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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
特等枠の怪物たち
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22/36

黒蜘蛛の弟子

特別実技試験場の周囲には、受付ホールでの騒ぎを聞きつけた教師や上級生たちが、少しずつ集まり始めていた。


両腕のない入学希望者が、魔導科の実技試験を受けるらしい。


右肩には義手をつけているが、杖は持っていない。


術式も得意ではないと、自分から認めたという。


噂は短い廊下を走る間に形を変え、試験場へ届く頃には、すでに好奇と嘲笑をたっぷり含んだものになっていた。


「腕がないのに魔導科へ?」


「右は義手らしいぞ」


「杖はどうするんだ?」


「術式を使えないなら、何を試すんだよ」


防護壁に囲まれた観察席で、上級生たちが声を潜めている。


教師たちは表面上こそ静かだったが、その視線にも疑いがあった。


魔導科は、術式を学ぶ場所である。


体内の魔力を練り、杖や触媒によって方向を定め、術式によって現象の形と範囲を制限し、安全に外へ放つ。


それが、多くの魔術師が歩む正統な道だった。


杖を持たず、術式も満足に扱えないという少年が、どのように魔導科の課程へ加わるつもりなのか。


彼らには想像できなかった。


試験場の上段には、一人の老教授も腰を下ろしていた。


白く長い眉と、深い皺に囲まれた灰色の瞳。


騒ぎを聞きつけて見物へ来たのではない。


もともと試験設備の定期点検へ立ち会っていたところへ、主任教師が突然、この特別試験を差し込んだのである。


その老教授の眼前で、重厚な鋼鉄製のゴーレムが試験場の中央へ運び込まれていた。


通常の入学実技で使われる木製標的や、低出力の訓練人形ではない。


上級生や教師の対魔術訓練にも使われる、魔力供給式の鋼鉄ゴーレムだった。


胸部には青白い魔力灯がともり、巨体を包むように幾重もの防御結界が展開されている。


衝撃を受け止める外層。


魔力干渉を吸収する内層。


その下には、結界とゴーレムへ魔力を供給する線を守るための補助術式まで広がっていた。


制御盤を確認した老教授の眉が、僅かに寄る。


「主任」


静かな声だった。


だが、その一言だけで、近くにいた試験官たちの背筋が伸びた。


「教員訓練用の第三設定になっているようだが」


主任教師は制御盤の前に立ったまま答える。


「通常の設備では、彼の能力を正確に確認できないと判断しました」


「候補者用の出力上限を越えている」


「緊急遮断は有効です。危険と判断すれば、即座に停止します」


老教授は主任教師をしばらく見つめた。


「設定の変更権限を、誰から得たのかね」


主任教師は答えなかった。


その沈黙だけで十分だった。


老教授は傍らの若い試験官へ視線を移す。


「制御記録を保存しておきなさい。変更履歴も消してはならん」


「はい」


「緊急遮断は私も預かる」


老教授はそれ以上、主任教師を問い詰めなかった。


試験前に騒ぎを大きくすれば、中央に立つ子供をさらに晒すことになる。


ただ、その灰色の瞳から穏やかさだけが消えていた。


試験場の中央。


アトカは、自分より遥かに大きな鋼鉄ゴーレムを見上げていた。


漆黒のローブの胸元には、細い脚を広げた黒蜘蛛の紋章が堂々と縫い取られている。


その下では、翡翠色の留め石が試験場の光を受け、深い緑の輝きを宿していた。


紋章へ目を留めた者はいた。


だが、その意味を正確に理解した者はいない。


古い魔術師の家系を表す印。


辺境の工房が作った意匠。


その程度にしか思われていなかった。


主任教師も、ローブが上等な品であることには気づいていた。


しかし彼の視線が長く留まったのは、胸元の紋章ではなかった。


風に揺れる空の左袖。


ローブの下から僅かに覗く、木製の義手。


