爆心に咲く白霧
接合崩壊の痕跡が濃くなるにつれ、監督教員たちの足は次第に遅くなっていった。
防護班が維持していた術式の線が一本ずつ明滅し、繋ぎ目からほどけるように消えていく。
斥候が木の幹へ残した目印も、刻まれた箇所から樹皮ごと剥がれ落ちていた。
「ここが限界だ」
監督教員が足を止める。
前方では、地面を形作る土と岩の境目が不自然にずれ、踏み込むたびに足場が崩れていた。
「これ以上進めば、我々の防護術式も退路を示す魔術具も維持できない。アトカ、何が見える」
アトカは青い瞳を細め、森の奥へ意識を伸ばした。
木々を巡る魔力が、同じ一点を中心に断ち切られている。
切れた流れは消えず、戻る場所を失ったまま周囲へ弾け、次の木や地面へ入り込んでいた。
そのさらに奥に、荒く脈打つ大きな魔力がある。
「カイン先輩の魔力だと思います。まだ動いています」
「距離は」
「遠くありません。でも、ここから先は地面の中まで繋がりが崩れています」
監督教員は数秒だけ考えた後、アトカの義手と顔色を確認した。
「我々は崩壊域の外で退路を維持する。君はカインを目視できる位置まで進み、見つけたら先に声を届けろ。身体の内側を巡る魔力には触れるな。外へ漏れたものだけを観察し、干渉する前に報告しろ」
「はい」
「異常を感じたら、カインへ届いていなくても戻れ」
「分かりました」
アトカは義手の指を一度ずつ動かした。
遅れはない。肩にも熱はない。
「行きます」
斥候が確認した最後の足場までは、白い布片が木の根元へ置かれていた。
アトカはその印を辿り、足元を確かめながら森の奥へ急いだ。
地鳴りのような爆音が、濃い霧の向こうから繰り返し響いている。
湿った枝葉が頬を掠め、足元の泥が跳ねる。
奥へ進むほど霧は重く冷たくなり、森そのものが息を潜めているようだった。
やがて、斥候の残した最後の印が途切れる。
そこから先では、木々が折れているのではなかった。
幹を形作っていた繊維が束ねる力を失い、細い木片となって崩れ落ちている。
地面も爆発で抉られたのではない。
土と岩の層が互いを支えられなくなり、広範囲にわたって不規則に陥没していた。
アトカは足場を選びながら進み、霧の向こうへ声を張った。
「カイン先輩!アトカです!聞こえますか!」
返事の代わりに、凄まじい轟音が森を揺らした。
視界を塞いでいた霧が吹き散らされ、その先に荒れ果てた窪地が現れる。
中心には、一人の少年が膝をついていた。
全身へ巻かれていた黒い魔力遮断拘束具は、見る影もなく裂けている。
刻印ごと崩れた帯もあれば、鋭い刃物で断たれたような滑らかな切断面もあった。
カイン・デイスター。
ラウンジの最奥で、誰にも近づかせないように座っていた少年が、壊れかけた拘束具を両手で押さえ、自分の内側から溢れようとする魔力へ必死に耐えていた。
「あああああァッ!」
剥き出しになった身体から、赤黒い魔力が噴き出す。
その魔力は衝撃波となって周囲を押し潰しているのではなかった。
木へ入り込み、繊維同士の接合を断つ。
地面へ沈み、土と岩を結びつけていた境目を剥がす。
周囲に残っていた探索術式へ触れ、線と線の繋がりを一つずつ崩していく。
形を失った木片と岩、行き場をなくした魔力が一斉に外へ弾け、爆発に似た轟音を生んでいた。
「カイン先輩!」
アトカがもう一度呼ぶ。
カインの血走った瞳が、ぎろりとこちらを向いた。
「来るな……!」
その声は拒絶ではなく、悲鳴だった。
「まだ……まだ押さえてる……!今なら逃げられる!だから来るなッ!」
赤黒い魔力が再び膨れ上がる。
アトカの前方にあった巨木へ魔力が入り込み、幹の繊維が内側からほどけた。
支えを失った上半分が傾き、無数の木片となって地面へ崩れ落ちる。
「近づけば、お前も壊れる!俺を見るな!俺に構うな!頼むから……これ以上、俺のせいで誰も傷ついてくれるな!」
アトカは駆け寄らなかった。
