帰らぬ先輩を迎えに
「あの先輩も、一緒に食べないんですか?」
アトカがそう言った瞬間、特等枠のラウンジは静かになった。
リリシアの手が止まる。エルマのペン先が紙の上で固まる。
バルトロは口へ運びかけていたクッキーを途中で止め、ギルベルトだけが、懐中時計の蓋をゆっくりと閉じた。
ラウンジの最奥。
薄暗いソファーに座っていた少年が、わずかに顔を上げる。
全身に幾重にも巻かれた黒い魔力遮断拘束具。
その隙間から覗く暗い赤紫の瞳が、賑やかな円卓の中心にいるアトカを静かに映していた。
カイン・デイスター。
三年生。
誰も近付かない席に座る、もう一人の特等枠だった。
アトカはクッキーの乗った皿を見て、それからカインを見た。
「よかったら、どうぞ」
その声に悪意はなかった。
恐れもない。
ただ、同じ部屋にいる先輩へ、焼き菓子を分けようとしているだけだった。
カインはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく口を開く。
「……いらない」
低く、かすれた声だった。
拒絶というより、近付くなと自分に言い聞かせるような響きだった。
リリシアが不安そうにアトカの袖を見つめ、エルマは何か言いかけて唇を閉じる。
バルトロも、珍しく茶化さなかった。
カインは立ち上がる。
拘束具の金具が、かすかに鳴った。
「俺に近付くな」
それだけを残し、彼はラウンジを出ていった。
扉が閉まったあとも、しばらく誰も声を出さなかった。
アトカは閉じられた扉を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……お菓子、嫌いだったんでしょうか」
「そういう問題じゃない」
ギルベルトが静かに言った。
けれど、それ以上は説明しなかった。
その日から数日が過ぎた。
アトカの学園生活は、少しずつ形を持ち始めていた。
ラウンジへ顔を出せば、ギルベルトは懐中時計を分解し、バルトロは魔石を噛みながら訓練場へ誘ってくる。
エルマは巨大な黒板いっぱいに数式を書き、リリシアは人の少ない時間を選んで、アトカに学園の道を教えてくれた。
毎日が静かではない。けれど、温かかった。
ギルベルトの時計の音。バルトロが魔石を噛む音。
エルマのペンが走る音。リリシアが小さく話しかけてくれる声。
それらは少しずつ、アトカにとって、この場所にも自分の席があるのだと教えてくれる音になっていた。
ただ、最奥のソファーだけは空いたままだった。
カインは、あの日の翌朝に学園領の大森林へ向かったという。
危険な魔獣を定期的に間引く、特等枠三年としての課題。
それ自体は珍しいことではないらしい。
けれど。
「帰還予定は、三日前だった」
夕暮れ前のラウンジで、ギルベルトがそう告げた。
円卓の上には、一通の封書が置かれている。
白い封蝋。
学園長の紋章。
それを見た瞬間、ラウンジの空気は先ほどまでの穏やかさを失っていた。
アトカは封書をそっと開き、中の書状へ目を通す。
学園長直属、特等枠臨時課題。
学園領大森林にて未帰還者あり。
対象、魔導科特等枠三年、カイン・デイスター。
状況確認、および救助を最優先とする。
アトカは文字を追いながら、静かに息を呑んだ。
「カイン先輩が、戻っていないんですか」
「ああ」
ギルベルトの声は落ち着いていた。
だが、その指は懐中時計の蓋をいつもより強く押さえている。
「カインは単独任務に慣れている。だから一日程度の遅れなら、学園長も様子を見る。だが、三日は長い」
リリシアが両手を胸の前で握りしめる。
「カイン先輩……」
その声は震えていた。
エルマも眼鏡を押し上げ、硬い声で続ける。
「カインさんの拘束具は、彼の魔力放出を抑えるためのものです。もし森で破損していた場合、本人の意思に関係なく、周囲へ破壊衝撃が広がる可能性がありますわ」
