大岩砕きの息子
「わぁ……すごい熱気だなぁ」
アトカは澄んだ青い瞳を忙しなく動かしながら、フェル・ザイン中層一般区の大通りを歩いていた。
三日目の朝、フレデリックから救助任務への参加を認められたあと、最初に与えられた役目が、ここへ一人で来て、大森林の最新情報を受け取ることだった。
白亜の学園に満ちていた静かな空気とは、何もかもが違う。
露店では、日に焼けた男たちが豪快に笑いながら荷箱を運んでいる。
鎧姿の戦士が腰の剣を鳴らして歩き、商人たちは魔獣の牙や毛皮、薬草の束、傷だらけの防具を掲げて客を呼び込んでいた。
肉を焼く匂い。
鉄と革の匂い。
酒と汗、乾いた土埃の匂い。
人々の声が幾重にも重なり、石畳の上では荷馬車の車輪が軋んでいる。
遠くからは、鍛冶屋の槌が鉄を打つ音が規則正しく響いてきた。
アトカはローブの内側へ収めた地図を、義手で軽く確かめた。
フレデリックから渡された、学園領大森林の地図。
カインが最後に信号を残した区域には、赤い印が付いている。
目的地そのものは分かっている。
けれど、森の状況は日々変わる。
魔獣の動きも、森道の通行可否も、昨日の捜索班がどこまで進めたのかも、学園にある地図だけでは分からない。
『まず一人で、フェル・ザイン冒険者ギルドへ行ってほしい』
フレデリックの言葉を思い出す。
そこで最新の情報を受け取る。
分からないことは、その場で聞き返す。
それから北東監視所へ向かい、成人の救助班と合流する。
森へ入るのは、そのあとだ。
やがて、大通りの一角にひときわ大きな建物が見えてきた。
厚い石壁。
魔獣の爪痕が残る古い看板。
扉の上には、剣と盾、翼を広げた獣を組み合わせた紋章が掲げられている。
フェル・ザイン冒険者ギルド。
「ここだ」
アトカは重厚な木製の扉の前で足を止め、小さく息を吸った。
学園からここまでは一人だった。
けれど、不安より先に、少しだけ胸が高鳴っている。
父が時折話してくれた、泥や血、鉄の匂いが残る冒険者の現場。
その一端へ、自分が正式な仕事で入ろうとしている。
アトカは義手で扉を押し開けた。
低い軋みとともに、酒と香辛料の匂いが流れ出す。
広間では冒険者たちが依頼票を確認し、受付職員が森の地図へ新しい印を書き込んでいる。
奥の査定台には魔獣の角や毛皮が積まれ、その隣では治療係が負傷した男の腕へ包帯を巻いていた。
扉の音に気づき、何人かが入口へ顔を向ける。
漆黒のローブ。
空の左袖。
木製の義手。
そして、十歳の白髪の少年。
一瞬だけ向けられた視線は、すぐにそれぞれの仕事へ戻っていった。
ただ、入口近くに座っていた大柄な戦士だけは、訝しげに眉を寄せた。
「坊主、依頼受付は奥だぞ。迷子なら衛兵を呼んでやる」
「ありがとうございます。でも、今日は森の情報を受け取りに来ました」
「森?」
大柄な戦士は椅子から立ち上がった。
筋肉の盛り上がった腕には、古い傷がいくつも走っている。
子供が危険な依頼へ近づこうとしていると思ったのか、男はアトカを入口へ戻そうと肩へ手を伸ばした。
アトカは半歩だけ位置を変えた。
大きな手はローブへ触れることなく空を切る。
体重を預ける先を失った男はわずかによろめき、近くの机へ手をついた。
「大丈夫ですか?急に避けたので、驚かせてしまいましたよね」
「あ、いや……俺は平気だ」
心配そうに顔を覗き込まれ、男は困ったように頭を掻いた。
周囲の数人が、今度はアトカの足元へ視線を向けている。
大きく跳んだわけでも、腕を払ったわけでもない。
ただ伸ばされた手の軌道から、身体だけが半歩外れていた。
アトカは男に怪我がないことを確かめると、受付カウンターへ向かった。
「すみません。王立エルシオン学園から来ました。アトカ・アッシュフォードです」
受付の女性が顔を上げる。
「学園領大森林の捜索について、最新の魔獣出没記録と森道の状況、それから捜索班が到達できた地点を確認するよう、フレデリック先生から指示を受けています。カイン・デイスター先輩が最後に確認された区域についても、分かっていることを教えてください」
