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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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19/36

一滴

初めてキルウェスタの水に触れた日から、三年が流れた。


アトカは十歳になっていた。


それは、かつて兄ルトが帝都の学園へ旅立ったのと同じ年齢であり、三年前に交わした約束の年齢でもあった。


帝都で会おう。


その時までに、どれほど凄い魔術師になったか見せてくれ。


その言葉を、アトカは一日たりとも忘れなかった。


三年間、キルウェスタの訓練は容赦がなかった。


魔術だけではない。

剣を持たないアトカに叩き込まれたのは、ガイルの戦士の型ではなく、キルウェスタ直伝の宮廷舞踏だった。


それは、華やかに踊るためだけの技ではない。


呼吸を乱さず魔力を練るため。

足を動かしても、水の形を崩さないため。

指先の震え一つで、水の流れを変えるため。


一歩の幅、肩の沈み、視線の置き方。


そのすべてが、魔術を届かせるための準備だった。


義手も、もはやただの道具ではない。


右肩から先へ魔力が流れ、肘を曲げ、手首を返し、指先で空間へ触れる。

右肩の先には、確かにアトカの腕があった。


左袖は、今日も空のまま風に揺れている。


けれど、その空白を嘆く色は、今のアトカの瞳にはなかった。


帝都へ向かう朝。


アッシュフォード家の庭には、澄んだ空気が満ちていた。

馬車はすでに家の前で準備を整えている。

ガイルとステラは少し離れた場所で、言葉もなく庭の中央を見守っていた。


アトカとキルウェスタが、向かい合って立っている。


「最後にもう一度だけわたくしに決闘を挑むとは。ずいぶんと傲慢に育ってくれましたこと、アトカ坊や」


漆黒のドレスを纏ったキルウェスタは、黒日傘すら持っていなかった。

手ぶらのまま、ただ優雅に佇んでいる。


だが、その翡翠色の瞳にあるのは、子供を試す退屈ではない。


目の前の一人の魔術師へ向けられる、深い圧だった。


「ルールは、あの時と同じ。貴方は十個、私は一個」


二人の中間に、透明な水球が一個だけ浮かぶ。


小さな水球。


だが、ただの水ではない。

キルウェスタの魔力が幾重にも絡み、外から触れるものを弾き、逸らし、噛み砕くように守っている。


一個とは名ばかりの、小さな要塞だった。


「如何様にしても結構。かかって来なさいな」


アトカは静かに息を吸った。


「行きます、キルウェスタ先生」


義手の指が開く。


次の瞬間、アトカの周囲に十個の水球が現れた。


三年前とは違う。どれも歪みなく、静かで、濃い。


けれど、アトカはすぐに撃たなかった。


十個の水球の内側で、水がゆっくり巡っている。

外から見れば、ただ浮かんでいるだけに見える。

だが義手の指先には、それぞれの水の重さ、流れ、形を保とうとする力がはっきり伝わっていた。


アトカは、キルウェスタの水球を壊すつもりで見てはいなかった。


あの水球の中にも、水がある。


どれほど強い魔力で守られていても、どれほど完璧に支配されていても、水は水だ。

押されれば形を変え、触れられれば揺れ、閉じ込められても流れようとする。


そこへ届く。


防衛線を破るのではなく、その奥の水へ。


「力押しではありませんのね」


キルウェスタの目が細くなる。


「はい」


「では、見せてごらんなさい」


赤い魔力が動いた。


一個目の水球へ、キルウェスタの魔力が伸びる。


アトカは逃がさなかった。水球を真正面へ押し出す。


キルウェスタの魔力がそれを包み込んだ。


パチン。


一個目が砕かれる。


残り九個。


水球は届かなかった。


だが、砕かれる瞬間、アトカの義手に感触が返ってきた。


どの強さで押されたのか。

どの角度で水の形を潰されたのか。

どこで水が水球でいられなくなったのか。


アトカは、それを覚えた。


二個目を放つ。


パチン。


今度は右側から砕かれた。


一個目とは、崩れ方が違う。正面から押し潰された時と、斜めから噛み砕かれた時では、水が形を失う瞬間がわずかに違う。


三個目は、左から裂かれる。


アトカは眉一つ動かさず、義手の指をわずかに曲げた。


