが働くために必要な要だけを見抜き、そこへ刃を通している。
「そうか」
アトカは小さく呟いた。
「カイン先輩の拘束具も、そうやって切ったんですね」
霧の奥で、赤い複眼が一瞬だけ揺れた。
次の斬撃は左下から来た。
狙いは足首だった。
アトカは跳ばない。
背後のカインから距離を離せば、鎮静を維持する白霧が薄くなる。
足元へ水を滑らせ、身体の軸だけを半歩ずらす。
白銀の刃が漆黒のローブの裾を掠め、布の端を細く切り落とした。
同時に、アトカは義手の五指を開いた。
森の霧へ無数の水滴が生まれる。
攻撃ではない。
魔獣の位置を測るための目印だった。
霧化した魔獣が動くたび、微細な外殻片が周囲の空気を押し分ける。
そこへ水滴が触れ、粒子の流れを青い瞳へ伝えてくる。
見えない輪郭が、一瞬だけ浮かんだ。
右側。
だが、魔獣も水滴の存在に気づいていた。
白い粒子の一部だけを前方へ走らせ、囮の輪郭を作る。
アトカの水滴がそちらへ引かれた瞬間、別の場所で外殻が再構成され始めた。
狙いは、アトカの右肩だった。
義手の接合部を切り落とすつもりなのだ。
けれど、アトカは囮へ視線を向けなかった。
水滴が示す輪郭だけではない。
霧の中を巡る魔力そのものを見ていた。
散った粒子は、どこから実体へ戻ろうとしても、胸部の中央へ集まっている。
そこに、霧化した身体を一つへ戻すための魔力核がある。
「見つけました」
アトカが静かに告げる。
次の瞬間、森全体の霧が動いた。
魔獣の粒子へ付着していた水滴が、一斉に重くなる。
散っていた微細な外殻片を、水が外側から包み込む。
再構成の流れが遅れ、白銀の身体が半端な形のまま空中へ縫い止められた。
魔獣は結晶刃だけを先に実体化させ、水滴を切り払おうとする。
刃が一閃する。
水の糸が幾本も切れた。
だが、切られた水は地面へ落ちなかった。
即座に霧へ戻り、別の角度から粒子へまとわりつく。
魔獣が一度切る間に、アトカは十の流れを作り直す。
水糸を切る。
別の水滴が脚を包む。
刃を振り上げる。
霧へ戻った水が関節を押さえる。
再び身体を散らそうとする。
外殻片一つ一つへ付着した水が、粒子の分散を許さない。
力量の差は明らかだった。
魔獣には、アトカの制御を破り続けるだけの手数がない。
白銀の身体が完全な形へ引き戻される。
細い脚は水流によって地面へ固定され、胴は幾重もの水膜に包まれた。
透明な結晶刃だけが、最後まで鋭く震えている。
それでも魔獣は諦めなかった。
無数の複眼が別々に動き、アトカの背後へ焦点を合わせる。
右腕の結晶刃が、動けないカインへ向けて振り上げられた。
アトカの青い瞳から、柔らかな色が消えた。
「そちらには、行かせません」
カインの周囲に残していた白霧が濃くなる。
外へ漏れようとした赤黒い魔力が、一瞬で水霧へ制御を奪われた。
同時に、魔獣の右腕を包んでいた水流が逆向きへ捻れる。
白銀の関節が軋んだ。
結晶刃はカインへ届くことなく、地面へ深く突き刺さる。
アトカは義手の人差し指を、魔獣の胸部中央へ向けた。
無数の水滴が示していた。
霧化するたび、すべての粒子が戻る場所。
身体を再構成し、命と魔力を巡らせる核。
そこだけを狙う。
細く澄み切った水槍が一本、生まれた。
必要以上の太さはない。
外殻を貫き、核を破壊するためだけの形だった。
「カイン先輩には触れさせません」
水槍が放たれる。
白銀の外殻が砕けるより早く、細い穂先が胸部中央を貫通した。
内側で硬いものが砕ける。
魔力核から広がっていた拍子が、一瞬で途絶えた。
赤い複眼から光が消える。
関節の多い脚が一度だけ大きく震え、そのまま力を失った。
霧へ変わろうとしていた外殻片も、もはや散らない。
魔力を失った白銀の身体が、湿った地面へ崩れ落ちた。
アトカはすぐに拘束を解かなかった。
魔獣の内部へ残る流れを確認する。
胸部の核は完全に砕けている。
