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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
特等枠の怪物たち
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23/34

測定不能の特等枠

「少なくとも、この試験場で君を測り続ける必要はない」


老教授がそう告げても、試験場を包む静寂は解けなかった。


観察席に集まった上級生も教師たちも、時間を止められたように中央を見つめている。


防御結界には、一時的に魔力を薄められた円形の跡が残っていた。


術式は壊れていない。


床を走る供給線にも、ゴーレムの機体にも損傷はなかった。


ただ、教員訓練用の鋼鉄ゴーレムだけが、十歳の少年の前へ膝をついたまま、完全に沈黙している。


その少年は、杖を持っていなかった。


術式を展開した形跡もない。


漆黒のローブを纏い、右肩へ木製の義手を備え、空の左袖を静かに揺らしながら、アトカは老教授を見上げていた。


「課題は終わりました」


穏やかな声が、静まり返った試験場へ響く。


「次は、どこへ行けばいいですか?」


すぐに答える者はいなかった。


少し前まで観察席に満ちていた嘲笑も、好奇の囁きも、今は跡形もない。


主任教師は制御盤の前で青ざめていた。


手にした書類の端が、強く握られた指の中で歪んでいる。


試験条件は満たされていた。


防御結界を越え、動き出したゴーレムを停止させる。


アトカはそのどちらも、制限時間を大きく残して成し遂げた。


しかも、何一つ壊していない。


結界を破壊したのではない。


維持に使われる外界の魔力を、通過に必要な範囲だけ薄く分散させた。


ゴーレムを攻撃したのでもない。


床を走る放散経路へ供給魔力を逃がし、倒れ始めた機体を水で支えながら、静かに膝をつかせた。


主任教師の知る採点基準には、その方法を記す欄がなかった。


老教授はアトカへ答えようとしたが、その前に、試験場の奥にある重厚な扉が開いた。


白いローブの裾が、音もなく床を滑る。


腰まで届く長い銀髪。


穏やかな琥珀色の瞳。


先ほど報告へ走った若い教師を従え、一人の男が試験場へ入ってきた。


「待たせてしまったね」


声は柔らかかった。


だが、その姿を認めた瞬間、教師たちが一斉に姿勢を正す。


「学園長……」


王立エルシオン学園長、フレデリック。


彼は試験場へ入ると、最初にアトカを見た。


頭の先から身体を値踏みするような視線ではなかった。


顔色。


呼吸。


立ち方。


義手の指先に異常な震えが残っていないこと。


それらを短く確かめてから、フレデリックは問いかけた。


「怪我はないかい、アトカ君」


アトカは自分の義手と身体を確かめてから頷いた。


「はい。少し疲れましたけど、痛いところはありません」


「それならよかった」


フレデリックは僅かに表情を和らげ、次に老教授へ視線を向けた。


「報告は受けたよ。教員訓練用の第三設定。変更権限の記録なし。候補者は一分にも満たない時間で条件を達成。設備への損傷もなし――間違いないかな」


「相違ありません」


老教授は答えた。


「試験記録と制御盤の変更履歴は、すでに保全させています」


「ありがとう。主任教師の判断については、後ほど正式に確認しよう」


フレデリックの声は穏やかなままだった。


けれど、主任教師の肩が目に見えて強張る。


「今ここで扱うべきなのは、彼の試験結果だ」


フレデリックは主任教師へ向き直った。


「確認しよう。課題は、防御結界を越え、内側のゴーレムを停止させることだったね」


「……はい」


「制限時間内に、設備と本人の双方へ重大な損傷を出すことなく達成した」


主任教師は唇を引き結んだ。


「しかし、学園長。術式の構築は確認できません。放魔反応も極めて微弱です。魔力量、術式精度、破壊力、いずれも既存の基準表では採点が――」


「できないだろうね」


フレデリックはあっさりと認めた。


「だが、評価できないことと、不合格であることは違う」


主任教師は言葉を失った。


フレデリックは観察席へ視線を巡らせる。


「測定器に映らないものを、存在しないことにするのは簡単だ。既存の理論へ収まらないものを、間違いだと切り捨てるのもね」


琥珀色の瞳が、静かに教師たちを見渡した。


「だが、それでは学問の意味がない。未知に出会った時、目の前の事実を否定するのではなく、まず自分たちの器が正しいのかを疑う。それが、この学園で魔導を教える者の責任だ」


