帰らぬ先輩を迎えに
「あの先輩も、一緒に食べないんですか?」
アトカがそう言った瞬間、特等枠のラウンジは静かになった。
リリシアの手が止まる。
エルマのペン先が紙の上で固まり、バルトロは口へ運びかけていたクッキーを途中で止めた。
ギルベルトだけが、古い銀色の懐中時計の蓋をゆっくりと閉じる。
ラウンジの最奥。
薄暗いソファーに座っていた少年が、わずかに顔を上げた。
首元から手首、ローブの下へまで続く黒い魔力遮断拘束具。
その隙間から覗く暗い赤紫の瞳が、円卓のそばに立つアトカを静かに映している。
カイン・デイスター。
魔導科三年、十二歳。
同じ特等枠でありながら、誰とも一定の距離を取って座る少年だった。
アトカはクッキーの乗った皿を見て、それからカインを見る。
「よかったら、どうぞ」
その声に悪意はなかった。
恐れもなかった。
ただ、同じ部屋にいる先輩へ、皆で分けている焼き菓子を勧めただけだった。
カインはしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声が落ちる。
「……いらない」
拒絶というより、自分から距離を作ろうとする声だった。
アトカは一歩も近づかなかった。
「分かりました」
皿を持ったまま、その場で止まる。
リリシアの肩から、ほんの少し力が抜けた。
カインはアトカを見た。
アトカが近づかないと分かっても、その表情はほとんど変わらない。
やがて立ち上がる。
拘束具の金具が、かすかに鳴った。
「俺に近づくな」
「はい」
アトカはまた素直に答えた。
理由を尋ねなかった。
嫌われたのかとも聞かなかった。
カインがそう望むなら、その距離を守る。
それだけだった。
カインは一瞬だけアトカを見てから、ラウンジを出ていった。
扉が閉まる。
しばらくして、アトカは手元の皿を見る。
「……お菓子、嫌いだったんでしょうか」
「そこじゃない」
ギルベルトが言った。
「でも、いらないと言っていました」
「それはそのまま受け取っていい。だから今日は渡さなくていい」
ギルベルトはそう言ってから、カインが出ていった扉を見る。
「ただ、あいつが距離を取る理由まで勝手に決めるな」
アトカは少し考えた。
「じゃあ、次に話してくれたら聞きます」
「それでいい」
その日は、それ以上カインの話をしなかった。
けれど、円卓の端には小さな皿が一枚残されていた。
誰もカインを無理に呼び戻さない。
誰も、その皿を片づけろとも言わなかった。
同じ部屋にいるために、同じ距離にいなければならないわけではなかった。
それから数日が過ぎた。
アトカの学園生活は、少しずつ形を持ち始めていた。
ラウンジへ顔を出せば、ギルベルトは懐中時計を机へ置いて報告書を書き、バルトロは魔石を噛みながら訓練場へ誘ってくる。
エルマは黒板へ四属性の式を書き、リリシアは人の少ない時間を選んで学園内の道を教えてくれた。
毎日が静かではない。
けれど、温かかった。
紙をめくる音。
魔石を噛む音。
ペンが走る音。
小さく話しかけてくれる声。
それらは少しずつ、アトカにとって、この場所にも自分の席があるのだと教えてくれる音になっていた。
ただ、ラウンジ最奥のソファーだけは空いていた。
カインは、あの日の翌朝から学園領大森林へ出ている。
危険な魔獣を定期的に間引く、特等枠三年としての個別課題だった。
単独で行動する区間はある。
だが、学園側が放置しているわけではない。位置確認と定時記録が決められ、帰還予定を過ぎれば捜索へ切り替わる。
帰還予定の日、カインは戻らなかった。
最初の夜は、森の中で予定がずれた可能性も残っていた。
二日目になると、リリシアが何度も扉を見るようになった。
そして、未帰還が三日目に入った朝。
朝食を終えたばかりのラウンジの扉が開いた。
入ってきた人物を見て、五人が立ち上がる。
長い銀髪。