霧化に使われていた拍子も、生体魔力の循環も戻らない。
討伐を確認してから、アトカは前方の水だけを静かに下ろした。
カインの周囲へ残した白霧は維持したまま、すぐに背後へ膝をつく。
「カイン先輩」
呼びかけても返事はない。
呼吸は浅いが、途切れてはいない。
胸は小さく上下している。
大きな出血も見当たらない。
アトカはカインの身体へ直接触れず、鼻先と胸元へ薄い水膜を寄せ、呼吸の流れを確かめた。
「カイン先輩は意識がありません!呼吸はあります!大きな出血は見えません!漏出魔力は押さえています!」
声が届く距離で待機していた監督教員から、すぐに返事が来る。
「その場で維持しろ!鎮静によって崩壊域が縮んでいる!医療班と仮拘束具を向かわせる!」
「はい!」
アトカは続けて自分の状態も報告した。
「頬に浅い傷があります!右の薬指は動きます!肩に熱はありません!呼吸が少し速いです!」
「大きな魔術を追加するな!カインの漏出制御だけを維持しろ!」
「分かりました!」
アトカは義手の指を必要以上に動かさなかった。
水霧を薄く保ち、身体の外へ漏れた魔力だけを一つずつ引き受ける。
完全に止めようとはしない。
カインの身体の内側へは踏み込まない。
救助班が到着するまで、周囲を壊さない量へ抑えるだけでよい。
ほどなくして、霧の向こうに非魔術式の灯りが見えた。
監督教員を先頭に、医療班と防護班が慎重に足場を確かめながら近づいてくる。
魔術に頼らない組み立て式の担架と、黒い帯を何層にも重ねた仮拘束具も運ばれていた。
「よく維持した。ここからは我々が引き継ぐ」
監督教員がアトカの隣へ膝をつく。
医療班がカインの呼吸と脈を確認し、残った拘束具へ触れないよう身体を担架へ移す。
防護班はアトカが抑えている漏出魔力の範囲を見ながら、仮拘束具を一層ずつ巻いていった。
新しい帯の刻印が働き始める。
カインから漏れようとしていた魔力が、少しずつ身体の内側へ戻されていく。
「アトカ、外側の制御を一度に切るな。こちらの拘束へ移る分だけ、少しずつ手放せ」
「はい」
一層目が働く。
アトカは水霧の一部を閉じる。
二層目が魔力を受け止める。
さらに細い流れを手放す。
最後の帯が固定される頃には、カインの周囲に残っていた赤黒い魔力はほとんど消えていた。
「仮拘束具、安定」
防護班の報告を聞き、アトカは最後まで残していた水霧を静かに閉じた。
肩に熱はない。
薬指にも遅れはない。
それでも、全身から力が抜けるような疲れがあった。
監督教員がアトカの頬の傷を確認する。
「お前も医療班の確認を受けろ」
「はい」
アトカは素直に頷いた後、地面へ倒れた白銀の魔獣を指した。
「胸の中にあった魔力の核を壊しました。霧へ変わる拍子も、生きている魔力の流れも止まっています」
斥候が魔獣へ近づき、長い棒で外殻と結晶刃を確認する。
反応がないことを確かめ、危険物用の硬質容器を運ばせた。
「拘束具を切った刃が残っています。証拠になると思います」
「こちらで回収する。お前は触るな」
「はい」
透明な結晶刃は、厚い緩衝材へ固定され、硬質容器の中へ封じられた。
カインを載せた担架が持ち上がる。
意識は戻っていない。
それでも呼吸は先ほどより深くなっていた。
アトカは担架の横へ並ぶ。
誰かを一人で運ぼうとはしない。
自分だけで魔力を抑え続けようともしない。
今は教師と医療班がいる。
カインを連れて帰るために必要な手は、もう一つではなかった。
アトカは眠ったままのカインへ、柔らかく声をかける。
「みんな待っていますから」
返事はない。
それでもアトカは、少しだけ笑った。
「一緒に帰りましょう」
森の奥で途絶えていた帰路へ、救助隊の足音が重なった。
その中心には、仮拘束具に守られたカインがいる。
そして担架のすぐ隣を、頬に細い傷を残した白髪の少年が歩いていた。
特等枠のラウンジへ、先輩を連れて帰るために。