老教授が深く頷いた。


観察席にいる若い教師たちは、制御盤や記録板へ視線を戻す。


ほんの少し前まで、腕も杖もない少年が何をできるのかと囁いていた上級生たちは、誰一人として声を上げなかった。


フレデリックは再びアトカへ向き直る。


「アトカ君」


「はい」


「まず、特別実技試験は合格だ。君が王立エルシオン学園の魔導科へ入る資格を疑う必要はない」


アトカの青い瞳が明るくなる。


「本当ですか?」


「ああ。ただし、君を通常の課程へ入れ、ほかの生徒と同じ時間割、同じ課題、同じ試験だけで育てることはできない」


フレデリックの視線が、アトカの胸元へ移った。


漆黒のローブへ縫い取られた黒蜘蛛の紋章。


その下へ留められた、翡翠色の石。


「その紋章を、キルウェスタから授かったと聞いたよ」


「はい。キルウェスタ先生に魔術を教えていただきました」


観察席の空気が、もう一度わずかに揺れる。


フレデリックは困ったように苦笑した。


「なるほど。あの人が育てた弟子なら、通常の測定器が役に立たないのも無理はない」


「学園長は、キルウェスタ先生のお知り合いなんですか?」


「知り合いと言い切れるほど対等な関係かは、少し怪しいけれどね。学園も私も、何度か随分と振り回されたよ」


「先生、帝都でもすごいんですね」


「すごいという言葉だけで済む方なら、私ももう少し苦労せずにいられただろうね」


アトカは誇らしそうに笑った。


フレデリックはその笑顔を見てから、本題へ戻る。


「アトカ君。君を、特等枠へ登録する」


その言葉に、教師たちの間から抑えきれないざわめきが起こった。


「特等枠……」


「一年生を?」


「学園長権限で直接……」


アトカは周囲の反応を不思議そうに見回した。


「特等枠って、何ですか?」


「通常の授業や試験では、能力も危険性も正しく測れない生徒のための制度だよ」


フレデリックは、十歳のアトカにも分かるよう、ゆっくりと言葉を選んだ。


「優秀な生徒へ与えられる褒賞ではない。好き勝手に振る舞うための特権でもない。一般の枠へ無理に押し込めれば、本人の成長を妨げるだけでなく、周囲へ危険を及ぼす可能性がある者を、学園が別の方法で育てるための枠だ」


「僕は、みんなと同じ授業を受けないんですか?」


「原則として、通常授業への出席は免除される」


アトカは僅かに目を丸くした。


フレデリックは続ける。


「君は魔導科一年生として籍を置く。だが、毎日決められた教室へ座り、鐘の音に合わせて同じ内容を学ぶ必要はない。特等枠の生徒は、自分に必要な知識と技術を、自分で選びながら学ぶ」


「自分で、ですか?」


「ああ。図書館、一般資料室、演習場、研究棟、魔導工房、医療科の学習区画。学園内にある通常の教育施設は、原則として自由に利用できる」


フレデリックは一本ずつ指を折りながら説明する。


「魔導科だけに限らない。戦技科の演習を見学してもよい。医療科で身体や魔力について学んでもよい。魔導工学科の工房で義手や魔術具について調べてもよい。興味を持った講義があれば、途中から聴講することもできる」


兄のいる学科を思い浮かべたのか、アトカの声が少し弾んだ。


「戦技科の訓練にも参加できますか?」


「見学なら自由だ。実際に参加する場合は、担当教師と安全条件を決めてもらう。君の義手や身体へ合わない訓練まで、無理に受ける必要はないからね」


「はい」


「ただし、危険な場所まで自由になるわけではない」


フレデリックの声が僅かに引き締まる。


「封印記録保管庫、禁書庫、未完成の術式を扱う実験区画、危険な魔術具を収めた保管庫。そうした場所を利用する場合は、目的を書いて申請し、担当教師か学園長の許可を受ける必要がある」


