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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
特等枠の怪物たち
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24/34

泣いてる子の光

「ここが、特等枠の専用ラウンジだ」


フレデリックがそう告げると、重厚なマホガニーの扉が静かに開いた。


扉の先に広がっていたのは、豪華でありながら、不思議なほど落ち着いた部屋だった。


壁一面を埋める古びた魔導書。


年代物の書棚。


重厚な革張りのソファー。


部屋の隅には、使い込まれた魔導器具や薬瓶、魔石の欠片が整然と並んでいる。


大きな丸机の上には、膨大な計算式で埋め尽くされたノートが開いたまま置かれていた。


その隣には、歯形のついた魔石の欠片、黒い帯状の布片、色の異なる液体を満たした小瓶が、それぞれの持ち主の癖を残すように並んでいる。


落ち着いた品のある部屋だった。


けれど、普通の生徒が休憩するためだけの場所ではない。


教科書だけを並べた教室とも違う。


ここで過ごす者たちは、決められた時間割や、一つの学科の中だけには収まらない。


部屋そのものが、そう静かに告げているようだった。


アトカが思わず息を呑むと、フレデリックは穏やかに目を細めた。


「詳しい使い方は、中にいる先輩から聞くといい。私は少し、試験場の後始末をしてこなければならない」


「後始末、ですか?」


「倒れたゴーレムと、青ざめた教師たちの両方を立て直す必要があるからね」


冗談めかした口調だったが、その声には学園長としての責任が滲んでいた。


フレデリックは室内へ視線を向ける。


「ギルベルト。聞こえているね」


窓際のソファーから、低い声が返った。


「ああ」


「アトカ君へ、ラウンジの決まりを教えてあげてほしい」


「分かった」


フレデリックはそれを確認してから、アトカへ向き直った。


「アトカ君。ここは君を閉じ込めるための場所ではない」


琥珀色の瞳が、アトカを真っ直ぐに捉える。


「だが、自由にさせるという名目で、君たちの力を放置するための場所でもない。学びたいことや利用したい施設について迷った時は、ここにいる先輩や担当教師へ相談しなさい」


