優しい案内人
王立エルシオン学園へ入学して三日目。
バルトロとの模擬戦から一夜明けた朝、アトカは医療科で義手の接合部と魔力循環の確認を受けた。
肩に熱は残っていない。
指の反応にも遅れはなく、昨日の疲れも十分に抜けている。
特等枠には、一般生徒のように決められた時間割がない。
通常授業への出席は免除され、学園内の施設や資料を利用しながら、自分に必要な知識と技術を選んで学ぶことになっている。
この日は、アトカが今後の学習内容を決めるため、学園内の施設と利用規則を確認する日に充てられていた。
どこで何を学べるのか。
困った時、誰へ助けを求めればよいのか。
危険な設備や資料を利用する時、どのような申請が必要なのか。
自由に学ぶためには、まず学園そのものを知る必要がある。
特等枠のラウンジに置かれた案内板には、一般生徒とは異なる利用規則が記されていた。
図書館、一般資料室、通常演習場、研究棟の学習区画は自由に利用できる。
学科を問わず、公開されている講義は自由に聴講できる。
ただし、実技訓練へ参加する場合は、担当教師と安全条件を確認しなければならない。
禁書庫、封印記録保管庫、危険な魔術具を扱う実験区画については、目的を記した申請書を提出し、担当教師か学園長の許可を受ける必要がある。
許可が下りた場合も、資料だけを別室で閲覧することもあれば、教師の立ち会いを求められることもある。
特等枠には広い自由が与えられている。
けれど、好き勝手に危険な場所へ立ち入ってよいわけではない。
どこまで自分で決められるのか。
どこから先は、誰かへ尋ねなければならないのか。
それも含めて覚える必要があった。
アトカはラウンジの重厚な扉を静かに押し開けた。
身に纏うのは、旅立ちの日にキルウェスタから贈られた漆黒のローブ。
胸元には黒蜘蛛の紋章が縫い取られ、その下では翡翠色の留め石が静かに光っている。
空の左袖は歩くたびに柔らかく揺れ、右肩から伸びる義手は布地の下へ自然に収まっていた。
アトカは小さく息を吸い、白亜の回廊へ歩き出した。
ちょうど午前の講義が一つ終わったらしく、石造りの広い回廊は、次の教室へ向かう生徒たちで満ちていた。
高価な杖を携えた者。
魔導書を抱えて急ぐ者。
友人同士で術式の議論を交わしながら歩く者。
アトカは授業へ向かう必要がない。
だからこそ、流れていく生徒たちの間に一人だけ異なる時間を歩いているようにも見えた。
入学試験と昨日の模擬戦の噂は、すでに学園中へ広がっているらしい。
アトカに気づいた生徒たちが、ちらちらと視線を向けていた。
正面から歩いてくる者。
横から進路を変える者。
背後から小走りで近づく者。
アトカは、それぞれの肩の揺れや足の向き、視線の置き方を自然に見ていた。
人々の流れを避けるために、歩調を大きく変えることはない。
半歩ずつ空いた場所へ移り、誰とも触れずに人波の中を進んでいく。
漆黒のローブだけが、水面のように静かに揺れた。
すれ違った上級生が、一度だけ振り返った。
ぶつかると思ったはずなのに、アトカは歩調さえ変えていなかった。
その時、回廊の端から小さな声が聞こえた。
「ア、アトカ君……!」
柔らかな金髪の少女が、こちらへ手を振っている。
リリシア・クラウツだった。
彼女は人の流れが途切れるのを待ってから、アトカの方へ歩いてきた。
「おはようございます、リリシア先輩」
「お、おはようございます……!」
昨日と変わらない声で名前を呼んでもらえたことに、リリシアの表情が僅かに和らぐ。
「ギルベルト先輩から、アトカ君が施設を見て回ると聞いて……。わ、わたし、一応二年生ですから、道や施設も少しは知っています」
リリシアは緊張しながらも、アトカの目を見て言葉を続けた。
「担当の先生にも許可をいただきました。人の多い場所には長くいないように言われていますけれど……よければ、案内させてください」
