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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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18/36

水の小鳥と魔女のステップ

テーブルの上に置かれた陶器のカップから、香ばしく、ほんの僅かに甘い香りを含んだ湯気が立ち上っていた。


アトカは義手の指先で、そっとカップの取っ手を掴む。


以前のように、指先が不安げに震えることは少なくなっていた。


持ち上げる角度。


手首の向き。


右肩へかかる重さ。


薄い陶器を壊さず支えるための力加減。


そのすべてを、今のアトカは義手を巡る魔力と、自分の身体へ返ってくる感覚で確かめていた。


まだ完璧ではない。


けれど、もう単なる道具として動かしているのでもなかった。


右肩から続く、新しい身体感覚。


心臓から巡ってきた魔力の、新しい道。


物へ触れ、掴み、自分の意思を外の世界へ伝えるための義手。


アトカはそう感じながら、カップを静かに置いた。


カチャリ、と陶器が触れ合う微かな音が響く。


アッシュフォード家の庭に用意された小さなテラス席には、午後の柔らかな木漏れ日が降り注いでいた。


葉の隙間からこぼれた光がテーブルの上で揺れ、紅茶の水面へ淡い金色の模様を描いている。


「先生、どうぞ。今日はお砂糖を少し控えめにして、茶葉もしっかり開かせておきました」


「……ふむ」


漆黒のドレスを纏ったキルウェスタは、黒い日傘を差したまま優雅にカップを持ち上げた。


一口だけ紅茶を含む。


翡翠色の瞳が、香りと味を確かめるように細くなった。


「悪くはありませんわね」


「本当?」


アトカの顔がぱっと明るくなる。


「悪くはない、と言いましたの。調子に乗るには百年早いですわ」


「うん。じゃあ、もっと練習する」


「その素直さだけは、貴方の数少ない美点ですわね」


キルウェスタはそう言いながら、アトカの義手へ視線を移した。


木目。


五本の指。


手首と肘の関節。


右肩との接合部。


初めて取りつけた頃には、ただ重く垂れ下がるだけだった義手を、アトカは少しずつ自分の身体へ馴染ませていた。


ただ動かすだけではない。


紅茶を淹れ、運び、相手の前へ静かに置く。


物を掴み、支え、手放す。


そうした日常の動作を積み重ねながら、義手を自分の身体の一部として扱えるようになり始めている。


キルウェスタは指先から接合部までを一つずつ確かめた後、僅かに目を細めた。


それが満足の表情だったのか、次の欠点を探していただけなのか、アトカには分からなかった。


アトカは切り株の椅子へ腰掛けると、以前から胸の奥にあった疑問を口にした。


「ねぇ、キルウェスタ先生。僕、ずっと不思議だったんだ。お母さんの教え方と、先生の教え方って、どうしてあんなに違ったの?」


キルウェスタはカップをソーサーへ戻した。


「ステラは貴方に、一般的な魔術師の手順を教えようとしました。それが貴方の性質と噛み合わなかっただけですわ」


「一般的な手順?」


「ええ。体内の魔力を練り、属性へ寄せ、術式として形を定め、外へ放つ。多くの魔術師は、その順序で魔術を成立させます。杖や触媒、腕や指先の動きも、魔力の流れと術式を安定させるために用いるものですわ」


アトカは義手の右手へ目を落とした。


「お母さんは、それを僕にも教えようとしたんだね」


「そうですわ。ステラは水との適性が高い。貴方が水を現したのを見て、自分が知る水術式を教えようとしたのでしょう。母親としても、魔術師としても、当然の判断です」


キルウェスタはそこで、僅かに肩をすくめた。


「ただし、その型をそのまま貴方へ当てはめることはできなかった」


「腕がないから?」


「それも理由の一つですわ」


キルウェスタは誤魔化さずに答えた。


「腕と指は、魔力へ方向を与え、形を定め、細かな命令を現象へ伝えるための重要な器官です。貴方には義手が必要ですし、それを自分の身体として扱えるようになる訓練も欠かせません」


アトカは義手の指を、ゆっくりと曲げた。


「ですが、それだけではありませんの」


「ほかにもあるの?」


「貴方は、最初から外界へ触れすぎていたからですわ」


アトカは瞬きをした。


キルウェスタは紅茶の湯気越しに、幼い弟子を見つめる。


「一般的な魔術師は、自分の中にある魔力を外へ放ちます。けれど貴方は、自分の魔力を十分に放つより先に、周囲の魔力へ水の像を重ねてしまう」


「僕、そんなことをしてたの?」


「無自覚に、ですわ。貴方が水を思い描けば、周囲の魔力がその像へ引かれ、水という現象が成立する形へ寄ってくる。だからこそ危険なのです」


キルウェスタの声が少しだけ厳しくなる。


「術式という枠は、多くの魔術師にとって現象を支え、範囲や出力を制限するものです。ですが、貴方へ同じものをそのまま当てはめれば、度の合わない眼鏡と同じになりますわ」


