↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
特等枠の怪物たち
PR
31/188

大岩砕きの息子

「わぁ……すごい熱気だなぁ」


アトカは澄んだ青い瞳を忙しなく動かしながら、フェル・ザイン中層一般区の大通りを歩いていた。


三日目の朝、フレデリックから救助任務への参加を認められたあと、最初に与えられた役目が、ここへ一人で来て、大森林の最新情報を受け取ることだった。


白亜の学園に満ちていた静かな空気とは、何もかもが違う。


露店では、日に焼けた男たちが豪快に笑いながら荷箱を運んでいる。

鎧姿の戦士が腰の剣を鳴らして歩き、商人たちは魔獣の牙や毛皮、薬草の束、傷だらけの防具を掲げて客を呼び込んでいた。


肉を焼く匂い。

鉄と革の匂い。

酒と汗、乾いた土埃の匂い。


人々の声が幾重にも重なり、石畳の上では荷馬車の車輪が軋んでいる。

遠くからは、鍛冶屋の槌が鉄を打つ音が規則正しく響いてきた。


アトカはローブの内側へ収めた地図を、義手で軽く確かめた。


フレデリックから渡された、学園領大森林の地図。


カインが最後に信号を残した区域には、赤い印が付いている。


目的地そのものは分かっている。


けれど、森の状況は日々変わる。

魔獣の動きも、森道の通行可否も、昨日の捜索班がどこまで進めたのかも、学園にある地図だけでは分からない。


『まず一人で、フェル・ザイン冒険者ギルドへ行ってほしい』


フレデリックの言葉を思い出す。


そこで最新の情報を受け取る。

分からないことは、その場で聞き返す。

それから北東監視所へ向かい、成人の救助班と合流する。


森へ入るのは、そのあとだ。


やがて、大通りの一角にひときわ大きな建物が見えてきた。


厚い石壁。

魔獣の爪痕が残る古い看板。

扉の上には、剣と盾、翼を広げた獣を組み合わせた紋章が掲げられている。


フェル・ザイン冒険者ギルド。


「ここだ」


アトカは重厚な木製の扉の前で足を止め、小さく息を吸った。


学園からここまでは一人だった。


けれど、不安より先に、少しだけ胸が高鳴っている。


父が時折話してくれた、泥や血、鉄の匂いが残る冒険者の現場。

その一端へ、自分が正式な仕事で入ろうとしている。


アトカは義手で扉を押し開けた。


低い軋みとともに、酒と香辛料の匂いが流れ出す。


広間では冒険者たちが依頼票を確認し、受付職員が森の地図へ新しい印を書き込んでいる。

奥の査定台には魔獣の角や毛皮が積まれ、その隣では治療係が負傷した男の腕へ包帯を巻いていた。


扉の音に気づき、何人かが入口へ顔を向ける。


漆黒のローブ。

空の左袖。

木製の義手。

そして、十歳の白髪の少年。


一瞬だけ向けられた視線は、すぐにそれぞれの仕事へ戻っていった。


ただ、入口近くに座っていた大柄な戦士だけは、訝しげに眉を寄せた。


「坊主、依頼受付は奥だぞ。迷子なら衛兵を呼んでやる」


「ありがとうございます。でも、今日は森の情報を受け取りに来ました」


「森?」


大柄な戦士は椅子から立ち上がった。


筋肉の盛り上がった腕には、古い傷がいくつも走っている。

子供が危険な依頼へ近づこうとしていると思ったのか、男はアトカを入口へ戻そうと肩へ手を伸ばした。


アトカは半歩だけ位置を変えた。


大きな手はローブへ触れることなく空を切る。


体重を預ける先を失った男はわずかによろめき、近くの机へ手をついた。


「大丈夫ですか?急に避けたので、驚かせてしまいましたよね」


「あ、いや……俺は平気だ」


心配そうに顔を覗き込まれ、男は困ったように頭を掻いた。


周囲の数人が、今度はアトカの足元へ視線を向けている。


大きく跳んだわけでも、腕を払ったわけでもない。

ただ伸ばされた手の軌道から、身体だけが半歩外れていた。


アトカは男に怪我がないことを確かめると、受付カウンターへ向かった。


「すみません。王立エルシオン学園から来ました。アトカ・アッシュフォードです」


受付の女性が顔を上げる。


「学園領大森林の捜索について、最新の魔獣出没記録と森道の状況、それから捜索班が到達できた地点を確認するよう、フレデリック先生から指示を受けています。カイン・デイスター先輩が最後に確認された区域についても、分かっていることを教えてください」


