青いリボンの報酬
王立エルシオン学園へ入学して四日目。
地下第二実験場の暴走を鎮めた翌日の夕刻、特等枠のラウンジには、見慣れ始めた顔ぶれが集まりつつあった。
エルマは円卓の端へ座り、昨日の測定記録と設備図を交互に見ながら、ノートへ数式を書き込んでいる。
頁の上には、
術式外へ漏出した魔力への直接干渉。
四属性の性質変化。
変換後の残留属性、未確認。
といった言葉が、疑問符とともに並んでいた。
リリシアは少し離れた椅子で医療科の本を読んでいる。
バルトロは革張りのソファーへ横になり、学園から支給された補給用魔石を奥歯で噛んでいた。
窓際では、ギルベルトが真鍮製の懐中時計へ細い鍵を差し込み、規則正しくねじを巻いている。
アトカは、この日自分で選んだ学習を終え、ラウンジへ戻ったところだった。
午前は大図書館で魔力循環と魔導設備の基礎資料を読み、午後は魔導工房の公開区画を見学した。
決められた授業ではない。
昨日の臨時課題で分からなかったことを知るために、自分で選んだ学習だった。
アトカが自分の席へ借りてきた資料を置く。
「アトカ」
ギルベルトが時計から目を上げずに呼んだ。
「はい」
「学園長から伝言だ。昨日の臨時課題について、本人から報告を聞きたいらしい」
「あ」
アトカは背筋を伸ばした。
現場監督教員と医療科への報告は済ませていたが、フレデリックへ直接説明することまでは考えていなかった。
「通常の事故報告とは別に、特等枠の内部記録へ本人の言葉を残す」
ギルベルトは懐中時計のねじを巻きながら続けた。
「特等枠は、自由に学べる代わりに、自分が何を学び、課題で何を見て、どう判断したのかを記録する。危険が起きた時だけじゃない。無事に終わった時ほど、誰が何をしたのかを曖昧にするな」
「分かりました。行ってきます」
「学園長執務室までの道は」
「昨日、リリシア先輩に教えてもらいました」
アトカが答えると、ギルベルトは短く頷いた。
「なら行ってこい」
「はい」
アトカはリリシアたちへ声をかけ、ラウンジを出た。
漆黒のローブの裾が、白亜の回廊を進むたびに静かに揺れる。
胸元には黒蜘蛛の紋章。
その下では、翡翠色の留め石が夕方の光を受けていた。
昨日、地下第二実験場で受けた医療科の確認では、義手の接合部にも魔力循環にも異常は見つからなかった。
それでもアトカの胸には、あの現場の光景が残っている。
外周結界を維持していた教師たち。
緊急遮断装置の前から状況を見ていた現場監督。
そして、その防護を受けながら、四つの高等術式を分け、形を保ち続けていたエルマ。
自分には、エルマのように複数の術式を同時に読み解くことはできない。
エルマにも、自分が感じた魔力の流れは見えていなかった。
違うものが見えていたからこそ、二人で止めることができた。
アトカはそう考えながら、学園長執務室の扉を叩いた。
「アトカ・アッシュフォードです。昨日の臨時課題について、報告に来ました」
中から穏やかな声が返る。
「入りなさい」
扉を開けると、執務室には柔らかな夕方の日差しが入っていた。
壁一面の書棚には、古い魔導書や学園の記録資料が整然と並んでいる。
机の向こうでは、長い銀髪と琥珀色の瞳を持つフレデリックが書類を読んでいた。
「よく来たね、アトカ君。まず、身体の状態を聞かせてもらえるかな」
「はい。肩に熱はありません。指もいつもどおり動きます」
アトカは義手の指を、親指から順番に動かしてみせた。
「今日は図書館と魔導工房を回りましたけど、痛いところはありませんでした」
フレデリックはその動きを確認してから頷く。
「よろしい。それでは、昨日の現場で君が見たことと、実際に行ったことを順番に話してくれるかい」
「はい」
アトカは、できる限り見たままを話した。
四つの術式から漏れた魔力が、同じ返送路へ戻ろうとしていたこと。
切り替え弁の手前で塞き止められ、互いを押し返していたこと。
現場監督へ報告し、エルマと冷却溝の行き先を確認してから、外へ漏れた魔力へ触れたこと。
霧へ変えた魔力を冷却溝へ導き、循環弁が動いた後も、残った魔力を処理してから接続を閉じたこと。
