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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
特等枠の怪物たち
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数式では届かない霧

魔導科特等枠、臨時課題発令。


学園長の封蝋が押された書状には、そう記されていた。


魔導科地下第二実験場において、多重術式の制御不良が発生。特等枠生徒アトカ・アッシュフォードは、現場監督教員の指示に従い、状況確認および鎮静補助を行うこと。


身体または義手に異常を感じた場合は、直ちに作業を中断すること。


アトカは書状を読み終え、義手の指を順に動かした。


「肩は熱くありません。指もいつもどおりです。少し歩き疲れていますけど、魔術は使えます」


隣で見送るリリシアが、心配そうに頷く。


「現場でも、同じように先生へ伝えてください。無理だと思ったら、すぐに止まってくださいね」


「はい。行ってきます」


ラウンジの外では、設備管理教員が待っていた。


その案内で地下へ降りるにつれ、肌を刺す魔力の圧が強くなる。壁の魔導灯は不規則に明滅し、床の奥から低い振動が伝わってきた。


地下第二実験場の前には、複数の教師が配置されていた。


二人が外周結界を維持し、一人が緊急遮断装置の前に立っている。


現場監督教員がアトカへ告げた。


「四属性の多重術式が制御を失った。術式そのものは崩れていないが、供給された魔力が循環経路へ戻れず、内部へ蓄積し続けている」


「僕は、何を見ればいいですか」


「まず、術式の外へ漏れている魔力の流れだ。分かったことは、触れる前に報告しろ」


「分かりました」


重厚な扉が開く。


空間そのものが軋むような轟音が、全身を打った。


実験場の壁、床、天井には、四つの高等術式が広がっていた。


火は熱を噴き上げ、水は内側から膨張し、風は周囲の魔力を巻き込み、土は全体を固定しようとして床と壁を圧迫している。


それぞれから溢れた魔力が互いの出口へ入り込み、押し返され、実験場中央へ積み重なっていた。


その外側で、一人の少女が四つの術式を同時に支えている。


黒紫の髪。紫紺の瞳。僅かにずれた眼鏡。


エルマ・ガトランド。


「第一式を維持! 第二式の出力をこれ以上落とせば、風が火を巻き込みますわ! 土の固定式は動かさないでくださいまし!」


額には汗が滲んでいた。


それでも、四つの演算は止まらない。


エルマが支えているからこそ、暴走はまだ一つの爆発へ変わらずに済んでいた。


その時、天井の亀裂が大きく開いた。


人の胴ほどもある石材が剥がれ、エルマへ落下する。


彼女も気づいたが、演算から手を離せない。


「そのままでいてください」


アトカは義手を上げた。


一本の水帯が石材へ横から触れ、落下する力を分けながら軌道を逸らす。


石材はエルマの肩を外れ、空いた床へ静かに下ろされた。


「……助かりましたわ」


エルマは短く礼を告げ、すぐに術式へ意識を戻した。


アトカも暴走する魔力を見つめる。


術式を組み上げる数式や構造を、エルマのように読み解くことはできない。


だが、その中を流れる魔力なら見えた。


術式へ収まっている流れ。


境界から溢れた流れ。


互いへ押し戻され、行き場を失った流れ。


床下へ戻ろうとして、途中で塞き止められている流れ。


四つが別々に暴れているのではない。


同じ出口へ戻ろうとして、互いを押し潰している。


「全部、同じ場所へ戻ろうとしています」


アトカが床の一点を示した。


「でも、途中に硬いものがあって、押し返されています」


エルマが設備図へ視線を走らせる。


「循環弁……緊急放散路との切り替え弁が、内圧で反転していますのね」


監督教員が制御盤を確認した。


「外部操作には反応しない」


「今開けば、蓄積した魔力が一度に放散路へ流れ込み、経路が破裂しますわ」


防護結界が大きく軋んだ。


新たな魔力が四つの術式から溢れ出す。


アトカは青い瞳を細めた。


「エルマ先輩。術式の形を、そのまま保てますか」


