測定不能の特等枠
「少なくとも、この試験場で君を測り続ける必要はない」
老教授がそう告げても、試験場を包む静寂は解けなかった。
観察席に集まった上級生も教師たちも、時間を止められたように中央を見つめている。
防御結界には、一時的に魔力を薄められた円形の跡が残っていた。
術式は壊れていない。
床を走る供給線にも、ゴーレムの機体にも損傷はなかった。
ただ、教員訓練用の鋼鉄ゴーレムだけが、十歳の少年の前へ膝をついたまま、完全に沈黙している。
その少年は、杖を持っていなかった。
術式を展開した形跡もない。
漆黒のローブを纏い、右肩へ木製の義手を備え、空の左袖を静かに揺らしながら、アトカは老教授を見上げていた。
「課題は終わりました」
穏やかな声が、静まり返った試験場へ響く。
「次は、どこへ行けばいいですか?」
すぐに答える者はいなかった。
少し前まで観察席に満ちていた嘲笑も、好奇の囁きも、今は跡形もない。
主任教師は制御盤の前で青ざめていた。
手にした書類の端が、強く握られた指の中で歪んでいる。
試験条件は満たされていた。
防御結界を越え、動き出したゴーレムを停止させる。
アトカはそのどちらも、制限時間を大きく残して成し遂げた。
しかも、何一つ壊していない。
結界を破壊したのではない。
維持に使われる外界の魔力を、通過に必要な範囲だけ薄く分散させた。
ゴーレムを攻撃したのでもない。
床を走る放散経路へ供給魔力を逃がし、倒れ始めた機体を水で支えながら、静かに膝をつかせた。
主任教師の知る採点基準には、その方法を記す欄がなかった。
老教授はアトカへ答えようとしたが、その前に、試験場の奥にある重厚な扉が開いた。
白いローブの裾が、音もなく床を滑る。
腰まで届く長い銀髪。
穏やかな琥珀色の瞳。
先ほど報告へ走った若い教師を従え、一人の男が試験場へ入ってきた。
「待たせてしまったね」
声は柔らかかった。
だが、その姿を認めた瞬間、教師たちが一斉に姿勢を正す。
「学園長……」
王立エルシオン学園長、フレデリック。
彼は試験場へ入ると、最初にアトカを見た。
頭の先から身体を値踏みするような視線ではなかった。
顔色。
呼吸。
立ち方。
義手の指先に異常な震えが残っていないこと。
それらを短く確かめてから、フレデリックは問いかけた。
「怪我はないかい、アトカ君」
アトカは自分の義手と身体を確かめてから頷いた。
「はい。少し疲れましたけど、痛いところはありません」
「それならよかった」
フレデリックは僅かに表情を和らげ、次に老教授へ視線を向けた。
「報告は受けたよ。教員訓練用の第三設定。変更権限の記録なし。候補者は一分にも満たない時間で条件を達成。設備への損傷もなし――間違いないかな」
「相違ありません」
老教授は答えた。
「試験記録と制御盤の変更履歴は、すでに保全させています」
「ありがとう。主任教師の判断については、後ほど正式に確認しよう」
フレデリックの声は穏やかなままだった。
けれど、主任教師の肩が目に見えて強張る。
「今ここで扱うべきなのは、彼の試験結果だ」
フレデリックは主任教師へ向き直った。
「確認しよう。課題は、防御結界を越え、内側のゴーレムを停止させることだったね」
「……はい」
「制限時間内に、設備と本人の双方へ重大な損傷を出すことなく達成した」
主任教師は唇を引き結んだ。
「しかし、学園長。術式の構築は確認できません。放魔反応も極めて微弱です。魔力量、術式精度、破壊力、いずれも既存の基準表では採点が――」
「できないだろうね」
フレデリックはあっさりと認めた。
「だが、評価できないことと、不合格であることは違う」
主任教師は言葉を失った。
フレデリックは観察席へ視線を巡らせる。
「測定器に映らないものを、存在しないことにするのは簡単だ。既存の理論へ収まらないものを、間違いだと切り捨てるのもね」
琥珀色の瞳が、静かに教師たちを見渡した。