「本当ですか?」
アトカの青い瞳が明るくなる。
「ありがとうございます。僕、この学園のことをまだほとんど知らないので、とても助かります」
「は、はい……!」
リリシアは小さく頷いた。
二人は、人通りの少ない回廊を選びながら校内を歩き始めた。
最初にリリシアが案内したのは、学園南棟にある中庭のテラスだった。
色とりどりの花壇に囲まれ、中央では魔導式の噴水が静かな水音を響かせている。
一般生徒にも人気の休憩所らしく、焼き立てのパンや軽食を販売する小さな売店には、早めの昼食を求める生徒たちが列を作っていた。
「ここのサンドイッチ、おいしいんです」
リリシアは、売店の列を少し遠くから眺めながら言った。
「わたし、人が少ない時間に、時々来ます」
「素敵な場所ですね。水の音も落ち着きます」
列が短くなるのを待ってから、二人は売店でサンドイッチを買い、噴水の見える席へ腰を下ろした。
アトカは義手の右手で包み紙を開こうとした。
けれど、薄い紙の端は、木製の指先から何度も滑り落ちる。
魔術の制御や、義手を大きく動かすことには慣れてきた。
紅茶のカップを運ぶことも、水球を動かすこともできる。
だが、薄い紙の端を摘まみ、破らないようにめくる作業には、まだ慎重さが必要だった。
「うーん……」
アトカが紙の端を探していると、リリシアがそっと声をかけた。
「あの……アトカ君」
「はい」
「よければ、わたしが開けましょうか」
リリシアは手を伸ばさず、返事を待っていた。
アトカは少し照れたように笑う。
「お願いしてもいいですか?」
「は、はい」
リリシアはアトカから包みを受け取り、両手で丁寧に紙を開いた。
指先は少し震えている。
けれど、昨日のように白銀の光が溢れることはなかった。
ゆっくり。
紙を破らないように。
中身を崩さないように。
誰かを壊さないためだけではない。
今は、目の前の相手が食べやすいように、包みを開いている。
リリシアは開いた包み紙を整え、アトカの前へ置いた。
「どうぞ……」
「ありがとうございます」
アトカは義手でサンドイッチを慎重に持ち上げ、一口食べた。
「おいしいです。パンも柔らかいし、お野菜も新鮮ですね」
「よ、よかったです……」
リリシアの緊張していた肩が、ほんの少しだけ下がった。
遠巻きに二人を見ていた一般生徒たちは、小さな声で囁き合っていた。
「あれ、リリシア先輩だよな」
「近づくだけでも危ないって噂の……」
「普通に一緒に食べてるぞ」
畏怖と好奇の入り混じった視線が向けられる。
その中から、別の噂も聞こえてきた。
「あの一年、特別実技で教員用ゴーレムを止めたって本当か?」
「しかも、戦技科のルト・アッシュフォードの弟らしいぞ」
その瞬間、アトカの青い瞳が輝いた。
「やっぱり、兄さんって有名なんですね」
自分の実技試験の噂より、兄の名が知られていることの方が嬉しいらしい。
リリシアも、つられるように微笑んだ。
「はい。ルト先輩は、戦技科でも特別な方です。四年生なのに、次期筆頭候補だと言われています」
「そうなんだぁ」
アトカは心から嬉しそうに頷く。
「やっぱり兄さんはすごいなぁ」
リリシアは少し迷ってから、声を絞り出した。
「で、でも……わたしは、アトカ君もすごいと思います」
「ありがとうございます」
アトカは照れくさそうに笑った。
「でも、僕にはまだ、できないことがたくさんあります。キルウェスタ先生にも、毎日たくさん叱られていました」
「毎日……?」
「水を浮かべるだけでも、姿勢が悪いとか、呼吸が浅いとか、すぐ注意されて」
「キルウェスタ様が、毎日……」
リリシアは小さく息を呑んだ。
黒蜘蛛の魔女。
その名を知る者にとって、三年間も直接教えを受けたという事実だけで、十分に信じ難い話だった。
けれど、リリシアはすぐにアトカの右肩へ目を向けた。
義手。
足運び。
呼吸。
昨日、触れずに白銀の光を鎮めた水霧。