「はい」


「私を訪ねても構わない。禁書庫や封印記録保管庫の資料が必要になった時も、まず理由を話しに来るといい」


「ありがとうございます、フレデリック先生」


アトカが丁寧に頭を下げると、フレデリックは静かに頷いた。


「では、よい出会いを」


そう言い残し、フレデリックは廊下の奥へ戻っていった。


扉の内側に残されたアトカは、漆黒のローブの裾を小さく揺らしながら、初めて特等枠のラウンジへ足を踏み入れた。


窓際。


午後の柔らかな陽光が差し込むソファーに、一人の少年が腰掛けていた。


年はアトカよりかなり上に見える。


細身で背が高い。


くすんだ銀灰色の髪は肩へ触れるほどの長さで、後ろへ緩く一つに結ばれていた。


陽光を受けても明るく輝くことはなく、曇り空を薄く溶かしたような静かな色をしている。


瞳もまた灰色だった。


鋭く睨んでいるわけではない。


それでも、こちらを見た瞬間に、余計な言葉や感情を静かに見抜かれるような冷静さがあった。


制服は襟元まで整えて着られ、指先には薄いインクの跡が残っている。


片手には、古びた真鍮製の懐中時計。


カチ、カチ、と規則正しい音が部屋へ響いていた。


少年は扉が閉じる音を聞いてから、ゆっくりと顔を上げた。


「学園長自ら案内してきたと思えば、お前が例の新入りか」


彼の名は、ギルベルト・クロノス。


魔導科五年。


特等枠では最年長にあたる少年だった。


ギルベルトの視線が、アトカの漆黒のローブへ移る。


胸元の黒蜘蛛。


その下へ留められた翡翠色の石。


右肩を覆う布の下にある木製の義手。


そして、静かに垂れた空の左袖。


「噂どおり、右だけ義手か」


アトカは気にした様子もなく、辺境の家でそうしてきたように、素直に頭を下げた。


「はじめまして。アトカ・アッシュフォードです。これからよろしくお願いします」


曇りのない声だった。


怯えも、卑屈さもない。


自分の身体を見られたことへの怒りもない。


ただ、これから同じ場所で過ごす相手へ丁寧に挨拶する、十歳の少年の姿がそこにあった。


ギルベルトはその顔をしばらく見つめ、僅かに口元を緩めた。


「礼儀があるだけ、ずいぶん話しやすいな」


「そうですか?」


「ああ。ここは、まともに挨拶をする奴の方が珍しい」


ギルベルトは懐中時計へ視線を戻し、ゆっくりと蓋を閉じた。


カチ、と小さな音が落ちる。


「俺はギルベルト・クロノス。一応、ここでは最年長だ」


「よろしくお願いします、ギルベルト先輩」


「先輩、か。まあ、悪くない」


ギルベルトはソファーの背へ身体を預けた。


「最初に三つだけ覚えろ」


アトカは真剣な顔で頷く。


「人の身体や道具へ、許可なく触るな。不調を隠すな。何か起きた時、一人だけで片づけようとするな」


「はい」


「特等枠は、決められた時間割で通常授業を受ける必要はない」


「本当に、授業へ行かなくていいんですか?」


「ああ。出席を免除されている。だからといって、何もしなくていいわけじゃない」


ギルベルトは丸机へ置かれた紙束を指した。


「自分に必要なことを考え、自分で学ぶ。図書館、資料室、一般演習場、研究棟、魔導工房。学園内の通常施設は、原則として自由に使える」


「魔導科以外の場所もですか?」


「必要ならな。戦技科の訓練を見学してもいい。医療科で身体について学んでもいい。魔導工学の講義を聞いても構わない」


アトカの青い瞳が明るくなる。


「兄さんの訓練も見られますか?」


「戦技科のルトか」


ギルベルトの眉が僅かに動いた。


「なるほど。あいつの弟だったのか」


「兄さんのこと、知ってるんですか?」


「この学園であいつを知らない奴は少ない。四年で筆頭候補まで来ている、戦技科の怪物だ」


「やっぱり兄さん、すごいんだ……!」


アトカは、自分の実技を褒められた時よりも嬉しそうに笑った。


ギルベルトはその反応を見て、僅かに目を細める。


