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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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17/43

届きかけた水

模擬決闘が始まってから、ひと月が過ぎていた。


接合部を休ませ、魔力の回復を確かめる日を挟みながら、アトカとキルウェスタは何度も、アッシュフォード家の庭で水の制御を奪い合ってきた。


一か月前の初戦と比べ、アトカの魔術は明らかに変わっている。


心臓から右肩へ。


右肩から義手へ。


義手の指先まで巡る魔力は以前より滑らかになり、周囲へ展開される十個の水球も、ただ浮かんでいるだけの水ではなくなっていた。


一つひとつへ、アトカの意思が深く結びついている。


表面は澄み、輪郭はほとんど歪まない。


義手から放った魔力を起点に、周囲の魔力とも以前より細く、丁寧につながっていた。


それでも。


キルウェスタが作った一個の水球は、微動だにしなかった。


アトカの十個の水球は、毎回、必ず奪われる。


「強度は増しましたわね」


黒い日傘は、庭先の長椅子へ置かれていた。


キルウェスタは庭の中央から一歩も動かず、白い指先を僅かに揺らす。


それだけで、アトカが外界へつなぎ留めていた水球との結びつきが、一枚、また一枚と剥がされていった。


「ですが、強く握れば守れると思っている時点で、まだゼロ点ですわ」


アトカの周囲に浮かぶ十個の水球。


そのうち一つへ、キルウェスタの魔力が静かに入り込んだ。


アトカはすぐに気づき、義手の指先へ意識を集中させる。


離さない。


これは自分が始めた水だ。


自分の魔力を巡らせ、自分の意思で形を作り、外界へつなぎ留めた水だ。


だが、キルウェスタの干渉はあまりにも滑らかだった。


抵抗するアトカの拍子を包み込み、一層ずつほどいていく。


力で押しのけるのではない。


アトカとのつながりを静かに剥がし、制御の中心だけを自分へ移していく。


パチン。


乾いた音が庭へ響いた。


奪われた一個目の水球が、キルウェスタの指先で弾ける。


続いて二個目。


三個目。


四個目。


アトカは額から汗を流し、義手の五指を震わせながら、必死に魔力の流れを整え直した。


歯を食いしばりかけ、すぐに呼吸を戻す。


胸から右肩へ。


右肩から義手へ。


義手から指先へ。


さらに細く、乱れないように魔力を通す。


それでも、奪われる。


表面を守れば、内側の拍子をほどかれる。


密度を上げれば、外界とのつながりを剥がされる。


一つへ意識を集中すれば、その隙に別の水球が奪われる。


キルウェスタは、そのすべてを見透かしていた。


「一本調子ですわ。力を込める場所も、抵抗する順番も、呼吸の癖も、昨日と大差ありません」


パチン。


八個目が弾け飛んだ。


アトカの手札は、残り二個。


キルウェスタの翡翠色の瞳には、相変わらず隙がない。


退屈しているようにも見える。


けれど、その退屈さえ、アトカを焦らせるための仮面なのかもしれなかった。


それでも、アトカは諦めていない。


ひと月の間、ずっと負け続けてきた。


だが、ただ負けていたわけではなかった。


水球を奪われる感覚。


キルウェスタの魔力が入り込む順番。


どこからつながりを剥がされ、どの瞬間に彼女の意識が次の水球へ移るのか。


アトカは敗北のたびに、それを少しずつ覚えていた。


キルウェスタの魔力が、九個目へ伸びる。


アトカはいつも通り、必死に抵抗しているように見せた。


義手を震わせ、額に汗を浮かべ、魔力の流れを引き戻そうとする。


だが、その防衛線の裏側。


キルウェスタが奪おうとしている水球の核へ、アトカはごく小さな揺らぎを隠していた。


かつて水の剣を暴発させた時の、制御できなかった乱れ。


以前なら、ただの失敗だった。


誰かを傷つけかねない、恐ろしい力だった。


今も完全に扱えるわけではない。


それでも、ごく小さな範囲へ閉じ込め、一瞬だけ向きを変えることならできるかもしれない。


大きく爆ぜさせるつもりはなかった。


水球の内側で反転させ、キルウェスタの意識を一瞬だけ引きつける。


それだけでよい。


先生なら、きっと止められる。


その考えに、アトカは何の疑いも抱かなかった。


「これで九個目ですわ」


キルウェスタの指先が、水球を引き寄せる。


いつものように。


当然のように。


パチン。


水球が弾けた。


その瞬間、核へ隠されていた揺らぎが、飛び散る水とは逆の方向へ跳ねた。


爆発と呼ぶには小さい。


けれど、ただの水飛沫ではなかった。


水球の内側へ押し込められていた魔力が、キルウェスタの指先の前で鋭く捻れ、細い圧となって空気を裂く。