そして、どこにも見当たらない杖だった。


「条件を説明する」


主任教師の声が、試験場へ響く。


「正面の防御結界を突破し、その内側にあるゴーレムを停止させなさい。制限時間は三分」


彼は一拍置き、アトカを見据えた。


「結界が破られた場合、ゴーレムは侵入者を排除するために動作を開始する。攻撃を受ける前に停止させることも、試験の一部だ」


観察席が僅かにざわめいた。


教員訓練用の第三設定では、ゴーレムの動作速度も、新入生用とは比較にならない。


老教授の指が緊急遮断板の上へ置かれる。


主任教師は続けた。


「危険と判断した場合、こちらで試験を中断する。無理だと思うなら、今のうちに辞退しても構わない」


アトカはゴーレムを見上げたまま、少し考えた。


結界を突破する。


その後、動き出すゴーレムを停止させる。


壊せとは言われていない。


「分かりました」


穏やかな返事だった。


主任教師の眉が僅かに動く。


「では、始めなさい」


計時器が動き出す。


アトカは、すぐには義手を上げなかった。


まず、静かに息を吸う。


心臓の音を聴く。


ドクン。


試験場に満ちる魔力の流れへ意識を向ける。


難しい術式の線は読めない。


床へ描かれた幾何学模様が、どのような理論で組まれているのかも分からない。


けれど、流れなら感じられた。


正面を塞ぐ、硬く張り詰めた魔力。


その奥にある鋼鉄の人形。


床から絶えず流れ込み、結界とゴーレムの両方へ力を送り続けている太い流れ。


アトカは義手を、ローブの内側から静かに出した。


五本の木製の指が開く。


心臓から右肩へ。


右肩から接合部を越え、義手へ。


肘。


手首。


人差し指。


三年間かけて作り上げた魔力の道を、淀みなく流れていく。


押し出さない。


必要な分だけ流す。


終わる時には、自分で閉じる。


アトカの人差し指から、糸よりも細い魔力が外へ放たれた。


光はない。


衝撃もない。


観察席からは、何も始まっていないように見えた。


主任教師が苛立ったように声を上げる。


「何をしている。試験は始まっているぞ」


アトカは防御結界を見つめたまま答えた。


「はい。僕も、もう始めています」


義手から伸びた細い魔力が、結界の表面へ触れた。


最初に反応したのは、上段の老教授だった。


灰色の瞳が鋭く細められる。


結界の術式は崩れていない。


幾何学模様も、一つとして消えていない。


だが、結界の一点へ集められていた外界の魔力が、僅かに揺れた。


アトカは、自分の魔力が触れている範囲だけへ意識を絞る。


世界全体を見ない。


外界へ自分を溶かさない。


今、指先から届いている小さな場所だけを見る。


硬い。


一つの壁であるために、同じ方向へ張り詰めている。


けれど、そこに集まっているものも魔力だ。


流れ方を変えられる。


アトカは、その流れへ水霧の像を重ねた。


硬い壁ではなく。


細かな粒となり、広く漂う霧。


結界そのものを水へ変えたのではない。


術式を書き換えたのでもない。


結界の一部へ集中していた外界の魔力だけが、アトカの像へ引かれ、細かな流れへ分かれ始めた。


一点へ集まり、硬さを生み出していた力が薄く広がっていく。


防御結界の表面へ、淡い滲みが生まれた。


「な……」


若い試験官が息を呑む。


幾何学模様はまだ残っている。


術式は防壁を維持しようとしている。


しかし、その一点へ流れ込む魔力だけが足りない。


透明な結界の中央へ、指先ほどの小さな薄まりが生まれる。


それはゆっくりと広がり、やがてアトカ一人が通れるほどの円形の空白になった。


破砕音はなかった。


結界の欠片も飛び散らない。


防壁の中央だけが、最初からそこに道があったように静かに開いていた。


「結界を破ったのではない……」


老教授が低く呟く。


「維持に使われる外界魔力だけを、周囲へ流したのか」


その瞬間だった。


鋼鉄ゴーレムの胸部にある魔力灯が、強く輝く。