「見学するだけなら止められない。実際に訓練へ参加するなら、担当教師へ相談しろ。勝手に混ざるな」


「はい」


「禁書庫、封印記録保管庫、危険な実験区画は別だ。使いたい理由を出して、許可を取れ。資料だけ渡される場合もあるし、教師の立ち会いを求められる場合もある」


「入っていいか分からなかったら、先に聞きます」


「それでいい」


ギルベルトは短く頷いた。


「それと、特等枠には学園から定期課題が出る」


「定期課題……」


「名前は課題だが、実際には任務に近い」


ギルベルトの声が、少しだけ低くなる。


「異常を起こした魔導設備の調査。危険な術式の停止。魔力災害での救助。魔獣が現れた地域への派遣。学園内だけで済むとは限らない」


「困っている人を助けるんですか?」


「そういう課題もある。ただし、助けたいと思っただけで勝手に動くな」


ギルベルトはアトカを真っ直ぐに見た。


「課題には目的と中止条件がある。複数で組むことも多い。できない時に止まることも含めて、学園は見ている」


「課題に失敗したら、追い出されますか?」


「ああ、それを気にしていたのか」


ギルベルトは一度だけ息を吐いた。


「失敗しただけで追い出されるわけじゃない。何が足りなかったのかを調べて、次に備える」


そこで短く言葉を切る。


「ただし、考えもせずに同じ危険を繰り返すことは許されない。自由に学べる代わりに、自分の力と向き合う責任がある。それだけは覚えておけ」


アトカは義手の五指を、ゆっくりと握った。


「はい。僕、たくさん学びます」


その時だった。


廊下の向こうから、何かが壁へぶつかる音がした。


続いて、怯えきった少女の声が響く。


「い、いや……!触らないでください……!お願いです、近づかないで……!」


ギルベルトの表情が変わった。


先ほどまでの気だるげな空気が消え、灰色の瞳が鋭く細まる。


「リリシアか」


懐中時計の蓋が開く。


カチ、と針の音が一つだけ大きく響いた。


ギルベルトは指先を動かし、ラウンジの入口へ不可視の魔力を置いた。


三秒後に遮断障壁を生む、遅延術式の種だった。


その直後、ラウンジの扉が勢いよく開いた。


一人の少女が、転がり込むように飛び込んでくる。


柔らかな金髪は乱れ、大粒の涙で頬を濡らしていた。


淡い桃色の瞳は恐怖に揺れ、華奢な肩が細かく震えている。


リリシア・クラウツ。


魔導科二年。


特等枠に所属する治癒術師だった。


彼女の周囲では、白銀の光が不規則に脈打っていた。


本来なら傷を塞ぎ、命を支えるはずの光。


けれど今は、リリシアの恐怖へ呼応し、近づくものすべての魔力回路へ流れ込もうとしている。


廊下の向こうには、若い補助教師が顔を青ざめさせて立っていた。


片手を押さえ、苦痛に顔を歪めている。


手の甲にあった小さな擦り傷は、すでに塞がっていた。


それでも白銀の光は治癒を止めず、閉じた皮膚の下へなお魔力を押し込もうとしている。


赤く腫れた指先が、細かく震えていた。


「す、すみません……!注意事項は知っていました。でも、リリシアさんが段差で倒れそうになって、考えるより先に手を伸ばしてしまって……!」


「下がってください」


ギルベルトの声は低く、短かった。


「近づくほど防衛反応が強くなる。廊下の人を遠ざけて、医療科の担当者と学園長へ連絡を」


補助教師は強く頷き、押さえていた手を胸元へ引き寄せながら後退した。


三秒が経つ。


扉の内側へ、淡い灰色の遮断障壁が立ち上がった。


ラウンジの中へリリシアを閉じ込めるためではない。


事情を知らない生徒や教師が、廊下から不用意に近づくことを防ぐための境界だった。


リリシアは扉から離れるように、ラウンジの奥へ下がっていく。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!わたし、また傷つけてしまいます……!」


