歓迎されない入学
ヴァルハイト・ゼノヴィア皇国。
大陸の中心に君臨し、軍事と魔導、その双方において他国の追随を許さぬ超大国である。
そこで生きる者に与えられる価値は、建前の上では生まれでも、血筋でもない。
ただ一つ。
実力。
強き者は高みへ昇り、弱き者は下へ押し流される。
敗者の涙は顧みられず、無能の嘆きは言い訳として切り捨てられる。
それが、この皇国が長い歴史の中で育んできた価値観だった。
もっとも、現実はそこまで単純ではない。
家名も、紋章も、財も、人脈も、人を測る道具として使われる。
貴族は己の血筋を誇り、商人は財力を誇り、軍人は武勲を誇る。
だが、それらすべてを最後に支えるものは、やはり力だった。
強ければ、多少の出自は黙らせられる。
弱ければ、どれほど立派な名を背負っていても、陰で笑われる。
そういう国だった。
その皇国の中心に築かれた巨大都市こそ、城塞帝都フェル・ザイン。
天を突く城壁に幾重にも囲まれたその都市は、まるで一つの世界そのものだった。
最下層には、陽光すら届きにくい貧民街が広がっている。
中層には、商人や職人たちが暮らす活気ある一般区がある。
そしてさらに上、巨大な城壁によって隔絶された最上層には、皇城と、五千人を超える若き才能たちが集う王立エルシオン学園が鎮座していた。
王立。
帝都にある学園としては、少し不思議な名である。
だが、その名には理由がある。
王立エルシオン学園は、皇国統合以前、旧王家によって創設された古い魔導教育機関だった。
現在はヴァルハイト・ゼノヴィア皇国の庇護下にあり、実質的には皇国直轄に近い立場にある。
それでもなお、学園は王立の名を残している。
それは伝統のためであり、魔術を単なる軍事力だけにしないという政治的中立性の名残でもあった。
もっとも、帝都に建つ以上、皇国の価値観から完全に自由でいられるはずもない。
王立エルシオン学園もまた、実力という言葉を深く吸い込んだ場所だった。
帝都へ向かう馬車は、ゆっくりと大通りを進んでいた。
「わぁ……!」
窓から身を乗り出したアトカは、目の前に広がる景色に、澄み切った青い瞳を輝かせた。
「すごい……! 建物がお空まで届きそうだよ。あんなに高い塔も、光ってる街灯も初めて見た。兄さんは毎日こんな場所で暮らしてたんだ……!」
辺境のアルン平原では見たこともない尖塔が、空を貫くように立ち並んでいる。
魔導灯は昼間だというのに淡く街路を照らし、磨き上げられた石畳の上を、色とりどりの衣服を纏った人々が行き交っていた。
アトカは窓に額がつきそうなほど身を寄せ、一つひとつの景色を目に焼き付けるように見つめていた。
けれど、馬車が上層へ近づくにつれ、胸を躍らせる感動とは別のものが、肌へじわりと伝わってくる。
壁を越えるたびに、人々の服装も、歩き方も、視線の鋭さも変わっていく。
上へ行けば行くほど、誰もが他人を測るような目をしていた。
杖。
剣。
紋章。
家名。
従者の数。
纏う服の質。
すれ違う者たちは、言葉にしないまま互いの価値を見定めている。
ここでは、何も持たない者は見られない。
持っていても、弱ければ見下される。
皇国の価値観が、街の石畳にまで染み込んでいるようだった。
アトカは静かに窓から身体を戻し、自分の胸元へ視線を落とした。
そこには、旅立ちの日に師から贈られた漆黒のローブがある。
深い夜を織り込んだような黒い布地。
右肩の義手を動かす邪魔にならず、空の左袖も、ただ寂しく垂れるのではなく静かに風を受けて揺れる。
胸元には、黒蜘蛛の紋章。
その下には、翡翠色の宝石を留めたブローチがある。
馬車が揺れるたび、宝石は小さく光を返した。
帝都の有象無象に値踏みされる必要などありませんわ。
旅立ちの朝に聞いたその声を思い出し、アトカは自然と背筋を伸ばした。
「……うん」
やがて馬車は、巨大な白亜の門の前で静かに停止した。
王立エルシオン学園。