その一つひとつが、ただ生まれつきの力だけで得られたものではないのだと、少しだけ理解できた。
午後も、リリシアはアトカを案内した。
誰でも利用できる大図書館。
公開講義が行われる大講堂。
魔力循環や身体について学べる医療科の学習室。
魔導薬学室。
一般生徒用の演習場。
義手や魔術具について相談できる魔導工房。
迷った時に利用できる案内窓口。
学園の中庭から見える皇城の尖塔。
戦技科の演習場では、見学席までは自由に入れるが、訓練へ参加する場合は担当教師の許可が必要だった。
研究棟にも、自由に利用できる学習区画と、申請が必要な実験区画が分かれている。
最後にリリシアは、封印記録保管庫へ続く廊下を、離れた場所から示した。
「この先は、申請が通った人しか入れません」
「申請が通ったら、一人でも入れるんですか?」
「資料だけ別の部屋へ運ばれることもあります。中へ入る場合は、たぶん先生が一緒です」
「分かりました。必要になったら、先に相談します」
アトカは一つひとつに目を輝かせながらも、立ち入りを禁じられた場所へ勝手に足を向けることはなかった。
何を学びたい時、どの施設を使えばよいのか。
利用する前に、誰へ尋ねるべきなのか。
事故が起きた場合、どこへ避難するのか。
体調を崩した時、どの診察室へ行けばよいのか。
自由に学ぶために必要なことを、一つずつ覚えていった。
夕暮れ。
学園内を歩き回った二人は、ラウンジへの帰路についていた。
橙色の光が白亜の廊下を染め、窓の外からは、訓練を終えた生徒たちの声が遠く聞こえている。
アトカはふと足を止め、リリシアへ向き直った。
「今日は本当にありがとうございました」
真っ直ぐな青い瞳が、リリシアを映す。
「案内してくださって、とても助かりました。お昼も手伝ってくれて……リリシア先輩は、優しい人ですね」
飾りのない言葉だった。
リリシアの目元が、僅かに潤んだ。
昨日は、止められない力を鎮めてもらった。
今日は、自分が学園を案内し、アトカが困っていたことを手伝えた。
助けられるだけではなく、自分にも渡せるものがあった。
リリシアの丸まっていた背が、ほんの少しだけ伸びる。
「う、嬉しかったです……。よければ、また案内させてください」
「もちろんです。またお願いしますね」
廊下へ吹き込んだ夕暮れの風が、アトカの空の左袖を捻った。
リリシアはその布へ視線を向け、指先を僅かに動かした。
「あの……アトカ君」
「はい」
「袖が少し捻れています。整えても、いいですか」
アトカは左袖を見下ろした後、柔らかく微笑んだ。
「はい。お願いします」
リリシアは、ほんの少しだけ左袖の端を摘まんだ。
強く握らない。
引っ張らない。
許された場所へ、必要な分だけ触れる。
捻れていた漆黒の布を整えると、すぐに指を離した。
「できました……」
「ありがとうございます」
「は、はい……!」
二人は並んでラウンジへ戻った。
「ただいま戻りました」
アトカが扉を開ける。
室内には、ギルベルトもバルトロもいなかった。
代わりに、円卓の中央へ置かれた白い通信用魔石が、警告を示す赤い光を繰り返している。
特等枠には、定められた時期に行われる定期課題だけでなく、学園内外で異常が発生した際に発令される臨時課題もある。
アトカが近づいた瞬間、魔石の上へ一通の書状が現れた。
純白の封蝋には、王立エルシオン学園長の紋章。
宛名は、アトカ・アッシュフォード。
アトカが封を解くと、簡潔な指示が記されていた。
魔導科特等枠、臨時課題発令。
西棟第二演習室において、魔力供給設備の制御異常が発生。
冷却用導水路と魔力供給経路が干渉し、行き場を失った魔力が設備内部へ蓄積している。
周辺生徒の退避は完了。
現在、負傷者なし。
医療班および設備管理教員は、現場外周に待機中。
エルマ・ガトランドは、現場監督教員および防護班の管理下で、術式の解析と暴走拡大の抑制を担当している。
