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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
特等枠の怪物たち
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霧の森に響く爆心

街の喧騒が遠ざかるにつれて、肌をなでる空気は急速に湿り気を帯びていった。


帝国が管理する学園領の大森林。


その北東部に築かれた監視所では、学園の現場監督教員と防護班、医療班、それに冒険者ギルドから派遣された斥候たちが慌ただしく行き交っていた。


補給馬車を降りたアトカは、まず監督教員へ医療科の確認結果を伝えた。


「肩に熱はありません。指もいつもどおり動きます。少し疲れはありますけど、呼吸も魔力循環も問題ありません」


監督教員はアトカの顔色と義手の動きを確認し、短く頷いた。


「分かった。異常を感じたら、本人の判断でも止まれ。こちらから中断を命じた場合も、理由を問わず直ちに退くこと」


「はい」


監視所の机には、冒険者ギルドで確認したものより詳しい地図が広げられていた。


カインの拘束具から送られた最後の位置信号。


捜索班が到達した古い狩猟道。


接合崩壊の痕跡が確認された危険域。


その外周には、複数の退路と救護地点が記されている。


「我々はこの地点まで同行する」


監督教員が危険域の手前を指した。


「そこから先は、術式も魔術具も連結を保てなくなる可能性がある。君を一人で行かせるつもりはないが、カインの魔力が強くなれば、我々の防護術式では近づけない」


「僕が先へ進む時も、勝手には行きません。見えたことを先に報告します」


「それでいい」


斥候が森の奥へ続く道を示した。


「例の切断痕を残した魔獣についても、まだ正体は分かっていない。姿を見つけても追うな。第一目標はカイン・デイスターの救助だ」


アトカは真剣に頷き、胸元の地図と斜め掛け鞄を確かめた。


義手の指を差し込みやすい、大きな輪の留め具。


魔術具が機能を失った時のための紙地図。


非魔術式の小型灯。


止血用の薬草。


簡易方位石は胸元へ固定されている。


「出発する」


監督教員の声とともに、一行は森へ入った。


頭上を覆い尽くす巨木の葉が、夕暮れの光をほとんど遮っている。

森の入口を越えたばかりだというのに視界は薄暗く、立ち込める霧が奥へ続く獣道を白く濁らせていた。


風はほとんどない。

それでも枝葉は時折かすかに震え、遠くでは小さな獣が逃げるように草を揺らしている。


湿った土の匂いに、古い樹皮と腐葉土の匂いが混ざっていた。

学園の整えられた庭とも、フェル・ザインの熱気とも違う、生き物の気配が幾重にも重なった空気だった。


アトカは隊列の中央を歩きながら、足元と木々の間へ視線を巡らせた。


ギルベルトが印を付けてくれた区域。


冒険者ギルドで受け取った最新の魔獣出没記録。


そして、カインの拘束具から途絶えた位置信号。


進むべき方向は分かっている。


「カイン先輩……」


アトカは小さく呟いた。


ラウンジの最奥で、黒い拘束具に包まれていた少年。


近づくな、と告げた低い声。


あれは拒絶ではなかった。


自分へ近づいた誰かを傷つけないために、距離を求める声だった。


カインの魔力は、単に周囲を吹き飛ばすものではない。


外へ漏れた魔力が、物質や術式を形作る接合へ無差別に入り込み、その結びつきを崩していく。


木の繊維は束ねる力を失う。


岩は層の境目から剥がれる。


術式は線と線の連結を失い、形を保てなくなる。


崩れた物質と魔力が一斉に外へ弾かれることで、爆発に似た衝撃と轟音が生まれるのだ。


もし拘束具が大きく損傷しているのなら、カインは今も誰にも近づけないまま、一人で耐えているのかもしれない。


