大岩砕きの息子
「わぁ……すごい熱気だなぁ」
アトカは澄んだ青い瞳を忙しなく動かしながら、フェル・ザイン中層一般区の大通りを歩いていた。
学園に満ちていた静かな空気とは、何もかもが違う。
露店では、日に焼けた男たちが豪快に笑いながら酒樽を運んでいる。
鎧姿の戦士が腰の剣を鳴らして歩き、商人たちは魔獣の牙や毛皮、薬草の束、傷だらけの防具を掲げて客を呼び込んでいた。
肉を焼く匂い。
鉄と革の匂い。
酒と汗、乾いた土埃の匂い。
人々の声が幾重にも重なり、石畳の上では荷馬車の車輪が軋んでいる。
遠くからは、鍛冶屋の槌が鉄を打つ音が規則正しく響いてきた。
アトカは胸元に収めた地図へ、ローブの上から義手を添えた。
ギルベルトが印を付けてくれた、学園領大森林の区域。
カインが最後に向かった場所だった。
目的地は分かっている。
けれど、森の状況は日々変わる。
魔獣の動きも、森道の通行可否も、学園に保管された地図だけでは分からない。
だからアトカは大森林へ向かう前に、現地の最新情報を得るため、冒険者ギルドへ立ち寄ることにした。
父が時折話してくれた、泥や血、鉄の匂いが残る冒険者の現場。
その一端が、この街には確かに流れていた。
やがて、大通りの一角にひときわ大きな建物が見えてくる。
厚い石壁。
魔獣の爪痕が残る古い看板。
扉の上には、剣と盾、翼を広げた獣を組み合わせた紋章が掲げられている。
フェル・ザイン冒険者ギルド。
アトカは重厚な木製の扉の前で足を止め、小さく息を吸った。
それから義手で扉を押し開ける。
低い軋みとともに、酒と香辛料の匂いが流れ出した。
広間では冒険者たちが依頼票を確認し、受付職員が森の地図へ新しい印を書き込んでいる。
奥の査定台には魔獣の角や毛皮が積まれ、その隣では治療係が負傷した男の腕へ包帯を巻いていた。
扉の音に気づき、何人かが入口へ顔を向ける。
漆黒のローブ。
空の左袖。
右肩から伸びる木製の義手。
そして、まだ十歳ほどにしか見えない白髪の少年。
一瞬だけ向けられた視線は、すぐにそれぞれの仕事へ戻っていった。
ただ、入口近くに座っていた大柄な戦士だけは、訝しげに眉を寄せた。
「坊主、依頼受付は奥だぞ。迷子なら衛兵を呼んでやる」
「ありがとうございます。でも、今日は森の情報を聞きに来ました」
「森?」
大柄な戦士は椅子から立ち上がった。
筋肉の盛り上がった腕には、古い傷がいくつも走っている。
子供が危険な依頼へ近づこうとしていると思ったのか、男はアトカを入口へ戻そうと肩へ手を伸ばした。
アトカが半歩だけ位置を変える。
大きな手はローブへ触れることなく空を切った。
体重を預ける先を失った男はわずかによろめき、近くの机へ手をつく。
「大丈夫ですか?急に避けたので、驚かせてしまいましたよね」
「あ、いや……俺は平気だ」
心配そうに顔を覗き込まれ、男は困ったように頭を掻いた。
周囲の数人が、アトカの足元へ視線を向けている。
大きく跳んだわけでも、男の腕を払ったわけでもない。
それでも、伸ばされた手だけが綺麗に外れていた。
アトカは男に怪我がないことを確かめると、受付カウンターへ向かった。
「すみません。王立エルシオン学園から来ました。学園領大森林へ向かうので、最新の魔獣出没記録と、森の外縁までの通行情報を教えていただけますか。カイン・デイスター先輩が向かった区域について、分かることがあればお聞きしたいです」
受付の女性はすぐに表情を引き締めた。
「身分証と、学園からの書状を確認してもよろしいですか」
「はい」
アトカは胸元から身分証と、学園長の封蝋が押された書状を取り出した。
受付の女性は内容を確認し、手元の記録簿と照らし合わせる。
その時、奥の執務室から低く太い声が響いた。
「その書状、こちらへ回してくれ」
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた男が、ゆっくりと歩いてくる。
顔には無数の古傷が刻まれ、年老いてなお眼光は鋭い。
周囲の冒険者たちが自然と姿勢を正した。
フェル・ザイン冒険者ギルドのギルド長だった。
彼は書状へ目を通し、次にアトカの身分証を確かめる。
刻まれた姓を見た瞬間、太い眉が僅かに動いた。
「アッシュフォード……。坊主、アルン平原地方の出身か」