「保たせていますわ!」


「では、境界の外へ溢れた魔力だけ、僕の方へ制御を移します」


エルマの表情が止まる。


「制御を、移す……?」


「はい。術式の中へまで触れたら、エルマ先輩が保っている形も僕の水へ変わってしまうと思います」


アトカは四つの術式を見上げた。


「だから、中には入りません。境界を越えて、術式から離れかけている魔力だけを霧にします」


監督教員が問う。


「霧にした後はどうする」


「壁際の冷却溝へ集めます。最後に床下へ詰まった魔力も霧にできれば、弁が動くと思います」


エルマが設備図を確かめた。


「冷却溝は地下貯水槽へ続いています。水滴へ集められるなら、容量は足りますわ」


監督教員は即座に指示を飛ばした。


「冷却溝を全開。貯水槽を隔離。外周班は出力を維持しろ」


アトカは呼吸を整え、義手の五指を開いた。


細い魔力が実験場へ広がる。


四つの術式を包むのではない。


境界から溢れ、行き場を失った魔力だけへ触れていく。


火の熱。


風の圧。


水の膨張。


土の重さ。


属性も性質も違う。


それでも今は、すべてが術式の外へ溢れ、行き場を失った魔力だった。


アトカは、術式が刻む四つの拍子へ自分の魔力を重ねた。


火の速い脈動。


風の細かな回転。


水の膨らむような揺れ。


土の重く沈む拍子。


術式が握っている制御を奪わないよう、その境界だけは越えない。


外へ溢れ、術式の拍子から外れ始めた魔力だけを、自分の側へ引き受ける。


そこへ、霧の形を重ねた。


細かく、軽く、互いを押し潰さず、どこへでも流れていける無数の水滴。


最初に風の魔力が白く霞んだ。


空間を切り裂いていた圧が失われ、白い霧へ変わる。


次に火。


膨れ上がっていた熱が、白い蒸気を含む霧へ変わった。


水も、土も続く。


一つずつではない。


アトカの魔力が触れた場所から、四属性すべての溢れた魔力が、一斉に白い霧へ変わっていく。


轟音が遠ざかる。


結界を叩いていた圧力が失われる。


実験場を満たしていた膨大な力が、見る間に霧へ変わった。


「外部蓄積、急速に低下!」


「術式本体への干渉なし!」


「変換量が測定上限を越えます!」


教師たちの声が重なる。


だが、アトカは答えない。


まだ終わっていない。


五本の指を僅かに動かすと、白い霧は無秩序に広がることなく、天井から壁へ、壁から床へと流れ始めた。


霧が水滴となり、水滴が細い流れとなり、左右の冷却溝へ落ちていく。


アトカは力で押しているのではない。


霧へ変わった魔力そのものへ、流れる道を示していた。


エルマが呆然と呟く。


「四属性を、同時に……」


それでもアトカは床下を見つめていた。


表面の暴走が消えたことで、循環弁を内側から押さえ込む魔力の塊が露わになっている。


「土の術式は、そのままでお願いします」


「その下へ触れるつもりですの?」


「はい。でも、土の術式の制御までは取りません」


アトカは義手をゆっくり閉じた。


実験場へ広がっていた魔力の道が、一点へ集まる。


無数の細い流れが土の術式の隙間を抜け、その奥にある圧縮された魔力を外側から包んだ。


「霧になってください」


硬く固まっていた魔力が白く霞む。


外側から水霧へ変わり、できた隙間へ次の魔力が流れ込む。


流れ込んだ魔力もまた霧へ変わる。


巨大な塊は爆発する暇さえ与えられず、端から静かにほどけていった。


床下で重い音が鳴る。


固定されていた循環弁が動いた。


「返送路、復帰!」


「四属性、正常循環へ移行!」


エルマは火、風、水、土の順に術式を閉じていく。


アトカはなおも義手を下ろさなかった。


天井の亀裂、設備の裏側、床下の経路。


残っている魔力の澱まで霧へ変え、冷却溝へ導く。


最後に実験場へ残った白い霧を頭上へ集め、静かに義手を下ろした。


巨大な白い渦は細かな雨へほどけ、冷却溝の内側だけへ降り注ぐ。


一滴も、教師や設備へは掛からなかった。


最後の水滴が溝へ落ちる。


アトカは外へ伸ばしていた魔力を閉じた。


地下第二実験場から、すべての轟音が消えていた。


