泣いてる子の光
「ここが、特等枠の専用ラウンジだ」
フレデリックがそう告げると、重厚なマホガニーの扉が静かに開いた。
扉の先に広がっていたのは、豪華でありながら、不思議なほど落ち着いた部屋だった。
壁一面を埋める古びた魔導書。
年代物の書棚。
重厚な革張りのソファー。
部屋の隅には、使い込まれた魔導器具や薬瓶、魔石の欠片が整然と並んでいる。
大きな丸机の上には、膨大な計算式で埋め尽くされたノートが開いたまま置かれていた。
その隣には、歯形のついた魔石の欠片、黒い帯状の布片、色の異なる液体を満たした小瓶が、それぞれの持ち主の癖を残すように並んでいる。
落ち着いた品のある部屋だった。
けれど、普通の生徒が休憩するためだけの場所ではない。
教科書だけを並べた教室とも違う。
ここで過ごす者たちは、決められた時間割や、一つの学科の中だけには収まらない。
部屋そのものが、そう静かに告げているようだった。
アトカが思わず息を呑むと、フレデリックは穏やかに目を細めた。
「詳しい使い方は、中にいる先輩から聞くといい。私は少し、試験場の後始末をしてこなければならない」
「後始末、ですか?」
「倒れたゴーレムと、青ざめた教師たちの両方を立て直す必要があるからね」
冗談めかした口調だったが、その声には学園長としての責任が滲んでいた。
フレデリックは室内へ視線を向ける。
「ギルベルト。聞こえているね」
窓際のソファーから、低い声が返った。
「ああ」
「アトカ君へ、ラウンジの決まりを教えてあげてほしい」
「分かった」
フレデリックはそれを確認してから、アトカへ向き直った。
「アトカ君。ここは君を閉じ込めるための場所ではない」
琥珀色の瞳が、アトカを真っ直ぐに捉える。
「だが、自由にさせるという名目で、君たちの力を放置するための場所でもない。学びたいことや利用したい施設について迷った時は、ここにいる先輩や担当教師へ相談しなさい」
「はい」
「私を訪ねても構わない。禁書庫や封印記録保管庫の資料が必要になった時も、まず理由を話しに来るといい」
「ありがとうございます、フレデリック先生」
アトカが丁寧に頭を下げると、フレデリックは静かに頷いた。
「では、よい出会いを」
そう言い残し、フレデリックは廊下の奥へ戻っていった。
扉の内側に残されたアトカは、漆黒のローブの裾を小さく揺らしながら、初めて特等枠のラウンジへ足を踏み入れた。
窓際。
午後の柔らかな陽光が差し込むソファーに、一人の少年が腰掛けていた。
年はアトカよりかなり上に見える。
細身で背が高い。
くすんだ銀灰色の髪は肩へ触れるほどの長さで、後ろへ緩く一つに結ばれていた。
陽光を受けても明るく輝くことはなく、曇り空を薄く溶かしたような静かな色をしている。
瞳もまた灰色だった。
鋭く睨んでいるわけではない。
それでも、こちらを見た瞬間に、余計な言葉や感情を静かに見抜かれるような冷静さがあった。
制服は襟元まで整えて着られ、指先には薄いインクの跡が残っている。
片手には、古びた真鍮製の懐中時計。
カチ、カチ、と規則正しい音が部屋へ響いていた。
少年は扉が閉じる音を聞いてから、ゆっくりと顔を上げた。
「学園長自ら案内してきたと思えば、お前が例の新入りか」
彼の名は、ギルベルト・クロノス。
魔導科五年。
特等枠では最年長にあたる少年だった。
ギルベルトの視線が、アトカの漆黒のローブへ移る。
胸元の黒蜘蛛。
その下へ留められた翡翠色の石。
右肩を覆う布の下にある木製の義手。
そして、静かに垂れた空の左袖。
「噂どおり、右だけ義手か」
アトカは気にした様子もなく、辺境の家でそうしてきたように、素直に頭を下げた。
「はじめまして。アトカ・アッシュフォードです。これからよろしくお願いします」
曇りのない声だった。
怯えも、卑屈さもない。
自分の身体を見られたことへの怒りもない。
ただ、これから同じ場所で過ごす相手へ丁寧に挨拶する、十歳の少年の姿がそこにあった。
ギルベルトはその顔をしばらく見つめ、僅かに口元を緩めた。