「度の合わない眼鏡……」


「最初から別の景色を見ている者へ、無理に他人の見方を重ねても、かえって何も見えなくなるということです」


アトカはゆっくりと頷いた。


「だから、お母さんの教え方だと、うまくできなかったんだ」


「ええ。ステラが間違っていたのではありません。貴方が、一般的な手順だけでは収まらなかったのですわ」


キルウェスタは左手を優雅に虚空へ差し出した。


指先へ、大気に満ちる魔力が静かに集まる。


ぴちゃり、と微かな水音がした。


細い指先の周囲へ水滴が生まれ、互いに集まりながら丸みを帯びていく。


やがて水は細長く伸びた。


小さなくちばしが生まれる。


透明な翼が広がる。


尾羽の一枚一枚までが滑らかに整えられていく。


一羽の小さな水の鳥が、キルウェスタの指先に止まっていた。


「あ……」


アトカは目を見張った。


水の小鳥は陽射しを受けて輝きながら、ふわりと羽ばたいた。


透明な羽は動くたびに輪郭を揺らす。


けれど、形は決して崩れない。


小鳥はアトカの周囲を一度旋回した。


白い髪のすぐそばを通り、切り株の上を跳ねるように飛ぶ。


最後には再びキルウェスタの指先へ戻り、幾つもの水滴へほどけて消えた。


「貴方は以前、ルト坊やの真似をして水の剣を作りましたわね」


「うん」


「悪くありません。剣を明確に思い描いたから、水は剣の形を得た。ですが、剣だけが水の行き先ではありませんわ」


キルウェスタは指先へ残った水滴を払った。


「鳥でも、花でも、霧でも、檻でも、壁でもよろしい。大切なのは形の名前ではありません」


翡翠色の瞳が、アトカを真っ直ぐに捉える。


「貴方が水という現象へ、どれだけ明確な形と役割を与えられるか。それが貴方の魔術の核ですわ」


「形と、役割……」


「叩きつけるだけが水ではありません。敵を傷つけずに閉じ込めることもできる。倒れた者の身体を支えることも、火から誰かを守る壁になることもできます」


アトカの青い瞳が、静かに輝いた。


自分の前には、できないことばかりが広がっていると思っていた。


けれど、違う。


義手は、物へ触れ、掴み、自分の身体を支えるためにある。


そして水は、剣にもなる。


鳥にもなる。


誰かを支える流れにも、守る壁にも、傷つけずに止める檻にもなる。


どちらか一方を選ぶ必要はない。


義手で世界へ触れ、水によってその先へ役割を広げる。


その両方が、アトカが魔術師として進むために必要なものだった。


アトカは少し身を乗り出し、さらに尋ねた。


「じゃあ、僕が使っているのも、先生と同じ同調位階なの?」


キルウェスタは、すぐには答えなかった。


紅茶のカップをソーサーへ戻し、日傘の影から幼い弟子を見つめる。


「現在の貴方を、完成された同調到達者と同じ位階へ置くことはできませんわ」


「同調じゃないの?」


「そう単純に切り分けられるものでもありませんの」


キルウェスタは細い指を立てた。


「完成された同調者は、自分の輪郭を保ったまま、外界の魔力と拍子を重ねます。自分の意思で外界へ触れ、自分と世界の境界を保ったまま、その流れの一部となる」


水滴が一つ、指先へ浮かぶ。


「始める時を決め、どこまで触れるかを選び、終える時には自分の意思で離れる。それを安定して繰り返せてこその同調ですわ」


「僕は、できてない?」


「まだ安定してはいませんわね」


容赦のない答えだった。


「貴方は自分の内側を十分に掴むより先に、外界へ触れていました。自分から拍子を重ねているというより、貴方が願った瞬間に、外界の魔力が先に応じてしまう」


「それって、同調とは違うの?」


「至る過程は違いますわ」


キルウェスタは指先の水滴を見つめた。


「ですが、貴方が触れている場所は、同調の領域から遠く離れたものではありません」


アトカの青い瞳が大きく開く。


「通常の魔術師は、覚醒と放魔を積み重ねた先で、外界との拍子を探します。貴方はその基礎を知らない頃から、既に外界の側へ指を掛けていた」


「どうして?」


「それが分からないから、貴方は特異なのですわ」


キルウェスタは薄く笑った。


「位階としては、まだ覚醒と放魔の土台を築いている途中です。けれど、その性質は同調へ限りなく近い」


アトカは義手の指を、ゆっくりと曲げた。


「じゃあ僕は、同調位階なの?」