庭の空気が鳴った。


芝生が浅く波打つ。


キルウェスタの赤い髪が、僅かに揺れた。


次の瞬間。


彼女の指先へ、紅蓮の炎が一輪だけ咲いた。


炎は広がらなかった。


轟きもしない。


ただ、アトカの揺らぎだけを一瞬で焼き切り、何事もなかったかのように消えた。


紅蓮の光が消えた後、キルウェスタはほんの一瞬だけ、自分の指先へ目を落とした。


翡翠色の瞳が、僅かに見開かれていた。


まるで、炎が現れたことを、彼女自身も予期していなかったかのように。


だが、動揺が表へ出たのは、それだけだった。


アトカは息を呑む。


キルウェスタが炎を使った。


それだけで、今の一手が、いつものように受け流せるものではなかったのだと分かった。


だが、アトカは止まらない。


炎が咲いた一瞬、キルウェスタの意識は確かに九個目へ向いた。


アトカの青い瞳は、その遥か手前に浮かぶ一個を見ていた。


キルウェスタの水球。


ひと月の間、一度も壊せなかった、たった一つの水。


アトカは義手を伸ばした。


残った最後の水球から、細い魔力を引き抜く。


外側から叩くのではない。


制御を奪おうとするのでもない。


水が水であるという感触へ、ほんの少しだけ自分の呼吸を重ねる。


触れた。


そう思った。


キルウェスタの水球の表面に、かすかな波紋が走った。


初めてだった。


これまで表面へ触れることすら許されなかった水が、ほんの一瞬だけ、アトカの魔力へ反応した。


けれど。


そこで終わりだった。


次の瞬間、キルウェスタの翡翠色の瞳が、アトカを真っ直ぐに射抜いた。


「甘い」


たった一言。


水球の内側から、キルウェスタの拍子が広がる。


アトカが作った波紋は、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。


同時に、最後まで残っていたアトカの水球も、音もなく崩れる。


水は地面へ落ちる前に細かな霧となり、庭の空気へ溶けていった。


アトカの義手から力が抜ける。


全身の力も抜け、その場へ膝をついた。


「はぁっ……はぁっ……」


呼吸が乱れている。


義手の指先は痺れ、接合部には熱が残っていた。


訓練に使ってよいと定められた分の魔力も、ほとんど使い切っている。


だが、決して割ってはならないと命じられていた安全域だけは、まだ胸の奥へ残されていた。


それでも、これ以上続けられる状態ではない。


アトカは芝生へ落ちた水の跡ではなく、キルウェスタの水球があった場所を見つめていた。


壊せなかった。


奪えなかった。


けれど、確かに触れた。


表面へ、波紋を一つだけ作った。


どれほど小さな変化でも、アトカにとっては、ひと月の敗北の中で初めて得た手応えだった。


キルウェスタは、しばらく何も言わなかった。


庭の中央へ立ったまま、膝をつくアトカを見下ろしている。


翡翠色の瞳は、いつものように冷たい。


だが、その奥にある感情を、アトカには読み取れなかった。


「アトカ坊や」


「……はい」


「わたくしなら止められる。そう考えましたわね」


アトカは息を整えながら、僅かに目を伏せた。


「……はい」


キルウェスタの声が低くなる。


「今の揺らぎは、まだ貴方の制御下にはありませんでした」


キルウェスタは一歩、アトカへ近づいた。


足音は静かだった。


それでも、庭の空気が一瞬で重くなる。


「相手が誰であるかは関係ありません。貴方は、自分で止められない力を放ち、止める責任を最初からわたくしへ渡した」


アトカは義手の指を僅かに曲げた。


「でも、先生なら……」


「処理できると思った?」


アトカは答えられなかった。


「わたくしなら止められる。それは結果論ですわ」


キルウェスタの翡翠色の瞳が、まっすぐにアトカを捉える。


「術者である貴方が、始めた力を自分で終わらせる手段を持っていなかった。その時点で、あの魔術は失敗です」


アトカは唇を結んだ。


先生なら大丈夫。


それは確かに信頼だった。


けれど同時に、自分が処理できない危険を、先生の強さへ預ける考えでもあった。


「それを信頼と呼ぶには、少々都合がよすぎますわね」


キルウェスタは、膝をついたアトカの前へ立つ。


「魔術師は、届けばよいのではありません。届いた先で、何を傷つけるのかまで引き受ける者です」


アトカは義手の指を、そっと握りしめた。


「……はい」


「相手が普通の魔術師であれば、怪我では済まなかった可能性もあります」


アトカの肩が僅かに落ちる。


「はい……」


キルウェスタは続ける。


「ただし、負け続けた時間を観察へ変えたことは認めましょう」


アトカが顔を上げる。


「わたくしの意識が九個目へ移る瞬間を読み、残した一球から別の道を伸ばした」