受付の女性はすぐに表情を引き締めた。


「身分証と、学園からの書状を確認してもよろしいですか」


「はい」


アトカは胸元から身分証と、学園長の封蝋が押された書状を取り出した。


受付の女性は内容を確認し、手元の記録簿と照らし合わせる。


その時、奥の執務室から低く太い声が響いた。


「その書状、こちらへ回してくれ」


白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた男が、ゆっくりと歩いてくる。


顔には無数の古傷が刻まれ、年老いてなお眼光は鋭い。


周囲の冒険者たちが自然と姿勢を正した。


フェル・ザイン冒険者ギルドのギルド長だった。


彼は書状へ目を通し、次にアトカの身分証を確かめる。


刻まれた姓を見た瞬間、太い眉が僅かに動いた。


「アッシュフォード……。坊主、ガイル・アッシュフォードを知っているか」


アトカの青い瞳がぱっと明るくなった。


「もちろんです。僕のお父さんです!」


若い冒険者の多くは首を傾げていた。


けれど、壁際に座っていた古参や、古傷の多い歴戦の者たちが静かに顔を上げる。


「ガイルの息子か」


「大岩砕きの……」


漏れた声を聞き、アトカは驚いて目を丸くした。


「お父さん、ここでも知られているんですか?」


ギルド長が小さく笑った。


「今の若い連中は知らんだろうがな。昔、国境付近で随分と無茶をした男だ。岩殻種の突進を正面から止めて叩き伏せたことから、大岩砕きなんて呼ばれていた」


「そんなことを……」


アトカにとってガイルは、畑を耕し、薪を割り、ルトの稽古を見ていた優しい父だった。


大きな手で頭を撫でてくれた人。

森に捨てられていた自分を拾い、当たり前のように家族として育ててくれた人。


その父を、遠い帝都にいる人たちが今も覚えている。


胸の奥へ、温かなものが広がった。


「僕の大好きなお父さんです。皆さんがお父さんのことを覚えていてくださって、本当に嬉しいです」


真っ直ぐな言葉に、古参の冒険者たちがどこか懐かしそうに笑った。


ギルド長も僅かに目を細める。


「そうか。あの頑固者も、いい息子を育てたらしい」


壁際から声が飛ぶ。


「今度会ったら、まだ借りは返してないって伝えておいてくれ!」


「はい。必ず伝えます」


何の借りなのか、アトカには分からなかった。


それでも、大切な伝言として覚えておくことにした。


ギルド長の表情が引き締まる。


「昔話はここまでだ。本題へ入るぞ」


受付の上へ、羊皮紙の地図が広げられた。


すでに森の外縁から深部へ向け、複数の印が記されている。


「学園から、未帰還者の捜索協力要請は届いている。カイン・デイスター。黒い拘束具を装着した、魔導科特等枠の三年生だな」


「はい」


「帰還予定を過ぎた時点で、学園とギルドの捜索班が動いた。昨夜までは拘束具の位置確認信号が断続的に残っていたが、今朝になって途絶えた」


ギルド長の太い指が、森の奥にある一帯を示す。


「捜索班は、この古い狩猟道までは進んだ。だが、ここから先へは入れていない」


地図の上には、狩猟道を囲むように大きな赤い円が描かれていた。


「数日前から、この一帯では爆発に似た衝撃と轟音が繰り返し確認されている。だが、跡は普通の爆発と違う」


ギルド長が別の報告書を開く。


「木は一方向からへし折られたわけじゃない。幹の繊維が何箇所も裂け、支えを失って崩れている。岩も一発で粉砕されたんじゃなく、層や亀裂に沿って剥がれていた。防護術式は固定部や術式線が破断し、魔術具も接続部を壊されて止まっている」