侵入を検知した巨体が動き始めた。


ゴォン、と片脚が床を踏む。


鋼鉄の右腕が持ち上がり、アトカへ向かって振り下ろされる。


観察席から悲鳴が上がった。


老教授の指が緊急遮断板へ沈みかける。


だが、その前にアトカが動いた。


半歩。


ただ、それだけだった。


キルウェスタから三年間叩き込まれた足運び。


身体の軸を崩さず、呼吸を乱さず、攻撃線から僅かに外れる。


鋼鉄の拳が、アトカの空の左袖をかすめるように通り過ぎた。


同時に、義手の五指が動く。


結界から散らした外界の魔力へ、水の像が重なる。


三本の水帯が空中へ生まれた。


一本は、振り下ろされた鋼鉄の腕へ。


一本は、ゴーレムの肩関節へ。


最後の一本は、巨体の腰へ。


水帯は腕を力任せに止めなかった。


鋼鉄の動きに沿って流れ、その向きを僅かに外側へ導く。


拳はアトカを捉えず、何もない床の脇を通過した。


ゴォン、と空気が震える。


アトカはすでに、次の流れを見ていた。


床からゴーレムへ届く、太い魔力。


その周囲にある、幾つもの細い分かれ道。


それが安全のために設けられた逃がし線であることを、アトカは知らない。


ただ、一本へ集められた流れが、そこから枝分かれできることは感じられた。


アトカは義手の人差し指を、床へ向ける。


自分の魔力を、供給線の表面へ僅かに触れさせる。


切らない。


壊さない。


一つに集まっているものを、幾つもの流れへ分ける。


川が、細い水路へ枝分かれするように。


その像を重ねた。


ゴーレムへ向かっていた魔力が揺れる。


一本の太い流れが、床面の補助術式へ沿って分かれ始めた。


鋼鉄の巨体へ届く魔力量が、急速に減っていく。


ゴーレムが二歩目を踏み出そうとする。


だが、持ち上がった脚は前へ出なかった。


胸部の魔力灯が明滅する。


鋼鉄の膝から力が抜けた。


巨体が前へ傾く。


このまま倒れれば、床を砕く。


近くにいるアトカ自身も、巻き込まれるかもしれない。


観察席の誰かが叫んだ。


しかしアトカは、逃げなかった。


義手を大きく開く。


先ほど生み出した三本の水帯が広がり、ゴーレムの胸と両肩を包み込んだ。


重さを正面から受け止めない。


倒れようとする力を、水の流れによって左右と後方へ分ける。


片膝。


もう片方の膝。


最後に両手。


ゴーレムの巨体は水に支えられながら、ゆっくりと床へ下ろされていった。


ゴン、と小さな音が鳴る。


教師用の鋼鉄ゴーレムが、まるで跪くような姿勢で完全に停止していた。


胸部の魔力灯が消える。


防御結界は消滅していない。


供給設備も壊れていない。


床にも、ゴーレムにも、目立った損傷はなかった。


アトカは水帯を一つずつほどいた。


床へ落ちる前に細かな水滴へ戻し、試験場の隅にある排水溝へ静かに流す。


最後に、指先から外へ伸ばしていた自分の魔力を細く閉じた。


義手の内部を巡る流れが、平常の循環へ戻っていく。


計時器を見る者がいた。


試験開始から、まだ二十秒も経っていなかった。


「止まりました」


アトカの穏やかな声が、静まり返った試験場へ響いた。


誰も答えなかった。


教師たちは制御盤を見つめている。


結界術式に破損なし。


供給線に断裂なし。


ゴーレムの機体にも損傷なし。


それでも結界は突破され、ゴーレムは完全に停止している。


主任教師は口を開きかけた。


だが、言葉が出なかった。


アトカは課題を満たしただけではない。


教員訓練用の設備を、壊すことなく、暴発させることもなく、僅かな時間で無力化した。


「術式を解析したのか……?」


若い教師が呟く。


「解析反応はない」


別の試験官が制御盤を確かめながら答える。


「魔力衝突も、ほとんど記録されていない」


「では、結界をどうやって」


上段の老教授が立ち上がった。


椅子が小さく軋む。


「結界を解いたのではない」


低い声が、試験場の沈黙を割った。