アトカ・アッシュフォードは、設備管理教員の案内を受け、西棟第二演習室へ向かうこと。
現場到着後は、まず外部へ漏出している魔力の流れを観察し、感じ取った内容を現場監督教員およびエルマ・ガトランドへ報告せよ。
直接干渉は、現場監督教員の許可を受けた後に行うこと。
単独で設備内部へ立ち入ることを禁ずる。
身体または義手へ異常を感じた場合は、本人の判断によっても直ちに作業を中断してよい。
「臨時課題……」
アトカは書状を読み返した。
特等枠へ入ってから、初めて学園から与えられた正式な課題だった。
「エルマ先輩……」
まだ会ったことのない、特等枠の一人でもある。
リリシアが書状を横から見つめる。
「エルマ先輩は、術式や設備の構造を読み解くことが得意な方です」
「今も、暴走を抑えているんですか?」
「先生方に守られながら、術式が崩れないように支えているのだと思います」
リリシアは不安そうに赤い光を見つめた。
「エルマ先輩が解析を続けているなら、まだ安全に止める場所が見つかっていないのかもしれません」
アトカは義手の五指を、親指から順番にゆっくりと動かした。
指の反応に遅れはない。
接合部にも熱はない。
昨日の模擬戦による異常も残っていない。
ただ、慣れない学園を一日歩き回ったため、身体には軽い疲れがあった。
隠してよいものではない。
「肩は熱くありません。指もいつもどおり動きます」
アトカは自分の状態を確かめながら言った。
「でも、少し歩き疲れています」
リリシアはアトカの顔色と呼吸を確認する。
「現場に着いたら、そのことも先生へ伝えてください。最初は見るだけだと書いてありますから、急いで魔術を使わないでくださいね」
「はい」
「わたしは、昨日の防衛反応の経過観察中なので、現場へ入る許可がありません。それに、負傷者が出た場合は医療班から連絡が来ることになっています」
リリシアは書状を握らず、アトカが持つ紙へ視線だけを落とした。
「だから、一緒には行けません。でも、無理だと思ったら止まってください。課題を続けることより、止まることの方が必要な時もあります」
「分かりました」
アトカは書状を畳み、ローブの内側へ収めた。
「エルマ先輩に、何か気をつけた方がいいことはありますか?」
リリシアは少し考えてから答える。
「まず、アトカ君に何が見えたのかを、そのまま伝えてください」
「見えたことを、ですか?」
「はい。エルマ先輩には見えるものと、アトカ君に見えるものは、たぶん違います」
リリシアは言葉を選びながら続けた。
「エルマ先輩は、分からないことがあると、すぐに答えを見つけようとする方です。だから、何を感じたのかと、それが何を意味すると思ったのかを、できるだけ分けて話した方がよいと思います」
アトカは深く頷いた。
「分かりました。先に見えたことを話します」
大きく息を吸う。
急いでも、呼吸は乱さない。
義手を身体の軸へ沿わせ、アトカはラウンジの出口へ向かった。
「行ってきます」
「気をつけてください、アトカ君」
「はい。行ってきます、リリシア先輩」
扉を開けると、その外には書状に記されていた設備管理教員が待っていた。
「アトカ・アッシュフォードだな。現場まで案内する。移動中に現在の設備状況を説明するが、走る必要はない」
「はい。お願いします」
アトカは教員の隣へ並んだ。
遠く離れた西棟の方角から、低い振動が廊下を伝ってくる。
壁へ埋め込まれた魔導灯が、不規則に明滅していた。
暴走は、まだ続いている。
教師たちの防護を受けながら、術式の構造を読み解き、拡大を抑えているエルマ。
魔力の流れを感じ取り、安全な出口へ導く方法を探すために呼ばれたアトカ。
まだ互いの顔も知らない二人へ与えられた最初の臨時課題は、一人だけで答えを出すことだけは許されない現場から始まろうとしていた。