アトカは地図から顔を上げた。


「カイン先輩の魔力と、似ているんですか」


「ああ。学園から共有された能力特性と一致する部分が多い」


ギルド長は断定せずに答えた。


「高密度の魔力が周囲へ漏れ続け、木や岩、術式の弱い箇所を次々に破断している可能性が高い。壊れたものや地面が一度に崩れれば、結果として爆発みたいな衝撃も起きる」


カインの力は、何でも理由なく壊すものではない。


本来なら、どこを壊すかを見て、必要な一点へ高密度の魔力を通す力だ。


けれど、拘束具が損傷し、その出力を分散できなくなっているのなら。


狙うはずだった一点が失われ、周囲へ漏れた魔力そのものが危険になる。


「拘束具が壊れているんでしょうか」


「可能性は高い。全部か一部かまでは分からん」


ギルド長は赤い円の中心を見た。


「うちの斥候も救助を試みた。だが、防護術式の固定部を破断され、足場にも亀裂が走った。危険域へ踏み込む前に撤退している」


広間が静まり返る。


「中心へ近づくほど、魔術だけで身を守れるとは考えるな。術式が壊れるだけじゃない。崩れた木も岩も、人間を殺せる」


アトカは静かに頷いた。


「分かりました」


ギルド長の指が、赤い円の北側へ付けられた小さな黒い印へ移る。


「それと、もう一つ気になる報告がある」


「何ですか?」


「この付近で、見慣れない魔獣の痕跡が見つかっている。姿を確認した者はいない」


「痕跡だけなんですか?」


「ああ。目立つ足跡は残っていない。だが、地上から人の背丈を越えた位置にある枝や幹が、刃物を通したように細く切断されていた」


ギルド長は報告書の一角を指で叩いた。


「カインの破断痕とは違う。切断面が妙に滑らかだ」


アトカは黒い印を見る。


「その魔獣が、カイン先輩を襲ったかもしれないんですか」


「分からん」


返事は短かった。


「関係しているかもしれない。まったく別かもしれない。大型かどうかも分からん。だから、分からないものをカインの未帰還原因だと決めるな」


アトカはすぐに頷いた。


「はい。見つけても、確かめるためだけには近づきません」


「それでいい。森では、正体を知ることより先に生きて戻る必要がある時もある」


ギルド長の指が、今度は赤い円の外側へ引かれた青い線へ移る。


「森道については、南側の旧伐採路が昨夜の倒木で塞がった。西の沢沿いも増水していて使わせない。北東監視所へ入るこの道だけは、今朝の斥候が通行可能を確認している」


「北東監視所までなら、この道ですね」


アトカは地図を自分の向きへ少し回し、道筋を指で追った。


「そうだ。学園の現場監督、防護班、医療班、それからうちの斥候も、そこで合流する予定になっている」


「フレデリック先生から聞いた通りです」


アトカは一つ息を吐く。


自分の役目は、ここまでの情報を受け取ること。


その先は、一人ではない。


「この赤い円が、今の捜索班が入れなかった範囲。青い道が、今朝確認された監視所までの通行路。黒い印が、正体不明の魔獣の痕跡ですね」


「ああ」


「南と西は使わない」


「そうだ」


アトカはもう一度地図を見てから尋ねた。


「赤い円は、最後に確認された破壊の範囲ですか。それとも、危険があるかもしれない範囲まで広げていますか」


ギルド長の眉が僅かに上がった。


「いい質問だ。線は最後に破壊を確認した地点より外へ取ってある。円の中全部で同じ破壊が起きていると確認したわけじゃない」


「じゃあ、確認済みと予想を混ぜないようにします」


「そうしろ」


アトカは地図を見つめ、頭の中で情報を分けた。


確認できたこと。

まだ分からないこと。

現場へ着いてから判断すること。


フレデリックに言われた通り、分かったふりをしなくてもいい。


ギルド長はそんなアトカをしばらく見てから、低い声で言った。


「一人で森の奥へ突っ込むための書状じゃない。それは分かってるな」


「はい。僕が一人なのは、ここまでです」


アトカは迷わず答えた。


「北東監視所で成人班と合流します。そこからは現場の先生たちと一緒に入ります」


「ならいい」


ギルド長は頷く。


「お前にしか触れられない魔力があるとしても、森全部がお前の仕事になるわけじゃない」


「はい」


赤い円の向こうに、カインがいるかもしれない。


『俺に近づくな』