受付の女性はすぐに表情を引き締めた。
「身分証と、学園からの書状を確認してもよろしいですか」
「はい」
アトカは胸元から身分証と、学園長の封蝋が押された書状を取り出した。
受付の女性は内容を確認し、手元の記録簿と照らし合わせる。
その時、奥の執務室から低く太い声が響いた。
「その書状、こちらへ回してくれ」
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた男が、ゆっくりと歩いてくる。
顔には無数の古傷が刻まれ、年老いてなお眼光は鋭い。
周囲の冒険者たちが自然と姿勢を正した。
フェル・ザイン冒険者ギルドのギルド長だった。
彼は書状へ目を通し、次にアトカの身分証を確かめる。
刻まれた姓を見た瞬間、太い眉が僅かに動いた。
「アッシュフォード……。坊主、ガイル・アッシュフォードを知っているか」
アトカの青い瞳がぱっと明るくなった。
「もちろんです。僕のお父さんです!」
若い冒険者の多くは首を傾げていた。
けれど、壁際に座っていた古参や、古傷の多い歴戦の者たちが静かに顔を上げる。
「ガイルの息子か」
「大岩砕きの……」
漏れた声を聞き、アトカは驚いて目を丸くした。
「お父さん、ここでも知られているんですか?」
ギルド長が小さく笑った。
「今の若い連中は知らんだろうがな。昔、国境付近で随分と無茶をした男だ。岩殻種の突進を正面から止めて叩き伏せたことから、大岩砕きなんて呼ばれていた」
「そんなことを……」
アトカにとってガイルは、畑を耕し、薪を割り、ルトの稽古を見ていた優しい父だった。
大きな手で頭を撫でてくれた人。
森に捨てられていた自分を拾い、当たり前のように家族として育ててくれた人。
その父を、遠い帝都にいる人たちが今も覚えている。
胸の奥へ、温かなものが広がった。
「僕の大好きなお父さんです。皆さんがお父さんのことを覚えていてくださって、本当に嬉しいです」
真っ直ぐな言葉に、古参の冒険者たちがどこか懐かしそうに笑った。
ギルド長も僅かに目を細める。
「そうか。あの頑固者も、いい息子を育てたらしい」
壁際から声が飛ぶ。
「今度会ったら、まだ借りは返してないって伝えておいてくれ!」
「はい。必ず伝えます」
何の借りなのか、アトカには分からなかった。
それでも、大切な伝言として覚えておくことにした。
ギルド長の表情が引き締まる。
「昔話はここまでだ。本題へ入るぞ」
受付の上へ、羊皮紙の地図が広げられた。
すでに森の外縁から深部へ向け、複数の印が記されている。
「学園から、未帰還者の捜索協力要請は届いている。カイン・デイスター。黒い拘束具を装着した、魔導科特等枠の三年生だな」
「はい」
「帰還予定を過ぎた時点で、学園とギルドの捜索班が動いた。昨夜までは拘束具の位置確認信号が断続的に残っていたが、今朝になって途絶えた」
ギルド長の太い指が、森の奥にある一帯を示す。
「捜索班は、この古い狩猟道までは進んだ。だが、ここから先へは入れていない」
地図の上には、狩猟道を囲むように大きな赤い円が描かれていた。
「数日前から、この一帯では爆発に似た衝撃と轟音が繰り返し確認されている。だが、跡は普通の爆発と違う」
ギルド長が別の報告書を開く。
「木は一方向からへし折られたわけじゃない。幹の繊維が何箇所も裂け、支えを失って崩れている。岩も一発で粉砕されたんじゃなく、層や亀裂に沿って剥がれていた。防護術式は固定部や術式線が破断し、魔術具も接続部を壊されて止まっている」
アトカは地図から顔を上げた。
「カイン先輩の魔力と、似ているんですか」
「ああ。学園から共有された能力特性と一致する部分が多い」
ギルド長は断定せずに答えた。
「高密度の魔力が周囲へ漏れ続け、木や岩、術式の弱い箇所を次々に破断している可能性が高い。壊れたものや地面が一度に崩れれば、結果として爆発みたいな衝撃も起きる」
