飢えた魔力喰らい
バン、と荒々しい音がラウンジに響いた。
先ほどまでの静けさを押し破るように扉が開き、廊下から一人の少年が姿を現す。
魔導科特等枠三年生、バルトロ・レイヴン。
無造作に跳ねた金髪の奥で、琥珀色の瞳がぎらりと光っている。年齢のわりに体格は細い。
だが、その全身から放たれる気配は、痩せた少年というより、飢えた獣に近かった。
バルトロは懐から赤い魔石を取り出すと、何のためらいもなく口へ放り込んだ。
ゴリッ。
ガリ、ガリガリッ。
嫌な音が、ラウンジに響く。
普通なら貴重な触媒として扱われる魔石を、彼は硬い飴玉でも噛むように砕いていた。
砕けた魔石の魔力を飲み込んだ瞬間、それまでわずかに青白かった頬へ血色が戻り、乱れていた呼吸が少しだけ整う。
それでも、足りない。
バルトロは鼻をひくつかせた。
一度。二度。
大きく息を吸い込む。
「……おいおい」
琥珀色の瞳が、興奮に見開かれた。
「なんだ、この匂い。外まで漂ってたぞ。リリシアの暴走の残り香だけじゃねぇな」
視線がラウンジを走る。
ギルベルト。
リリシア。
机の上に残る魔石の欠片。
そして最後に、見慣れない白髪の少年、アトカへぴたりと止まった。
「見つけた」
低く呟いた瞬間、バルトロの足が床を蹴った。
「……匂い?」
突然向けられた異様な熱量に、アトカは首を傾げる。
その横で、ギルベルトが懐中時計の蓋を閉じた。
カチ、と乾いた音が鳴る。
「相変わらず品のない登場だな、バルトロ」
「あぁ?うるせぇよ、ギルベルト。腹減ってんだ。説教なら後にしろ」
「毎回その言い訳だな」
ギルベルトの灰色の瞳が細くなる。
「もう少し早く来ていれば、リリシアの暴走も被害が出る前に収まっていたかもしれない」
バルトロは鼻で笑った。
「終わったから匂いが広がったんだろうが。俺が来た頃には、もう食い残ししかねぇ」
「食い残しではない。暴走の残滓だ」
「俺には飯だ」
二人の視線がぶつかる。
ラウンジの空気が、ぴんと張り詰めた。
リリシアはまだ涙の跡を残したまま、アトカの少し前へ半歩だけ出た。
足は震えている。
けれど、逃げなかった。
「バ、バルトロ先輩……アトカ君は、私を助けてくれたんです……」
その声は小さかった。
それでも、必死だった。
バルトロはリリシアを一瞥し、それから改めてアトカを見る。
「助けた?」
鼻を鳴らす。
「じゃあやっぱり、この匂いはお前か」
喉が、ごくりと鳴った。
「リリシアの光を鎮めた後に残ってる、この妙な魔力。水みてぇで、でもただの水じゃねぇ。腹の奥が勝手に鳴る」
「えっと……」
アトカはますます困惑した。
「僕、食べ物ではないですよ?」
「んなこと分かってる」
バルトロは苛立ったように頭を掻いた。
「けど、お前の魔力は美味そうなんだよ。俺の身体がそう言ってる」
そう言うなり、バルトロは一歩踏み込んだ。
その瞬間、ギルベルトの指先がわずかに動く。
カチン。
何もない空間に、淡い灰色の術式が浮かび上がった。
それは、バルトロがラウンジへ踏み込んだ時点で、ギルベルトが密かに置いていた遅延術式だった。
不可視の魔力の種として空間に潜み、バルトロが一定以上アトカへ近付いた瞬間だけ、動きを一拍遅らせるためのもの。
止めるためではない。
時間を稼ぐための術式だった。
だが。
バリッ。
術式は、一瞬で欠けた。
構成していた魔力が、見えない獣に齧り取られるように削れていく。
輪郭が崩れ、式がほどけ、砂のようになった魔力がバルトロの身体へ吸い込まれた。
打ち消されたのではない。
上書きされたのでもない。
喰われた。
術式そのものが、跡形もなく消えたのだ。
「……え?」
アトカが目を丸くする。
今まで見てきた魔術の崩れ方とは、まるで違っていた。
キルウェスタが世界を書き換える時とも、リリシアの魔力が過剰に修復する時とも違う。
触れた魔力が、食べ物のように身体へ取り込まれた。
「……やはり一秒も持たないか」
ギルベルトが小さく息を吐く。
バルトロは顔をしかめた。
「相変わらず、お前の術式はパサついてんな。腹の足しにもならねぇ」
「こちらは食事を出したつもりはない」
「出されたもんは食う」
「そういうところだぞ」
二人のやり取りを聞きながら、アトカはバルトロの動きを見ていた。
踏み込みは速い。
けれど、まっすぐだった。
飢えているせいか、細かい駆け引きはない。
ただ、そこにある魔力へ手を伸ばそうとしている。
バルトロの手が、アトカのローブへ向かう。
「触るな、バルトロ」
ギルベルトの声が低くなった。