冷たく聞こえる言葉だった。
けれど、エルマの顔はこわばっていた。
研究対象を語る顔ではない。
同じラウンジにいる先輩を案じている顔だった。
バルトロが苦々しく舌打ちする。
「あいつが暴走したら、近付いた奴から吹っ飛ぶ。魔術師なら術式を組む前に終わりだ。俺でも真正面からはごめんだな」
「バルトロ先輩でも、ですか」
アトカが尋ねる。
「ああ。俺は触れた魔力なら喰える。だが、あいつのは触る前に周りごと弾ける。飯にするには皿ごと爆ぜすぎるんだよ」
その言い方は乱暴だったが、危険さは十分に伝わった。
ギルベルトはアトカを見た。
「だから、学園長はお前を指名した」
「僕を……」
「俺たちは近付けない。リリシアは守りには強いが、あの衝撃の中心へ踏み込ませるわけにはいかない。エルマは計算できても、演算中に身動きが取れなくなる。バルトロは相性が悪い」
ギルベルトの灰色の瞳が、まっすぐアトカを捉える。
「だが、お前なら可能性がある。カインの暴走した魔力を、外から力で押さえ込むのではなく、周囲の空間ごと静かな状態へ戻せるかもしれない」
ラウンジが静まり返った。
アトカは書状を見つめる。
そこに書かれているのは任務の内容だった。
けれど、アトカの頭に浮かんだのは、あの日の暗いソファーだった。
「……いらない」
「俺に近付くな」
近付かないでほしいと言った声。
近付いてほしくないのではなく、近付けば危ないと知っている声。
アトカはゆっくりと顔を上げた。
「カイン先輩、今も一人なんですよね」
誰よりも先に出たのは、任務の難しさでも、自分への危険でもなかった。
仲間を案じる言葉だった。
リリシアの瞳に涙が浮かぶ。
「アトカ君まで危ないです……。カイン先輩の暴走は、本当に、本当に危ないんです。近付いたら、怪我では済まないかもしれません……」
「はい」
アトカは素直に頷いた。
「だから、ちゃんと気をつけます」
「でも……」
「それでも、行きます」
アトカの声は穏やかだった。
けれど、迷いはなかった。
「カイン先輩が近付くなって言ったのは、きっと誰かを傷つけたくないからだと思います。もし今、森で一人で耐えているなら……迎えに行きたいです」
リリシアは言葉を失った。
エルマがそっぽを向き、早口で言う。
「べ、別に心配しているわけではありませんけれど、カインさんの拘束具が破損しているなら、構造の観測も必要ですし……それに、帰還記録が空白のままでは資料として不完全ですわ」
「エルマ先輩も心配なんですね」
「違いますわ!」
即座に返ってきた声は鋭かったが、耳は少し赤かった。
バルトロは犬歯を見せて笑った。
「そう来なくちゃな、新入り。あいつを連れ戻してこい。俺はあいつが無事に戻ったら、次こそ真正面から一発耐えてやる」
「それは危ないと思います」
「真面目に返すな」
ギルベルトは静かに懐中時計を閉じた。
「行ってこい、アトカ」
その呼び方に、アトカは少しだけ目を瞬かせた。
いつもの新入りではなかった。
ギルベルトは続ける。
「森の位置と、カインが向かった区域は地図に印を付けてある。無理に戦うな。第一は救助だ。拘束具が破損していたら、近付く前に必ず様子を見ろ」
「はい」
アトカは書状と地図を丁寧に受け取った。
漆黒のローブが静かに揺れる。
リリシアはまだ不安そうに見つめていたが、アトカは安心させるように微笑んだ。
「ちゃんと帰ってきます。カイン先輩と一緒に」
その言葉を残し、アトカはラウンジを出た。
向かうのは、学園領の大森林。
辺境で幾度となく森を歩いた少年は、今度は遊びに行くのではない。
誰も近付けない場所で、一人で耐えているかもしれない先輩を迎えに行くために。
夕暮れの外縁門へ、漆黒のローブを纏った小さな背中が歩き出した。