「今の貴方を、一つの位階だけで正確に表すことはできませんわ」


キルウェスタの翡翠色の瞳が鋭く細められる。


「完成された同調者ではない。ですが、同調とは無関係な放魔到達者でもない」


一拍置く。


「外界との境界へ生まれながらに触れ、同調の領域へ限りなく近い場所に立つ特異点。それが、現時点での貴方ですわ」


アトカは少し考えた。


「先生と同じところに触っているけど、先生みたいに立ててはいない?」


「その理解でよろしい」


キルウェスタは満足そうに頷いた。


「わたくしは、自分の意思で同調の領域へ立ち、自分の拍子を保っています。貴方はまだ、外界の方から開いた扉へ足を取られている状態ですわ」


「扉を、自分で開けたんじゃないんだね」


「ええ。閉め方も知らずに、最初から半分開いていた」


キルウェスタの声が僅かに低くなる。


「だから危険なのです」


アトカは自分の胸元へ目を落とした。


「外の魔力に、僕が呑まれちゃうから?」


「それだけではありません。自分と外界の境界が曖昧なまま力だけが育てば、どこまでが自分の魔力で、どこからが世界の魔力なのかを見失う」


キルウェスタはアトカの胸元と義手へ視線を移す。


「だから、覚醒と放魔を教えているのですわ」


「外へ触る前に、自分を知るため?」


「その通りです」


キルウェスタは僅かに目を細めた。


「自分の魔力を見つけ、練り、身体へ巡らせ、義手の先まで通し、自分の意思で外へ放つ。そして、自分の魔術を自分の意思で終える」


言葉を一つずつ区切る。


「その土台があって初めて、貴方は今触れている領域へ、自分自身として立てるのですわ」


アトカは静かに頷いた。


「先生みたいな同調者は、ほかにもいるの?」


キルウェスタは日傘の影で薄く笑った。


「公に同調到達者と認められている者は、わたくしを含めて五人ですわ」


「五人……」


アトカはごくりと喉を鳴らした。


キルウェスタと同じ高みに立つ魔術師が、この大陸にあと四人いる。


たった四人。


けれど、その一人ひとりが、キルウェスタと同じように世界の魔力へ深く触れられるのだ。


「五大同調。それぞれが土地へ名を残し、国の判断を変え、魔術史そのものを動かしてきた者たちですわ」


キルウェスタは挑発するように微笑む。


「どうかしら、アトカ坊や。怖気づいて、ステラの後ろへ隠れて泣きたくなりましたかしら?」


アトカは少しだけ黙った。


怖くないと言えば嘘になる。


キルウェスタ一人でさえ、今の自分には果てが見えないほど遠い。


そんな存在が、ほかにも四人いる。


胸の奥へ小さな震えが生まれないはずがなかった。


けれど、アトカの青い瞳に宿ったのは、恐怖だけではない。


「……僕も、いつか自分の意思でそこに立ちたい」


アトカは義手の五指を、そっと握りしめる。


木製の指が、彼の意思へ従って確かに曲がった。


「今みたいに、知らないうちに外へ触るんじゃなくて。どこへ触れて、何をするのか、自分で決められるようになりたい」


キルウェスタは日傘の影で、くすりと笑った。


「まだ立つための足場を作っている途中だというのに、随分と大きく出ましたわね」


そう言いながら、紅茶のカップをテーブルへ戻す。


「ですが、その程度の志がなければ、わたくしの弟子は務まりませんわ」


アトカの顔に、小さな笑みが浮かんだ。


「じゃあ、もっと頑張る」


「ならばアトカ坊や。明日からは魔術だけでなく、その貧弱な身体を鍛える時間も増やしますわ」


「えっ? 体力づくり?」


「当然です。どれほど優れた魔術師であろうとも、それを支える土台は肉体です。呼吸が乱れれば魔力も乱れる。姿勢が崩れれば、水の形も崩れますわ」


キルウェスタは僅かに顎を上げた。


「実戦で、敵が貴方の呼吸が整うまで待ってくれるとでも思いまして?」


アトカは、毎日泥だらけになりながら木剣を振っていたルトの姿を思い出した。


そして、自分の空の左袖と、右肩へつながった義手を見下ろす。


「でも、僕には兄ちゃんみたいに剣は扱えないよ?」


「誰が剣を振れと言いましたの」


キルウェスタは鼻で笑った。


「貴方に必要なのは、剣士の型ではありませんわ」


「じゃあ、何をするの?」


「ガイルの基礎訓練は優秀です。あの男は身体を作ることと、恐怖の中で足を止めないことをよく知っている」


キルウェスタは一度だけ庭の奥へ目を向けた。


