黒蜘蛛の弟子
特別実技試験場の周囲には、受付ホールでの騒ぎを聞きつけた教師や上級生たちが、少しずつ集まり始めていた。
両腕のない入学希望者が、魔導科の実技試験を受けるらしい。
右肩には義手をつけているが、杖は持っていない。
術式も得意ではないと、自分から認めたという。
噂は短い廊下を走る間に形を変え、試験場へ届く頃には、すでに好奇と嘲笑をたっぷり含んだものになっていた。
「腕がないのに魔導科へ?」
「右は義手らしいぞ」
「杖はどうするんだ?」
「術式を使えないなら、何を試すんだよ」
防護壁に囲まれた観察席で、上級生たちが声を潜めている。
教師たちは表面上こそ静かだったが、その視線にも疑いがあった。
魔導科は、術式を学ぶ場所である。
体内の魔力を練り、杖や触媒によって方向を定め、術式によって現象の形と範囲を制限し、安全に外へ放つ。
それが、多くの魔術師が歩む正統な道だった。
杖を持たず、術式も満足に扱えないという少年が、どのように魔導科の課程へ加わるつもりなのか。
彼らには想像できなかった。
試験場の上段には、一人の老教授も腰を下ろしていた。
白く長い眉と、深い皺に囲まれた灰色の瞳。
騒ぎを聞きつけて見物へ来たのではない。
もともと試験設備の定期点検へ立ち会っていたところへ、主任教師が突然、この特別試験を差し込んだのである。
その老教授の眼前で、重厚な鋼鉄製のゴーレムが試験場の中央へ運び込まれていた。
通常の入学実技で使われる木製標的や、低出力の訓練人形ではない。
上級生や教師の対魔術訓練にも使われる、魔力供給式の鋼鉄ゴーレムだった。
胸部には青白い魔力灯がともり、巨体を包むように幾重もの防御結界が展開されている。
衝撃を受け止める外層。
魔力干渉を吸収する内層。
その下には、結界とゴーレムへ魔力を供給する線を守るための補助術式まで広がっていた。
制御盤を確認した老教授の眉が、僅かに寄る。
「主任」
静かな声だった。
だが、その一言だけで、近くにいた試験官たちの背筋が伸びた。
「教員訓練用の第三設定になっているようだが」
主任教師は制御盤の前に立ったまま答える。
「通常の設備では、彼の能力を正確に確認できないと判断しました」
「候補者用の出力上限を越えている」
「緊急遮断は有効です。危険と判断すれば、即座に停止します」
老教授は主任教師をしばらく見つめた。
「設定の変更権限を、誰から得たのかね」
主任教師は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
老教授は傍らの若い試験官へ視線を移す。
「制御記録を保存しておきなさい。変更履歴も消してはならん」
「はい」
「緊急遮断は私も預かる」
老教授はそれ以上、主任教師を問い詰めなかった。
試験前に騒ぎを大きくすれば、中央に立つ子供をさらに晒すことになる。
ただ、その灰色の瞳から穏やかさだけが消えていた。
試験場の中央。
アトカは、自分より遥かに大きな鋼鉄ゴーレムを見上げていた。
漆黒のローブの胸元には、細い脚を広げた黒蜘蛛の紋章が堂々と縫い取られている。
その下では、翡翠色の留め石が試験場の光を受け、深い緑の輝きを宿していた。
紋章へ目を留めた者はいた。
だが、その意味を正確に理解した者はいない。
古い魔術師の家系を表す印。
辺境の工房が作った意匠。
その程度にしか思われていなかった。
主任教師も、ローブが上等な品であることには気づいていた。
しかし彼の視線が長く留まったのは、胸元の紋章ではなかった。
風に揺れる空の左袖。
ローブの下から僅かに覗く、木製の義手。
そして、どこにも見当たらない杖だった。
「条件を説明する」
主任教師の声が、試験場へ響く。
「正面の防御結界を突破し、その内側にあるゴーレムを停止させなさい。制限時間は三分」