「はい。そうです」
「ガイル・アッシュフォードを知っているか」
アトカの青い瞳が明るく輝いた。
「もちろんです。僕のお父さんです!」
若い冒険者の多くは首を傾げていた。
けれど、壁際に座っていた古参や、古傷の多い歴戦の者たちが静かに顔を上げる。
「ガイルの息子か」
「大岩砕きの……」
漏れた声を聞き、アトカは驚いて目を丸くした。
「お父さん、ここでも知られているんですか?」
ギルド長が小さく笑った。
「今の若い連中は知らんだろうがな。昔、国境付近で随分と無茶をした男だ。岩殻種の突進を正面から止め、頭蓋ごと地面へ叩きつけたことから、大岩砕きなんて呼ばれていた」
「そんなことを……」
アトカにとってガイルは、畑を耕し、薪を割り、毎日ルトの稽古を見ていた優しい父だった。
大きな手で頭を撫でてくれた人。
森に捨てられていた自分を拾い、当たり前のように家族として育ててくれた人。
その父を、遠い帝都にいる人たちが今も覚えている。
胸の奥へ、温かなものが広がった。
「僕の大好きなお父さんです。皆さんがお父さんのことを覚えていてくださって、本当に嬉しいです」
真っ直ぐな言葉に、古参の冒険者たちがどこか懐かしそうに笑った。
ギルド長も僅かに目を細める。
「そうか。あの頑固者も、いい息子を育てたらしい」
「今度会ったら、まだ借りは返していないと伝えておいてくれ」
「はい。必ず伝えます」
何の借りなのか、アトカには分からなかった。
それでも大切な伝言として覚えておくことにした。
ギルド長の表情が引き締まる。
「昔話はここまでだ。本題へ入るぞ」
受付の上へ、羊皮紙の地図が広げられた。
すでに森の外縁から深部へ向け、複数の赤い印が記されている。
「学園から、未帰還者の捜索協力要請は届いている。カイン・デイスター。黒い魔力遮断拘束具を装着した、魔導科特等枠の三年生だな」
「はい」
「帰還予定を過ぎた時点で、学園とギルドの捜索班が動いた。昨日までは拘束具の位置記録が断続的に残っていたが、今朝になって信号が途絶えた」
ギルド長の太い指が、森の奥にある一帯を示す。
「捜索班は、この古い狩猟道までは進んだ。だが、ここから先へは入れていない」
地図の上には、狩猟道を囲むように大きな円が描かれていた。
「数日前から、この一帯では爆発に似た衝撃が繰り返し観測されている。音だけなら、大型魔術が破裂しているように聞こえるそうだ」
アトカは黙って耳を傾けた。
「だが、普通の爆発とは跡が違う」
ギルド長が別の報告書を開く。
「樹木は焼けてもいなければ、外側から砕かれてもいない。幹を形作っていた繊維が、内側から結びつきを失って崩れている。岩も同じだ。粉々に吹き飛んだのではなく、地層の境目から剥がれ落ちていた」
「繋がっていたところが、壊れているんですか」
「ああ」
ギルド長は深く頷いた。
「拘束具が破損し、カインの放魔が止まらなくなっている可能性が高い」
彼の魔力は、周囲の物質や術式を形作っている接合へ干渉する。
それが制御されず、絶えず放たれている。
木の繊維がほどける。
岩の層が剥がれる。
地面を支える構造が崩れる。
周囲で形を与えられていた魔力も、術式としての連結を失って弾ける。
連鎖的に崩れた物質と魔力が空気を押し出し、結果として爆発に近い衝撃波と轟音を生んでいるのだ。
「爆発しているように見えるのは、壊れたものが一斉に外へ弾き出されるからだ。中心へ近づくほど、装備も術式も形を保てなくなる。さらに内側で生身の人間がどうなるかは、試せる話じゃない」
ギルドの広間が静まり返った。
「うちの斥候も救助を試みた。だが、防護術式の連結から崩され、危険域へ入る前に撤退した」
ギルド長は、赤い円の外側へ引かれた青い線を指した。
「それと、もう一つだけ気になる報告がある」
太い指が、危険域の北側へ付けられた小さな黒い印へ移る。
「この付近で、見慣れない魔獣の痕跡が見つかっている。姿を確認した者はいない」
「痕跡だけなんですか?」
「ああ。足跡はほとんど残っていない。だが、地上から人の背丈を越えた位置にある枝や幹が、刃物を通したように細く切断されていた」
ギルド長は報告書の一角を指で叩いた。
「大型かどうかも、カインの未帰還と関係しているかも分からん。ただ、この森に元からいた魔獣の仕業とは考えにくい。捜索中に妙な切断痕を見つけても、正体を確かめようと近づくな」