カインとの距離を残したまま、背後へ向かって声を張る。
「カイン先輩を見つけました!拘束具は大きく壊れています!本人は意識があります!身体の外へ漏れた魔力が、周りの繋がりを切っています!」
遠くから監督教員の声が返った。
「内部の流れには触れるな!漏出部分だけを鎮静できるか確認しろ!」
「はい!」
アトカは義手をゆっくりと持ち上げた。
力ずくで押さえ込むのではない。
カインの身体を巡る魔力を奪うのでもない。
身体の外へ漏れ、破壊へ走り始めた魔力の制御だけを引き受ける。
アトカは赤黒い魔力へ意識を重ねた。
荒く、不規則な拍子だった。
物質へ入り込む。
接合を探す。
結びつきを断つ。
断ち切った先へ広がる。
その繰り返しが、幾つもの流れとなってカインの周囲へ噴き出している。
アトカはそこへ、自分の魔力の拍子を静かに重ねた。
霧となれ。
細かく分かれろ。
何にも結びつかず、何も断たず、ただ水滴として流れろ。
赤黒い魔力が激しく揺れる。
カインから与えられた破壊の性質と、アトカが重ねた水霧の像が、一つの魔力の中でぶつかり合った。
アトカの周囲へ集まった水が、繋がりを断たれて崩れる。
白い霧が裂け、無数の水滴となって地面へ落ちた。
それでもアトカは制御を手放さなかった。
切られた流れを無理に繋ぎ直すのではない。
森の湿った空気から新たな水分を拾い、別の場所から拍子を重ね直す。
一つの流れを奪う。
白い霧へ変える。
次の流れへ触れる。
また制御を奪い、破壊へ向かう命令を水霧の像へ塗り替える。
赤黒い魔力の先端が、次第に白く霞み始めた。
地面の接合へ入り込もうとしていた流れが向きを失い、細かな水滴となって空気へ浮かぶ。
アトカは一歩進んだ。
足元へ入り込もうとした魔力の制御を奪い、地面へ触れる前に霧へ変える。
また一歩進む。
右側から伸びてきた流れが、アトカの水を断ち切ろうとする。
義手の薬指が僅かに遅れた。
アトカは足を止めた。
「右の薬指が、少し遅れています!まだ動きます!」
「無理に距離を詰めるな!」
監督教員の声が返る。
「はい!」
アトカは呼吸を整え、遅れた指へ力を集め直した。
焦ってはいけない。
カインへ近づくことが目的ではない。
二人とも帰れる状態を作ることが目的だった。
指の反応が戻ったことを確かめ、アトカは再び歩き始めた。
「なんで……」
カインの声が震える。
「まだ出てる……止まれ……いや、来るな……なんで、お前の周りだけ壊れない……!」
「先輩の身体の中には触れていません」
アトカは静かに答えた。
「外へ漏れて、周りを壊そうとしている魔力だけを、僕の水霧へ変えています」
「そんなこと……」
「先生たちも、すぐ後ろで待っています。先輩を置いて帰るつもりはありません」
カインの魔力がまた膨れ上がる。
アトカは一度にすべてを奪おうとはしなかった。
自分へ届く流れ。
地面へ向かう流れ。
カインの背後へ回り込もうとする流れ。
一つずつ拍子を捉え、制御を引き受け、水霧へ組み替えていく。
やがて、アトカはカインから数歩の距離まで近づいた。
すぐには触れない。
まず、二人の間を流れる漏出魔力を白い霧へ変え続ける。
カインの身体を巡る魔力と、外へ離れた魔力の境界を見失わないように意識を集中させる。
「これ以上近づく前に、聞きます」
アトカはカインの目を見た。
「肩に残っている拘束具へ触れてもいいですか。先輩の身体には、直接触れません」
カインの唇が震える。
声を出そうとしても、荒い呼吸だけが漏れた。
「声が出せなければ、触れてもよい時は右手の指を一度動かしてください。嫌なら二度動かしてください」
カインはしばらくアトカを見つめていた。
それから、泥の上に置かれていた右手の人差し指を、一度だけ動かした。
アトカは小さく頷く。
「ありがとうございます」
カインの前で膝をつき、義手の指先を、肩口に残った拘束具へ静かに添える。