「新入りの魔力系統はまだ分かっていない。直接喰えば、お前の身体にも何が起こるか分からないぞ」
「あぁ?だから確かめるんだろうが」
「お前の確かめるは信用できない」
それでも、バルトロの手は止まらない。
アトカは、左足を半歩だけ引いた。
肩を力ませない。
右の義手を前に出しすぎない。
相手の腕が伸びる線の外へ、身体の中心だけを滑らせる。
大きく逃げたわけではない。
ただ、バルトロの手が届く場所から、アトカの身体だけが静かに外れた。
バルトロの指先は、漆黒のローブを掴めず、空を切る。
「……お?」
琥珀色の瞳が見開かれた。
アトカはローブの裾を軽く整え、穏やかに言った。
「引っ張らなくても大丈夫です」
「いや、避けた奴の台詞じゃねぇだろ」
「急に掴まれると、少し驚きますから」
バルトロは一瞬、ぽかんとした。
それから、獣のように口角を吊り上げる。
「へぇ」
琥珀色の瞳が、ぎらりと輝いた。
「今の、ただの魔術師の動きじゃねぇな。魔術だけじゃなく、身体も少しは動くのか」
「少しだけです。先生に、姿勢を崩すなってたくさん怒られました」
「その先生ってのは、あの黒蜘蛛の魔女か?」
「はい。キルウェスタ先生です」
その名を聞いた瞬間、バルトロは楽しそうに喉を鳴らした。
「なるほどな。そりゃ、ただの餌じゃねぇわけだ」
「餌……?」
アトカが不思議そうに首を傾げる。
リリシアが慌てて前へ半歩出た。
「あ、あの……バルトロ先輩、アトカ君を食べ物みたいに言わないでください……」
「魔力の話だ。人間を食う趣味はねぇよ」
「そ、それでも怖いです……」
バルトロは面倒くさそうに頭を掻いた。
だが、その目はアトカから離れていない。
ギルベルトが懐中時計を閉じる。
「ここで続けるな。ラウンジを壊す気か」
「壊す前に喰えばいいだろ」
「そういう問題じゃない」
ギルベルトの声が一段冷える。
「リリシアが落ち着いたばかりだ。新入りも来た初日だ。ここで騒ぎを増やすなら、俺が学園長を呼ぶ」
バルトロの顔が露骨に嫌そうに歪んだ。
「ちっ。面倒くせぇな」
それから、彼はアトカを指差した。
「おい、新入り」
「はい」
「訓練場へ来い」
「訓練場、ですか?」
「ああ。ここじゃギルベルトがうるせぇ。お前の魔力が本当にその匂い通りなのか、俺が確かめてやる」
リリシアの顔が青くなる。
「だ、駄目です……!バルトロ先輩、アトカ君を怖がらせちゃ……」
「怖がってねぇだろ、こいつ」
バルトロは鼻を鳴らす。
確かに、アトカは怯えていなかった。
困ったようにはしている。
けれど、恐怖ではない。
アトカは少し考えてから、真面目な顔で頷いた。
「えっと……訓練なら、僕も勉強になりますよね」
「は?」
「バルトロ先輩は、魔力を食べるんですよね。僕、そういう人と会ったことがありません。だから、ちゃんと知っておきたいです」
バルトロはまた言葉に詰まった。
獲物として見られることに慣れていないのではない。
恐れられることには慣れている。
だが、学ぶ相手として見られることには、慣れていなかった。
ギルベルトが静かに息を吐く。
「新入り。バルトロは普通の相手じゃない。触れられれば、お前の魔力は喰われる。魔術師にとっては天敵だ」
「はい」
アトカは素直に頷いた。
「だから、触られないようにします」
バルトロの琥珀色の瞳が、楽しげに細まった。
「言ったな」
「はい」
「後で泣いても知らねぇぞ」
「泣いたら、リリシア先輩が困ると思うので、できるだけ泣かないようにします」
「そういう意味じゃねぇ!」
バルトロの怒鳴り声がラウンジに響いた。
けれど、その声には先ほどまでの殺気とは違う熱が混じっていた。
獲物を見つけた飢え。
そして、思い通りに掴めなかった相手への興味。
ギルベルトは懐中時計の針を見下ろし、小さく呟く。
「初日からバルトロに目をつけられるとはな」
リリシアは不安そうにアトカを見る。
「アトカ君……本当に、大丈夫ですか?」
アトカは少しだけ笑った。
「はい。訓練なら、頑張ります」
バルトロは犬歯を見せて笑う。
「決まりだな、新入り。訓練場で、その美味そうな魔力、少しは見せてもらうぜ」
アトカは丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします、バルトロ先輩」
「調子狂うな、お前……」
バルトロはそう吐き捨てながらも、目だけは楽しそうだった。
こうして、特等枠のラウンジにまた一つ、騒がしい出会いが刻まれた。
そして同時に、アトカ・アッシュフォードにとって初めての、特等枠同士の訓練相手が決まった。




