魔力を食う先輩
ラウンジの裏手には、特等枠の生徒だけが使用を許された演習場が広がっていた。
幾重もの防護結界に囲まれたそこは、通常の生徒が使う訓練場とは明らかに空気が違っている。
白亜の石床には無数の傷跡が刻まれ、焼け焦げた跡、砕けた痕、何か巨大な力で抉られたような溝まで残っていた。
ここで繰り広げられてきた戦いが、どれほど常識外れだったのか。
床そのものが、静かに物語っている。
「いいか、新入り」
観戦席の前で、ギルベルトが真鍮製の懐中時計を指先で弄びながら言った。
「バルトロに触れた魔術は、ほとんど餌になる。水球でも結界でも拘束でも同じだ。魔力を帯びている限り、あいつは喰う」
アトカは真剣な顔で頷いた。
「触れたら、食べられるんですね」
「そうだ。術式を壊すのではなく、魔力そのものを喰って身体強化に変える。普通の魔術師にとっては最悪の相手だ」
演習場の中央には、バルトロ・レイヴンが立っていた。
荒く跳ねた金髪。琥珀色の瞳。細い身体。
けれど、その細さは弱さではなく、常に飢えに削られているような危うさを持っていた。
バルトロは懐から小さな赤い魔石を取り出し、口へ放り込む。
ゴリッ。
硬い音が響いた。
「相変わらず、不健康な食事だな」
ギルベルトが呟く。
「うるせぇよ。腹減ってんだ」
バルトロは魔石を噛み砕きながら、アトカを睨むように見た。
「おい、新入り。逃げんなよ。さっきの匂い、まだ鼻の奥に残ってんだ。あれが本物かどうか、ここではっきり確かめてやる」
「逃げません」
アトカは穏やかに答えた。
「でも、触られないようにはします」
「言ったな」
バルトロが犬歯を見せて笑う。
観戦席の端では、リリシアが両手を胸の前で握りしめていた。
淡い桃色の瞳で、アトカとバルトロを交互に見つめている。
「ア、アトカ君……気をつけてくださいね……」
「はい。ありがとうございます、リリシア先輩」
アトカが振り返って微笑むと、リリシアは少しだけ頬を赤くして俯いた。
ギルベルトは懐中時計の蓋を閉じる。
カチ、と乾いた音が演習場に響いた。
「条件を決める。バルトロがアトカに触れればバルトロの勝ち。アトカがバルトロの膝を床につかせるか、三分間触れられずに逃げ切ればアトカの勝ちだ」
「三分?長ぇな」
バルトロが首を鳴らす。
「十秒で掴む」
「その自信がいつも雑なんだ」
ギルベルトは淡々と言った。
「それと、バルトロ。直接噛むな。義手もローブもだ」
「誰が人間を噛むかよ」
「魔力が絡むと信用できない」
「ちっ」
バルトロは舌打ちしたが、それ以上は言い返さなかった。
アトカは演習場の中央へ歩み出る。
漆黒のローブが静かに揺れ、胸元の黒蜘蛛の紋章と翡翠色のブローチが、演習場の光を受けて小さく輝いた。
バルトロは低く身を沈める。
「行くぞ、新入り」
「はい」
ギルベルトの指が懐中時計の縁を軽く叩いた。
「始め」
その瞬間、バルトロが床を蹴った。
速い。
細い身体からは想像できない踏み込みだった。
魔石を噛んだ直後の身体には、最低限の力が戻っている。
バルトロはまっすぐにアトカへ迫り、右手を伸ばした。
触れる。
ただそれだけで、魔術師にとっては敗北に近い。
アトカは義手の指先に小さな水球を一つ作った。
それは攻撃ではない。確認のための一手だった。
水球はバルトロの胸元ではなく、進路の少し横へ滑るように飛ぶ。
バルトロの琥珀色の瞳がぎらりと動いた。
「そんなもん出したら、喰うに決まってんだろ」
彼は進路を変え、水球へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、透明な水の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