その瞬間、赤黒い魔力が大きく揺れた。
重い。荒い。
魔力はカインの身体から離れた直後から、触れられる接合を探し続けている。
だが、カイン本人の内側では、魔力を外へ出そうとする流れと、それを押し戻そうとする流れが激しくせめぎ合っていた。
誰かを狙っている方向はない。
カイン自身が、残った力のすべてで暴発を押さえ込もうとしている。
アトカは拘束具に残った刻印の拍子を手がかりに、身体の外側へ漏れる流れだけを拾い上げた。
赤黒い魔力がアトカの水霧を断つ。
アトカは断たれた場所へ執着せず、別の水滴へ制御を移す。
壊されるたびに、新しい流れを作る。
切られるたびに、別の場所から拍子を重ねる。
少しずつ、カインの周囲を埋めていた赤黒い光が薄くなっていった。
大地を震わせていた轟音も遠ざかる。
完全に止まったわけではない。
拘束具は壊れたままで、アトカが制御を手放せば、漏出は再び広がる可能性がある。
それでも今、カインの周囲では何も崩れていなかった。
「あ……」
カインは震える両手を見つめた。
「誰も……壊れてない……」
信じられないものを見るように、アトカへ顔を向ける。
「お前……何者なんだ……?」
アトカは柔らかく目を細めた。
「魔導科一年の、アトカ・アッシュフォードです。学園長先生からの課題で、カイン先輩を迎えに来ました」
少しだけ嬉しそうに続ける。
「先生たちも待っています。一緒にラウンジへ帰りましょう」
その言葉を聞いた瞬間、カインの身体から力が抜けた。
アトカは義手だけで受け止めようとはしなかった。
カインの背中と後頭部へ薄い水の膜を滑り込ませ、倒れる勢いを受け止める。
義手で肩口の拘束具を支えながら、水の帯で腰を包み、ゆっくりと地面へ横たえた。
「まだ動かないでください。漏れた魔力は僕が押さえています」
カインの周囲へ白い霧を薄く残し、外へ出ようとする魔力の制御を引き受け続ける。
「カイン先輩を確保しました!意識はあります!漏出魔力は一時的に鎮静しています!」
アトカが背後へ報告しようとした、その時だった。
チリ、と。
薄氷を刃でなぞったような、不快な音が響いた。
アトカの周囲を漂っていた霧が、一直線に割れる。
自然に散ったのではない。
細い何かが通り抜け、水滴同士の繋がりだけを鋭く断ち切っていた。
アトカはカインを地面へ残し、白い霧を薄く保ったまま立ち上がる。
「少しだけ待っていてください」
霧の奥に、異形がいた。
全長は三メートルほど。
カマキリと蜘蛛をおぞましく組み合わせたような、白銀の外殻を持つ細身の魔獣だった。
低く沈んだ胴から、関節の多い脚が幾つも伸びている。
頭部では無数の赤い複眼が蠢き、アトカとカインを別々の角度から捉えていた。
両腕には、薄く透明な結晶の刃が備わっている。
濡れた氷のような刃先が、夕闇の中で冷たく光った。
アトカは足元に散らばる拘束具へ視線を落とした。
刻印が崩れた箇所とは別に、要となる帯だけが滑らかに両断されている。
この魔獣が切った。
しかも、カインの魔力が大きく噴き出す瞬間には近づいていない。
白銀の魔獣は脚を一歩動かす。
その輪郭が一瞬だけ薄れ、霧へ溶けたように揺らいだ。
次の瞬間には、別の位置で再び外殻が形を取る。
接合崩壊の広がる瞬間だけ身体を霧へ変え、物質として触れられる時間を消していたのだ。
力任せに暴れる魔獣ではない。
カインの暴発の間隔を読み、気配を殺して近づき、拘束具の要だけを狙って切断した。
そして今も、動けなくなったカインを次の獲物として見ている。
白銀の結晶刃が持ち上がる。
アトカはカインの前に立った。
背後に残した水霧で、カインから漏れる魔力の制御を維持する。
同時に義手の五指を開き、前方の霧と水分へ新たな拍子を巡らせる。
空の左袖が、冷たい霧の中で揺れた。
アトカは赤い複眼を見据え、静かに告げる。
「カイン先輩には、もう近づかせません」