「分かりました」
「姿が見えないからといって、そこにいないとは限らん。森では、見つけた時には遅い相手もいる」
アトカは黒い印の位置を記憶した。
ギルド長は、赤い円の外側へ引かれた青い線へ指を戻す。
「学園の現場監督、外周防護班、医療班は、北東監視所に集まっている。お前もまずそこへ向かい、監督教員と合流しろ」
「分かりました」
「一人で森の奥へ突っ込むための書状じゃない。お前にしか触れられない魔力があるとしても、どこまで近づくかを決めるのは現場を見てからだ」
アトカは真剣に頷いた。
「はい」
「学園長印の正式な書状がある以上、俺が任務そのものを止めることはできない。だが、ガイルの息子だろうが特等枠だろうが、森は子供だからと手加減しちゃくれねぇ」
ギルド長はアトカの青い瞳を見据えた。
「魔獣も、地形も、天候も、お前を殺せる。助けたい相手がいるなら、なおさら冷静でいろ」
「はい。カイン先輩の魔力へ触れる前に、漏れている範囲を確認します。現場の先生にも報告します。義手や肩に異常が出たら止まります」
一つずつ答えた後、アトカは地図へ視線を落とした。
「それでも、カイン先輩が一人で耐えているなら、迎えに行きたいです」
ギルド長はしばらく何も言わなかった。
アトカは危険を理解していないわけではない。
準備も、報告も、中止条件も覚えている。
それでも最後には、自分が迎えに行くのだと言う。
その言葉の中で、自分自身の命だけが少し軽く扱われていることを、本人はまだ十分に理解していなかった。
「必ず見つけて、一緒に帰ってきます」
ギルド長が鼻から長く息を吐く。
「その目、ガイルに少し似ているな」
「お父さんにですか?」
「ああ。無茶をする時の目だ」
「無茶はしません」
「そう言う奴ほど無茶をするんだ」
呆れたように答えながらも、ギルド長は受付の女性へ指示を出した。
「北東監視所までの通行証と、最新の魔獣出没記録を用意しろ。簡易方位石、夜間用の魔導灯、止血用の薬草もだ」
「森の外縁へ向かう補給馬車が間もなく出ます。監視所までは、それに乗せましょうか」
「ああ。徒歩で向かわせる時間はない」
受付の女性は、アトカでも扱いやすい小型の斜め掛け鞄へ道具を収めた。
留め具は義手の指を差し込みやすい大きな輪になっている。
方位石は、鞄を開かなくても確認できるよう胸元の帯へ固定された。
「ありがとうございます」
「礼は帰ってから言え」
ギルド長が地図の森奥を指で叩く。
「衝撃が続いているなら、カインはまだ魔力を放っている。生きている可能性は高い。だが、拘束具が完全に壊れるまでの時間は分からない」
アトカは鞄の位置と留め具を義手で確かめた。
胸元には学園長の書状。
鞄には地図、出没記録、薬草、方位石。
森の外縁には、学園の教師と医療班が待っている。
北東監視所まで向かうための準備は整った。
「行ってきます」
アトカは深く頭を下げた。
先ほど肩へ手を伸ばした大柄な戦士が、入口の脇から声をかける。
「坊主」
アトカが振り返る。
男は少しだけ気まずそうに視線を逸らし、それから短く言った。
「帰り道の分まで、体力を残しておけよ」
「はい。ありがとうございます」
扉の向こうでは、夕暮れの大通りへ補給馬車が停まっていた。
アトカは御者へ書状を見せ、荷台へ乗り込む。
厚い幌の内側には、森へ運ぶ医療箱や予備の結界杭が積まれていた。
馬車が動き出す。
石畳の音が次第に速くなり、冒険者ギルドの建物が遠ざかっていく。
目指すのは、学園領大森林の北東監視所。
そのさらに奥にある、物質も術式も形を保てない危険域。
そして、姿さえ確認されていない魔獣の痕跡が残る場所。
まだまともに言葉を交わしたこともない先輩が、誰も近づけない場所で一人きりになっている。
アトカは胸元の書状へ義手を添えた。
カインは近づくなと言った。
あの時は、その言葉どおりに止まった。
けれど今は、近づかなければ連れ帰れないかもしれない。
ならば、どこまで近づいてよいのか。
何へ触れてよいのか。
どうすれば、カインを壊さずにその魔力へ触れられるのか。
答えはまだ分からない。
それでもアトカは、森へ向かう馬車の中で静かに呼吸を整えた。
カインを、一人のままにしないために。