防護結界は壊れていない。


四つの術式にも損傷はない。


循環設備も復旧している。


「終わりました」


制御盤の教師が、何度も測定器を確認する。


「残留魔力、検出されません」


「設備内圧、正常値」


現場監督が長く息を吐いた。


「完全鎮静を確認。臨時課題を終了する」


アトカは義手の指を動かした。


「肩は熱くありません。指も遅れていません。少し息が上がっています」


「医療科で確認を受けろ。今日は大きな魔術を使うな」


「はい」


エルマの手から、ペンが滑り落ちた。


アトカはそれを拾い、少し持ち直してから差し出す。


「どうぞ」


エルマは無言で受け取った。


「貴方は……暴走した魔力を、すべて霧へ変えましたの?」


「はい。エルマ先輩が分けてくれていた境界の外側だけ、術式から制御を受け取りました」


「術式から、制御を受け取った……?」


「中に残っていた魔力へも、同じように手を伸ばせました」


アトカは、まだ淡い光を残している四つの術式を見る。


「でも、そこまで僕の方へ引いたら、術式の形も消えてしまうと思ったんです。今日は残さないといけないものだったので、外側だけにしました」


「あり得ませんわ」


「できたのは、外側だけですけど……」


「そういう意味ではありません!」


エルマの頬が赤くなる。


「既存の属性変換理論では説明できないと言っていますの! 四属性を同時に扱った上、術式本体の制御を残したまま、漏出部分だけを選んで奪うなど……!」


「エルマ先輩が四つを分けてくれていたからです」


アトカは素直に答えた。


「どこまでが残さないといけない形なのか、分かりました。ありがとうございます」


エルマは言葉を失った。


自分の演算だけでは止められなかった。


だが、無意味だったわけでもない。


アトカには術式の構造が見えない。


自分には、行き場を失った魔力の流れが見えない。


片方だけでは解けなかった。


「……調べますわ」


「何をですか?」


「貴方の魔術です!学園長へ正式な観測許可を申請し、必ず理論化してみせます!」


「僕に分かることなら話します」


「勝手に義手へ触れたり、魔力を採取したりはいたしませんわ」


「ありがとうございます」


「すぐに礼を言わないでくださいまし!」


医療科で義手と魔力循環の確認を終えた後、アトカはエルマとともにラウンジへ戻った。


「ただいま戻りました」


室内で待っていたリリシアが、ソファーから立ち上がる。


「お帰りなさい、アトカ君。怪我はありませんか」


「怪我はありません。少し疲れましたけど、肩も熱くないです。今日はもう、大きな魔術を使わないように言われました」


リリシアは安心したように胸元へ手を置いた。


「よかった……」


エルマは休む間もなく、円卓へノートを広げる。


「アトカさん。先ほど霧へ変えた魔力について、確認したいことがありますわ」


「はい」


「四属性すべてを同時に変換したように見えましたけれど、貴方の中では一つずつ区別していましたの?」


アトカは少し考えた。


「火や風の違いは分かりました。でも、術式から僕の方へ移した後は、全部同じ魔力として触れていました」


エルマのペンが止まる。


「属性ごとの拍子を捉えながら、制御を受け取った後は同じ現象へ変えたということですの……?」


「たぶん、そうだと思います」


「たぶんでは記録になりませんわ!」


「ごめんなさい。僕にも、まだ上手く説明できなくて」


「謝る必要はありません。説明できるようになるまで、これから調べるのですわ」


エルマは新しい頁を開き、猛烈な勢いで文字を書き始めた。


リリシアが心配そうに身を乗り出す。


「エルマ先輩、今日はもうアトカ君を休ませた方が……」


「質問を一つずつ確認しているだけです。無理に魔術を使わせたりはいたしませんわ」


「でも、顔が少し疲れています」


「それは分かっています。ですから観測ではなく、本人の記憶を――」


二人の声が重なった時、ラウンジの扉が開いた。


大きな音ではなかった。


それでも、室内の空気が一瞬だけ静まった。


廊下から、一人の少年が入ってくる。


青みを帯びた黒髪。