巨大な校門の先には、宮殿そのもののような学舎がいくつも並び立っていた。
尖塔、渡り廊下、魔導式の噴水、空中に浮かぶ訓練用の結界石。
行き交う学生たちは皆、高価そうな杖や魔導書を携え、胸を張って歩いている。
アトカは馬車を降りた。
荷物を背負い直し、小さく深呼吸をする。
「えっと……僕が行くのは、魔導科の受付だよね」
懐から入学書類を取り出し、目的地を確認すると、アトカはそのまま受付ホールへ足を踏み入れた。
石造りの重厚な空間には、高価なローブを纏った教師や上級生たちが並び、淡々と入学書類へ目を通していた。
空気は静かだった。
けれど、その静けさは穏やかなものではない。
誰もが誰かを評価し、誰もが誰かの欠点を探している。
杖の質。
ローブの仕立て。
家名。
推薦人。
魔力の気配。
そして、術式の美しさ。
伝統ある魔導科では、正確な術式をどれだけ安定して構築できるかが重んじられる。
杖を構え、魔力を練り、術式を展開し、定められた手順で世界へ干渉する。
それが、魔導科における正統だった。
アトカは受付へ歩み寄り、丁寧に書類を差し出した。
「よろしくお願いします」
受付にいた中年の主任教師は、無言で書類を受け取った。
視線だけを動かし、淡々と文字を追っていく。
「……アトカ・アッシュフォード。アルン平原地方出身。推薦人は、ガイル・アッシュフォード、ステラ・アッシュフォード……」
そこまでは無表情だった。
しかし、次の記載に目が止まった瞬間、主任教師の眉がかすかに動いた。
「身体的特徴……生来の両腕欠損。右肩に特注義手。左腕なし……」
その言葉に、周囲にいた上級生たちの視線が向いた。
静かなざわめきが広がっていく。
「両腕がない?」
「それで魔導科へ?」
「杖は?」
「右は義手らしいぞ」
「でも、左は……」
くすくすと、薄い笑いが漏れた。
主任教師はゆっくりと顔を上げた。
そして、アトカを頭の先から足元まで眺める。
漆黒のローブ。
見慣れない黒蜘蛛の紋章。
翡翠色のブローチ。
左袖は中身のないまま静かに揺れ、右腕はローブの下に自然に収まっている。
上等な衣であることは分かる。
だが、その紋章の意味までは分からない。
主任教師の目に映ったのは、魔導科の常識から大きく外れた身体だった。
彼は書類を机へ置き、低く言った。
「少年。当学園の魔導科は、極めて高度な術式教育を行う場所です」
その声は受付ホールによく響いた。
「魔術師には、魔力を安定して外へ放つための基礎が必要です。杖を保持し、術式を展開し、魔力の方向を定める。これは伝統でもあり、安全のための最低条件でもある」
主任教師の視線が、アトカの空の左袖へ移る。
「君の事情を嘲るつもりはありません。しかし、その身体で魔導科の課程を履修できると、本当に考えているのですか」
周囲から、また小さな笑いが漏れた。
近くにいた女子生徒が、扇で口元を隠しながら言う。
「お気の毒ですけれど、魔導科は憧れだけで入れる場所ではありませんわ。杖も術式も扱えなければ、授業についていくのは難しいのではなくて?」
その言葉には、憐れみの形をした侮りがあった。
アトカは少しだけ首を傾げた。
怒ってはいなかった。
むしろ、自分のことを心配してくれているのかもしれないと思った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
主任教師の眉がぴくりと動く。
「大丈夫?」
「はい。僕は杖を使う魔術は、まだあまり得意ではありません。でも、水なら少し扱えます」
「少し、ですって?」
上級生の一人が笑った。
「魔導科で学ぶ前から随分な自信だな」
アトカはそれを自慢とは受け取らなかった。
ただ、正直に答える。
「自信というより……水の形をちゃんと思い描けた時は、応えてくれる感じがするんです。だから、もっと上手になりたくて来ました」
その一言で、受付ホールの空気がわずかに変わった。