「礼儀があるだけ、ずいぶん話しやすいな」
「そうですか?」
「ああ。ここは、まともに挨拶をする奴の方が珍しい」
ギルベルトは懐中時計へ視線を戻し、ゆっくりと蓋を閉じた。
カチ、と小さな音が落ちる。
「俺はギルベルト・クロノス。一応、ここでは最年長だ」
「よろしくお願いします、ギルベルト先輩」
「先輩、か。まあ、悪くない」
ギルベルトはソファーの背へ身体を預けた。
「最初に三つだけ覚えろ」
アトカは真剣な顔で頷く。
「人の身体や道具へ、許可なく触るな。不調を隠すな。何か起きた時、一人だけで片づけようとするな」
「はい」
「特等枠は、決められた時間割で通常授業を受ける必要はない」
「本当に、授業へ行かなくていいんですか?」
「ああ。出席を免除されている。だからといって、何もしなくていいわけじゃない」
ギルベルトは丸机へ置かれた紙束を指した。
「自分に必要なことを考え、自分で学ぶ。図書館、資料室、一般演習場、研究棟、魔導工房。学園内の通常施設は、原則として自由に使える」
「魔導科以外の場所もですか?」
「必要ならな。戦技科の訓練を見学してもいい。医療科で身体について学んでもいい。魔導工学の講義を聞いても構わない」
アトカの青い瞳が明るくなる。
「兄さんの訓練も見られますか?」
「戦技科のルトか」
ギルベルトの眉が僅かに動いた。
「なるほど。あいつの弟だったのか」
「兄さんのこと、知ってるんですか?」
「この学園であいつを知らない奴は少ない。四年で筆頭候補まで来ている、戦技科の怪物だ」
「やっぱり兄さん、すごいんだ……!」
アトカは、自分の実技を褒められた時よりも嬉しそうに笑った。
ギルベルトはその反応を見て、僅かに目を細める。
「見学するだけなら止められない。実際に訓練へ参加するなら、担当教師へ相談しろ。勝手に混ざるな」
「はい」
「禁書庫、封印記録保管庫、危険な実験区画は別だ。使いたい理由を出して、許可を取れ。資料だけ渡される場合もあるし、教師の立ち会いを求められる場合もある」
「入っていいか分からなかったら、先に聞きます」
「それでいい」
ギルベルトは短く頷いた。
「それと、特等枠には学園から定期課題が出る」
「定期課題……」
「名前は課題だが、実際には任務に近い」
ギルベルトの声が、少しだけ低くなる。
「異常を起こした魔導設備の調査。危険な術式の停止。魔力災害での救助。魔獣が現れた地域への派遣。学園内だけで済むとは限らない」
「困っている人を助けるんですか?」
「そういう課題もある。ただし、助けたいと思っただけで勝手に動くな」
ギルベルトはアトカを真っ直ぐに見た。
「課題には目的と中止条件がある。複数で組むことも多い。できない時に止まることも含めて、学園は見ている」
「課題に失敗したら、追い出されますか?」
「ああ、それを気にしていたのか」
ギルベルトは一度だけ息を吐いた。
「失敗しただけで追い出されるわけじゃない。何が足りなかったのかを調べて、次に備える」
そこで短く言葉を切る。
「ただし、考えもせずに同じ危険を繰り返すことは許されない。自由に学べる代わりに、自分の力と向き合う責任がある。それだけは覚えておけ」
アトカは義手の五指を、ゆっくりと握った。
「はい。僕、たくさん学びます」
その時だった。
廊下の向こうから、何かが壁へぶつかる音がした。
続いて、怯えきった少女の声が響く。
「い、いや……!触らないでください……!お願いです、近づかないで……!」
ギルベルトの表情が変わった。
先ほどまでの気だるげな空気が消え、灰色の瞳が鋭く細まる。
「リリシアか」
懐中時計の蓋が開く。
カチ、と針の音が一つだけ大きく響いた。
ギルベルトは指先を動かし、ラウンジの入口へ不可視の魔力を置いた。
三秒後に遮断障壁を生む、遅延術式の種だった。
その直後、ラウンジの扉が勢いよく開いた。
一人の少女が、転がり込むように飛び込んでくる。
柔らかな金髪は乱れ、大粒の涙で頬を濡らしていた。