琥珀色の瞳。
白いローブ。
フレデリック・ヴァイスハルトは、一人ずつ五人の顔を見ると、空いているカインの席にも視線を向けた。
いつもの穏やかな表情は残っている。
けれど、今日は雑談のために来た顔ではなかった。
「座っていいよ。話がある」
五人が席へ戻る。
フレデリックは円卓の上へ一枚の地図を広げた。
学園領大森林。
その北東側の一角に、赤い印が付いている。
「カイン君の未帰還が、三日目に入った」
アトカの表情が変わった。
「まだ、戻っていないんですか」
「ああ。帰還予定を過ぎた時点で、学園と冒険者ギルドは捜索を始めている。昨夜までは拘束具の位置確認信号が断続的に残っていたが、明け方から確認できなくなった」
リリシアが両手を握る。
「カインさんは……見つかっていないんですか」
「本人の姿はまだ確認できていない。ただ、最後の信号地点へ近づいた捜索班が、カイン君の魔力によるものと考えられる破壊域を確認した」
フレデリックは地図の赤い印の外側を指でなぞる。
「木が折れている、というだけではない。幹の繊維が裂け、岩の層が剥がれ、防護術式や魔術具の構造も壊されている。捜索班はそこで前進を止めた」
エルマの顔がこわばる。
「拘束具の制御が落ちている可能性がありますわね」
「高いと見ている」
フレデリックは頷いた。
そして、アトカを見る前に、全員へ向けて言う。
「ここからは、カイン君の能力について、今回の救助判断に必要な部分だけ確認する」
ラウンジが静かになる。
「カイン君は、身体の外へ魔力を放つ際の出力が、一般的な安全基準を大きく超えている。本人が少量を出すつもりでも、高密度で高速の放魔になりやすい」
アトカは黙って聞く。
「通常時の魔力は黒い。制御を失うほど不安定になれば赤黒く変わる。これは強くなった印ではない。制御喪失の兆候だ」
フレデリックの指が、自分の手首のあたりを軽く示す。
「カイン君が着けている拘束具は、平常時の魔力漏出を抑え、出力を複数箇所へ分散させるための安全装置だ。罰でも、壊せば強くなる封印でもない」
アトカは、最奥のソファーで金具を鳴らしていたカインを思い出した。
『俺に近づくな』
あの時、カインは自分の身体を押さえ込むようには見えなかった。
ただ、誰も自分の近くへ来ない位置に座っていた。
フレデリックは続ける。
「今の破壊域では、その拘束具の一部が壊れているか、制御が追いついていない可能性がある。カイン君の身体から外へ出た魔力が周囲へ広がり、木や岩だけでなく、捜索側の防護術式まで壊している」
バルトロが低く唸る。
「俺が行っても、喰えるとこまで近づく前に足場ごと崩されるな」
「その可能性が高い」
フレデリックは否定しなかった。
「バルトロ君は外へ出た魔力を喰える。だが今回は、喰える距離へ入るまでの危険が大きい。先行役にはしない」
「分かった」
バルトロはそれ以上言わなかった。
フレデリックはリリシアを見る。
「リリシア君には、カイン君を救出できた後の診察と治療で力を借りる。破壊域の中心へ先行させる予定はない」
「はい」
「エルマ君には外側から記録と術式状況を見てもらう。ギルベルト君にも、捜索記録の時刻整理を頼む」
二人も頷いた。
そこで初めて、フレデリックの視線がアトカへ向く。
「アトカ君」
「はい」
「私は、君に救助任務への参加を頼みたい」
リリシアの肩が小さく揺れた。
フレデリックはすぐに続ける。
「理由を先に説明する」
アトカはまっすぐ頷いた。
「君は、自分の身体の外へ成立した他者の魔力へ触れ、水へ変換できる。カイン君の身体の中にある魔力へは触れられない。拘束具の内側に残っているだけの魔力にも触れられない。そして、すでに壊れた木や岩を元へ戻すこともできない」
「はい」
「だが、カイン君の身体から外へ漏れ、周囲を壊している魔力なら、君が水へ変換できる可能性がある」
アトカの青い瞳が地図へ落ちる。