砕かれるたび、失っている。


けれど、ただ奪われているわけではない。


キルウェスタの魔力が自分の水へ触れるたび、その触れ方が義手へ返ってくる。

水が壊される寸前、どんなふうに歪み、どんなふうに形を手放すのか。


アトカは一つずつ、覚えていった。


四個目と五個目を、アトカは続けて動かした。


片方は高く。片方は低く。


二つの水球が別々の高さからキルウェスタの水球へ向かう。


赤い魔力が二手に分かれた。


パチン、パチン、と乾いた音が重なる。


どちらも砕かれる。


高い位置で砕かれた水は、上から押し潰されるように形を失った。

低い位置で砕かれた水は、下からすくい上げられるように散った。


アトカはその違いを、義手の中へ刻む。


六個目を少し遅らせて放つ。


キルウェスタの魔力が、迷いなくそれを捉える。


また一つ、水球が消えた。


水球は一つも届いていない。


キルウェスタの水球は、完全な静けさを保っている。


それでも、アトカの中には、六つ分の崩れ方が積み重なっていた。


水が壊される瞬間には、必ず一度、形が揺らぐ。


砕ける前の、ほんの一瞬。


水球ではなくなる直前。


水が、次の形を探す刹那。


そこに、自分の呼吸を重ねる。


それが、キルウェスタに叩き込まれた三年間の答えだった。


七個目を放つ。


アトカは今度、その水球をぎりぎりまで自分の近くに置いたまま、遅れて前へ送った。


キルウェスタの魔力が迫る。


砕かれる。


近くで砕かれたせいで、義手へ返ってくる感覚はより鮮明だった。


水が潰れる。

外側が裂ける。

内側の流れが押し止められる。

それでも最後の最後まで、水は一つの形であろうとする。


アトカは静かに息を吐いた。


「見えてきましたの?」


キルウェスタが問う。


「いいえ」


アトカは首を振る。


「見えているのではありません。覚えています」


「何を?」


「水が、壊される直前にどう揺らぐのかを」


キルウェスタの表情が、わずかに変わった。


八個目と九個目を、アトカは同時に放った。


一つは右から。一つは左から。


赤い魔力が二つを正確に砕く。


残り一個。


九個すべてが失われた。


キルウェスタの水球には、傷一つついていない。


勝負はほとんど終わっている。


けれど、アトカの青い瞳は逸れなかった。


最後の一個は、義手の指先に浮いていた。


これまでの九個とは違う。


小さい。だが、弱いわけではない。


一個ぶんの水を、指先ほどの球へ畳み込んでいる。

透明な表面の内側で、水が密に巡っていた。

外へ広がろうとする力を、義手の五指がぎりぎりで押さえている。


アトカは、九個分の崩れ方を思い出した。


正面から砕かれた時。

右から噛まれた時。

左から裂かれた時。

上から押された時。

下からすくわれた時。

近くで潰された時。

二つ同時に砕かれた時。


そのすべての中に、一つだけ同じものがあった。


水が形を失う直前の、わずかな揺らぎ。


水が水球でなくなる、その寸前に生まれる不安定な一拍。


アトカは最後の水球に、その一拍を作った。


まだ砕かれていない。


けれど、砕かれる寸前と同じ状態に、自分の手で近づける。


壊すのではない。壊れる直前の揺らぎだけを、内側に作る。


義手の指が、かすかに震えた。


親指が外側を支える。

人差し指が中心を保つ。

中指が水の巡りを遅くする。

薬指が内側へ小さな歪みを作る。

小指が全体を、ぎりぎり一個の水球として留める。


それは、普通の魔術ではなかった。


水を撃つのでも、守るのでも、変形させるのでもない。


水が壊れる直前の一瞬に、自分から寄り添う。


キルウェスタの赤い魔力が、最後の水球へ伸びる。


アトカは逃がさない。


むしろ、差し出した。


赤い魔力が、小さな水球を包む。


パチン。


最後の水球が砕かれた。


勝敗は決まった。


アトカの負け。


十個すべてを失った。


だが、最後の水球が砕かれる瞬間、アトカは自分の水に作っていた揺らぎを手放さなかった。


その揺らぎを、キルウェスタの水球の中にある水へ重ねた。


防衛線は破れていない。赤い魔力も押し返していない。


ただ、キルウェスタの水球の内側にある水が、ほんの一瞬だけ、アトカの最後の水球と同じ崩れ際の揺らぎを思い出した。


完全に静止していたはずの水球に、細い波紋が一つだけ走る。