淡い桃色の瞳は恐怖に揺れ、華奢な肩が細かく震えている。
リリシア・クラウツ。
魔導科二年。
特等枠に所属する治癒術師だった。
彼女の周囲では、白銀の光が不規則に脈打っていた。
本来なら傷を塞ぎ、命を支えるはずの光。
けれど今は、リリシアの恐怖へ呼応し、近づくものすべての魔力回路へ流れ込もうとしている。
廊下の向こうには、若い補助教師が顔を青ざめさせて立っていた。
片手を押さえ、苦痛に顔を歪めている。
手の甲にあった小さな擦り傷は、すでに塞がっていた。
それでも白銀の光は治癒を止めず、閉じた皮膚の下へなお魔力を押し込もうとしている。
赤く腫れた指先が、細かく震えていた。
「す、すみません……!注意事項は知っていました。でも、リリシアさんが段差で倒れそうになって、考えるより先に手を伸ばしてしまって……!」
「下がってください」
ギルベルトの声は低く、短かった。
「近づくほど防衛反応が強くなる。廊下の人を遠ざけて、医療科の担当者と学園長へ連絡を」
補助教師は強く頷き、押さえていた手を胸元へ引き寄せながら後退した。
三秒が経つ。
扉の内側へ、淡い灰色の遮断障壁が立ち上がった。
ラウンジの中へリリシアを閉じ込めるためではない。
事情を知らない生徒や教師が、廊下から不用意に近づくことを防ぐための境界だった。
リリシアは扉から離れるように、ラウンジの奥へ下がっていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!わたし、また傷つけてしまいます……!」
握りしめた彼女自身の掌には、爪が食い込んでいた。
赤い血が滲む。
傷は白銀の光によって瞬時に塞がった。
けれど治癒は止まらない。
すでに閉じた皮膚の内側へなお力が流れ込み、リリシアは熱と痛みに耐えるように肩を縮めた。
「自己防衛型の治癒が止まっていない」
ギルベルトが低く言った。
「傷だけじゃない。近づく相手の魔力回路まで、異常があるものとして整えようとする。触れれば危険だ」
リリシアの白銀の光が、さらに外側へ膨れ上がる。
ギルベルトはアトカの前へ片腕を出した。
「新入り、下がれ」
「でも、泣いています」
「泣いていても危険なものは危険だ。本人にも止められていない」
ギルベルトの声に、苛立ちはなかった。
あるのは、この力がどれほど危険か知っている者の警戒だけだった。
けれどアトカは、リリシアから目を逸らさなかった。
泣いている。
怖がっている。
自分の力を止められず、誰かを傷つけたことに怯えている。
アトカの胸へ浮かんだのは、難しい理論ではなかった。
アルン平原の家で、ステラがよくしていたことだった。
怪我をした小鳥を見つけた時。
道に迷い、泣いている子供を見つけた時。
ステラは決して急に抱き寄せなかった。
怖がらせない距離で膝を折り、柔らかな声をかけ、相手が自分からこちらを見てくれるまで待っていた。
助けることは、無理に触れることではない。
近づくことだけが、優しさではない。
アトカはそれを、母の背中から覚えていた。
「ギルベルト先輩」
「何だ」
「触りません。近づきすぎもしません」
ギルベルトの灰色の瞳が細まる。
「何をする」
「光が一か所へ集まらないように、水の霧へ触れさせます」
「範囲は」
「僕とリリシアさんの間だけです」
「維持する時間は」
「まず三呼吸だけ」
「治癒魔力が義手へ流れてきたら」
「すぐに外への魔力を閉じます。光が触れた水滴からも、僕の魔力を外します」
「今の状態は」
アトカは自分の肩と義手へ意識を向けた。
「少し疲れています。でも、肩に熱はありません。指もいつもどおり動きます」
ギルベルトは一瞬だけ黙った。
懐中時計が、次の三秒を刻む。
「分かった」
ギルベルトは新しい遅延術式の種を、アトカとリリシアの間へ置いた。
「三秒後、この線へ遮断障壁が立つ。お前の霧が先に届き、治癒魔力が弱まったと俺が判断すれば、発動する前に解除する」
「間に合わなかったら?」
「障壁で切る」
ギルベルトはアトカの横顔を見る。