握りしめた彼女自身の掌には、爪が食い込んでいた。


赤い血が滲む。


傷は白銀の光によって瞬時に塞がった。


けれど治癒は止まらない。


すでに閉じた皮膚の内側へなお力が流れ込み、リリシアは熱と痛みに耐えるように肩を縮めた。


「自己防衛型の治癒が止まっていない」


ギルベルトが低く言った。


「傷だけじゃない。近づく相手の魔力回路まで、異常があるものとして整えようとする。触れれば危険だ」


リリシアの白銀の光が、さらに外側へ膨れ上がる。


ギルベルトはアトカの前へ片腕を出した。


「新入り、下がれ」


「でも、泣いています」


「泣いていても危険なものは危険だ。本人にも止められていない」


ギルベルトの声に、苛立ちはなかった。


あるのは、この力がどれほど危険か知っている者の警戒だけだった。


けれどアトカは、リリシアから目を逸らさなかった。


泣いている。


怖がっている。


自分の力を止められず、誰かを傷つけたことに怯えている。


アトカの胸へ浮かんだのは、難しい理論ではなかった。


アルン平原の家で、ステラがよくしていたことだった。


怪我をした小鳥を見つけた時。


道に迷い、泣いている子供を見つけた時。


ステラは決して急に抱き寄せなかった。


怖がらせない距離で膝を折り、柔らかな声をかけ、相手が自分からこちらを見てくれるまで待っていた。


助けることは、無理に触れることではない。


近づくことだけが、優しさではない。


アトカはそれを、母の背中から覚えていた。


「ギルベルト先輩」


「何だ」


「触りません。近づきすぎもしません」


ギルベルトの灰色の瞳が細まる。


「何をする」


「光が一か所へ集まらないように、水の霧へ触れさせます」


「範囲は」


「僕とリリシアさんの間だけです」


「維持する時間は」


「まず三呼吸だけ」


「治癒魔力が義手へ流れてきたら」


「すぐに外への魔力を閉じます。光が触れた水滴からも、僕の魔力を外します」


「今の状態は」


アトカは自分の肩と義手へ意識を向けた。


「少し疲れています。でも、肩に熱はありません。指もいつもどおり動きます」


ギルベルトは一瞬だけ黙った。


懐中時計が、次の三秒を刻む。


「分かった」


ギルベルトは新しい遅延術式の種を、アトカとリリシアの間へ置いた。


「三秒後、この線へ遮断障壁が立つ。お前の霧が先に届き、治癒魔力が弱まったと俺が判断すれば、発動する前に解除する」


「間に合わなかったら?」


「障壁で切る」


ギルベルトはアトカの横顔を見る。


「異常を感じたら、俺の判断を待たずに接続を閉じろ」


「はい」


アトカはリリシアへ向き直った。


すぐには足を動かさない。


今いる場所から、静かに声をかける。


「リリシアさん」


少女の肩がびくりと震えた。


「僕は、ここから近づきません」


「こ、来ないで……ください……。わたし、壊しちゃう……」


「うん。だから、ここで止まります」


アトカは本当に止まった。


リリシアから数歩離れた位置。


白銀の光が届くぎりぎりの外側。


そこで義手の右手を、ゆっくりと胸の前へ上げる。


指先はリリシアへ向けない。


彼女を掴もうとする形ではなく、空気を静かに支えるように開くだけだった。


「ここから、水の霧を広げてもいいですか」


リリシアは涙に濡れた瞳で、アトカを見た。


「さ、触らない……?」


「触りません。嫌なら首を振ってください。何もしません」


アトカは待った。


急かさない。


返事を求めて、同じ言葉を重ねたりもしなかった。


やがてリリシアの顎が、震えながら僅かに下がった。


小さな頷きだった。


「ありがとうございます」


アトカは静かに息を吸った。


心臓の音を聴く。


右肩から義手へ、魔力を巡らせる。


五本の指が、ゆっくりと開いた。


透明な水霧が、指先から音もなく生まれる。


濃い壁ではない。


リリシアを閉じ込める檻でもない。


二人の間へ漂う、一粒一粒が目に見えないほど細かな霧だった。


白銀の光が、再び外へ弾ける。


その先へ、水霧が触れた。


光を消しはしない。


治癒の性質も変えない。


ただ、一方向へ突き刺さろうとする魔力を、無数の水滴へ触れさせる。


一つだった流れが、二つに分かれる。


二つが四つに。


四つが、さらに細かな流れへほどけていく。


治癒の光が触れた水滴から、アトカは自分の魔力を一つずつ外した。


白銀の力を、自分の義手まで導かないためだった。


アトカとの接続を失った水滴は、一粒ずつ孤立していく。


細かく分けられた治癒魔力は、新たな魔力回路を捉えられるほどの強さを保てない。


リリシアとのつながりも薄れ、淡い光となって空気へほどけていった。


三秒。


アトカとリリシアの間へ置かれた種が発動する直前、ギルベルトは指先を閉じた。


遅延術式が解除される。


霧が治癒の光を分け、こちらへ届く勢いを弱めたと判断したからだった。


ギルベルトの灰色の瞳が、僅かに見開かれる。


「押さえているんじゃない。接触する場所を増やして、流れを分けているのか」


アトカは答えなかった。


返事をする余裕がなかった。


リリシアの光は優しい。


けれど恐怖によって、強く、鋭くなっている。


無理に掴めば、きっと傷つける。


だからアトカは、水霧の薄さだけを保ち続けた。


濃くしすぎない。


閉じ込めない。


自分の水ですべてを包もうとしない。


荒れた流れが誰かへぶつかる前に、広がって弱まれる場所だけを作る。