「水に変えれば……救助する人が近づける道を作れますか」
「その可能性がある。少なくとも、今の捜索班が持っている手段では届かなかった場所へ、道を作れるかもしれない」
フレデリックはそこで一度言葉を切った。
「ただし、アトカ君。君に最初から森へ入ってもらうわけではない」
アトカが顔を上げる。
「まず一人で、フェル・ザイン冒険者ギルドへ行ってほしい」
今度はアトカが少し目を瞬かせた。
「僕一人で、ですか?」
「ああ」
フレデリックは頷く。
「森へ一人で入れという意味ではない。冒険者ギルドまでの移動と、情報の受け取りを君一人へ任せる」
地図の外、帝都側を指す。
「ギルドは昨日から大森林の捜索情報をまとめている。君にはそこで、最新の魔獣出没記録、使える森道、捜索班が実際に到達できた地点を確認してもらう。昨日の報告を私から聞いて森へ行くより、出発直前の情報を君自身が受け取った方がいい」
ギルベルトが地図へ目を落とした。
「成人班は?」
「別に準備を進めている。アトカ君がギルドで情報を受け取った後、北東監視所で合流する。そこから先は現場監督教員、防護班、医療班、冒険者ギルドの斥候と一緒に森林へ入る」
アトカは地図を見た。
学園。
冒険者ギルド。
北東監視所。
その先に、大森林。
最初から誰かの後ろについて森へ向かうのではない。
まず自分一人でギルドへ行き、自分で話を聞き、自分がこれから入る場所の情報を受け取る。
「僕が、聞いてきていいんですね」
「頼みたいと思っている」
フレデリックはそう答えてから、少しだけ表情を和らげた。
「分からないことがあれば、その場で聞き返していい。確認できていないことを、分かったことにして持ち帰る必要もないよ」
「はい」
「それから、救助に入る場合の君自身の停止条件も先に決めておく」
フレデリックの声が少しだけ硬くなった。
「一度だけ義手の指が僅かに遅れた。それだけで即時撤退にはしない。その場合は、まずその場で報告し、いったん負荷を落として動作を確認する」
アトカは義手の指を一度だけ開いて、閉じた。
「もう一度動けば、続けてもいいんですか」
「それだけで決めない。現場の状態と合わせて判断する」
フレデリックは一つずつ条件を分ける。
「指の遅れが繰り返す。複数の指へ広がる。休ませても戻らない。そのうえで肩の熱、重さ、痛みのどれかが強くなる。あるいは、水への変換を終えようとしても、普段どおりに切れなくなる。そこまで重なれば、君自身から継続困難として申告してほしい」
アトカは真剣に聞いている。
「そして、現場監督や医療班が中止を判断した場合は退く。それは君が失敗したという意味ではない」
「分かりました」
「軽い違和感を隠して、重い条件になるまで黙っていろという意味でもないよ」
フレデリックが付け加える。
「小さい変化は小さいうちに伝える。伝えたうえで、続けられるなら続ける。撤退が必要な状態になれば退く。その二つを分けよう」
アトカは頷いた。
「はい。遅れたら言います。でも、遅れただけで勝手に全部やめるんじゃなくて、確認してもらいます」
「それでいい」
ギルベルトが小さく頷く。
「その方が分かりやすいな」
リリシアも、少しだけ肩の力を抜いた。
フレデリックは再びアトカへ視線を戻す。
「もう一つ。カイン君を見つけても、君一人で救助を完了させる必要はない」
アトカは黙って続きを待った。
「君の役割は、外へ出た魔力を水へ変え、救助班が進める状態を作ることだ。カイン君の身体を診るのは医療班。拘束具を扱うのは担当者。周囲の安全を決めるのは現場監督だ。君にしかできないところは君に頼む。それ以外まで君一人へ集めない」
「はい」
返事をしてから、アトカは赤い印を見る。
数日前の声が、耳の奥へ戻ってくる。
『俺に近づくな』
あの時は、言われた通り止まった。