「異常を感じたら、俺の判断を待たずに接続を閉じろ」
「はい」
アトカはリリシアへ向き直った。
すぐには足を動かさない。
今いる場所から、静かに声をかける。
「リリシアさん」
少女の肩がびくりと震えた。
「僕は、ここから近づきません」
「こ、来ないで……ください……。わたし、壊しちゃう……」
「うん。だから、ここで止まります」
アトカは本当に止まった。
リリシアから数歩離れた位置。
白銀の光が届くぎりぎりの外側。
そこで義手の右手を、ゆっくりと胸の前へ上げる。
指先はリリシアへ向けない。
彼女を掴もうとする形ではなく、空気を静かに支えるように開くだけだった。
「ここから、水の霧を広げてもいいですか」
リリシアは涙に濡れた瞳で、アトカを見た。
「さ、触らない……?」
「触りません。嫌なら首を振ってください。何もしません」
アトカは待った。
急かさない。
返事を求めて、同じ言葉を重ねたりもしなかった。
やがてリリシアの顎が、震えながら僅かに下がった。
小さな頷きだった。
「ありがとうございます」
アトカは静かに息を吸った。
心臓の音を聴く。
右肩から義手へ、魔力を巡らせる。
五本の指が、ゆっくりと開いた。
透明な水霧が、指先から音もなく生まれる。
濃い壁ではない。
リリシアを閉じ込める檻でもない。
二人の間へ漂う、一粒一粒が目に見えないほど細かな霧だった。
白銀の光が、再び外へ弾ける。
その先へ、水霧が触れた。
光を消しはしない。
治癒の性質も変えない。
ただ、一方向へ突き刺さろうとする魔力を、無数の水滴へ触れさせる。
一つだった流れが、二つに分かれる。
二つが四つに。
四つが、さらに細かな流れへほどけていく。
治癒の光が触れた水滴から、アトカは自分の魔力を一つずつ外した。
白銀の力を、自分の義手まで導かないためだった。
アトカとの接続を失った水滴は、一粒ずつ孤立していく。
細かく分けられた治癒魔力は、新たな魔力回路を捉えられるほどの強さを保てない。
リリシアとのつながりも薄れ、淡い光となって空気へほどけていった。
三秒。
アトカとリリシアの間へ置かれた種が発動する直前、ギルベルトは指先を閉じた。
遅延術式が解除される。
霧が治癒の光を分け、こちらへ届く勢いを弱めたと判断したからだった。
ギルベルトの灰色の瞳が、僅かに見開かれる。
「押さえているんじゃない。接触する場所を増やして、流れを分けているのか」
アトカは答えなかった。
返事をする余裕がなかった。
リリシアの光は優しい。
けれど恐怖によって、強く、鋭くなっている。
無理に掴めば、きっと傷つける。
だからアトカは、水霧の薄さだけを保ち続けた。
濃くしすぎない。
閉じ込めない。
自分の水ですべてを包もうとしない。
荒れた流れが誰かへぶつかる前に、広がって弱まれる場所だけを作る。
「リリシアさん」
アトカは水霧を保ったまま、静かに呼びかける。
「僕と一緒に、ゆっくり息を吐けますか」
リリシアの唇が震える。
「む、無理……です……」
「全部じゃなくていいです。少しだけで大丈夫です」
アトカは自分から、ゆっくりと息を吐いた。
キルウェスタに何度も叩き込まれた呼吸。
魔力を押し出さず、胸の奥から静かにほどくための呼吸だった。
「一緒に、少しだけ」
リリシアはアトカを見つめた。
白い髪。
澄んだ青い瞳。
胸の前で開かれた木製の義手。
近づかず、触れず、けれど逃げずにそこへ立っている少年。
リリシアは震えながら、短く息を吐いた。
白銀の光が僅かに弱まる。
もう一度。
アトカが息を吐く。
リリシアも、途切れながらそれに続く。
三度目。
肩の震えが、ほんの少しだけ小さくなる。
彼女の周囲へ溢れていた光が、初めて自分の身体へ近い範囲まで縮んだ。
アトカはその変化を感じ取ると、水霧を少しだけ薄くした。
光が届かなくなった場所へ、いつまでも水を残しておく必要はない。
必要がなくなった水までそこにあれば、今度は自分の霧がリリシアを怖がらせてしまうかもしれなかった。