水が応える。
それはアトカにとって、自分の感覚をそのまま言葉にしただけだった。
けれど、魔導科の教師や生徒たちにとっては、軽々しく聞き流せる発言ではない。
術式を積み重ね、理論を磨き、計算によって魔力を安定させることこそ魔術。
その常識の中で生きてきた者たちにとって、今の言葉は、幼い無知か、危険な思い上がりに聞こえた。
主任教師の表情が、はっきりと険しくなる。
彼はもう一度、書類へ視線を落とした。
「アッシュフォード……」
脳裏に、一人の少年の名が浮かぶ。
ルト・アッシュフォード。
戦技科四年。次期筆頭候補。泥臭い基礎と異常な実戦勘を併せ持つ、戦技科の怪物。
主任教師の目が、細くなる。
「その姓。戦技科四年のルト・アッシュフォードと、関係がありますか」
その瞬間、アトカの青い瞳がぱっと輝いた。
「えっ!?先生、兄さんのこと知ってるんですか!?」
受付ホールにあった嘲笑や侮りなど、アトカの耳にはほとんど入っていなかった。
兄の名が出た。
兄が認められている。
ただそれだけで、胸がいっぱいになった。
「やっぱり兄さん、この広い学園でもすごいんだ……!約束どおり、本当に一番を目指してるんだ!」
その純粋な笑顔に、主任教師はわずかに言葉を失った。
探りを入れるつもりで出した名前だった。
戦技科の名など魔導科では価値がないと切り捨てるつもりでもあった。
だが、この少年は自分への疑いも侮りも気にせず、兄が知られていることだけを心から喜んでいる。
その反応は、教師の理解から少し外れていた。
主任教師は、アトカの胸元へ視線を移す。
深い黒のローブ。
見慣れない黒蜘蛛の紋章。
翡翠色のブローチ。
どれも上等ではある。だが、それだけで魔導科に入れるわけではない。むしろ、その身なりに反して、目の前の少年は杖を持たず、左袖は空で、右腕も義手だ。
主任教師は静かに書類を揃えた。
「アトカ・アッシュフォード。君は通常の受付で処理するには、いささか特殊すぎる」
「特殊、ですか?」
「両腕の欠損。杖の不所持。術式運用の不明瞭さ。そして戦技科有力生徒との関係。魔導科として、能力を確認せずに受け入れるわけにはいきません」
主任教師はアトカを見据えた。
「君には、特別実技試験を受けてもらいます」
「特別実技試験……」
「そうです。君が魔導科の課程に耐えられるだけの能力を持つか、教師の前で示しなさい」
周囲の生徒たちがざわめく。
特別実技試験。
それは通常の新入生に課されるものではない。書類や基礎測定では判断できない異例の志願者、あるいは不適格の疑いが強い者を、実技によって判定するための制度だった。
近くにいた上級生が、興味深そうに笑う。
「面白くなってきたな」
「腕のない新入生が実技試験?」
「見ものですわね」
嘲笑。好奇。侮り。憐れみ。
さまざまな視線が、一斉に小さな少年へ降り注ぐ。
だが、アトカはただ静かに頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
その穏やかな返事に、主任教師の眉がわずかに寄る。
怯えない。反発もしない。
自分が試されることを、ただ当然のように受け入れている。
主任教師はそれを不気味とも、無知とも判断できなかった。
「試験場へ案内しなさい」
彼がそう告げると、控えていた若い教師が一歩前へ出た。
アトカはその教師に向かって、丁寧に頭を下げる。
「お願いします」
漆黒のローブの胸元で、翡翠色のブローチが淡く光を返した。
その光の意味を、受付ホールにいるほとんどの者は知らない。
ただ一部の教師だけが、胸騒ぎに似た違和感を覚えた。
黒い蜘蛛。
翡翠色の宝石。
そして、術式に頼らない水の感覚を語る腕なき少年。
それらが何を意味するのか、まだ誰にも分からない。
こうして、アトカ・アッシュフォードの学園初日は、歓迎ではなく、特別実技試験から始まることになった。




