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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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20/34

黒蜘蛛のローブ

キルウェスタは、しばらく何も言わなかった。


庭には、決闘のあとに残された静けさだけがあった。


アトカは膝をついたまま、荒い息を整えている。


十個すべての水球を失い、最後の一個へ全神経を注いだ反動で、義手は鉛のように重かった。


それでも、青い瞳だけは俯いていない。


悔しさはある。


勝てなかった。


キルウェスタの水球を割ることはできなかった。


最後まで届いたのは、たった一滴だけだった。


けれど、その一滴を恥じる色はなかった。


キルウェスタは、その目を静かに見下ろした。


そして、小さく息を吐く。


「その顔なら、渡してもよさそうですわね」


アトカが顔を上げる。


「渡す……?」


「旅立ちには、まだ足りないものがありますの」


キルウェスタは、まずアトカの前へ膝を折った。


白い指先が、義手と右肩をつなぐ接合部へ触れる。


残った熱。


魔力の流れ。


指先の痺れ。


乱れた呼吸と心拍。


一つずつ確かめた後、キルウェスタはアトカの背へ片手を添えた。


「立つのはまだ早いですわ。出発までには、まだ一刻ほどあります。まずは呼吸を整えなさい」


「でも、馬車が……」


「待たせてあります。旅立ちの日に弟子を壊したまま送り出すほど、わたくしは無責任ではありませんわ」


有無を言わせぬ声だった。


キルウェスタは風を薄くアトカの身体へ添え、義手へ負担が掛からないよう支えながら、庭先の長椅子へ座らせた。


長椅子には、閉じられた黒い日傘と、深い黒の布包みが置かれていた。


キルウェスタは水の入った器をアトカへ差し出す。


「少しずつ飲みなさい。接合部の熱が引き、指先の感覚が戻るまで立つことは許しません」


「はい」


アトカは義手で器を受け取り、両膝の上へ置いた。


まだ指は重い。


それでも、落とさない程度の力加減は保てていた。


勝手口の内側では、ガイルとステラが言葉もなく二人を見守っている。


ステラは今にも庭へ駆け出しそうな顔をしていたが、キルウェスタが接合部を確かめている姿を見て、両手を胸元へ重ねたまま踏みとどまっていた。


しばらくして、アトカの呼吸が落ち着いた。


義手に残っていた熱も、少しずつ薄れている。


キルウェスタはもう一度接合部と指先を確かめると、ようやく黒い布包みを手に取った。


「では、こちらを渡して差し上げますわ」


「これは……?」


「見れば分かります」


キルウェスタは細い指先で、黒い布を解いた。


中から現れたのは、一着のローブだった。


ただ黒いだけではない。


深い夜をそのまま織り込んだような、重く、静かで、気品ある黒。


朝の光を受けても軽々しく反射せず、布地の奥へ光を沈めるような色をしていた。


アトカは息を呑んだ。


ローブの胸元には、黒蜘蛛の紋章が縫い取られている。


細い脚を優雅に広げた黒蜘蛛。


その下には、翡翠色の小さな留め石が嵌め込まれていた。


キルウェスタの瞳と同じ色をした石は、朝の光を受けると、深い緑の奥へ静かな輝きを宿した。


「先生……これ、僕に?」


「他に誰が着ると言いますの」


キルウェスタは当然のように言った。


「帝都には、目だけ肥えて中身のない者が山ほどおりますわ。わたくしの弟子が、その程度の者たちに好き勝手値踏みされるなど不愉快ですもの」


彼女はローブの肩口を指先で摘まむ。


「貴方の身体へ合わせてあります。もっとも、現在の体格だけを基準にしたわけではありませんわ」


アトカは驚いたように、ローブを見つめた。


「これから背が伸びることくらい、わたくしでも予想できますもの。肩と裾には余裕を持たせ、余った布は内側へ畳んで魔導糸で留めてあります。成長に合わせて少しずつ調整できる仕立てですわ」