「術式そのものも魔力でできているので、触れれば霧にできると思いました」
アトカは四つの術式を思い出しながら続けた。
「でも、エルマ先輩が形を保ってくれていました。あそこで術式まで霧にしたら、設備がどうなるか分からなかったので、外へ溢れた魔力だけに触れました」
フレデリックは途中で口を挟まず、一つずつ記録していった。
説明を終えると、アトカは続けた。
「僕だけで止めたわけではありません」
フレデリックが顔を上げる。
「エルマ先輩が、先生たちに守ってもらいながら、四つの術式をずっと分けてくれていました」
アトカは、自分のことを話していた時よりも少しだけ声を弾ませた。
「どこまでが術式で、どこからが外へ溢れた魔力なのかを教えてくれたんです。エルマ先輩が形を保ってくれていなかったら、僕は触れていい場所を選べませんでした」
「なるほど」
「外周の先生たちも、結界を支えていました。監督の先生が、冷却溝を開く指示を出してくれました」
フレデリックは記録用紙へ一行を書き加えた。
「君の報告どおり、全員の役割を正式な記録へ残しておこう」
「はい。お願いします」
「自分の働きだけでなく、ほかの者が何をしていたのかを正確に報告する。それは、成果を小さくすることではない」
フレデリックは穏やかに目を細めた。
「誰か一人の手柄にしてしまえば、次に同じ事故が起きた時、必要な役割を見失うからね」
アトカは納得したように頷いた。
「エルマ先輩は、すごかったです」
「そうか」
「はい。僕には、あんなにたくさんの数式を同時に考えることはできません。でも、エルマ先輩にはできました」
あまりにも素直な言い方に、フレデリックは小さく笑った。
「本人が聞けば、どう反応するだろうね」
「喜んでくれると思います」
「そうだとよいのだが」
フレデリックは椅子から立ち上がり、部屋の奥の棚へ向かった。
そこから取り出したのは、細い青色の封紐を巻かれた丸い菓子缶だった。
重厚な執務室の中では、少しだけ可愛らしく見える。
「昨日の臨時課題を終えた、君とエルマ君への差し入れだ」
「僕たちだけのものですか?」
「二人だけで食べるには少し多い」
フレデリックは菓子缶を軽く持ち上げた。
「ラウンジの皆で分けるといい」
アトカの青い瞳が明るくなった。
「ありがとうございます」
フレデリックは缶をアトカへ渡した。
アトカは義手の指へ青い封紐の輪を掛け、缶の底を身体へ寄せて支える。
「昨日はよく、見て、尋ねて、止まるべきところで止まってくれた」
フレデリックの声が、少しだけ柔らかくなった。
「これからも、分からないものへ一人で答えを出そうとしないことだ」
「はい」
アトカは大切そうに菓子缶を抱え、執務室を後にした。
ラウンジへ戻ると、室内の様子は出かける前とほとんど変わっていなかった。
エルマはまだノートへ書き込みを続け、リリシアはその速さに少し圧倒されている。
バルトロはソファーへ横になったまま、補給用魔石の最後の欠片を噛み砕いていた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、アトカ君」
リリシアが顔を上げる。
アトカは円卓へ近づき、青い封紐の巻かれた缶を中央へ置いた。
「フレデリック先生からです。昨日の臨時課題を終えた僕とエルマ先輩への差し入れだそうです」
エルマのペンが止まる。
「わたくしの分もありますの?」
「はい。それから、二人だけでは多いので、ラウンジの皆さんで分けるように言われました」
「差し入れか」
ギルベルトが懐中時計の蓋を閉じた。
「エルマ先輩が術式を支えてくれたことも、正式な記録へ残してくださるそうです」
「それは当然ですわ」
エルマはそう答えたが、僅かに頬を赤くしていた。
アトカは缶へ巻かれた細い封紐へ義手の指を添えた。
結び目から出た端をつまもうとする。
けれど、細い紐は木製の指先からするりと逃げた。
アトカは一度だけ試した後、無理に繰り返さず顔を上げる。
「すみません。この細い紐がうまくつまめません。どなたか、開けてもらえますか」
リリシアが立ち上がろうとした。
その前に、ソファーから長い腕が伸びる。
「貸せ」