「だが、それでは学問の意味がない。未知に出会った時、目の前の事実を否定するのではなく、まず自分たちの器が正しいのかを疑う。それが、この学園で魔導を教える者の責任だ」
老教授が深く頷いた。
観察席にいる若い教師たちは、制御盤や記録板へ視線を戻す。
ほんの少し前まで、腕も杖もない少年が何をできるのかと囁いていた上級生たちは、誰一人として声を上げなかった。
フレデリックは再びアトカへ向き直る。
「アトカ君」
「はい」
「まず、特別実技試験は合格だ。君が王立エルシオン学園の魔導科へ入る資格を疑う必要はない」
アトカの青い瞳が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、君を通常の課程へ入れ、ほかの生徒と同じ時間割、同じ課題、同じ試験だけで育てることはできない」
フレデリックの視線が、アトカの胸元へ移った。
漆黒のローブへ縫い取られた黒蜘蛛の紋章。
その下へ留められた、翡翠色の石。
「その紋章を、キルウェスタから授かったと聞いたよ」
「はい。キルウェスタ先生に魔術を教えていただきました」
観察席の空気が、もう一度わずかに揺れる。
フレデリックは困ったように苦笑した。
「なるほど。あの人が育てた弟子なら、通常の測定器が役に立たないのも無理はない」
「学園長は、キルウェスタ先生のお知り合いなんですか?」
「知り合いと言い切れるほど対等な関係かは、少し怪しいけれどね。学園も私も、何度か随分と振り回されたよ」
「先生、帝都でもすごいんですね」
「すごいという言葉だけで済む方なら、私ももう少し苦労せずにいられただろうね」
アトカは誇らしそうに笑った。
フレデリックはその笑顔を見てから、本題へ戻る。
「アトカ君。君を、特等枠へ登録する」
その言葉に、教師たちの間から抑えきれないざわめきが起こった。
「特等枠……」
「一年生を?」
「学園長権限で直接……」
アトカは周囲の反応を不思議そうに見回した。
「特等枠って、何ですか?」
「通常の授業や試験では、能力も危険性も正しく測れない生徒のための制度だよ」
フレデリックは、十歳のアトカにも分かるよう、ゆっくりと言葉を選んだ。
「優秀な生徒へ与えられる褒賞ではない。好き勝手に振る舞うための特権でもない。一般の枠へ無理に押し込めれば、本人の成長を妨げるだけでなく、周囲へ危険を及ぼす可能性がある者を、学園が別の方法で育てるための枠だ」
「僕は、みんなと同じ授業を受けないんですか?」
「原則として、通常授業への出席は免除される」
アトカは僅かに目を丸くした。
フレデリックは続ける。
「君は魔導科一年生として籍を置く。だが、毎日決められた教室へ座り、鐘の音に合わせて同じ内容を学ぶ必要はない。特等枠の生徒は、自分に必要な知識と技術を、自分で選びながら学ぶ」
「自分で、ですか?」
「ああ。図書館、一般資料室、演習場、研究棟、魔導工房、医療科の学習区画。学園内にある通常の教育施設は、原則として自由に利用できる」
フレデリックは一本ずつ指を折りながら説明する。
「魔導科だけに限らない。戦技科の演習を見学してもよい。医療科で身体や魔力について学んでもよい。魔導工学科の工房で義手や魔術具について調べてもよい。興味を持った講義があれば、途中から聴講することもできる」
兄のいる学科を思い浮かべたのか、アトカの声が少し弾んだ。
「戦技科の訓練にも参加できますか?」
「見学なら自由だ。実際に参加する場合は、担当教師と安全条件を決めてもらう。君の義手や身体へ合わない訓練まで、無理に受ける必要はないからね」
「はい」
「ただし、危険な場所まで自由になるわけではない」
フレデリックの声が僅かに引き締まる。
「封印記録保管庫、禁書庫、未完成の術式を扱う実験区画、危険な魔術具を収めた保管庫。そうした場所を利用する場合は、目的を書いて申請し、担当教師か学園長の許可を受ける必要がある」
「許可をもらえたら、入ってもいいんですか?」
「必要性と安全性が認められればね。資料だけを外へ出す場合もあれば、教師と一緒に入る場合もある。君一人で自由に扉を開けられるわけではない」