「そうなんですか……」


「当然です。十歳の坊やが一年後も同じ体格でいるなど、そのような間抜けな計算をわたくしがするはずありませんでしょう」


キルウェスタは鼻で笑う。


ローブの右肩には、義手の接合部と動きを妨げないよう、布の重なりと留め具が細かく調整されていた。


左袖は内側の留め具によって短く整えられ、必要以上に垂れたり、足元や障害物へ絡んだりしない。


それでも空の袖は隠されず、朝の風を受けて柔らかく揺れていた。


「右の義手を動かす邪魔にならず、左側の空きも隠さない。無理に腕があるよう見せかけるための衣ではありません」


キルウェスタの翡翠色の瞳が、真っ直ぐにアトカを捉える。


「貴方という魔術師が、その身体のまま胸を張って立つための衣ですわ」


アトカはローブへ視線を落とした。


胸の奥が熱くなる。


自分のために作られたものだと、見ただけで分かった。


左腕がないことも。


右肩に義手があることも。


これから身体が成長していくことも。


キルウェスタは何一つ見落としていない。


隠そうとしたのではない。


哀れんだのでもない。


そのままのアトカが、胸を張って立てるように作られていた。


キルウェスタは、今度はアトカの義手へ視線を落とした。


「義手も同じですわ」


アトカは義手の右手を見る。


「この義手も?」


「接合部は、貴方の肩と魔力の流れに馴染むよう作ってあります。多少の成長には対応できますが、永遠に放っておいてよいものではありません」


キルウェスタの声音が少しだけ厳しくなる。


「背が伸びれば、肩の位置も、魔力の通り道も、指先へ返る感覚も変わります。違和感が出たら、必ず手紙へ書きなさい」


「はい」


「指の反応が遅い。肩が重い。魔力が途中で引っ掛かる。熱が残る。どれも隠せば、減点では済みませんわよ」


「必ず書きます」


「よろしい」


キルウェスタは胸元の黒蜘蛛と、翡翠色の留め石を示した。


「ローブはいずれ仕立て直す日が来るでしょう。その時は、この紋章と留め石を次の衣へ移せばよろしい」


細い指が、黒蜘蛛の紋章を一度だけなぞる。


「証とは、布そのものではありません。誰の教えを受け、何を背負って立つかですわ」


アトカはその言葉を、静かに胸へ刻んだ。


キルウェスタは長椅子から立ち上がり、アトカへ手を差し出した。


「立てますの?」


アトカは義手を長椅子へ添え、両脚へゆっくり力を込める。


膝にはまだ僅かな疲れが残っていた。


身体が揺れかけた瞬間、キルウェスタの手が背へ添えられる。


「今だけは、わたくしへ預けなさい」


アトカは一瞬だけ目を見開き、それから素直に頷いた。


「はい」


キルウェスタの風がアトカの重心を薄く支える。


アトカが自分の足で立ったことを確かめてから、彼女は漆黒のローブを大きく広げた。


「動かないでいなさい。せっかくの贈り物を、着る前から泥まみれにされたら腹が立ちます」


キルウェスタはローブをアトカの肩へ掛けた。


布が静かに落ちる。


右肩は自然に収まり、義手を曲げても布が引きつらない。


左袖は空のまま柔らかく揺れながらも、長すぎず、歩みを妨げない形に整えられていた。


胸元の黒蜘蛛と翡翠色の留め石が、朝の光の中で静かに輝く。


キルウェスタは一歩離れ、頭から足先までアトカを眺めた。


義手を動かした時の肩。


左右の布の揺れ。


裾の長さ。


歩いた時の重心。


細部まで確かめた後、ようやく僅かに顎を上げる。


「まあ、最低限は見られる姿になりましたわね」


勝手口の内側で、ステラが小さく息を呑んだ。


ガイルも、目を細める。


アトカは胸元の留め石を見下ろし、それからキルウェスタを見上げた。


「先生……ありがとうございます」


「礼など不要ですわ。貴方が帝都で侮られれば、わたくしの品位まで疑われますもの」


そう言いながらも、キルウェスタの声音は、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。


「世界は、貴方が思っているより広いですわ。帝都の学園など、その入口にすぎません」


翡翠色の瞳が、アトカの青い瞳を真っ直ぐに捉える。


「その目で見なさい。多くを学びなさい。貴方の力を、他人の言葉で小さくしてはなりません」


キルウェスタは黒蜘蛛の紋章へ一度だけ視線を落とす。


「腕がないから。ほかの者と身体の形が違うから。そのような雑音で、貴方自身を測ることを許してはなりませんわ」


アトカは黙って聞いていた。


「貴方を欠けた子供としか見られない者がいるなら、見る目がないのはその者の方です」


キルウェスタはいつものように、少しだけ傲然と顎を上げた。


