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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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16/37

世界を奪う魔女

水球一つで初めて及第を得てから、二月が過ぎた。


「退屈な遊びはここまでですわ、アトカ坊や」


アッシュフォード家の庭に立つキルウェスタは、いつもとはまるで違っていた。


黒い日傘は庭先の長椅子へ置かれている。


漆黒のドレスの裾を揺らしていた風さえ、彼女の周囲だけ不自然なほど静まっていた。


翡翠色の瞳から戯れが消え、庭一帯を満たす外界の魔力が、彼女の呼吸へ合わせるように整っていく。


七歳のアトカは息を呑んだ。


目の前にいるのは、皮肉ばかり口にする先生ではない。


世界そのものを従えているようにさえ見える、大魔術師だった。


「先生……?」


「これまで行ってきたのは、貴方が自滅しないための基礎ですわ。心臓の音を聴き、魔力を巡らせ、義手を身体感覚の続きとして受け入れ、必要な量だけ外へ放つ」


キルウェスタは白い指を掲げた。


それだけで芝が波打ち、木々の葉が細かく震える。


風ではない。


空間を満たす魔力の拍子そのものが変わったのだ。


「今日は、完成された同調者が何を見て、何を奪い合うのか。その一端を身をもって覚えていただきます」


その指先が、二人の中間へ向けられる。


ピチャリ、と水音が鳴った。


虚空に拳ほどの水球が一つ浮かび上がる。


表面は一切揺れず、その周囲を満たす魔力までがキルウェスタの拍子へ深く結びついていた。


「貴方は周囲へ水球を十個展開なさい。わたくしは、それらを一つずつ奪って破壊します」


「僕は、何をすればいいの?」


「十個すべてを奪われる前に、わたくしの水球を支える魔力へ貴方の制御を通しなさい」


キルウェスタは中央の水球を示した。


「水球をぶつける必要はありませんわ。水を飛ばして壊すのは、放魔の戦い方ですもの」


翡翠色の瞳が鋭く細められる。


「外界の魔力を辿り、わたくしの制御へ入り込み、所有を奪う。それが今回の課題ですわ」


アトカの喉が鳴った。


自分の魔術を守りながら、キルウェスタの魔術へ制御を伸ばす。


怖い。


けれど、逃げたくはなかった。


「……やってみる」


義手を前へ伸ばす。


心臓の音を捉え、魔力を全身へ巡らせる。


右肩から義手へ。


金属糸を伝って指先へ届いた魔力を、必要な分だけ外へ放った。


ピチャリ。


一つ目の水球が生まれる。


続けて二つ目、三つ目。


十個の水球が、アトカを囲むように空中へ浮かんだ。


大きさは揃っている。


表面の震えも、二月前より遥かに小さい。


それぞれがアトカの魔力とつながり、周囲の外界魔力へ細い根を張っている。


キルウェスタの目が僅かに細くなった。


「良いでしょう。始めますわ」


次の瞬間、アトカの頭の奥へ鋭い衝撃が走った。


十個のうち一つ。


確かに自分へつながっていたはずの水球から、感覚が急速に遠ざかっていく。


キルウェスタの制御が、水球を支える外界魔力へ静かに重なっていた。


力任せに押しているのではない。


アトカと水球を結んでいる流れだけを見つけ、一つずつ剥がしている。


「待って……!」


アトカはつながりを強めた。


だが、その命令すら水球へ届く前にほどかれていく。


水球がキルウェスタの支配へ移った。


パチン。


乾いた音とともに弾ける。


「相手の魔術を支える魔力へ自分の拍子を重ね、制御を奪う。これが同調の領域争いですわ」


残り、九個。


速すぎる。


何をされたかは分かる。


それでも、防げなかった。


アトカは一つの水球へ意識を集中させた。


水球から外界へ伸びる魔力を辿り、中央に浮かぶキルウェスタの水球へ制御を伸ばす。


周囲の魔力は、すべてどこかでつながっている。


その流れを正しく辿れば、届くはずだった。


だが、近づくほど、自分の制御が薄くなる。


キルウェスタの水球へ触れるより先に、魔力の流れそのものが彼女の拍子へ塗り替えられていく。


「届かない……」


「当然ですわ」


キルウェスタは微動だにしない。


「貴方は外界の流れを辿っているだけ。そこが既に誰の支配下にあるかを見ていませんの」


パチン。


二つ目が砕けた。


残り、八個。


一本のつながりでは弱い。


ならば、数を使う。


アトカは残る八個の水球から、同時に外界へ意識を伸ばした。


八つの支点。


八つの流れ。


別々の方向からキルウェスタの水球を包み、その中心へ制御を重ねようとする。


一か所を塞がれても、別の流れから入ればいい。


アトカはそう考えた。


だが、八つの流れは水球へ届く前に、すべて同じ拍子へ呑み込まれた。


キルウェスタは一つずつ防いでいるのではない。


庭を満たす外界魔力そのものが、最初から彼女の側へ揃っている。


「方向を増やしても無駄ですわ」


三つ目の水球から感覚が消える。


「わたくしは道を塞いでいるのではありませんの」


パチン。


「貴方が通ろうとしている道そのものが、既にわたくしの領域ですわ」


残り、七個。


アトカは唇を噛んだ。


自分の水球を守りながら、キルウェスタの領域へ入る。


二つを同時に行おうとすれば、どちらも薄くなる。


それなら、守る水球を一つへ絞る。


アトカは七個のうち一つへ制御を集中させた。


残る六個が奪われることは承知の上で、その一つだけを強く外界へ結びつける。


キルウェスタの制御が別の水球へ重なった。


アトカは追わない。


二つ目。