「許可をもらえたら、入ってもいいんですか?」


「必要性と安全性が認められればね。資料だけを外へ出す場合もあれば、教師と一緒に入る場合もある。君一人で自由に扉を開けられるわけではない」


アトカは納得したように頷いた。


「分かりました。入っていいか分からない時は、先に先生へ聞きます」


「それでいい」


フレデリックは穏やかに笑った。


「そして、特等枠の生徒には、通常授業の代わりに学園から定期課題が与えられる」


「定期課題?」


「名前は課題だが、教室で紙へ答えを書くものばかりではない」


観察席にいる教師たちの表情が、僅かに引き締まる。


「異常が起きた魔導設備の調査。魔力災害の鎮静。危険な術式の検証。魔獣が現れた地域での救助。失われた資料の捜索。学園外で起きた事件への協力」


フレデリックはアトカの目を真っ直ぐに見た。


「特等枠の生徒は、学園で学んだことを、実際の問題へ使うことを求められる」


「任務みたいですね」


「実際、そのようなものだよ」


フレデリックは隠さなかった。


「一般の枠では測れない力を自由に学ばせる代わりに、その力をどう使い、どこで止め、誰と協力するのかを、実地で確かめてもらう。定期課題は学習であり、試験であり、特等枠が社会から離れた存在にならないための任務でもある」


アトカは少し考えた。


「困っている人を助ける課題もありますか?」


「ああ。むしろ、そうした課題の方が多いだろう」


「それなら、頑張ります」


「ただし、一人ですべてを背負ってはいけない」


フレデリックはすぐに付け加えた。


「課題には目的、危険範囲、中止条件が定められる。必要なら複数の特等枠生徒が組む。危険だと判断した時は、途中で止めることも課題の一部だ」


「止めても、失敗にならないんですか?」


「理由もなく放り出せば、当然その理由を問う。だが、身体や義手に異常が出た時、想定していなかった危険が現れた時、ほかの者へ引き継ぐべき時に止まることは、失敗ではない」


フレデリックの琥珀色の瞳が、静かにアトカを映す。


「特等枠で最も危険なのは、できなかったことではない。できない状態になっても、一人で続けようとすることだ」


アトカは義手の五指を、ゆっくりと握った。


「課題ができなかったら、学園にいられなくなりますか?」


フレデリックはすぐに首を振った。


「一度の失敗で、学園から追い出すことはない」


その言葉に、アトカの肩から僅かに力が抜ける。


「課題に失敗すれば、何が足りなかったのかを調べる。知識が足りなければ学ぶ。技術が足りなければ訓練する。一人では無理なら、次は仲間と行う」


フレデリックはアトカの目を真っ直ぐに見た。


「ただし、特等枠には大きな自由がある。その自由を受け取る以上、課題から逃げ続けることは認められない。学園は君たちを放置しない。君たちも、自分の力と向き合う責任から逃げてはいけない」


アトカは大きく頷いた。


「分かりました。僕、たくさん学んで、課題も頑張ります」


「いい返事だ」


その時、観察席にいた教師の一人が身を乗り出した。


「学園長。先ほどの現象について、早急な再現試験を行うべきです。外界魔力の局所的な分散が再現可能であれば、結界術式の研究に――」


「本人の魔力循環も測定させていただきたい。義手内部の経路と外界への干渉が、どのように接続されているのか――」


「今日は行わない」


フレデリックが片手を上げる。


声を荒らげたわけではない。


それでも、教師たちの言葉はぴたりと止まった。


「アトカ君は生徒だ。新しい術式具でも、研究室へ運び込まれた標本でもない」


琥珀色の瞳から、笑みが消える。


「観測や研究が必要なのは理解している。だが、本人への説明と同意、保護者への報告、担当教員による安全確認を欠いた接触は認めない。特等枠の記録は、学園長権限の管理下へ置く」