水そのものが消えたのではない。水球を保っていた魔力だけが一瞬で吸われ、支えを失った水は霧のように崩れた。
その魔力を飲み込んだバルトロの足が、さらに速くなる。
「……本当に、食べた」
アトカの青い瞳がわずかに見開かれた。
驚いている暇はない。
バルトロはもう目の前にいる。
伸びてきた右手を、アトカは大きく跳んで避けなかった。
左足を半歩引く。肩の力を抜く。相手の腕が伸びる線から、身体の中心だけを外す。
足裏に染み込まされた舞踏の間合い。
キルウェスタに何度も姿勢を直され、呼吸が乱れれば最初からやり直しにされた三年間の動きだった。
バルトロの指先が、アトカのローブのすぐ横を掠める。
「ちっ」
バルトロは身体を捻り、左手を伸ばした。
アトカは右肩を逃がしすぎず、腰だけをわずかにずらす。
義手の位置を崩せば、次の制御が遅れるからだ。
二撃目も、空を切る。
「逃げ足だけはいいじゃねぇか」
「逃げているというより、当たらない場所にいます」
「同じだろうが!」
バルトロが踏み込む。
速さが増している。
さっき喰われた水球の魔力が、身体強化に変わっているのだ。
アトカは理解した。
魔術を当てれば、強くなる。水で止めても喰われる。結界で防いでも餌になる。
ならば、バルトロに触れる魔術を使ってはいけない。
アトカは次の水球を作らなかった。
その代わり、バルトロの足元を見た。
バルトロはまっすぐ来る。獲物を追う獣のように迷わない。だから速い。
けれど、踏み込みの場所は読みやすい。
アトカは義手の指先を床へ向けた。
バルトロの足そのものではない。
足が触れるより少し前の石床。
そこへ、ほんの薄く水を呼ぶ。石の表面に残っていた細かな粉塵が湿り、滑りやすい泥の膜になる。
だが、アトカはそこで魔力を切った。
水を維持しない。
泥を魔術として保たない。
バルトロが踏むころには、そこにあるのはただの濡れた粉塵と石床だけだった。
「おらぁ!」
バルトロの右足が、その場所へ乗る。
靴底が滑った。
「……っ!」
身体が前へ流れる。
だが、バルトロは倒れない。
驚異的な反射で左足を叩きつけ、崩れた姿勢を無理やり立て直す。白亜の石床にひびが走った。
「今の、足場か」
琥珀色の瞳が細くなる。
「俺に魔術を当てずに、床を変えたな」
「はい」
アトカは正直に頷いた。
「触られると食べられるので」
「学ぶの早ぇじゃねぇか」
バルトロの口元が吊り上がる。
「でも、転ばねぇぞ」
次の瞬間、彼は先ほどより低く身を沈めた。
踏み込みが浅くなる。一歩ごとの接地時間を短くし、床に罠ができる前に抜けるつもりだ。
ギルベルトが観戦席で目を細める。
「バルトロも対応したか」
バルトロは左右に身体を振りながら迫った。
今度は一直線ではない。
右から来る。
そう見せて、左。
アトカが半歩下がるより早く、バルトロの手がローブの裾へ迫った。
近い。
アトカは水を使いかけた。
けれど、すぐに止める。
直接ぶつければ餌になる。
だから彼は、自分の足元へ水を呼んだ。
踵の少し後ろの石床を薄く濡らし、すぐに魔力を切る。
アトカはその濡れた場所を、滑るためではなく、重心を逃がすために使った。
踵がわずかに滑り、身体の軸だけがバルトロの指先から外れる。
ローブの端が、ふわりと揺れた。
バルトロの手はまた空を切る。
「ちょこまかと……!」
苛立った声。
だが、その中には楽しさも混じり始めていた。
バルトロは強引に身体を回し、今度は足払いを仕掛ける。
低い。速い。
アトカは跳ばない。
跳べば、空中で逃げ場がなくなる。