あの時は、その言葉どおりに止まった。


勝手に理由を決めず、勝手に距離を越えなかった。


今も、その言葉が間違いになったわけではない。


ただ状況が変わった。


カインが自力で帰れず、外へ漏れた魔力のせいで誰も近づけないのなら、救助のために距離を詰める必要があるかもしれない。


どこまで近づくのか。

何へ触れるのか。

何には触れないのか。


それは森で見て決める。


「僕にできるところまで、ちゃんとやります」


アトカは言った。


「それで、カイン先輩と一緒に帰りたいです」


ギルド長は青い瞳を見つめた。


「なら、帰り道の分まで頭を使え。助ける相手を見つけた瞬間に、帰ることを忘れるな」


「はい」


ギルド長は受付の女性へ指示を出した。


「北東監視所までの通行証と、今朝更新した出没記録を用意しろ。紙の地図、非魔術式の小型灯、止血用の薬草もだ。方位石は胸元へ固定できるものにしろ」


「分かりました」


受付の女性は、小型の斜め掛け鞄へ必要なものを収めていく。


留め具は、義手の指を差し込みやすい大きな輪になっていた。

紙の地図は濡れにくい革筒へ入れられ、小型灯は魔術式を使わない単純な構造のものが選ばれる。


アトカは一つずつ、自分で開閉できるか確かめた。


「ありがとうございます」


「北東監視所へ向かう補給馬車が、もうすぐ出ます」


受付の女性が言う。


「監視所まではそれに乗ってください。成人班も、別便ですでに向かっています」


「はい」


ギルド長が最後に地図を指で叩いた。


「衝撃がまだ続いているなら、カインが生きて魔力を放っている可能性はある。だが、それも確定じゃない。現場で新しい情報が出たら、今ここで聞いたことより新しい方を優先しろ」


「分かりました」


アトカは鞄の位置を確かめる。


胸元には学園長の書状。

鞄には地図、出没記録、非魔術式の灯り、薬草。

胸元には方位石。


そして頭の中には、確認済みの道と、まだ正体の分からない危険が入っている。


ここへ来た時より、森が少しだけ具体的になった。


怖さも増えた。


でも、何を知らないのかも分かった。


それはきっと、知らないまま森へ入るよりずっといい。


「行ってきます」


アトカは深く頭を下げた。


先ほど肩へ手を伸ばした大柄な戦士が、入口の脇から声をかける。


「坊主」


アトカが振り返る。


男は少しだけ気まずそうに視線を逸らし、それから短く言った。


「帰り道の分まで、体力を残しておけよ」


アトカは笑った。


「はい。ちゃんと帰ってきます」


重い扉を開く。


外には、まだ午前の光が差していた。


大通りの端には、北東監視所へ向かう補給馬車が停まっている。


アトカは御者へ通行証と書状を見せ、荷台へ乗り込んだ。


厚い幌の内側には、森へ運ぶ医療箱や予備の結界杭、食料と水の箱が積まれている。


ほどなくして馬車が動き出した。


石畳を打つ車輪の音が速くなり、冒険者ギルドの建物が少しずつ遠ざかっていく。


次に向かうのは、学園領大森林の北東監視所。


そこで現場監督教員、防護班、医療班、冒険者ギルドの斥候と合流する。


森へ入るのは、それからだ。


アトカは幌の隙間から遠ざかる街並みを眺めたあと、受け取った地図を開いた。


赤い円。

青い道。

北側の黒い印。


そして、そのさらに奥。


まだまともに言葉を交わしたこともない先輩が、誰も近づけない場所で一人になっているかもしれない。


アトカは地図の縁へ義手の指を添えた。


カインは近づくなと言った。


あの時は、その言葉どおりに止まった。


今度も、カインの意思を勝手に決めるつもりはない。


けれど、救助のために進まなければならない場所までは進む。


身体の中の魔力には触れない。

外へ出た魔力だけを見る。

分からないものは決めつけない。

一人で森へ入らない。


その全部を持ったまま、迎えに行く。


アトカは静かに呼吸を整えた。


「待っていてください、カイン先輩」


馬車は朝の帝都を抜け、学園領大森林へ続く街道へ向かっていった。


今度は一人で行くためではない。


一人で集めた情報を、これから合流する仲間たちへ持っていくために。


そして、誰も近づけない場所にいる先輩と一緒に帰るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。