やがて、白銀の光は淡い膜となって彼女の身体だけを包んだ。
もう、誰かの魔力回路へ伸びようとはしていない。
アトカは水霧を一度に消さなかった。
外側から少しずつ薄め、最後の一滴まで自分の意思で接続を閉じていく。
消えていく霧の最後の一滴を、二人の間の床へ集めた。
透明な花が、一輪だけ咲く。
リリシアへ差し出すのではない。
二人の間に残された距離を示すように、静かに置かれた水の花だった。
「今は、誰も傷ついていません」
アトカは優しく言った。
「僕も、ここにいます」
リリシアの濡れた睫毛が揺れる。
「どこか痛いところはありませんか」
その一言で、リリシアの表情がくしゃりと歪んだ。
彼女はすぐには答えられなかった。
目の前の少年は近づいてこなかった。
けれど、いなくなりもしなかった。
「て、手が……少し、熱いです……」
「見せてもらってもいいですか」
リリシアは反射的に手を引きかけた。
アトカは動かなかった。
触ろうともしない。
ただ返事を待つ。
やがてリリシアは、握りしめていた手を僅かに開いた。
掌には、爪が食い込んだ跡が赤く残っている。
傷は塞がっていた。
けれど白銀の光を流し続けたためか、皮膚の内側には熱が残っていた。
「触らなくても見えます」
アトカは安心させるように言った。
「医療科の先生が来たら、診てもらいましょう」
リリシアは、小さく頷いた。
「僕はアトカ・アッシュフォードです。今日から特等枠に入りました」
リリシアは短く息を吸う。
まだ声は震えていた。
それでも、先ほどより少しだけ、自分の意思で言葉を出せていた。
「リ、リリシア……クラウツ、です……。二年です……」
「リリシア先輩ですね。よろしくお願いします」
アトカは丁寧に頭を下げた。
リリシアは驚いたように目を丸くした。
先輩。
怖がられるでもない。
避けられるでもない。
危険な力だけで呼ばれるのでもない。
同じ場所で学ぶ、一人の生徒として扱われた。
「よ、よろしく……お願いします……アトカ君」
その名を口にした時、涙に濡れたリリシアの口元が、笑おうとしたように僅かに動いた。
ギルベルトは二人を見ながら、懐中時計を制服の内側へ戻した。
「初日から、ずいぶん厄介な場面へ首を突っ込んだな」
アトカが振り返る。
「厄介だったんですか?」
「悪い。今言うことじゃなかったな」
ギルベルトは短く息を吐いた。
それから、アトカが霧を消した場所へ目を向ける。
「必要な分だけ残して、必要がなくなれば閉じたか」
アトカは義手の指を見下ろした。
「もう光が届いていないところに水を残したら、今度は僕の霧が怖がらせると思ったんです」
ギルベルトは数秒だけ黙った。
「なるほど」
短い一言だった。
けれど、先ほどまでの新入りへ向けた声とは、ほんの少しだけ響きが違っていた。
ギルベルトの視線が、アトカの胸元へ移る。
黒蜘蛛の紋章。
その下へ留められた翡翠色の石。
「黒蜘蛛を背負わせるだけの理由はあるらしいな」
アトカは不思議そうに首を傾げた。
「黒蜘蛛、ですか?」
「そのローブの紋章だ。意味を知らずに着ているなら、なかなか大物だな」
「キルウェスタ先生が、帝都で舐められないようにってくださいました」
「……やっぱり意味を分かっていないな」
ギルベルトは小さく息を吐いた。
その声に呆れはあっても、侮りはなかった。
リリシアはまだ涙の跡を残したまま、アトカを見つめていた。
アトカ・アッシュフォード。
アトカ君。
怖がらずに触れた少年ではない。
怖さを認め、触れずに、けれど離れすぎずにいてくれた少年。
特等枠には、決められた教室も時間割もない。
自分で学ぶ自由があり、その力を実地で確かめる定期課題がある。
けれどアトカが特等枠で最初に学んだのは、危険な術式の知識でも、施設の使い方でもなかった。
近づかないことと、見捨てないことは、同じではない。
その日のラウンジに、初めての小さな安心が灯った。
それが、アトカと特等枠の仲間たちとの、本当の意味での最初の出会いだった。