彼は義手の指先を軽く曲げた。
バルトロの足が通る直前、石床の一部がほんのわずかに沈む。
石の表面へ入り込んだ水が一瞬だけ隙間を広げ、細かな砂粒を緩ませたのだ。
次の瞬間には魔力を切る。
残るのは、ただ崩れやすくなった床だけ。
バルトロの足払いは、狙った高さよりわずかに沈んだ。
アトカの足には届かない。
バルトロの姿勢が、今度こそ大きく崩れる。
「しまっ……」
バルトロの膝が石床につく。
ゴン、と鈍い音が鳴った。
アトカは一歩だけ前へ出た。
逃げるのではなく、近づく。
ただし、触れられない距離を残したまま、義手の人差し指をバルトロの背中から数センチ離れたところで止める。
指先には水球も刃もない。
ただ、そこで止まっているだけだった。
「ここまでです」
アトカの声は穏やかだった。
ギルベルトが懐中時計を確認する。
「一分四十二秒。勝者、アトカ」
短い沈黙が落ちた。
リリシアが両手で口元を覆う。
「す、すごいです……」
バルトロは片膝をついたまま、しばらく動かなかった。
魔術師相手に、魔術を喰って強くなった。
それでも、直接魔術をぶつけられず、足場だけを変えられ、触れる前に膝をつかされた。
バルトロはゆっくりと顔を上げる。
「……お前」
低い声だった。
アトカは少し緊張して見返す。
バルトロの口元が、獰猛に吊り上がった。
「むかつくくらい、面白ぇな」
怒っている。
けれど、それだけではない。
獲物を見る飢えだけではなく、届かなかった相手への興味がそこにあった。
「最後の方、喰おうとしたらもう魔力が残ってなかった。ただの湿った床だ。あんなもん、俺が喰えるかよ」
アトカはほっとしたように息を吐いた。
「よかったです。ちゃんとできていたんですね」
「よくねぇよ。こっちは腹減ってんだ」
「でも、勝負中に食べさせたら、先輩がもっと速くなりますから」
「分かってんじゃねぇか」
バルトロは立ち上がり、首を鳴らした。
「次は喰う。床だろうが霧だろうが、お前のその妙な魔力ごと喰ってやる」
「はい。次も触られないようにします」
「だから、その素直な返事が調子狂うんだよ」
バルトロは乱暴に頭を掻いた。
だが、先ほどまでの飢えに任せた苛立ちは薄れていた。
代わりに、次の勝負を待ちきれないような熱が宿っている。
ギルベルトは懐中時計を閉じ、静かに息を吐いた。
「魔力を喰う相手に、魔力を当てずに勝つか。初戦としては悪くない」
アトカはギルベルトへ頭を下げる。
「ありがとうございます。ギルベルト先輩が教えてくれたおかげです」
「俺は忠告しただけだ。使い方を考えたのはお前だ」
リリシアが観戦席から小さく手を振る。
「アトカ君、すごかったです……!」
「ありがとうございます、リリシア先輩」
アトカが笑うと、リリシアも安心したように微笑んだ。
バルトロは面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「おい、新入り」
「はい」
「腹は減ったままだ。だから次は勝つ」
「はい。僕も、次までにもっと上手になります」
「そういう返しじゃねぇんだよなぁ……」
バルトロは呆れたように言いながらも、口元には笑みが残っていた。
演習場の白亜の床には、新しい傷がいくつも刻まれている。
濡れて乾きかけた粉塵。
浅く沈んだ石床。
膝をついた跡。
それは、魔力を喰う少年と、魔力を喰わせなかった少年が初めて交わした勝負の痕だった。
こうして、アトカ・アッシュフォードの特等枠での最初の訓練は終わった。
勝敗は、アトカの勝ち。
バルトロの飢えは、まだ少しも満たされていない。
そしてそのことが、次の勝負を約束しているようだった。