それも捨てる。


パチン。


パチン。


水球が次々と奪われていく。


その間に、残す一つから伸ばした制御を深く沈める。


広くではなく、細く。


外界の魔力へ自分の拍子を刻み、キルウェスタの水球へ続く流れを探る。


一瞬だけ、何かを捉えた。


水球を支える強固な魔力。


揺らぎのない、完成された制御。


アトカはそこへ自分の魔力を重ねようとした。


だが、触れる直前に消えた。


押し返されたのではない。


キルウェスタの拍子へ触れた瞬間、自分の制御がどこにあったのか分からなくなった。


「……見えなくなった」


「見失ったのではありませんわ」


キルウェスタが冷たく告げる。


「奪われたのです」


パチン。


また一つ、水球が砕けた。


残り、三個。


アトカの額から汗が流れる。


呼吸も浅くなっていた。


それでも、まだ三つある。


アトカは三つの水球を支える魔力の拍子を揃えた。


一つずつ別の魔術として保つのではない。


三つを一つの大きな循環としてつなぐ。


一つから伸ばした制御が消されても、残る二つから同じ流れを送り直す。


キルウェスタの魔力が一つ目へ重なる。


アトカは奪い返そうとした。


同時に残る二つから外界へ制御を伸ばし、切られたつながりを別の方向から結び直す。


一度切られる。


すぐにつなぐ。


また剥がされる。


別の水球から補う。


「まだ……!」


三つの水球が激しく震えた。


それでも球形は崩さない。


アトカは一つを守るのではなく、三つの間を巡る制御そのものを保とうとしていた。


キルウェスタの目が僅かに細くなる。


だが、それだけだった。


庭を満たす魔力の拍子が、一段深く揃えられる。


アトカが三つの水球の間へ作った循環が、外側から静かに解かれていく。


一つ目が孤立した。


パチン。


二つ目への流れも断たれる。


パチン。


最後の一つだけが、アトカの傍らで震えている。


離さない。


これだけは、自分が始めた魔術だ。


アトカは残るすべての制御を一球へ集めた。


だが、キルウェスタの支配は正面から押し潰してはこなかった。


外界から少しずつつながりを剥がし、アトカの命令が届く場所を狭めていく。


表面。


外側の流れ。


中心。


水球のすべてが、順番に遠ざかる。


アトカは必死に意識を伸ばした。


それでも、キルウェスタの水球へは一度も届いていない。


触れたと思える場所すら見つけられなかった。


「実戦なら、最初の一つを奪われた時点で、次の魔術が貴方へ届いていますわ」


最後のつながりが切れた。


パチン。


十個目の水球が弾ける。


「そこまでです」


中央に浮かぶキルウェスタの水球は、最初から何一つ変わっていなかった。


表面は揺れず、アトカの制御が触れた痕跡すらない。


キルウェスタが意識を解く。


水球は静かに形を失い、細かな水滴となって芝生へ落ちた。


庭を満たしていた重圧も消える。


「はぁっ……はぁっ……!」


アトカは膝をついた。


義手は熱を帯び、指先が細かく震えている。


呼吸も乱れ、胸の奥を巡る魔力は細く頼りなかった。


一本の流れで入ろうとした。


複数の水球から囲もうとした。


守るものを一つへ絞った。


最後には水球同士の制御をつなぎ、切られても結び直そうとした。


それでも、キルウェスタの水球には一度も触れられなかった。


「……やっぱり、ゼロ点?」


キルウェスタの唇へ、見慣れた薄笑いが戻る。


「結果だけなら、文句なしのゼロ点ですわ」


アトカは芝生へ落ちた水滴を見つめた。


「先生の水球まで、道がなかったの?」


「道はありましたわ」


「じゃあ、どうして届かなかったの?」


「貴方が道を通ろうとするたび、その道の所有者が誰なのかを忘れていたからですの」


キルウェスタはアトカを見下ろす。


「同調の争いで奪うのは、目の前にある水ではありません。現象を支える外界の魔力と、その制御ですわ」


翡翠色の瞳が細められる。


「貴方はまだ、わたくしの領域へ踏み込んでも、自分の拍子を保てない。だから触れる前に、貴方の方が奪われるのです」


アトカは震える義手を持ち上げようとした。


「もう一回」


キルウェスタの白い手が、それを静かに押し下げる。


「本日の訓練はここまでです」


「でも、まだ考えられるよ」


「身体が動かなければ、考えたことを試すこともできませんわ」


キルウェスタは義手の接合部へ触れ、残った熱と魔力の流れを確かめる。


「指先は震え、魔力路には熱が残り、呼吸も整っていない。その状態で続ける者は勇敢なのではありません。自分の限界を判断できていないだけですわ」


アトカは言葉を詰まらせた。


「次は触れたいのでしょう?」


「……うん」


「ならば今日は休みなさい。始めるだけでなく、終わるべき時に終わることも魔術師の務めです」


アトカは義手を見つめた。


もう一本の指すら、正確には動かせない。


「……分かった。今日は休む」


「結構」


キルウェスタは長椅子の黒日傘を取り上げ、ぱさりと開いた。


「明日は、今日どこで自分の制御を失ったのか、一つずつ説明していただきます」


アトカは芝生に散った水滴を見つめた。


キルウェスタの水球は遠かったのではない。


そこへ至る外界のすべてが、彼女の支配下にあったのだ。


「先生」


「何ですの」


「次は、絶対に触ってみせるからね」


キルウェスタは一瞬だけ目を細め、愉快そうに唇を吊り上げた。


「期待はいたしませんわ」


黒い日傘が陽射しを遮る。


「ですが、退屈はさせないでいただきたいものですわね」

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