カインの力は、何でも理由なく壊すものではない。
本来なら、どこを壊すかを見て、必要な一点へ高密度の魔力を通す力だ。
けれど、拘束具が損傷し、その出力を分散できなくなっているのなら。
狙うはずだった一点が失われ、周囲へ漏れた魔力そのものが危険になる。
「拘束具が壊れているんでしょうか」
「可能性は高い。全部か一部かまでは分からん」
ギルド長は赤い円の中心を見た。
「うちの斥候も救助を試みた。だが、防護術式の固定部を破断され、足場にも亀裂が走った。危険域へ踏み込む前に撤退している」
広間が静まり返る。
「中心へ近づくほど、魔術だけで身を守れるとは考えるな。術式が壊れるだけじゃない。崩れた木も岩も、人間を殺せる」
アトカは静かに頷いた。
「分かりました」
ギルド長の指が、赤い円の北側へ付けられた小さな黒い印へ移る。
「それと、もう一つ気になる報告がある」
「何ですか?」
「この付近で、見慣れない魔獣の痕跡が見つかっている。姿を確認した者はいない」
「痕跡だけなんですか?」
「ああ。目立つ足跡は残っていない。だが、地上から人の背丈を越えた位置にある枝や幹が、刃物を通したように細く切断されていた」
ギルド長は報告書の一角を指で叩いた。
「カインの破断痕とは違う。切断面が妙に滑らかだ」
アトカは黒い印を見る。
「その魔獣が、カイン先輩を襲ったかもしれないんですか」
「分からん」
返事は短かった。
「関係しているかもしれない。まったく別かもしれない。大型かどうかも分からん。だから、分からないものをカインの未帰還原因だと決めるな」
アトカはすぐに頷いた。
「はい。見つけても、確かめるためだけには近づきません」
「それでいい。森では、正体を知ることより先に生きて戻る必要がある時もある」
ギルド長の指が、今度は赤い円の外側へ引かれた青い線へ移る。
「森道については、南側の旧伐採路が昨夜の倒木で塞がった。西の沢沿いも増水していて使わせない。北東監視所へ入るこの道だけは、今朝の斥候が通行可能を確認している」
「北東監視所までなら、この道ですね」
アトカは地図を自分の向きへ少し回し、道筋を指で追った。
「そうだ。学園の現場監督、防護班、医療班、それからうちの斥候も、そこで合流する予定になっている」
「フレデリック先生から聞いた通りです」
アトカは一つ息を吐く。
自分の役目は、ここまでの情報を受け取ること。
その先は、一人ではない。
「この赤い円が、今の捜索班が入れなかった範囲。青い道が、今朝確認された監視所までの通行路。黒い印が、正体不明の魔獣の痕跡ですね」
「ああ」
「南と西は使わない」
「そうだ」
アトカはもう一度地図を見てから尋ねた。
「赤い円は、最後に確認された破壊の範囲ですか。それとも、危険があるかもしれない範囲まで広げていますか」
ギルド長の眉が僅かに上がった。
「いい質問だ。線は最後に破壊を確認した地点より外へ取ってある。円の中全部で同じ破壊が起きていると確認したわけじゃない」
「じゃあ、確認済みと予想を混ぜないようにします」
「そうしろ」
アトカは地図を見つめ、頭の中で情報を分けた。
確認できたこと。
まだ分からないこと。
現場へ着いてから判断すること。
フレデリックに言われた通り、分かったふりをしなくてもいい。
ギルド長はそんなアトカをしばらく見てから、低い声で言った。
「一人で森の奥へ突っ込むための書状じゃない。それは分かってるな」
「はい。僕が一人なのは、ここまでです」
アトカは迷わず答えた。
「北東監視所で成人班と合流します。そこからは現場の先生たちと一緒に入ります」
「ならいい」
ギルド長は頷く。
「お前にしか触れられない魔力があるとしても、森全部がお前の仕事になるわけじゃない」
「はい」
赤い円の向こうに、カインがいるかもしれない。
『俺に近づくな』
あの時は、その言葉どおりに止まった。
勝手に理由を決めず、勝手に距離を越えなかった。
今も、その言葉が間違いになったわけではない。