アトカは歩みに合わせて揺れる空の左袖を見た。


この身体のまま、自分なりに世界へ触れる方法を教わった。


義手を通し、水へ拍子を重ね、外界の魔力へ触れる方法も覚えた。


「先輩が一人で耐えているなら、早く見つけないと」


その時、先頭を歩いていた斥候が拳を上げた。


隊列が止まる。


前方の霧の奥から、低い唸り声が重なって聞こえた。


一つではない。


茂みの左右。


太い木の根元。


背後へ回り込もうとする気配もある。


「群れだ」


斥候が剣を抜く。


直後、黒い影が霧を裂いた。


ぎらつく双眸。


剃刀のような牙。


濡れた闇をまとったような体躯。


シャドウウルフ。


大気中の魔力を取り込み、筋肉と感覚器官を変異させた魔獣だった。


森の暗がりへ身体の輪郭を溶かし、群れで獲物を囲い込む。


目に映る数より、気配の方が多い。


「防護陣を組む!」


監督教員が指示を飛ばした。


魔術師たちが杖を上げるより早く、一頭が側面から飛び出した。


標的は後方の医療班だった。


アトカの義手が動く。


細い水帯が地面すれすれを走り、跳躍したシャドウウルフの胴へ巻きついた。


水帯は獣を止めるのではなく、軌道だけを強引に横へ逸らす。


黒い巨体が医療班を外れ、湿った土へ転がった。


だが、倒れた直後には四肢を踏ん張り、牙を剥いて立ち上がる。


同時に、前方の霧から三頭が飛び出した。


さらに左右から二頭。


「六頭!」


斥候の声が響く。


アトカは大きく跳ばなかった。


最初の一頭が振るう爪の線から身体の中心だけを外し、半歩踏み替える。


キルウェスタに何度も直された姿勢。


肩を力ませず、呼吸を止めず、次の動作へ繋がる位置に義手を残す。


爪がローブのすぐ横を裂いた。


二頭目が低く潜り込み、右脚へ噛みつこうとする。


アトカは義手の指を開いた。


空気が濡れる。


森の霧と、アトカが生み出した水が一つに重なる。


獣たちの周囲へ六つの水塊が生まれ、それぞれの身体を別々に包み込んだ。


一つの檻へまとめない。


互いの身体を踏み台にさせず、一頭ずつ完全に隔離する。


水の内側で、シャドウウルフたちが激しく四肢を振るった。


爪が水面を裂く。


牙が泡を噛み砕く。


魔力を噴き上げ、肉体をさらに変異させようとする。


魔獣の魔力は荒かった。


拍子を整える意思も、流れを止める理性もない。


飢えと殺意のまま膨れ、身体の内側から水の拘束を押し返してくる。


水塊の一つが大きく歪んだ。


「アトカ、維持できるか!」


監督教員の声が飛ぶ。


「できます。でも、長くは押さえません」


魔獣は人を食らう。


ここで拘束を解けば、医療班か捜索員へ牙を向ける。


森へ追い払ったとしても、別の通行者や監視所を襲う可能性がある。


捕獲して運ぶ設備も、今の隊にはない。


殺さずに放せる相手ではなかった。


アトカは目を逸らさなかった。


「……ごめんね」


それは躊躇ではない。


命を奪うことに慣れきらないための言葉だった。


水塊の内側で、六頭の身体が一瞬だけ固定される。


首。心臓。脳へ繋がる急所。


アトカは暴れる獣の動きと骨格を見極め、最も短く終わる位置だけを選んだ。


義手の指先に、澄んだ水が集まる。


六本の細い水槍が形を成した。


飾りはない。


必要以上の大きさもない。


アトカが義手を静かに振り下ろす。


水槍は同時に走り、それぞれの急所を正確に貫いた。


苦痛を長引かせることはなかった。


水の中で黒い影が力を失い、数度痙攣した後、完全に動かなくなる。


アトカは数秒待った。


魔力の流れが途絶えている。


反撃できる個体は残っていない。


それを確かめてから、義手を下ろした。


六つの水塊と水槍がほどけ、雨のように湿った地面へ落ちていく。


森へ静寂が戻った。


斥候たちは武器を構えたまま、倒れた魔獣を確認する。