彼は一拍置き、アトカを見据えた。
「結界が破られた場合、ゴーレムは侵入者を排除するために動作を開始する。攻撃を受ける前に停止させることも、試験の一部だ」
観察席が僅かにざわめいた。
教員訓練用の第三設定では、ゴーレムの動作速度も、新入生用とは比較にならない。
老教授の指が緊急遮断板の上へ置かれる。
主任教師は続けた。
「危険と判断した場合、こちらで試験を中断する。無理だと思うなら、今のうちに辞退しても構わない」
アトカはゴーレムを見上げたまま、少し考えた。
結界を突破する。
その後、動き出すゴーレムを停止させる。
壊せとは言われていない。
「分かりました」
穏やかな返事だった。
主任教師の眉が僅かに動く。
「では、始めなさい」
計時器が動き出す。
アトカは、すぐには義手を上げなかった。
まず、静かに息を吸う。
心臓の音を聴く。
ドクン。
試験場に満ちる魔力の流れへ意識を向ける。
難しい術式の線は読めない。
床へ描かれた幾何学模様が、どのような理論で組まれているのかも分からない。
けれど、流れなら感じられた。
正面を塞ぐ、硬く張り詰めた魔力。
その奥にある鋼鉄の人形。
床から絶えず流れ込み、結界とゴーレムの両方へ力を送り続けている太い流れ。
アトカは義手を、ローブの内側から静かに出した。
五本の木製の指が開く。
心臓から右肩へ。
右肩から接合部を越え、義手へ。
肘。
手首。
人差し指。
三年間かけて作り上げた魔力の道を、淀みなく流れていく。
押し出さない。
必要な分だけ流す。
終わる時には、自分で閉じる。
アトカの人差し指から、糸よりも細い魔力が外へ放たれた。
光はない。
衝撃もない。
観察席からは、何も始まっていないように見えた。
主任教師が苛立ったように声を上げる。
「何をしている。試験は始まっているぞ」
アトカは防御結界を見つめたまま答えた。
「はい。僕も、もう始めています」
義手から伸びた細い魔力が、結界の表面へ触れた。
最初に反応したのは、上段の老教授だった。
灰色の瞳が鋭く細められる。
結界の術式は崩れていない。
幾何学模様も、一つとして消えていない。
だが、結界の一点へ集められていた外界の魔力が、僅かに揺れた。
アトカは、自分の魔力が触れている範囲だけへ意識を絞る。
世界全体を見ない。
外界へ自分を溶かさない。
今、指先から届いている小さな場所だけを見る。
硬い。
一つの壁であるために、同じ方向へ張り詰めている。
けれど、そこに集まっているものも魔力だ。
流れ方を変えられる。
アトカは、その流れへ水霧の像を重ねた。
硬い壁ではなく。
細かな粒となり、広く漂う霧。
結界そのものを水へ変えたのではない。
術式を書き換えたのでもない。
結界の一部へ集中していた外界の魔力だけが、アトカの像へ引かれ、細かな流れへ分かれ始めた。
一点へ集まり、硬さを生み出していた力が薄く広がっていく。
防御結界の表面へ、淡い滲みが生まれた。
「な……」
若い試験官が息を呑む。
幾何学模様はまだ残っている。
術式は防壁を維持しようとしている。
しかし、その一点へ流れ込む魔力だけが足りない。
透明な結界の中央へ、指先ほどの小さな薄まりが生まれる。
それはゆっくりと広がり、やがてアトカ一人が通れるほどの円形の空白になった。
破砕音はなかった。
結界の欠片も飛び散らない。
防壁の中央だけが、最初からそこに道があったように静かに開いていた。
「結界を破ったのではない……」
老教授が低く呟く。
「維持に使われる外界魔力だけを、周囲へ流したのか」
その瞬間だった。
鋼鉄ゴーレムの胸部にある魔力灯が、強く輝く。
侵入を検知した巨体が動き始めた。
ゴォン、と片脚が床を踏む。