「……!」


キルウェスタが息を呑んだ。


次の瞬間、水球の表面から数滴だけ水が弾けた。


割れてはいない。

破壊には届かない。


だが、完全に支配されていたはずの水が、キルウェスタの命令ではない動きを一瞬だけ返した。


朝の光を受けた水滴が、細く輝く。


そのうちの一滴が、漆黒のドレスの裾へ落ちた。


布が水を吸う、かすかな音。


黒い裾に、小さな濡れ跡が生まれた。


静寂が庭を包む。


アトカはその場に膝をついた。


呼吸が荒い。義手は鉛のように重く、視界の端が滲む。


十個の水球はすべて失われている。


キルウェスタの水球も割れていない。


結果は敗北だった。


けれど。


一滴だけ、届いた。


三年間の魔術。

三年間の義手。

三年間の歩法。

三年間の呼吸。


そのすべてを重ねて、ようやく一滴。


キルウェスタは自分の濡れた裾を見つめた。


それから、ふう、と小さく息を吐く。


彼女は歩み寄り、膝をつくアトカの前に立った。


「十個すべて割られましたわね」


「……はい」


「わたくしの水球も、割れておりません」


「はい」


「つまり、勝負としては貴方の負けですわ」


「はい」


キルウェスタは濡れた裾を指先で軽く摘まんだ。


「ですが、貴方はわたくしの防衛線を破ろうとはしなかった。わたくしの魔力を上回ろうともしなかった。ただ、水へ届こうとした」


アトカは顔を上げる。


キルウェスタの瞳は厳しい。けれど、その奥に確かな熱があった。


「九個を失いながら、水が砕かれる直前の揺らぎを覚え、最後の一個でそれを作った。そして、わたくしの水球の中にある水へ、ほんの一瞬だけ重ねた」


アトカは荒い息のまま、黙って聞いていた。


キルウェスタは淡々と続ける。


「危ういですわ。途中で感覚を一つでも取り違えれば、ただ十個を割られて終わり。最後の一個も、制御が甘ければ水ではなく崩れた魔力の塊になっていました。満点など論外。合格などと口にするには、まだ百年早いですわ」


「……はい」


キルウェスタはアトカの額を、指先で軽く叩いた。


「けれど」


その一言だけ、ほんの少し声音が変わった。


「今日の貴方は、わたくしの水へ一滴だけ届かせた」


アトカの青い瞳が揺れる。


キルウェスタは、黒い裾に残った小さな濡れ跡へ視線を落とした。


「アトカ坊や」


「はい」


「帝都へ行きなさい」


庭の空気が、わずかに揺れた。


ガイルも、ステラも、息を呑んだように見えた。


アトカは膝をついたまま、師を見上げる。


「いいん、ですか」


「許可を求める顔をしないでくださる? 貴方はもう、約束の年齢になったのでしょう」


キルウェスタはいつものように、少しだけ顎を上げた。


「ただし、勘違いなさいませんように。私は貴方へ合格点を出したのではありません。今日も勝負は貴方の負け。制御は危うく、判断も甘く、私の水球を割るにはまったく足りない」


「はい」


「けれど、旅立つことだけは許します」


その言葉は、甘い褒め言葉ではなかった。


胸を張ってよいと背を押す言葉でもない。


ただ、十歳になった弟子が約束の場所へ向かうことを、師が止めないという宣告だった。


それでも、アトカには十分すぎた。


キルウェスタに合格点をもらったわけではない。


勝ったわけでもない。


認められたと胸を張るには、まだ遠い。


けれど、一滴だけ届いた。


そして、帝都へ行くことを許された。


アトカは両膝に力を込め、ゆっくり立ち上がる。義手はまだ重く、呼吸も整いきっていない。それでも、青い瞳はまっすぐだった。


「ありがとうございます、キルウェスタ先生」


キルウェスタは濡れた裾をもう一度見た。


「まったく。旅立ちの日に師の服を濡らすとは、最後の最後まで手のかかる弟子ですこと」


アトカは疲れ切った顔で、それでも少しだけ笑った。


「すみません」


「謝るくらいなら次は割りなさい」


「はい」


王立エルシオン学園へ向かう朝。


兄との約束の日。


アトカは師である魔女から、合格点ではなく、一滴の到達と旅立ちの許可を受け取った。


それは甘い祝福ではなかった。


けれど、キルウェスタがくれるものとしては、きっとこれ以上ないほど確かな送り出しだった。

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