「術式へ供給されていた外界魔力を分散させ、通れる範囲だけ出力を落とした」


老教授の視線が、停止したゴーレムへ移る。


「攻撃は水で受け止めず、流れに沿って逸らした。供給線も破壊せず、床の補助経路へ流した」


最後に、アトカを見る。


「倒れる機体まで支え、設備にも自分にも損害を出していない」


それ以上の説明は必要なかった。


試験場に集まった教師も上級生も、自分たちが何を見たのかは理解できなくとも、結果だけは理解できた。


圧倒的だった。


大きな魔力を見せたのではない。


派手な一撃で鋼鉄を砕いたのでもない。


必要な場所へ、必要なだけ触れた。


そして、すべてを傷つけずに止めた。


老教授の灰色の瞳が、アトカの胸元へ移る。


漆黒のローブ。


堂々と縫い取られた黒蜘蛛。


その下に輝く、翡翠色の留め石。


試験前にも、その意匠は目に入っていた。


だが、黒蜘蛛を紋章として使う古い家系が、存在しないわけではない。


偶然似た意匠である可能性もあった。


しかし今、術式を使わず外界魔力へ触れ、教員訓練用の結界とゴーレムを無傷で制した少年の姿と重なった。


老教授の中で、一つの名へつながる。


黒蜘蛛。


翡翠の留め石。


最も古く、最も深く外界の魔力へ触れる、五大同調者の一人。


老教授の顔から、僅かな迷いが消えた。


「少年」


「はい」


アトカが振り向く。


「その黒蜘蛛の紋章を、誰から授かったのかね」


観察席の視線が、一斉にアトカの胸元へ集まった。


アトカは不思議そうに黒蜘蛛を見下ろした後、素直に答えた。


「キルウェスタ先生からいただきました」


その名が出た瞬間。


試験場の空気が凍りついた。


知らない者は、周囲の変化へ戸惑った。


名を知る者は、声を失った。


主任教師の顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。


「キルウェスタ……先生……?」


老教授は取り乱さなかった。


アトカの胸元から視線を外し、試験官へ命じる。


「試験記録を封印しなさい。制御盤の変更履歴も、観察席の入退場記録もすべて保存する」


主任教師の肩が強張る。


老教授は、彼へ一度だけ目を向けた。


「教員訓練用第三設定を無許可で使用した件については、後ほど確認する」


「しかし、私は適性を――」


「今は、この子の前でする話ではない」


主任教師の言葉は、それだけで遮られた。


老教授は若い教師へ向き直る。


「学園長へ連絡を。試験場で起きたことと、黒蜘蛛の紋章について、私から直接報告すると伝えなさい」


「はい」


アトカは、停止したゴーレムと、黙り込んだ教師たちを順に見た。


自分が何か失敗したのかと考えたのか、少しだけ首を傾げる。


「えっと……」


小さな声が、静まり返った試験場へ響く。


「課題は、終わりでいいんですか?」


老教授は、ほんの一瞬だけ答えに迷った。


それから、ゆっくり頷く。


「ああ。終わりだ」


「合格ですか?」


老教授は停止した鋼鉄ゴーレムを見た。


無傷の床。


形を保ったまま残る術式。


何が起きたのか理解できず、言葉を失っている教師たち。


最後に、黒蜘蛛を胸へ掲げた十歳の少年を見る。


「少なくとも、この試験場で君を測り続ける必要はない」


アトカには、その言葉の意味がよく分からなかった。


それでも、次へ進んでよいらしいことだけは理解した。


「分かりました。ありがとうございます」


丁寧に頭を下げる。


その穏やかな仕草を見て、観察席にいた上級生たちは誰一人として声を上げられなかった。


ほんの少し前まで、杖を持たないことを笑っていた。


空の左袖を見て、何ができるのかと囁いていた。


だが今、試験場の中央には、破壊されたものが何一つなかった。


ただ、教員訓練用の鋼鉄ゴーレムだけが、十歳の少年の前へ静かに膝をついていた。


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