鋼鉄の右腕が持ち上がり、アトカへ向かって振り下ろされる。
観察席から悲鳴が上がった。
老教授の指が緊急遮断板へ沈みかける。
だが、その前にアトカが動いた。
半歩。
ただ、それだけだった。
キルウェスタから三年間叩き込まれた足運び。
身体の軸を崩さず、呼吸を乱さず、攻撃線から僅かに外れる。
鋼鉄の拳が、アトカの空の左袖をかすめるように通り過ぎた。
同時に、義手の五指が動く。
結界から散らした外界の魔力へ、水の像が重なる。
三本の水帯が空中へ生まれた。
一本は、振り下ろされた鋼鉄の腕へ。
一本は、ゴーレムの肩関節へ。
最後の一本は、巨体の腰へ。
水帯は腕を力任せに止めなかった。
鋼鉄の動きに沿って流れ、その向きを僅かに外側へ導く。
拳はアトカを捉えず、何もない床の脇を通過した。
ゴォン、と空気が震える。
アトカはすでに、次の流れを見ていた。
床からゴーレムへ届く、太い魔力。
その周囲にある、幾つもの細い分かれ道。
それが安全のために設けられた逃がし線であることを、アトカは知らない。
ただ、一本へ集められた流れが、そこから枝分かれできることは感じられた。
アトカは義手の人差し指を、床へ向ける。
自分の魔力を、供給線の表面へ僅かに触れさせる。
切らない。
壊さない。
一つに集まっているものを、幾つもの流れへ分ける。
川が、細い水路へ枝分かれするように。
その像を重ねた。
ゴーレムへ向かっていた魔力が揺れる。
一本の太い流れが、床面の補助術式へ沿って分かれ始めた。
鋼鉄の巨体へ届く魔力量が、急速に減っていく。
ゴーレムが二歩目を踏み出そうとする。
だが、持ち上がった脚は前へ出なかった。
胸部の魔力灯が明滅する。
鋼鉄の膝から力が抜けた。
巨体が前へ傾く。
このまま倒れれば、床を砕く。
近くにいるアトカ自身も、巻き込まれるかもしれない。
観察席の誰かが叫んだ。
しかしアトカは、逃げなかった。
義手を大きく開く。
先ほど生み出した三本の水帯が広がり、ゴーレムの胸と両肩を包み込んだ。
重さを正面から受け止めない。
倒れようとする力を、水の流れによって左右と後方へ分ける。
片膝。
もう片方の膝。
最後に両手。
ゴーレムの巨体は水に支えられながら、ゆっくりと床へ下ろされていった。
ゴン、と小さな音が鳴る。
教師用の鋼鉄ゴーレムが、まるで跪くような姿勢で完全に停止していた。
胸部の魔力灯が消える。
防御結界は消滅していない。
供給設備も壊れていない。
床にも、ゴーレムにも、目立った損傷はなかった。
アトカは水帯を一つずつほどいた。
床へ落ちる前に細かな水滴へ戻し、試験場の隅にある排水溝へ静かに流す。
最後に、指先から外へ伸ばしていた自分の魔力を細く閉じた。
義手の内部を巡る流れが、平常の循環へ戻っていく。
計時器を見る者がいた。
試験開始から、まだ二十秒も経っていなかった。
「止まりました」
アトカの穏やかな声が、静まり返った試験場へ響いた。
誰も答えなかった。
教師たちは制御盤を見つめている。
結界術式に破損なし。
供給線に断裂なし。
ゴーレムの機体にも損傷なし。
それでも結界は突破され、ゴーレムは完全に停止している。
主任教師は口を開きかけた。
だが、言葉が出なかった。
アトカは課題を満たしただけではない。
教員訓練用の設備を、壊すことなく、暴発させることもなく、僅かな時間で無力化した。
「術式を解析したのか……?」
若い教師が呟く。
「解析反応はない」
別の試験官が制御盤を確かめながら答える。
「魔力衝突も、ほとんど記録されていない」
「では、結界をどうやって」
上段の老教授が立ち上がった。
椅子が小さく軋む。
「結界を解いたのではない」
低い声が、試験場の沈黙を割った。
「術式へ供給されていた外界魔力を分散させ、通れる範囲だけ出力を落とした」