キルウェスタの視線が、先ほどまで水球のあった場所へ向く。


「制御を奪おうとせず、水そのものへ自分の呼吸を重ねた。あの判断は悪くありませんでしたわ」


「じゃあ……」


「ですが、不合格です」


はっきりとした言葉だった。


アトカの表情が止まる。


「勘違いしてはなりません。制御できない揺らぎを放ったことには、一点も差し上げません。あれは減点です」


キルウェスタは容赦しない。


「観察と、最後の一手。それだけは評価します」


アトカは何も言えなかった。


胸の中にあった小さな喜びが、冷たい水を浴びたように萎んでいる。


けれど、キルウェスタの言葉は正しかった。


水面へ触れたことと、危険な方法を使ったことは別だった。


どちらか一方だけを見て、全部を成功にも失敗にもしてはいけない。


「今の貴方は、初めてわたくしの水へ触れかけました」


アトカの肩が、僅かに震えた。


「けれど、割ってはいない。奪ってもいない。まして、合格などではありません」


「はい」


アトカは小さく頷いた。


悔しさはある。


それでも、目を逸らさなかった。


キルウェスタはその目をしばらく見つめ、ほんの僅かに口元を緩めた。


「ゼロ点ではありませんわ」


アトカの青い瞳が、少しだけ見開かれる。


「……ゼロ点じゃ、ないんですか」


「発想と観察には、点を差し上げます」


キルウェスタは僅かに顎を上げた。


「わたくしの水面を揺らしましたもの」


褒め言葉と呼ぶには、あまりにも小さな評価だった。


合格には遠い。


勝利でもない。


けれど、アトカには十分だった。


ひと月の間、ずっと届かなかった水面を、ほんの一度だけ揺らした。


アトカは疲れ切った身体で、それでも小さく笑った。


「次は、自分で止められる方法を考えます」


「当然ですわ」


「それから、今度はもっとちゃんと水へ触れる」


キルウェスタは片眉を上げた。


「言うだけなら簡単ですわね」


キルウェスタは長椅子へ歩み寄り、置いてあった黒日傘を手に取った。


「次に同じ粗雑な揺らぎを使ったら、合格どころか庭掃除を一週間追加します」


「はい」


「それから」


ぱさりと開いた日傘の下で、キルウェスタの声が僅かに冷える。


「先ほど、わたくしに炎を使わせたことを、成果だと勘違いしてはなりません」


アトカは息を呑んだ。


紅蓮の一輪。


一瞬だけ咲き、すぐに消えた炎。


あれがキルウェスタにとって何を意味するのか、アトカには分からない。


キルウェスタは、自分の指先へ一瞬だけ視線を落とした。


「炎を使わせたのは、技量ではなく危険性です。そこを取り違えてはなりませんわ」


「……はい」


アトカは深く頷いた。


キルウェスタは、それ以上炎について語らなかった。


ただ日傘の影から、静かにアトカを見つめる。


「では、本日はここまでです」


「え?」


アトカは驚いて顔を上げた。


いつもなら、呼吸を整え、義手の熱が引いたことを確認してから、次のセットが始まる。


けれど今日は、キルウェスタが先に訓練そのものの終了を告げた。


「立てない者に続きはできませんわ。それに、今の未熟な成功もどきを、理解しないまま繰り返してはなりません」


「成功もどき……」


「そうですわ。合格ではありません。勝利でもありません」


キルウェスタは庭の奥へ歩き出す。


「ですが、ただの失敗として捨てるには惜しい」


アトカは地面へ膝をついたまま、その背中を見つめた。


「明日までに、なぜ危険だったのか。なぜ届きかけたのか。その両方を考えてきなさい」


赤い髪。


漆黒のドレス。


黒い日傘。


その姿は、いつも通り遠かった。


けれど今日は、その遠さの中へ、ほんの小さな道筋が見えた気がした。


アトカは義手の指先を見つめる。


まだ痺れている。


まだ熱い。


まだ届かない。


それでも、水面は揺れた。


「……次は、ちゃんと届かせます」


小さな声が、庭の夕風へ溶ける。


キルウェスタは振り返らなかった。


ただ、日傘の影の向こうで、ほんの僅かに足を止める。


そして、聞こえるか聞こえないかほどの声で言った。


「その言葉を、貴方が帝都へ旅立つ日まで覚えておきなさい」


アトカは目を上げた。


帝都へ旅立つ日。


その言葉が、胸の奥で静かに光った。


ひと月の敗北の先に、まだ届かない水がある。


けれど、もう完全なゼロではない。


アトカは泥のついた膝を見下ろしながら、疲れ切った身体で、それでも笑った。


いつか必ず、あの水へ届く。


ただ届かせるだけではない。


届いた先で起こることまで、自分の意思で引き受けられるように。


その時こそ、先生へ胸を張って見せるのだと。



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