アトカは納得したように頷いた。
「分かりました。入っていいか分からない時は、先に先生へ聞きます」
「それでいい」
フレデリックは穏やかに笑った。
「そして、特等枠の生徒には、通常授業の代わりに学園から定期課題が与えられる」
「定期課題?」
「名前は課題だが、教室で紙へ答えを書くものばかりではない」
観察席にいる教師たちの表情が、僅かに引き締まる。
「異常が起きた魔導設備の調査。魔力災害の鎮静。危険な術式の検証。魔獣が現れた地域での救助。失われた資料の捜索。学園外で起きた事件への協力」
フレデリックはアトカの目を真っ直ぐに見た。
「特等枠の生徒は、学園で学んだことを、実際の問題へ使うことを求められる」
「任務みたいですね」
「実際、そのようなものだよ」
フレデリックは隠さなかった。
「一般の枠では測れない力を自由に学ばせる代わりに、その力をどう使い、どこで止め、誰と協力するのかを、実地で確かめてもらう。定期課題は学習であり、試験であり、特等枠が社会から離れた存在にならないための任務でもある」
アトカは少し考えた。
「困っている人を助ける課題もありますか?」
「ああ。むしろ、そうした課題の方が多いだろう」
「それなら、頑張ります」
「ただし、一人ですべてを背負ってはいけない」
フレデリックはすぐに付け加えた。
「課題には目的、危険範囲、中止条件が定められる。必要なら複数の特等枠生徒が組む。危険だと判断した時は、途中で止めることも課題の一部だ」
「止めても、失敗にならないんですか?」
「理由もなく放り出せば、当然その理由を問う。だが、身体や義手に異常が出た時、想定していなかった危険が現れた時、ほかの者へ引き継ぐべき時に止まることは、失敗ではない」
フレデリックの琥珀色の瞳が、静かにアトカを映す。
「特等枠で最も危険なのは、できなかったことではない。できない状態になっても、一人で続けようとすることだ」
アトカは義手の五指を、ゆっくりと握った。
「課題ができなかったら、学園にいられなくなりますか?」
フレデリックはすぐに首を振った。
「一度の失敗で、学園から追い出すことはない」
その言葉に、アトカの肩から僅かに力が抜ける。
「課題に失敗すれば、何が足りなかったのかを調べる。知識が足りなければ学ぶ。技術が足りなければ訓練する。一人では無理なら、次は仲間と行う」
フレデリックはアトカの目を真っ直ぐに見た。
「ただし、特等枠には大きな自由がある。その自由を受け取る以上、課題から逃げ続けることは認められない。学園は君たちを放置しない。君たちも、自分の力と向き合う責任から逃げてはいけない」
アトカは大きく頷いた。
「分かりました。僕、たくさん学んで、課題も頑張ります」
「いい返事だ」
その時、観察席にいた教師の一人が身を乗り出した。
「学園長。先ほどの現象について、早急な再現試験を行うべきです。外界魔力の局所的な分散が再現可能であれば、結界術式の研究に――」
「本人の魔力循環も測定させていただきたい。義手内部の経路と外界への干渉が、どのように接続されているのか――」
「今日は行わない」
フレデリックが片手を上げる。
声を荒らげたわけではない。
それでも、教師たちの言葉はぴたりと止まった。
「アトカ君は生徒だ。新しい術式具でも、研究室へ運び込まれた標本でもない」
琥珀色の瞳から、笑みが消える。
「観測や研究が必要なのは理解している。だが、本人への説明と同意、保護者への報告、担当教員による安全確認を欠いた接触は認めない。特等枠の記録は、学園長権限の管理下へ置く」
教師たちは黙って頭を下げた。
アトカはフレデリックを見上げる。
「ありがとうございます」
「礼は、これから君自身の力で学び続けてからにしなさい」
フレデリックの表情へ、穏やかな笑みが戻る。
「それに、まだ紹介していない場所がある。来なさい、アトカ君」
「はい」
アトカは老教授と試験官たちへ丁寧に頭を下げた。