バルトロは缶を引き寄せ、爪を封紐の結び目へ差し込んだ。
ビリッ。
細い紐が一息に切れる。
続けて金属の蓋を持ち上げると、甘いバターの香りがラウンジへ広がった。
中には、花や木の葉の形をした焼き菓子が整然と並んでいる。
「ありがとうございます、バルトロ先輩。助かりました」
「これくらいでいちいち礼を言うな」
そう言いながら、バルトロは誰より先に一枚取った。
「まだ皆さんに配っていません」
「開けた奴の分だ」
「そういう決まりがあるんですか?」
「今できた」
バルトロは焼き菓子を口へ放り込み、すぐに二枚目へ指を伸ばす。
その手を、ギルベルトが横から軽く押し戻した。
「円卓にいる全員へ行き渡ってからにしろ」
「面倒くせぇな」
文句を言いながらも、バルトロは手を引いた。
リリシアが食器棚から小皿を運び、割れないように一枚ずつ焼き菓子を移していく。
エルマは缶の中を覗き込み、枚数を数え始めた。
「人数に対して均等に分けるなら、形ごとの偏りも考えるべきですわ」
「好きなものを選んでもいいと思います」
「最後の方だけ選べなくなるでしょう」
「では、アトカ君から選んでもらいますか?」
「持ち帰った本人を優先する合理性はありますわね」
二人は相談しているのか言い合っているのか分からないまま、皿を並べていった。
アトカはその様子を見て、思わず笑う。
「仲がいいんですね」
「そ、そういうわけでは……」
「分配方法を相談しているだけですわ」
ほとんど同時に返ってきた声に、ギルベルトが僅かに口元を緩めた。
焼き菓子と紅茶が円卓の者たちへ行き渡る。
ギルベルトは時計を脇へ置き、紅茶とともに一枚だけ取った。
バルトロは許可が出ると同時に二枚目へ手を伸ばした。
リリシアは花の形をした焼き菓子を選び、エルマは食べながらも片手で記録を続けている。
円卓の端には、まだ焼き菓子の載っていない小皿が一枚残されていた。
ギルベルトが、茶菓子を配る時にはいつも用意している皿だった。
アトカは皆の声を聞きながら、小さく息を吐いた。
ここにはまだ、知らないことがたくさんある。
全員のことを分かったわけでもない。
それでも、帰ってきた時に名前を呼び、同じ菓子を分けられる場所が、この学園にもでき始めている。
そう思った時だった。
ラウンジの最奥。
明かりの届きにくいソファーに、一人の少年が座っていた。
青みを帯びた黒髪。
暗い赤紫色の瞳。
身体へ幾重にも巻かれた、黒い魔力遮断拘束具。
カイン・デイスターだった。
いつ入ってきたのか、アトカは気づかなかった。
黒い拘束具の刻印は静かな光を保ち、カインの内側にある魔力を確実に押し留めている。
誰も彼を忘れていたわけではない。
円卓の端に残された小皿が、そのことを示していた。
ただ、カインが望む距離を崩さないため、無理に円卓へ呼ぶ者はいなかった。
アトカは立ち上がらなかった。
前日に告げられた言葉を覚えている。
来るな。
だから、近づかない。
アトカは缶から、まだ誰も取っていない焼き菓子を一枚選んだ。
それを円卓の端に残された小皿へ置く。
それから、座ったまま最奥のソファーへ声をかけた。
「カイン先輩」
薄暗い場所で、暗い赤紫色の瞳が僅かに動いた。
「そちらへは持っていきません」
アトカは焼き菓子を載せた小皿を示した。
「ここに一枚、取っておいてもいいですか」
ラウンジの会話が、一瞬だけ途切れた。
けれど、ギルベルトは何も言わず紅茶へ口をつけた。
エルマもペン先をノートへ戻す。
バルトロは再び焼き菓子を噛み、リリシアも自分の皿へ視線を落とした。
返事を求めるように、カインを見つめ続ける者はいなかった。
アトカも声をかけた後は、小皿から視線を外した。
断られたなら、そのまま戻せばよい。
今すぐ取りに来なくてもよい。
受け取るかどうかは、カインが決めることだった。
最奥のソファーで、カインの瞳が小皿へ向く。
それから、円卓へ座ったまま、こちらへ近づこうとしない白髪の少年へ戻った。
カインが僅かに身じろぎする。
身体へ巻かれた拘束具の帯が、布擦れに似た小さな音を立てた。
刻印の光は乱れない。
彼の内側にある力も、外へ漏れてはいなかった。