「リリシアさん」


アトカは水霧を保ったまま、静かに呼びかける。


「僕と一緒に、ゆっくり息を吐けますか」


リリシアの唇が震える。


「む、無理……です……」


「全部じゃなくていいです。少しだけで大丈夫です」


アトカは自分から、ゆっくりと息を吐いた。


キルウェスタに何度も叩き込まれた呼吸。


魔力を押し出さず、胸の奥から静かにほどくための呼吸だった。


「一緒に、少しだけ」


リリシアはアトカを見つめた。


白い髪。


澄んだ青い瞳。


胸の前で開かれた木製の義手。


近づかず、触れず、けれど逃げずにそこへ立っている少年。


リリシアは震えながら、短く息を吐いた。


白銀の光が僅かに弱まる。


もう一度。


アトカが息を吐く。


リリシアも、途切れながらそれに続く。


三度目。


肩の震えが、ほんの少しだけ小さくなる。


彼女の周囲へ溢れていた光が、初めて自分の身体へ近い範囲まで縮んだ。


アトカはその変化を感じ取ると、水霧を少しだけ薄くした。


光が届かなくなった場所へ、いつまでも水を残しておく必要はない。


必要がなくなった水までそこにあれば、今度は自分の霧がリリシアを怖がらせてしまうかもしれなかった。


やがて、白銀の光は淡い膜となって彼女の身体だけを包んだ。


もう、誰かの魔力回路へ伸びようとはしていない。


アトカは水霧を一度に消さなかった。


外側から少しずつ薄め、最後の一滴まで自分の意思で接続を閉じていく。


消えていく霧の最後の一滴を、二人の間の床へ集めた。


透明な花が、一輪だけ咲く。


リリシアへ差し出すのではない。


二人の間に残された距離を示すように、静かに置かれた水の花だった。


「今は、誰も傷ついていません」


アトカは優しく言った。


「僕も、ここにいます」


リリシアの濡れた睫毛が揺れる。


「どこか痛いところはありませんか」


その一言で、リリシアの表情がくしゃりと歪んだ。


彼女はすぐには答えられなかった。


目の前の少年は近づいてこなかった。


けれど、いなくなりもしなかった。


「て、手が……少し、熱いです……」


「見せてもらってもいいですか」


リリシアは反射的に手を引きかけた。


アトカは動かなかった。


触ろうともしない。


ただ返事を待つ。


やがてリリシアは、握りしめていた手を僅かに開いた。


掌には、爪が食い込んだ跡が赤く残っている。


傷は塞がっていた。


けれど白銀の光を流し続けたためか、皮膚の内側には熱が残っていた。


「触らなくても見えます」


アトカは安心させるように言った。


「医療科の先生が来たら、診てもらいましょう」


リリシアは、小さく頷いた。


「僕はアトカ・アッシュフォードです。今日から特等枠に入りました」


リリシアは短く息を吸う。


まだ声は震えていた。


それでも、先ほどより少しだけ、自分の意思で言葉を出せていた。


「リ、リリシア……クラウツ、です……。二年です……」


「リリシア先輩ですね。よろしくお願いします」


アトカは丁寧に頭を下げた。


リリシアは驚いたように目を丸くした。


先輩。


怖がられるでもない。


避けられるでもない。


危険な力だけで呼ばれるのでもない。


同じ場所で学ぶ、一人の生徒として扱われた。


「よ、よろしく……お願いします……アトカ君」


その名を口にした時、涙に濡れたリリシアの口元が、笑おうとしたように僅かに動いた。


ギルベルトは二人を見ながら、懐中時計を制服の内側へ戻した。


「初日から、ずいぶん厄介な場面へ首を突っ込んだな」


アトカが振り返る。


「厄介だったんですか?」


「悪い。今言うことじゃなかったな」


ギルベルトは短く息を吐いた。


それから、アトカが霧を消した場所へ目を向ける。


「必要な分だけ残して、必要がなくなれば閉じたか」


アトカは義手の指を見下ろした。


「もう光が届いていないところに水を残したら、今度は僕の霧が怖がらせると思ったんです」


ギルベルトは数秒だけ黙った。


「なるほど」


短い一言だった。


けれど、先ほどまでの新入りへ向けた声とは、ほんの少しだけ響きが違っていた。


ギルベルトの視線が、アトカの胸元へ移る。


黒蜘蛛の紋章。


その下へ留められた翡翠色の石。


「黒蜘蛛を背負わせるだけの理由はあるらしいな」


アトカは不思議そうに首を傾げた。


「黒蜘蛛、ですか?」


「そのローブの紋章だ。意味を知らずに着ているなら、なかなか大物だな」


「キルウェスタ先生が、帝都で舐められないようにってくださいました」


「……やっぱり意味を分かっていないな」


ギルベルトは小さく息を吐いた。


その声に呆れはあっても、侮りはなかった。


リリシアはまだ涙の跡を残したまま、アトカを見つめていた。


アトカ・アッシュフォード。


アトカ君。


怖がらずに触れた少年ではない。


怖さを認め、触れずに、けれど離れすぎずにいてくれた少年。


特等枠には、決められた教室も時間割もない。


自分で学ぶ自由があり、その力を実地で確かめる定期課題がある。


けれどアトカが特等枠で最初に学んだのは、危険な術式の知識でも、施設の使い方でもなかった。


近づかないことと、見捨てないことは、同じではない。


その日のラウンジに、初めての小さな安心が灯った。


それが、アトカと特等枠の仲間たちとの、本当の意味での最初の出会いだった。


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