「試験をしてくださって、ありがとうございました」
誰もすぐには答えられなかった。
やがて老教授が、僅かに目を細める。
「こちらこそ、良いものを見せてもらった」
アトカは嬉しそうに笑い、フレデリックの後を追った。
漆黒のローブが、歩みに合わせて静かに揺れる。
胸元の黒蜘蛛と翡翠色の留め石へ、もう嘲笑を向ける者はいなかった。
フレデリックが向かったのは、学園中央棟の北側に残された古い区画だった。
旧王家の時代から使われてきた研究棟。
一般の教室からは少し離れているが、閉ざされた場所ではない。窓の外には中庭が広がり、遠くには生徒たちが行き交う渡り廊下も見えた。
長い廊下の先に、重厚な木製の扉がある。
表面には、幾重もの魔術刻印が刻まれていた。
フレデリックが掌を触れると、刻印が淡く光り、内部の留め具が一つずつ外れていく。
「ここが、特等枠の専用ラウンジだ」
扉が音もなく開いた。
中は、教室というより、大きな家の居間に近かった。
使い込まれたソファー。
壁一面を埋める本棚。
窓辺へ置かれた観葉植物。
中央には大きな丸テーブルがあり、その周囲へ形も高さも異なる椅子が並んでいる。
机の一角には、膨大な計算式で埋め尽くされた紙束。
隣には、端の欠けた魔石と分解途中の魔術具。
小さな棚には、色の異なる液体を満たした瓶が整然と並べられている。
部屋の奥にある深い一人掛けの椅子には、誰かがつい先ほどまで座っていたように、開いた本が伏せられていた。
住人の姿はない。
それでも、何人もの異なる気配が、部屋のあちらこちらへ残されていた。
アトカは青い瞳を輝かせながら、室内を見回した。
「ここで、特等枠の人たちが勉強しているんですか?」
「ここは教室ではなく、君たちの拠点だよ」
フレデリックは大きな丸テーブルへ目を向けた。
「自分で決めた学習内容を整理する。定期課題について相談する。任務で確認したことを記録へ残す。利用したい施設や資料の申請を行う。そして、ほかの特等枠生徒と情報を共有する」
「ほかにもいるんですよね」
「ああ。現在は五人だ」
フレデリックは、部屋に残る品々へ視線を向けた。
「誰もが君とは違う理由で、一般の枠には収まらない。才能も、性格も、抱えている問題も、何一つ同じではない」
「一緒に課題へ行くこともあるんですか?」
「あるだろう。君一人では見えないものが、ほかの者には見えるかもしれない。逆も同じだ」
アトカは室内を見回した。
「仲良くできるかな」
「それは保証できないね」
フレデリックは苦笑する。
「仲良くなる前に、巻き込まれないよう気をつけた方がよい相手もいる」
アトカは少しだけ考えた後、素直に頷いた。
「それでも、話してみます」
「君なら、そう言うと思ったよ」
フレデリックは扉の脇へ退き、アトカが中へ入るための道を開けた。
アトカは敷居の前で一度立ち止まる。
辺境の家から、帝都へ。
家族と師だけが知っていた魔術を抱え、誰も自分を知らない学園へやってきた。
受付では身体を見られた。
試験では力を測られた。
そして今、普通の尺度には収まらない者たちのために用意された場所が、目の前へ開かれている。
決められた教室へ押し込めるための場所ではない。
測れないからと切り捨てず、自分で学ぶ自由を与え、その力を使う責任まで学園とともに引き受けるための拠点だった。
アトカは静かに息を吸った。
空の左袖が、開いた扉から流れ込む風に揺れる。
右肩から義手の指先まで、魔力が穏やかに巡っていた。
「よろしくお願いします」
その日。
アトカ・アッシュフォードは、王立エルシオン学園魔導科一年への入学を認められ、同時に特等枠へ登録された。
通常の授業から外れ。
決められた時間割にも縛られず。
必要な知識を、必要な場所で、自ら選んで学ぶ。
その代わり、学園から与えられる定期課題を通じて、自分の力を何のために使い、誰と協力し、どこで止めるのかを示さなければならない。
一般の枠では測れない五人が居座る場所へ。
六人目の怪物が、静かに足を踏み入れた。