暗い赤紫色の瞳。


表情はほとんど動かず、足音も静かだった。


だが、腕、肩、胸、胴、脚へ幾重にも巻かれた黒い帯が、歩くたびに僅かに軋んでいる。


装飾ではない。


帯の表面には細かな魔術刻印が刻まれ、少年の身体から漏れようとする魔力を内側へ押し留めていた。


アトカが見ている間にも、右肩を覆う帯の刻印が淡く明滅する。


その内側で力が動くたび、刻印の光が順番に走り、外へ出ようとする魔力を確実に押し戻していた。


少年は円卓を一瞥した。


見慣れないアトカの姿に目を止める。


暗い赤紫色の瞳が、漆黒のローブと木製の義手、空の左袖を順に見た。


「新入りか」


低く、短い声だった。


アトカは椅子から立ち上がる。


「はい。アトカ・アッシュフォードです。はじめまして」


一歩だけ近づこうとした、その時だった。


「来るな」


少年の声が、鋭く落ちる。


アトカはすぐに足を止めた。


怒鳴られたわけではない。


敵意を向けられたようにも感じなかった。


ただ、それ以上近づかせないための、切実な命令だった。


黒い拘束具の刻印が再び明滅する。


拘束具が働き、少年の内側にある力を、寸分違わず押さえ込んでいる。


それでも彼は、誰かが近くへ来ることを恐れていた。


リリシアが小さな声で言う。


「アトカ君。カイン先輩です」


カイン・デイスター。


魔導科三年。


特等枠に所属しながら、ラウンジではいつも他の生徒から離れて過ごしている少年だった。


アトカはカインとの距離を詰めなかった。


その場から、もう一度だけ頭を下げる。


「分かりました。ここから挨拶します」


カインの眉が僅かに動いた。


「……好きにしろ」


それだけ言うと、カインは壁際を通り、ラウンジの最奥へ向かった。


誰も進路を塞がない。


誰も拘束具へ視線を向け続けない。


カインは明かりの届きにくいソファーへ腰を下ろした。


円卓から最も遠い場所だった。


アトカも追いかけなかった。


エルマのノートへ視線を戻す。


「さっきの続きですけど、霧に変わった後は、火だった魔力も熱くありませんでした」


「待ってくださいまし。それは重要ですわ!」


エルマのペンが再び走り始める。


「変換後に属性の性質が残らなかった可能性があります。火の魔力が熱を失い、風の魔力が圧力を失ったのであれば――」


「でも、変わり始めた時は少し熱かった気もします」


「どちらですの!?」


「だから、本人を急かしては駄目です」


リリシアが慌てて止める。


三人の会話が再び動き始める。


最奥のソファーで、カインは顔を伏せていた。


だが、眠ってはいない。


エルマの早口も、リリシアの心配そうな声も、今はほとんど耳へ入っていなかった。


残っていたのは、アトカが口にした言葉だけだった。


術式の中に残っていた魔力へも、同じように手を伸ばせた。


カインは自分の身体へ巻かれた拘束具を見下ろす。


その内側にあるのは、触れたものの繋がりを壊す魔力だった。


実験場で行き場を失っていた、術式から溢れた魔力とは違う。


自分自身の内側から生まれ、外へ出れば周囲の構造を壊していく力。


拘束具が正常に働いている限り、それが外へ漏れることはない。


それでもカインには、自分の力が火や風と同じように白い霧へ変わる姿など、想像できなかった。


自分の内側にあるものも、同じ魔力なら。


あの少年は、これにも手を伸ばせるのだろうか。


そんな考えが浮かび、カインはすぐに打ち消した。


試すつもりはない。


拘束具を外すつもりもない。


誰かを巻き込むくらいなら、確かめる必要などなかった。


そう考えながらも、カインの視線はもう一度だけ円卓へ向いた。


白い髪の少年は、先ほど止まれと言われた場所から、一歩も近づいていなかった。


怖がって逃げたわけでもない。


距離を無視して踏み込んできたわけでもない。


ただ、来るなと言われたから止まった。


カインは何も言わなかった。


それでもその日、アトカ・アッシュフォードという名前だけは、忘れずに覚えた。

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