「胸を張りなさい。貴方は、わたくしが三年かけて鍛えた、一人の魔術師なのですから」


その言葉に、アトカの胸の奥が強く熱くなった。


「行きなさいな、アトカ坊や」


アトカは深く頷いた。


「はい。行ってきます、キルウェスタ先生」


その時、勝手口の扉が開いた。


ガイルとステラが、庭へ歩み出てくる。


ステラは、もう涙を堪えきれていなかった。


何度拭っても、次から次へと溢れて止まらない。


ガイルは強面の顔をくしゃくしゃにしながら、誇らしさと寂しさを同時に噛みしめるようにアトカを見ていた。


「お父さん、お母さん。……僕、行ってくるよ」


アトカは二人のもとへ歩み寄った。


駆け出したかった。


けれど、決闘の疲れはまだ完全には抜けていない。


キルウェスタに叩き込まれた足運びを思い出し、呼吸を乱さず、一歩ずつ確かめるように進む。


ステラが先に膝をつき、アトカを抱きしめた。


「アトカ……元気でね。辛くなったら、いつでも帰ってくるのよ。あなたの家は、ずっとここにあるんだから」


「うん。ありがとう、お母さん」


アトカは義手を、そっとステラの背へ回した。


両腕で同じ形を作ることはできない。


それでも、自分から身を寄せ、受け取った温もりを返すことはできた。


抱きしめたいと思う心は、確かにここにある。


ガイルの大きな腕が、その上から二人を包み込んだ。


「大したもんだったぞ、アトカ」


低い声が、少しだけ震えていた。


「俺には魔術の細かいことは分からねぇ。だが、最後まで目を逸らさなかったのは分かった。十個全部失っても、諦めなかったのもな」


「本当?」


「ああ。胸張って行け」


ガイルは大きな手で、アトカの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。


「帝都に行ったら、ルトにも見せてやれ。お前が三年でどれだけ強くなったか。あいつ、絶対に喜ぶぞ」


アトカの青い瞳が明るくなる。


「うん。ルト兄さんに見せる。キルウェスタ先生に教わった魔術も、この義手も、このローブも。僕、ちゃんと約束を守るんだ」


ステラは泣きながら笑った。


「あなたなら大丈夫よ」


「でも、困ったら手紙を書くんだぞ」


ガイルが言う。


「うん」


「飯はちゃんと食え」


「うん」


「寝ろ」


「うん」


「無理はするな」


アトカは少しだけ言葉に詰まった。


ガイルが眉を上げる。


「そこも頷け」


「……うん。ちゃんと気をつける」


「気をつけるだけじゃねぇ。痛い時は休め。困ったら誰かに言え」


「うん」


今度は、迷わず頷いた。


キルウェスタは少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。


口元には、いつもの皮肉げな笑みがある。


だが、その瞳は静かだった。


雨の森で拾われた少年は、今、家族と師に見守られて立っている。


捨てられた子供としてではない。


哀れだから守られているだけの子供としてでもない。


アトカ・アッシュフォードという、一人の魔術師として。


漆黒のローブが朝風に揺れる。


胸元の黒蜘蛛と翡翠色の留め石が、静かに輝く。


やがて、御者が馬車の扉を開いた。


出発前にステラがもう一度アトカの顔色と魔力の流れを確かめ、キルウェスタも義手の接合部へ熱が戻っていないことを確認した。


問題がないと認められてから、アトカは家を振り返った。


庭。


勝手口。


森へ続く小道。


ガイルが作ってくれた小さな踏み台。


ステラが干していた薬草の束。


キルウェスタに何度も叱られた、芝生の中央。


そのすべてを、青い瞳へ焼き付ける。


そして、馬車へ向かって歩いた。


一歩。


また一歩。


脚には僅かな重さが残っている。


けれど、軸は崩れていない。


胸を張り、呼吸を整え、アトカは自分の足で馬車の前まで進んだ。


扉の前で、もう一度振り返る。


ステラは涙を拭いながら手を振っている。


ガイルは大きく腕を振っていた。


キルウェスタは木陰で黒い日傘を開き、いつもの意地悪な薄笑いを浮かべている。


けれど、その笑みは、どこか誇らしげだった。


アトカは大きく息を吸った。


「行ってきます!」


馬車の扉が閉まる。


御者が手綱を鳴らし、馬車はゆっくりと動き出した。


窓から見える家が、少しずつ遠ざかっていく。


アトカは胸元へ義手の指先を添えた。


黒蜘蛛の下に留められた翡翠色の石が、揺れる車内で小さく光る。


それはまるで、遠く離れても師の眼差しが共にあると告げているようだった。


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