「全頭、死亡」


一人が短く告げた。


監督教員はアトカへ視線を向ける。


「肩と義手は」


アトカは指を順番に動かした。


「熱はありません。指も遅れていません。呼吸が少し速いです」


「三十秒休め。水を一口飲め」


「はい」


アトカは命令どおり呼吸を整え、鞄の水筒へ義手を掛けた。


胸の奥には、重いものが残っている。


リリシアたちとは違う。


言葉を交わせる相手ではなかった。


止めなければ、人を襲う魔獣だった。


だから殺した。


必要だったという事実と、命を奪ったという事実は、どちらも消えない。


アトカは倒れた魔獣たちへ、ほんの少しだけ目を伏せた。


「お父さん。教えてもらったこと、ちゃんと覚えていたよ」


魔獣を前に迷えば、守るべき者を危険に晒す。


けれど、奪った命を軽く扱ってはいけない。


それもまた、ガイルとステラから教えられたことだった。


短い休止を終え、隊列が再び動こうとした時だった。


森のさらに奥から、凄まじい轟音が響いた。


木々が爆ぜた音ではない。


地面の層がずれ、幾つもの樹木が繊維から形を失い、周囲の空気を一斉に押し出した音だった。


足元が大きく揺れる。


前方の霧の向こうで、巨木の上半分が支えを失ったように傾いた。


外周へ張られていた探索用の術式が明滅し、その一部が途中から消える。


「接合崩壊だ!」


監督教員が叫ぶ。


アトカは目を閉じ、森を流れる魔力へ意識を伸ばした。


木々を巡っていた流れが、奥の一点を中心に細かく断ち切られている。


繋がっていた魔力が行き場を失い、互いにぶつかりながら外へ弾けていた。


間違いない。


カインの魔力だった。


「カイン先輩……」


さらに、その轟音へ重なるように、森の奥から低い咆哮が響いた。


重く、長い。


シャドウウルフとは比較にならないほど巨大な何かが、カインのいる方向で吠えている。


ギルド長が警告していた切断痕の主かもしれない。


断定はできない。


だが、カインの接合崩壊と大型魔獣の咆哮が、同じ方向から聞こえている。


「カインが魔獣と交戦している可能性がある」


監督教員が地図を開いた。


「ここから先は地面の接合も崩れている。

走るな。

斥候が足場を確認する」


アトカは駆け出しかけた足を止めた。


急いでいる。


すぐにでも向かいたい。


それでも、崩れた森を闇雲に走れば、カインのもとへ辿り着く前に自分が動けなくなる。


アトカは呼吸を整え、義手の指を一度閉じた。


「見えたことを報告します」


監督教員へ向き直る。


「奥の魔力は、周りを押しているのではありません。木や地面の中へ入り込んで、繋がっているところを切っています。切れた後の魔力が外へ弾けて、衝撃になっています」


「範囲は分かるか」


「まだ遠くて、端までは分かりません。でも、さっきより広がっています」


監督教員は即座に指示を出した。


「外周班は退路を二本確保。医療班はここに救護点を置け。斥候は五十歩先まで足場を確認。アトカは俺から離れるな」


「はい」


隊列が動き始める。


霧は深い。


森は暗い。


奥では、接合を失った木々が次々に崩れ、巨大な魔獣の咆哮が再び響いていた。


アトカは胸元の書状へ義手を添えた。


カインは近づくなと言った。


あの時は、その言葉どおりに止まった。


けれど今は、近づかなければ連れ帰れないかもしれない。


ならば、どこまで近づいてよいのか。


何へ触れてよいのか。


どうすれば、カインを壊さずにその魔力へ触れられるのか。


答えはまだ分からない。


だからこそ、一人で決めてはいけない。


アトカは監督教員と斥候たちの背中を追い、崩れ始めた森の奥へ歩き出した。


カインを、一人のままにしないために。


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