「ですが、彼の型は前衛のもの。泥臭く、頑丈で、剣を振るうための身体を作る訓練ですわ」


翡翠色の瞳が、再びアトカを射抜く。


「貴方には、貴方の身体と魔術へ合った動きが必要です」


「僕のための動き?」


「ええ。貴方はわたくしの弟子ですもの」


キルウェスタは日傘を閉じ、優雅に立ち上がった。


ただ立っているだけで、彼女の周囲の空気が滑らかに変わる。


漆黒のドレスの裾が、風もないのにふわりと揺れた。


「これでもわたくしは、宮廷の夜会で数多の視線を集めてきた身ですのよ。舞踏の心得くらいは持ち合わせていますわ」


「踊るの、先生?」


「ええ。宮廷の舞踏とは、重心移動、呼吸、視線の誘導、そして相手の一歩先を読む足運びの集積です」


キルウェスタはアトカの周囲を、ゆっくりと歩き始めた。


足音はほとんどない。


ドレスを纏っているにもかかわらず、まるで影だけが芝生の上を滑っているようだった。


「優雅さとは、見た目を飾ることではありません。無駄のない動き。崩れない軸。相手に次の動きを誤らせる間。そのすべてが実戦へ通じますわ」


キルウェスタはアトカの左側へ回り込む。


アトカが目だけで追おうとした時には、既に半歩後ろへ位置を変えていた。


「剣を持たなくとも、身のこなしは命を救います。魔力が乱れた時。義手の反応が遅れた時。左側から間合いを詰められた時」


キルウェスタは日傘の先で、アトカの足元を軽く示した。


「身体の軸を崩さず、半歩で攻撃線から外れる技術があれば、生き残れる」


アトカは息を呑んだ。


「そしてもう一つ。貴方は義手によって魔力の方向を定める。肩がぶれれば指先もぶれる。足元が乱れれば、水の像も乱れますわ」


魔術だけでは足りない。


義手だけでも足りない。


呼吸も、姿勢も、足の位置も含め、自分の身体すべてを一人の魔術師として鍛えなければならない。


アトカは、その意味を初めてはっきりと理解した。


「明日からは、わたくしが直々に貴方へ足運びを叩き込んで差し上げますわ」


アトカの瞳が輝く。


「分かった。僕、先生にたくさん鍛えてもらう」


「良い返事ですわ」


キルウェスタは満足げに微笑んだ。


けれど次の瞬間、その笑みはいつもの意地悪なものへ変わる。


「ただし、舞踏と聞いて甘く見るのはおやめなさい。足の裏が疲れ、膝が笑い、息が上がった程度では、曲を止めるつもりはありませんわ」


「……やっぱり、すごく大変そうだね」


「大変そう、ではありません。大変なのです」


キルウェスタは日傘を肩へ乗せた。


「ですが、痛み、眩暈、接合部の熱や違和感があれば、即座に申告なさい」


アトカは目を瞬く。


「疲れた時とは違うの?」


「当然ですわ。疲労は鍛えるべきもの。異常は報告すべきものです」


キルウェスタは呆れたように鼻を鳴らした。


「我慢して壊れることを努力と呼ぶ愚か者には、舞踏以前に立つ資格もありませんわ」


「うん。痛い時や、義手がおかしい時は、すぐ先生に言う」


「結構」


キルウェスタは日傘の先で、もう一度アトカの足元を示した。


「明日からは、まず立ち方と歩き方を直しますわ」


「歩き方も?」


「身体と魔術を別々に考えているうちは、まだゼロ点です」


アトカは自分の足元を見下ろし、それから義手の指をそっと握った。


「……分かった。ちゃんと立てるようになる」


「ええ。まずは揺れず、慌てず、呼吸を乱さずに立ちなさい」


「泣き言は?」


「採点には含めませんわ。お好きなだけおっしゃいなさい」


キルウェスタは薄く笑った。


「ただし、言いながらでも足は動かしていただきますけれど」


午後の柔らかな風が、二人の間を吹き抜けた。


外界の魔力と拍子を重ねる、同調という遥かな高み。


その領域へ、生まれながら指を掛けていたアトカ。


けれど、触れられることと、自分の意思で立てることは違う。


今はまだ、自分の魔力を知り、義手と身体へ巡らせ、足元を固めている途中だった。


キルウェスタはその顔を一瞥すると、満足げに日傘を開く。


アトカは義手の五指を、もう一度握りしめた。


いつか、あの水の小鳥のように。


自由に。


優雅に。


義手と身体を自分のものとして使いながら、自分の意思を見失わずに世界へ触れるために。

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