老教授の視線が、停止したゴーレムへ移る。
「攻撃は水で受け止めず、流れに沿って逸らした。供給線も破壊せず、床の補助経路へ流した」
最後に、アトカを見る。
「倒れる機体まで支え、設備にも自分にも損害を出していない」
それ以上の説明は必要なかった。
試験場に集まった教師も上級生も、自分たちが何を見たのかは理解できなくとも、結果だけは理解できた。
圧倒的だった。
大きな魔力を見せたのではない。
派手な一撃で鋼鉄を砕いたのでもない。
必要な場所へ、必要なだけ触れた。
そして、すべてを傷つけずに止めた。
老教授の灰色の瞳が、アトカの胸元へ移る。
漆黒のローブ。
堂々と縫い取られた黒蜘蛛。
その下に輝く、翡翠色の留め石。
試験前にも、その意匠は目に入っていた。
だが、黒蜘蛛を紋章として使う古い家系が、存在しないわけではない。
偶然似た意匠である可能性もあった。
しかし今、術式を使わず外界魔力へ触れ、教員訓練用の結界とゴーレムを無傷で制した少年の姿と重なった。
老教授の中で、一つの名へつながる。
黒蜘蛛。
翡翠の留め石。
最も古く、最も深く外界の魔力へ触れる、五大同調者の一人。
老教授の顔から、僅かな迷いが消えた。
「少年」
「はい」
アトカが振り向く。
「その黒蜘蛛の紋章を、誰から授かったのかね」
観察席の視線が、一斉にアトカの胸元へ集まった。
アトカは不思議そうに黒蜘蛛を見下ろした後、素直に答えた。
「キルウェスタ先生からいただきました」
その名が出た瞬間。
試験場の空気が凍りついた。
知らない者は、周囲の変化へ戸惑った。
名を知る者は、声を失った。
主任教師の顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。
「キルウェスタ……先生……?」
老教授は取り乱さなかった。
アトカの胸元から視線を外し、試験官へ命じる。
「試験記録を封印しなさい。制御盤の変更履歴も、観察席の入退場記録もすべて保存する」
主任教師の肩が強張る。
老教授は、彼へ一度だけ目を向けた。
「教員訓練用第三設定を無許可で使用した件については、後ほど確認する」
「しかし、私は適性を――」
「今は、この子の前でする話ではない」
主任教師の言葉は、それだけで遮られた。
老教授は若い教師へ向き直る。
「学園長へ連絡を。試験場で起きたことと、黒蜘蛛の紋章について、私から直接報告すると伝えなさい」
「はい」
アトカは、停止したゴーレムと、黙り込んだ教師たちを順に見た。
自分が何か失敗したのかと考えたのか、少しだけ首を傾げる。
「えっと……」
小さな声が、静まり返った試験場へ響く。
「課題は、終わりでいいんですか?」
老教授は、ほんの一瞬だけ答えに迷った。
それから、ゆっくり頷く。
「ああ。終わりだ」
「合格ですか?」
老教授は停止した鋼鉄ゴーレムを見た。
無傷の床。
形を保ったまま残る術式。
何が起きたのか理解できず、言葉を失っている教師たち。
最後に、黒蜘蛛を胸へ掲げた十歳の少年を見る。
「少なくとも、この試験場で君を測り続ける必要はない」
アトカには、その言葉の意味がよく分からなかった。
それでも、次へ進んでよいらしいことだけは理解した。
「分かりました。ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。
その穏やかな仕草を見て、観察席にいた上級生たちは誰一人として声を上げられなかった。
ほんの少し前まで、杖を持たないことを笑っていた。
空の左袖を見て、何ができるのかと囁いていた。
だが今、試験場の中央には、破壊されたものが何一つなかった。
ただ、教員訓練用の鋼鉄ゴーレムだけが、十歳の少年の前へ静かに膝をついていた。