ただ状況が変わった。
カインが自力で帰れず、外へ漏れた魔力のせいで誰も近づけないのなら、救助のために距離を詰める必要があるかもしれない。
どこまで近づくのか。
何へ触れるのか。
何には触れないのか。
それは森で見て決める。
「僕にできるところまで、ちゃんとやります」
アトカは言った。
「それで、カイン先輩と一緒に帰りたいです」
ギルド長は青い瞳を見つめた。
「なら、帰り道の分まで頭を使え。助ける相手を見つけた瞬間に、帰ることを忘れるな」
「はい」
ギルド長は受付の女性へ指示を出した。
「北東監視所までの通行証と、今朝更新した出没記録を用意しろ。紙の地図、非魔術式の小型灯、止血用の薬草もだ。方位石は胸元へ固定できるものにしろ」
「分かりました」
受付の女性は、小型の斜め掛け鞄へ必要なものを収めていく。
留め具は、義手の指を差し込みやすい大きな輪になっていた。
紙の地図は濡れにくい革筒へ入れられ、小型灯は魔術式を使わない単純な構造のものが選ばれる。
アトカは一つずつ、自分で開閉できるか確かめた。
「ありがとうございます」
「北東監視所へ向かう補給馬車が、もうすぐ出ます」
受付の女性が言う。
「監視所まではそれに乗ってください。成人班も、別便ですでに向かっています」
「はい」
ギルド長が最後に地図を指で叩いた。
「衝撃がまだ続いているなら、カインが生きて魔力を放っている可能性はある。だが、それも確定じゃない。現場で新しい情報が出たら、今ここで聞いたことより新しい方を優先しろ」
「分かりました」
アトカは鞄の位置を確かめる。
胸元には学園長の書状。
鞄には地図、出没記録、非魔術式の灯り、薬草。
胸元には方位石。
そして頭の中には、確認済みの道と、まだ正体の分からない危険が入っている。
ここへ来た時より、森が少しだけ具体的になった。
怖さも増えた。
でも、何を知らないのかも分かった。
それはきっと、知らないまま森へ入るよりずっといい。
「行ってきます」
アトカは深く頭を下げた。
先ほど肩へ手を伸ばした大柄な戦士が、入口の脇から声をかける。
「坊主」
アトカが振り返る。
男は少しだけ気まずそうに視線を逸らし、それから短く言った。
「帰り道の分まで、体力を残しておけよ」
アトカは笑った。
「はい。ちゃんと帰ってきます」
重い扉を開く。
外には、まだ午前の光が差していた。
大通りの端には、北東監視所へ向かう補給馬車が停まっている。
アトカは御者へ通行証と書状を見せ、荷台へ乗り込んだ。
厚い幌の内側には、森へ運ぶ医療箱や予備の結界杭、食料と水の箱が積まれている。
ほどなくして馬車が動き出した。
石畳を打つ車輪の音が速くなり、冒険者ギルドの建物が少しずつ遠ざかっていく。
次に向かうのは、学園領大森林の北東監視所。
そこで現場監督教員、防護班、医療班、冒険者ギルドの斥候と合流する。
森へ入るのは、それからだ。
アトカは幌の隙間から遠ざかる街並みを眺めたあと、受け取った地図を開いた。
赤い円。
青い道。
北側の黒い印。
そして、そのさらに奥。
まだまともに言葉を交わしたこともない先輩が、誰も近づけない場所で一人になっているかもしれない。
アトカは地図の縁へ義手の指を添えた。
カインは近づくなと言った。
あの時は、その言葉どおりに止まった。
今度も、カインの意思を勝手に決めるつもりはない。
けれど、救助のために進まなければならない場所までは進む。
身体の中の魔力には触れない。
外へ出た魔力だけを見る。
分からないものは決めつけない。
一人で森へ入らない。
その全部を持ったまま、迎えに行く。
アトカは静かに呼吸を整えた。
「待っていてください、カイン先輩」
馬車は朝の帝都を抜け、学園領大森林へ続く街道へ向かっていった。
今度は一人で行くためではない。
一人で集めた情報を、これから合流する仲間たちへ持っていくために。
そして、誰も近づけない場所にいる先輩と一緒に帰るために。