教師たちは黙って頭を下げた。


アトカはフレデリックを見上げる。


「ありがとうございます」


「礼は、これから君自身の力で学び続けてからにしなさい」


フレデリックの表情へ、穏やかな笑みが戻る。


「それに、まだ紹介していない場所がある。来なさい、アトカ君」


「はい」


アトカは老教授と試験官たちへ丁寧に頭を下げた。


「試験をしてくださって、ありがとうございました」


誰もすぐには答えられなかった。


やがて老教授が、僅かに目を細める。


「こちらこそ、良いものを見せてもらった」


アトカは嬉しそうに笑い、フレデリックの後を追った。


漆黒のローブが、歩みに合わせて静かに揺れる。


胸元の黒蜘蛛と翡翠色の留め石へ、もう嘲笑を向ける者はいなかった。


フレデリックが向かったのは、学園中央棟の北側に残された古い区画だった。


旧王家の時代から使われてきた研究棟。


一般の教室からは少し離れているが、閉ざされた場所ではない。窓の外には中庭が広がり、遠くには生徒たちが行き交う渡り廊下も見えた。


長い廊下の先に、重厚な木製の扉がある。


表面には、幾重もの魔術刻印が刻まれていた。


フレデリックが掌を触れると、刻印が淡く光り、内部の留め具が一つずつ外れていく。


「ここが、特等枠の専用ラウンジだ」


扉が音もなく開いた。


中は、教室というより、大きな家の居間に近かった。


使い込まれたソファー。


壁一面を埋める本棚。


窓辺へ置かれた観葉植物。


中央には大きな丸テーブルがあり、その周囲へ形も高さも異なる椅子が並んでいる。


机の一角には、膨大な計算式で埋め尽くされた紙束。


隣には、端の欠けた魔石と分解途中の魔術具。


小さな棚には、色の異なる液体を満たした瓶が整然と並べられている。


部屋の奥にある深い一人掛けの椅子には、誰かがつい先ほどまで座っていたように、開いた本が伏せられていた。


住人の姿はない。


それでも、何人もの異なる気配が、部屋のあちらこちらへ残されていた。


アトカは青い瞳を輝かせながら、室内を見回した。


「ここで、特等枠の人たちが勉強しているんですか?」


「ここは教室ではなく、君たちの拠点だよ」


フレデリックは大きな丸テーブルへ目を向けた。


「自分で決めた学習内容を整理する。定期課題について相談する。任務で確認したことを記録へ残す。利用したい施設や資料の申請を行う。そして、ほかの特等枠生徒と情報を共有する」


「ほかにもいるんですよね」


「ああ。現在は五人だ」


フレデリックは、部屋に残る品々へ視線を向けた。


「誰もが君とは違う理由で、一般の枠には収まらない。才能も、性格も、抱えている問題も、何一つ同じではない」


「一緒に課題へ行くこともあるんですか?」


「あるだろう。君一人では見えないものが、ほかの者には見えるかもしれない。逆も同じだ」


アトカは室内を見回した。


「仲良くできるかな」


「それは保証できないね」


フレデリックは苦笑する。


「仲良くなる前に、巻き込まれないよう気をつけた方がよい相手もいる」


アトカは少しだけ考えた後、素直に頷いた。


「それでも、話してみます」


「君なら、そう言うと思ったよ」


フレデリックは扉の脇へ退き、アトカが中へ入るための道を開けた。


アトカは敷居の前で一度立ち止まる。


辺境の家から、帝都へ。


家族と師だけが知っていた魔術を抱え、誰も自分を知らない学園へやってきた。


受付では身体を見られた。


試験では力を測られた。


そして今、普通の尺度には収まらない者たちのために用意された場所が、目の前へ開かれている。


決められた教室へ押し込めるための場所ではない。


測れないからと切り捨てず、自分で学ぶ自由を与え、その力を使う責任まで学園とともに引き受けるための拠点だった。


アトカは静かに息を吸った。


空の左袖が、開いた扉から流れ込む風に揺れる。


右肩から義手の指先まで、魔力が穏やかに巡っていた。


「よろしくお願いします」


その日。


アトカ・アッシュフォードは、王立エルシオン学園魔導科一年への入学を認められ、同時に特等枠へ登録された。


通常の授業から外れ。


決められた時間割にも縛られず。


必要な知識を、必要な場所で、自ら選んで学ぶ。


その代わり、学園から与えられる定期課題を通じて、自分の力を何のために使い、誰と協力し、どこで止めるのかを示さなければならない。


一般の枠では測れない五人が居座る場所へ。


六人目の怪物が、静かに足を踏み入れた。

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