嫌だと言われた距離を、自分の善意で越えようとは思わなかった。
でも今は、カイン自身が戻れなくなっている可能性がある。
誰も近づけない場所で、一人で耐えているかもしれない。
「フレデリック先生」
「うん」
「僕が断ったら、捜索は終わりますか」
「終わらない」
フレデリックはすぐに答えた。
「成人側で別の方法を探し続ける。時間がかかる可能性はある。だからこそ君の力を借りたい。けれど、君が断ったことをカイン君が戻れない責任にはしない」
アトカはしばらく地図を見つめた。
そして顔を上げる。
「……僕、行きたいです」
リリシアが不安そうにアトカを見る。
アトカはそちらへ向き直った。
「怖くないわけじゃないです」
先にそう言った。
「カイン先輩の魔力が危ないことも分かりました。僕に触れない魔力が身体の中にあることも、全部止められるわけじゃないことも分かっています」
それでも、声は小さくならなかった。
「でも、外へ出た魔力なら僕にできることがあります」
少しだけ息を吸う。
「カイン先輩が近づくなって言ったのは、僕を傷つけたくなかったからかもしれません。でも、そこは本人に聞いていないので、決めません」
エルマがわずかに目を見開いた。
アトカは赤い印を見る。
「今分かっているのは、カイン先輩が帰ってきていないことです」
「そうだね」
「なら、僕は迎えに行きたいです」
フレデリックはすぐには答えなかった。
アトカの顔を見て、それから義手へ視線を落とす。
最後にもう一度、本人の目を見る。
「分かった。参加を認める」
リリシアが小さく息を吐いた。
「アトカ君……本当に危ないと思ったら、戻ってきてください」
アトカは「大丈夫です」とは言わなかった。
「はい。小さい変化でもちゃんと言います。続けられない時は、続けられないって言います」
リリシアは少し驚いたあと、ゆっくり頷いた。
「……はい」
バルトロが椅子の背へもたれる。
「あいつ、帰ってきたら文句言ってやる」
「何をですか?」
「三日も席空けんなって」
「それなら僕も言います」
「お前は普通に言いそうだな」
エルマは地図を見ながら口を開く。
「ギルドで捜索記録を見るのでしたら、確認済みの地点と推定地点を混ぜないでくださいませ。現場へ入ってから前提が違っていた、では困りますわ」
「はい。分からなかったら聞きます」
「それで結構ですわ」
ギルベルトは懐中時計を開いた。
「ギルドへ出るのは?」
「医務室で現在状態を確認した後だ」
フレデリックが答える。
「成人班はその間に北東監視所へ向かう。アトカ君はギルドで情報を受け取り、必要な地図と装備を受け取ってから合流する」
「分かりました」
アトカは立ち上がった。
フレデリックが地図を畳む。
だが、それをそのままアトカへ渡す前に、赤い印を指先で一度示した。
「救助の第一目標は、カイン君を生きて連れ戻すことだ」
琥珀色の瞳が、まっすぐアトカを見る。
「そして君は、そのために使う一つの手段ではない。救助へ参加する生徒だ。君自身の状態も、現場で判断する情報の一つになる」
アトカは少しだけ考え、それから頷いた。
「はい」
地図を受け取る。
「まず、冒険者ギルドへ行ってきます」
「うん。そこで今の森を自分の目と耳で確かめておいで」
「そのあと、皆さんと合流します」
「そうだ」
「それから、カイン先輩を迎えに行きます」
フレデリックは小さく頷いた。
「行っておいで」
アトカは漆黒のローブを整え、地図を抱えた。
このあと向かうのは、まだ学園領大森林ではない。
最初の行き先は、フェル・ザイン冒険者ギルド。
そこまでは一人で行く。
自分で扉をくぐり、自分で名乗り、自分で最新の情報を受け取る。
その先で成人の救助班と合流し、初めて森へ入る。
誰も近づけない場所で、一人で耐えているかもしれない先輩を迎えに行くために。
そして、自分も帰る一人として、戻ってくるために。




